鎌田新介

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鎌田新介
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 慶長2年(1597年8月?[1]
別名 五左衛門[1][2]
主君 織田信長織田信忠
氏族 鎌田氏
兄弟 助丞江次新介[2]
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鎌田 新介(かまた しんすけ)は、戦国時代武将。鎌田3兄弟の3男。

経歴・人物[編集]

はじめ織田信長に仕えていたが、天正3年(1575年長篠の戦いの際の軍律違反により改易され、信長の嫡子信忠が家臣に登用した[1][2]

天正10年(1582年)の本能寺の変では二条新御所にて信忠に仕え、信忠が自害する際に介錯を務めた[1][2]。この際、『当代記』では切腹して殉死したとされるが、『明智軍記』・『武家事紀』・『甫庵信長記』では、井戸の中に飛び込み身を隠し、夜半になってから忍び出たと伝わる[2]。のち高野山謹慎していたが、豊臣政権下で大名となった福島正則に仕え、朝鮮出兵に従軍[1][2]

慶長2年(1597年8月南原城への攻撃にて軍功を挙げた[2]。なお、この南原城攻撃にて討死したとする説もある[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 阿部猛西村圭子編『戦国人名事典』新人物往来社、p.257(1987)
  2. ^ a b c d e f g 谷口克広『織田信長家臣人名辞典(第2版)』吉川弘文館、p.152 (2010)