武市瑞山

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武市 瑞山
Takechi Zuizan.jpg
獄中で描いた自画像
時代 江戸時代末期
生誕 文政12年9月27日1829年10月24日
死没 慶応元年閏5月11日1865年7月3日
別名 幼名:鹿衛
通称:半平太
:小盾
:瑞山、茗澗
変名:柳川左門、柳川吹山
墓所 瑞山神社
官位 正四位
主君 山内容堂山内豊範
土佐藩
父母 父・武市正恒 母・大井氏
兄弟 田内恵吉
富子(島村氏)
実子:なし、養子:武市半太(大甥)
武市邸と道場跡の碑(高知市桜井町)

武市 瑞山(たけち ずいざん)は、日本志士武士土佐藩郷士)。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市 半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。幼名は鹿衛。は小楯(こたて)。は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。

土佐藩郷士・武市正恒(白札格、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士・島村源次郎の長女・富子。子女はなし。坂本龍馬とは遠縁にあたる。

優れた剣術家であったが、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導し、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8ヶ月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。

生涯[編集]

剣術家[編集]

文政12年(1829年)9月27日土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)に生まれる。武市家は元々土地の豪農であったが、半平太より5代前の半右衛門が享保11年(1726年)に郷士に取り立てられ、文政5年(1822年)には白札格に昇格。白札郷士とは上士として認められたことを意味する。

天保12年(1841年)、一刀流・千頭伝四郎に入門して剣術を学ぶ[1]嘉永2年(1849年)、父母を相次いで亡くし、残された老祖母の扶養のために、半平太は同年12月に郷士・島村源次郎の長女・富子を妻としている[2]。翌嘉永3年(1850年)3月に高知城下に転居し、小野派一刀流(中西派)麻田直養(なおもと)の門で剣術を学び、間もなく初伝を授かり、嘉永5年(1852年)に中伝を受ける。

嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航して世情が騒然とする中、半平太は藩より西国筋形勢視察の任を受けるが、待遇に不満があったのかこれを辞退している[3]。翌嘉永7年(1854年)に新町に道場を開き[4]、同年(安政元年)に麻田より皆伝を伝授される。

安政元年に土佐を襲った地震のために家屋を失ったが、翌・安政2年(1855年)に新築した自宅に妻の叔父にあたる槍術家・島村寿之助との協同経営の道場を開き、声望が高まっていた半平太の道場には120人の門弟が集まった[5]。 この道場の門下には中岡慎太郎岡田以蔵等もおり、後に結成される土佐勤王党の母体となる。同年秋に剣術の技量を見込まれて、藩庁の命により安芸郡香美郡での出張教授を行う[6]

安政3年(1856年)8月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許され、岡田以蔵や五十嵐文吉らを伴って江戸へ出て鏡心明智流士学館桃井春蔵の道場)に入門。半平太の人物を見込んだ桃井は皆伝を授け、塾頭とした。塾頭となった半平太は乱れていた道場の風儀を正し、その気風を粛然となさしめた。同時期に坂本龍馬も江戸の桶町千葉道場北辰一刀流)で剣術修行を行っている。安政4年(1857年)8月、半平太と龍馬の親戚の山本琢磨が商人の時計を拾得売却する事件が起きた。事が藩に露見したため切腹沙汰になったが、半平太と龍馬が相談の上で山本を逃がしている[7][8]。 これから程ない9月に老祖母の病状が悪化したので土佐に帰国した。安政5年(1858年)に一生二人扶持の加増を受け、剣術諸事世話方を命じられる[9]

安政6年(1859年)2月、一橋慶喜の将軍継嗣擁立を運動していた土佐藩主・山内豊信大老井伊直弼によって隠居させられ、同年10月には謹慎を命じられる。土佐藩士達はこの幕府の処置に憤慨したが、翌安政7年(1860年3月3日に井伊が暗殺され(桜田門外の変)、土佐藩士達は変を赤穂義士になぞらえて喝采し、尊王攘夷の機運が高まった[10][11]

