姉小路公知

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索

姉小路 公知(あねがこうじ きんとも、天保10年12月5日1840年1月9日) - 文久3年5月20日1863年7月5日))は、江戸時代末期の公家。位階は正四位下、維新後に生前の功により正二位を追贈。父は姉小路公前、叔父に澤宣嘉がいる。養子に姉小路公義万里小路博房男、次代)。

目次

[編集] 経歴

天保10年(1839年)、公卿姉小路公前の子息として生まれる。 【天保10年は1839年?1840年? 上記と整合性要確認】 安政5年(1858年)、日米修好通商条約に反対し、廷臣八十八卿の指導者として活動した。文久2年(1862年)9月、右近衛権少将となり、幕府への攘夷督促の副使として、正使三条実美とともに江戸に向かい、勝海舟と共に江戸湾岸の視察などを行う。のちに国事参政となり、三条とともに攘夷派の先鋒となったが、文久3年(1863年)に深夜朝議からの帰途、京都朔平門外の猿ヶ辻で刺客に襲われ自宅で卒去、享年25。

  • 明治5年までは旧暦。
  • 1849年嘉永2年)
    • 12月19日、従五位下に叙位。
  • 1852年(嘉永5年)
    • 10月29日、従五位上に昇叙。元服し、昇殿を聴される。
  • 1854年(嘉永7年)
    • 1月4日、正五位下に昇叙。
  • 1858年安政5年)
    • 10月26日、侍従に任官。 
    • 12月7日、従四位下に昇叙。侍従如元。
  • 1860年万延元年)
    • 2月9日、従四位上に昇叙。侍従如元。
  • 1862年文久2年)
    • 1月5日、正四位下に昇叙。侍従如元。  
    • 9月21日、攘夷勅諚の為、東下の副使となる。(正使は三条実美) 
    • 9月28日、右近衛権少将に転任。  
    • 12月9日、朝廷の国事御用掛に併せて補せらる。
  • 1863年(文久3年)
    • 2月13日、朝廷の国事参政に異動する。 
    • 4月23日、朝廷の摂海防備巡察に併せて補せらる。
    • 5月20日、生害。 
    • 5月25日、贈参議左近衛権中将。
  • 1906年明治39年)
    • 9月1日、贈正二位。

墓所は京都市上京区清浄華院

[編集] 暗殺の犯人

現場に残されていた刀などの物証から、幕末四大人斬りの一人、薩摩藩田中新兵衛と目されて捕らえられた。しかし、取調べ中に田中が自殺したため、真相は不明。理由として、攘夷派であった公知が勝に説得されて開国に傾いたため、とされるが、真相は今もって謎である。

朝廷は島津久光に上洛と治安維持を命じており、薩摩藩の介入を嫌がる尊王攘夷派による仕業という説もある。結果として薩摩藩は御所の乾御門の警備を外された。

[編集] 贈参議左近衛権中将口宣

口宣

上卿 正親町大納言

文久三年五月二十五日 宣旨

故右近衛権少将藤原公知朝臣、為皇国忠誠苦心、依叡感不斜、 被垂愛憐、宜贈賜参議左近衛権中将

蔵人権右中弁兼右衛門権佐藤原博房 奉

(訓読文)

口宣

上卿 正親町大納言(正二位行権大納言正親町実徳

故(な)き右近衛権少将藤原(姉小路)公知朝臣、皇国の為に忠誠苦心す。叡感(えいかん。天皇のお気持ち)斜めならず(非常に感動している)、愛憐(あいれん。いつくしみあわれむ)を垂れらる(与えられる)に依り、宜しく参議左近衛権中将を贈り賜ふべし。

蔵人権右中弁兼右衛門権佐藤原(万里小路)博房(正五位上) 奉(うけまたわ)る。

[編集] 参考文献

  • 関博直「姉小路公知伝」博文館 明治38年 (「国立国会図書館:近代デジタルライブラリー」にて閲覧可能)

[編集] 関連項目

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語