快川紹喜
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快川 紹喜(かいせん じょうき、生年不詳 - 天正10年4月3日(1582年4月25日))は、戦国時代、安土桃山時代の臨済宗の僧。俗姓は土岐氏で、美濃国の出身。諱は紹喜。字は快川。
[編集] 略歴
妙心寺の仁岫宗寿の法を継いだ。美濃国の寺院を経て妙心寺の43世に就任し、美濃の崇福寺住職となる。永禄7年(1564年)には甲斐国の武田信玄に招かれて恵林寺(甲州市塩山)に入寺し、武田氏と美濃斎藤氏との外交僧も務めている[1]。甲斐では信玄に機山の号を授けている。
織田信長の甲州攻めにより武田氏が滅亡して領内が混乱すると、中世において寺院は聖域であるとする社会的観念があったため信長に敵対した六角義弼らを恵林寺にかくまい、織田信忠の引渡し要求を拒否したことから焼討ちにあい、一山の僧とともに焼死を遂げた。このとき残した「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」の辞世で知られるが(杜荀鶴の原典は「…火も自ずから涼し」)、これは『甲乱記』では快川と問答した高山和尚の言葉とされており、同時代文献には見られず近世の編纂物に登場していることから、本来は快川の逸話でなかった可能性が指摘されている。
また、快川紹喜は明智光秀と同じく美濃国の土岐氏出身であり、同族であったと見られている。このため、本能寺の変において光秀が信長・信忠父子を討ち取った事件に、彼の死が影響したとする見方もある。[要出典]
「滝のぼる 鯉の心は 張り弓の 緩めば落つる 元の川瀬に」という言葉でも知られる。
[編集] 脚注
- ^ 美濃では弘治2年4月に斎藤道三が嫡子義龍に討たれ、道三の娘婿である尾張の織田信長が美濃に出兵し抗争状態となっていたが、領国を接する武田氏は美濃情勢に介入しており、斎藤・織田双方と友好的関係を築いていた。