同月、祖母が死去し、その喪が明けた7月に半平太は岡田以蔵や久松喜代馬島村外内を伴い武者修行の西国遊歴に出る。龍馬は「今日の時世に武者修行でもあるまい」と笑ったが[12]、その真意は西国諸藩の動静視察であった。一行は長州を経て九州に入って諸藩を巡り、途中、以蔵は家が貧しく国へ帰れば再び出ることは難しかろうと豊後国岡藩の堀道場に託して年末に帰国した[13]。この旅行で半平太は攘夷派志士の思想に大きな影響を与えた国学者・平田篤胤の『霊能真柱』を持ち帰っている[14]

土佐勤王党結成[編集]

文久元年(1861年)4月、半平太は江戸で諸藩の攘夷派と交際を持っていた大石弥太郎の招請に応じて剣術修行の名目で出立、7月に江戸に到着し、長州藩桂小五郎久坂玄瑞高杉晋作薩摩藩樺山三円水戸藩岩間金平ら尊王攘夷派と交流する。半平太は特に久坂に心服し、久坂の師である吉田松陰の「草莽崛起」の思想に共鳴した[15][16]。 土佐藩の尊王攘夷運動の立ち遅れを痛感した半平太は久坂・樺山と三藩の藩論を攘夷に一決して藩主を入京せしめ、朝廷を押し立てて幕府に攘夷を迫ろうとの密約を交わした[17][18]

8月、半平太は築地の土佐藩中屋敷で少数の同志と密かに土佐勤王党を結成し、大石弥太郎の起草により、隠居させられた老公(山内容堂)の志を継ぎ、一藩勤王を旨とする盟曰(盟約)を定めた[19][20]。 9月に帰国した半平太は同志を募り、坂本龍馬が土佐における筆頭加盟者となり[21]間崎哲馬平井収二郎・中岡慎太郎・吉村虎太郎・岡田以蔵ら最終的に192人が加盟した。加盟者の大半は下士・郷士地下浪人の下級武士や庄屋で、上士は2人しか加わっていない[22]

この頃の土佐藩は容堂の信任厚い参政・吉田東洋と配下の新おこぜ組が政を司り、意欲的な藩政改革を進めていた。故に藩論は東洋の唱える開国・公武合体であり、また初代・山内一豊徳川家康の格別の抜擢によって土佐一国を拝領した歴史的経緯から土佐藩では幕府を尊崇する気風が強かった。10月23日、半平太は藩論を刷新すべく大監察・福岡藤次および大崎健蔵に進言するが書生論であると退けられ、半平太はなおも東洋宅を訪問して時勢を論じ勤王と攘夷を説くが、東洋は「そこもとは浪士の輩に翻弄されているのであろう。婦女子の如き京師の公卿を相手にして何事ができようか。山内家と幕府との関係は島津毛利とは違う、両藩と事を同じにしようとは不注意の極みである」と一蹴した[23]

半平太は藩論を転換すべく各方面に運動するとともに、長州の久坂玄瑞に大石弥太郎・坂本龍馬らを使者に送り、薩長土勤王密約実現のための連絡を緊密にした。長州でも長井雅楽の開国論(「航海遠略策」)が藩論となっており、久坂は自藩の萎微を痛嘆する返書を寄こす情勢だった[24]。だが、翌文久2年(1862年)2月、久坂の元へ送った吉村虎太郎から薩摩藩国父・島津久光が精兵2,000をもって率兵上京するとの報がもたらされた。久坂ら攘夷派はこれを攘夷のための挙兵であると解釈しており、吉村は半平太に脱藩して薩摩の勤王義挙に参加すべしと説くが、半平太は飽くまでも一藩勤王の実現を目指すべきだと自重を促した。吉村はこれに納得せず、宮地宜蔵とともに脱藩して長州へ向かい、次いで沢村惣之丞と坂本龍馬も脱藩してしまった。龍馬の脱藩について半平太は後に「龍馬は土佐の国にはあだたぬ(収まりきらぬ)奴。広い処へ追い放してやった」と語っている[25]

吉田東洋暗殺[編集]

