上条政繁

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上条 政繁(じょうじょう まさしげ、天文16年(1545年)? - 没年未詳)は、戦国時代武将上条上杉家当主、上杉氏の家臣。上条城主。初名は景義。通称は弥五郎、山城守、播磨守、織部。号は宜順斎上杉定実の子。一説に上条上杉家の一族で越後守護上杉定実の舎弟といわれる。室は長尾政景の娘。

略歴[編集]

上条上杉家は長尾為景と敵対して没落していたが、元亀2年(1571年)、為景の子上杉謙信の代に廃絶していた上条上杉家(上条頼房上条定憲)の家督を政繁が相続したものと見られる。天正初年間頃までには入道して宜順と号した。

謙信に仕えて上野国越中国に転戦した。天正3年(1575年)の「上杉家軍役帳」によると96人の軍役を負担し、上杉家一門の第四位に列したという。天正5年(1577年能登国守護畠山氏七尾城を攻めた際には、謙信の命で畠山氏(畠山義続か)の遺児(後の義春)を養嗣子とした。

謙信の死後、御館の乱では上杉景勝に味方して、戦後もそのまま景勝に従い、重臣として遇された。天正9年(1581年)越中松倉城河田長親が没したために、後継として同城に入る。天正12年(1584年羽柴秀吉に人質を送る事になると、当時景勝に実子がいなかったため、孫(義春の子)の義真景広とも)を景勝の養子として送る事となり、軍役を免除される事となった。同年、信濃海津城山浦景国が失脚すると、その後任として海津城に入るが、翌天正13年(1585年)には須田満親に代わられたため、景勝と対立するようになり、天正14年(1586年)上杉家を出奔して秀吉の元に依り、河内国高井郡に500石を与えられた(『寛政重修諸家譜』では直江兼続に讒言されたためとある)。以後、養子の義春の事跡に変わるので、間もなく没したものと思われる。

異説[編集]

『寛政重修諸家譜』などの史料から、養子の義春は政繁の改名と言われてきたが、『上杉家御書集成』『上杉家御家年譜』や同時代の名乗り(宜順)から別人とする説が有力となっている。