本能寺

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本能寺
本能寺本堂.jpg
本堂
所在地 京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522
位置 北緯35度0分37.06秒
東経135度46分5.81秒
山号 なし
宗派 法華宗本門流
寺格 大本山
本尊 十界曼荼羅
創建年 1415年(応永22年)
開山 日隆
開基 山本宗句
札所等 洛中法華21ヶ寺
文化財 伝藤原行成筆書巻(国宝)
花園天皇宸翰御賀札、銅鏡(重要文化財)
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山門
信長廟
本能寺址、本能寺の変当時の所在地、中京区蛸薬師通小川通西南角

本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区にある、法華宗本門流寺院本尊は、日蓮が定めた久遠常住具足の「南無妙法蓮華経」の十界曼荼羅である。織田信長明智光秀に討たれた「本能寺の変」で知られる。塔頭が七院ある(恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院)。

目次

[編集] 歴史

本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、室町時代1415年応永22年)京都油小路高辻と五条坊門の間[1]に、日隆によって創建されたものである。

1418年(応永25年)日隆は、妙本寺(妙顕寺)5世・月明法華経の解釈をめぐり本迹勝劣を主張し、対立したため破却され、日隆は河内三井・尼崎へ移った。

1429年永享元年)帰洛して大檀那の山本宗句の援助により、千本極楽付近の内野に本応寺を再建し、さらに1433年(永享5年)如意王丸(足利直義の子)から六角大宮の西、四条坊門に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めた。

その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角以南、四条坊門以北、櫛笥以東、大宮以西で方4町(約4万m²)の敷地を有し、また多くの子院も有していた。

応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めた。

1536年天文5年)天文法華の乱にて延暦寺僧兵により、堂宇はことごとく焼失し、一時顕本寺に避難した。

[編集] 日承上人・本能寺の変

その後、1547年(天文16年)-1548年(天文17年)頃帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺し「第8世」を称し、四条西洞院・油小路・六角・錦小路にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余ヶ院を擁した。

日隆の開山以来、尼崎本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内北陸瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。

本能寺は、早くから種子島に布教していたことから、鉄砲火薬の入手につき戦国大名との関係が深かった。織田信長は日承に帰依してこの寺を上洛中の宿所としていたが、1582年6月21日天正10年6月2日)ここで信長が明智光秀率いる軍勢に包囲され自刃する事件が起き(いわゆる本能寺の変)、その際、堂宇を焼失した。

[編集] 現在の場所への移転とその後

1587年(天正15年)豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区寺町御池下ル)へと移転された。伽藍の再建は1592年(天正20年)。現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地であった。

江戸時代初期の1615年元和元年)江戸幕府から朱印地40石を与えられた。前述の理由で戦国大名との関係も深かったこともあり、江戸時代には末寺92を数える大寺院になっていた。

1788年天明8年1月)天明の大火1864年元治元年7月)禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失した。

[編集] 旧地の発掘調査

旧地の元本能寺南町には京都市立本能小学校があったが、1992年に廃校となり、その後発掘調査が行われた。それにより、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題を呼んだ。現在は京都市立堀川高等学校本能学舎と京都市本能特別養護ルームの施設となっている。

2007年のマンション建設に伴う遺構調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡の屁泥の中から見つかっている[2]。発掘調査の結果、当初は120m四方の敷地があったと考えられていたが、築地石垣水堀が約40m以上さきからは確認されていない。そのため日本中世史の研究家今谷明は、信長の利用した本能寺の「建物は最大40メートル四方クラス」(外部サイト参照)の小さな施設であったと結論付けている。

[編集] 逸話

大本山本能寺

右の写真のとおり、本能寺の「能」の字は右側の2つの「ヒ」が「去」のような字に替えられている。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれている[3]

[編集] 文化財

伝藤原行成筆書巻(本能寺切)(部分)
国宝
  • 藤原行成筆書巻 - 平安時代後期、11世紀の古筆の遺品で、「本能寺切」(ほんのうじぎれ)と称して珍重される。料紙4枚を継いだ巻紙に小野篁菅原道真紀長谷雄(きのはせお)の3名の文章(漢文)を和様書法で書いた調度手本である。
重要文化財
  • 花園天皇宸翰御賀札
  • 銅鏡


[編集] 交通アクセス

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 現在の佛光寺のあたり
  2. ^ 関西文化財調査会
  3. ^ しかし右側に2つの「ヒ」がある「能」の字を正字とするのは康煕字典以後のことである

[編集] 外部リンク

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