半平太は吉田東洋の専横を憎む守旧派で連枝の山内大学山内兵之助山内民部、家老の柴田備後五島内蔵助らと気脈を通じるようになる[26]。 半平太は穏当な手段での東洋排斥を彼ら連枝家老に説くが、山内民部の「一人東洋さえ無ければ、他の輩は一事に打ち潰すこともできよう」との言葉を暗殺の示唆と受け取り、半平太はついに東洋暗殺を決断した[27]。 これには来る4月12日に藩主・山内豊範参勤交代のため出立することが決まり、東洋ら佐幕派に囲まれた藩主・豊範が江戸へ行ってしまえば、久坂らとの三藩藩主勤王上洛の密約は水泡に帰すとの情勢の切迫もあった。

4月8日夜、豊範に「本能寺凶変」の進講をして帰宅途上にあった吉田東洋を、半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾大石団蔵安岡嘉助が襲撃して殺害し、その首を郊外の雁切橋に獄門にかけ斬姦状を掲げた上で、刺客達は逃亡脱藩した。東洋派の藩庁は激怒し、容疑者の半平太以下、土佐勤王党の一網打尽を図るが、土佐勤王党はこれに反発して討ち死にも辞さぬ構えを示し、一触即発の事態になった。この事態を打開すべく半平太は山内民部に書簡を送り、これを受けた山内民部が土佐勤王党に自重を促すとともに、土佐勤王党を庇護していた山内大学・山内下総(酒井勝作)と謀って政権を掌握し、半平太率いる土佐勤王党は彼らを通して実質的に藩政の主導権を握った。12日に東洋派は藩庁から一掃され、暗殺された東洋の吉田家は知行召し上げとなっている[28]

国事周旋と天誅[編集]

武市瑞山寓居跡(京都市中京区木屋町)

これより前の文久2年(1862年)3月に薩摩藩国父・島津久光が入洛したが、攘夷派の期待と異なり久光の真意は公武合体にあり、4月23日には寺田屋事件が起きて有馬新七ら薩摩藩攘夷派は粛清され、彼らと行動を伴にしていた吉村虎太郎ら土佐脱藩浪士も送還させられた。過激攘夷派を弾圧して暴発を防いだ久光は朝廷を押し立てて将軍上洛、五大老の設置そして一橋慶喜の将軍後見職松平春獄の大老就任による幕政改革を要求する。4月27日には長州藩世子・毛利定広が入洛して国事周旋の勅命を受けた[29]。 この後、長州藩では攘夷派が優勢になり、7月に開国派の長井雅楽が罷免されて破約攘夷が藩論となる。

半平太は長州と同様の勅命を土佐にも下させるべく同志を京に派遣して朝廷に働きかけ、これを受けた朝廷は薩長両藩に続き土佐藩を入洛させるべく山内家と姻戚関係にある三条実美を介して入洛催促の書簡を送った。しかし、守旧派が多数を占める藩庁は婉曲にこれを拒否する返書を送った[30]。吉田東洋暗殺のために延期になっていた山内豊範の参勤交代出立は6月28日となり、人数は通常600人程を2,000人に増員した大部隊になったと伝えられ[31]、半平太をはじめ島村衛吉・平井収二郎ら土佐勤王党の同志数十人も供奉した。参勤交代の一行は播磨国姫路麻疹の集団感染が発生して、豊範も罹患したため大坂での約一ヵ月の逗留を余儀なくされた。この大坂逗留中の8月2日に吉田東洋暗殺の下手人探索をしていた元下横目の井上佐市郎が岡田以蔵ら土佐勤王党に殺害されている。

参勤交代の行列を京都に留めようとする半平太の狙いとは逆に、守旧派は京都に立ち寄らずに江戸への東下を策謀していた。このため土佐勤王党に同情的な大監察・小南五郎右衛門が江戸へ下って老公・容堂に藩主の入洛を説き、遂に容堂は朝命を拝受せよと決断した。8月25日、豊範は京都河原町の土佐藩邸に入り、在京警備と国事周旋の勅命を受けた[32]

閏8月に半平太と小南五郎右衛門・平井収二郎・小原与一郎谷守部ら尊攘派が他藩応接役に任じられた[33]。 半平太は周旋活動のために藩邸を離れて三条木屋町に寓居を構え[34]、長州の久坂玄瑞ら他藩の志士たちと関わる一方、三条実美や姉小路公知を始めとした朝廷内の尊攘派公卿とも交際を深め、藩主・豊範の名で朝廷に建白書を提出すると共に、幕府に対して攘夷督促する勅使を江戸に派遣するための朝廷工作に奔走する。これらの動きが功を奏し朝廷が攘夷の朝議を決定した際、一橋慶喜がこれを覆そうと入京を画策したが、半平太は裏工作によりこれを一時妨害することに成功している。

この時期、京都では過激な尊王攘夷派による天誅、斬奸と称する暗殺が横行し、半平太も少なからず関与していた[35][36]。 半平太の下で動いた人物では、後に「人斬り」の異名を持つことになる門弟・岡田以蔵と薩摩藩士・田中新兵衛が有名である。半平太が関与したとされる天誅には、越後の志士・本間精一郎の暗殺(閏8月21日)、安政の大獄で志士を弾圧した目明し・文吉の虐殺(9月1日)、石部宿における幕府同心・与力4名の襲撃暗殺(9月23日)がある。しかし、同月に関白近衛忠煕が半平太に対し洛中での天誅・斬奸を控えるように命じてから後は、半平太の直接指揮による京での暗殺事件は確認されていない。また、侍従中山忠光から前関白・九条尚忠岩倉具視ら幕府に通じる三卿両嬪の暗殺のための刺客の貸与を申し入れられたが、これは断り、軽挙を止めさせている[37]

10月、幕府に対する攘夷督促と御親兵設置を要求する勅使として正使・三条実美、副使・姉小路公知が派遣されることになり、山内豊範には勅使警衛が命ぜられた。警固役には土佐勤王党の者が選ばれ、半平太は姉小路の雑掌となり、柳川左門の仮の名が下賜されて江戸へ随行。勅使の雑掌として江戸城に入城した際は将軍・徳川家茂にも拝謁し、幕府から饗応を受けている。幕府は勅命への対応に苦慮したが、容堂の働きかけもあって曖昧ながら攘夷の勅命は受け入れ、御親兵設置については謝絶している。

また、この時期に長州藩の高杉晋作と久坂玄瑞が横浜異人館襲撃を計画し、久坂は半平太にも参加を呼びかけるが、久坂の口から土佐勤王党の弘瀬健太がこれに加わっている事を知った半平太は山内容堂に訴えて収拾を乞い、容堂の警告を受けた長州藩世子・毛利定広が高杉らを説諭して襲撃は中止となった。この事件の余波で、長州藩の周布政之助が容堂に放言をして、長州藩士と土佐藩士が衝突しかける騒ぎが起こっている。江戸滞在中に半平太は7回、容堂に拝謁しており、その感激の思いを妻・富子に書き送っている[38]

12月に役目を終えて京都に戻った半平太は、入京以来の功績に報いる形で上士格留守居組への昇進を仰せ付けられる。さらに翌文久3年(1863年)3月には京都留守居加役となった。白札郷士から上士格への昇進は、これまで土佐藩において前例の無い事であったが、同志たちはこれを半平太を勤王運動から引き離すための容堂の策謀と考えた[39]

勤王党弾圧[編集]

武市瑞山殉節地(高知市帯屋町)

勅使護衛の任に当たっていた半平太の留守中に京都で他藩応接役を務めていた平井収二郎は間崎哲馬、弘瀬健太とともに青蓮院宮から令旨を賜り、これを楯に国元にいる先々代藩主・山内豊資(藩主・豊範の実父)に働きかけて藩政改革を断行しようと動いていた。この頃、容堂は土佐勤王党の台頭に露骨に不快感を示し始めており、半平太を除く勤王党志士に対し、他藩士との政事交際を禁じる通達を出した[40]。 文久3年(1863年1月25日に入京した容堂は、青蓮院宮から平井・間崎らの動きを知らされ「僭越の沙汰である」と激怒して両名を罵倒して罷免した上で土佐へ送還させた。

容堂は3月に土佐へ帰国すると直ちに吉田東洋暗殺の下手人捜索を命じ、土佐勤王党に同情的な大監察・小南五郎右衛門、国老・深尾鼎を解任し、大監察・平井善之丞は辞職を余儀なくされた。この頃の半平太はかねてより不和が生じていた薩摩と長州の融和に腐心していたが、土佐勤王党をとりまく情勢が険悪化する中、4月に半平太は薩長和解調停案の決裁を容堂に仰ぐために帰国する事となった。久坂玄瑞は危険であるとこれを止め、帰国せずに脱藩して長州へ亡命するよう勧めるが、半平太は亡命を拒否し、同志たちに諌死の決心を以て一藩勤王の素志を貫徹すべきであると告げて帰国した[41]

平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太は入牢させられ、厳しく尋問された。帰国した半平太は三名の助命を容堂に嘆願するが、6月7日に死罪が決定し、翌8日に三人は切腹した。半平太は尚も望みを捨てずに容堂に謁見して藩政改革の意見書を提出するとともに国事を論じた。容堂は半平太を罰しないが意見を容れることもなかった。

8月18日会津藩と薩摩藩による政変で長州藩が中央政界で失脚すると同時に、事態は一転し、勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握る。同時期に大和国で吉村虎太郎・那須信吾ら土佐脱藩浪士らを中心とする天誅組が挙兵するが、翌月には壊滅して吉村らは討ち死にしている(天誅組の変)。

尊攘派の情勢が急激に悪化する中、9月21日に「京師の沙汰により」の名目で半平太ら土佐勤王党幹部に対する逮捕命令が出され、半平太は城下帯屋町の南会所(藩の政庁)に投獄された。獄吏が半平太の人物に傾倒したために彼らに便宜を図ってもらえたとされ、獄吏らを通じて家族や在獄中の同志と秘密文書をのやり取りも可能となった。これにより、長期に渡る獄中闘争の中で同志の団結を維持し続けると共に、軽挙妄動を戒めた。取調べの際、上士である半平太は結審に至るまで拷問される事はなかったものの、軽格の同志たちは厳しく拷問された。半平太らはまだ捕らえられていない獄外同志やその他の協力者への連累を食い止めるべく吉田東洋暗殺事件を初めとした被疑事実を否認し続け、長い獄中闘争を耐えた。だが、京都に残留していた岡田以蔵が元治元年(1864年)4月に捕縛されて土佐に送還され、監察府の拷問に耐えかねて、京や大坂での天誅事件への関与やその実行者の名を次々と自白したことで事態は悪化し、新たな逮捕者が相次ぐこととなる。

7月に安芸郡で郷士・清岡道之助ら23名が半平太たちの釈放を要求して挙兵し、藩庁から派遣された足軽800人よって鎮圧される野根山屯集事件が起き、9月に清岡らは斬首に処された。この頃より監察府の陣容が一新され、小笠原唯八乾退助そして吉田東洋門下の後藤象二郎らが土佐勤王党の取り調べに当たるようになると尋問は更に厳しさを増し、同志達は厳しく拷問された。監察府の陣容一新の噂を耳にし、これまで以上の厳しい追及を覚悟した半平太は盂蘭盆の休日を利用して三枚の獄中自画像を揮毫し、それぞれ妻と姉に送っている。

切腹[編集]

以蔵の自白によって新たな逮捕者が相次ぎ、半平太らに対する取調べも厳しさを増していった。半平太の実弟・田内恵吉は監察府による厳しい拷問に耐えかねてついに自供を始めてしまい、更なる自白を恐れて服毒自殺。島村衛吉も拷問死した。獄内外の同志は、なおも自白を続ける以蔵の存在が事態をさらに悪化させる事を恐れ、彼らの間で以蔵を毒殺する計画が浮上し、強引な毒殺に反対した半平太は以蔵の実家から計画実行の承諾を得ようと動いている。しかし承諾を得る事ができないまま獄は結審を迎え、毒殺計画が実行に移されることは無かった(以蔵本人は後に自白を後悔していたと言う)。

以蔵ら4名の自白はあったものの、半平太らが一連の容疑を否認し続けたため、監察府は半平太や他の勤王党志士の罪状を明確に立証するまでには至らなかった。そして慶応元年(1865年)閏5月11日、業を煮やした容堂の御見つけ(証拠によらない一方的罪状認定)により「主君に対する不敬行為」という罪目で、半平太は切腹を命じられる。岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎岡本次郎の自白組4名は斬首、その他は9名が永牢、2名が未決、1名が御預けと決まった。半平太ら勤王党志士が一連の容疑を頑なに否認したことで、死刑は盟主である半平太の切腹と以蔵ら自白組4名の斬首のみとなり、獄外同志やその他協力者への連累は食い止められた。

即日刑が執行され、以蔵ら4名は獄舎で斬首。切腹を命じられた半平太は体を清めて正装した後、同日20時頃に南会所大広庭にて、未だ誰も為しえなかったとも言われてきた三文字割腹の法を用いて法式通り腹を三度かっさばき、前のめりになったところを両脇から二名の介錯人に心臓を突かせて絶命した。享年37。

辞世の句は、「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり 」。

没後[編集]

武市半平太夫妻の墓

半平太の死によって土佐勤王党は事実上壊滅した。中岡慎太郎ら一部の同志は藩を見限って脱藩し、浪士となって倒幕活動を進めることになる。後に土佐藩は薩長とともに倒幕勢力の一翼を担うことになるが、土佐勤王党を弾圧した後藤象二郎が参政となり大政奉還を主導し、戊辰戦争で土佐藩兵を率いたのは乾退助であった。

維新後、木戸孝允が山内容堂との酒の席で酔い「殿はなぜ武市半平太を斬りました?」と容堂をなじったが、この時の容堂は「藩令に従ったまでだ」と答えたきりだったと言われる。しかし、病に倒れて病床にあった晩年の容堂は、半平太を殺してしまったことを何度も悔いていたとされ、「半平太ゆるせ、ゆるせ」とうわ言を言っていたとも伝えられる[42]

明治10年(1877年)に名誉回復され、明治24年(1891年4月8日に坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎とともに正四位が追贈された。

明治17年(1884年)に元土佐藩士の土方久元田中光顕佐々木高行らが中心となって瑞山会が結成されて土佐勤王党殉難者の記念碑建立と武市半平太の伝記編纂が決められた。翌年、高知縣護國神社に「南海忠烈碑」が建立され、伝記は坂崎紫瀾が主筆となり20年余の史料収集・編纂作業を経て大正元年(1912年)に『維新土佐勤王史』が刊行されている。

半平太の切腹後に武市家の家禄は召し上げとなり、未亡人となった富子の生活も困窮した。明治39年(1906年)、宮内大臣に出世していた田中光顕が富子に援助の手を差し伸べ、田中をはじめとする瑞山会の庇護によって晩年の富子は手厚く遇され、武市家の養子の半太も医学の道に進むことができ、梼原村(現高知県高岡郡梼原町)で開業している[43]

また、朝廷から半平太に正四位が贈位された際、上京した富子を囲んで祝宴が開かれたが、かつて半平太に尋問し、最終的に切腹を申し渡した責任者である後藤象二郎と、同じく半平太に尋問した板垣退助から富子に対し、その席で「武市半平太を殺したのは、我々の誤りだった。」と後悔の言葉があったと伝わる。

高知市にある半平太の旧宅と墓所は国の史跡に指定されており、旧宅近くに半平太を祀る瑞山神社がある。

人物[編集]

武市半平太立像(高知県須崎市
武市半平太旧宅(高知市仁井田)
  • 言説さわやかで人格も高潔にして誠実、武士道仁義を重んじていた。見た目は色白・美形・堂々たる体格(180cm前後)であったと伝わり、行友李風戯曲月形半平太』の題名役(主人公)のモデルともなった。ただし劇中の半平太は女性を魅了する色男として描かれているが、半平太は1歳年下の妻・富子とは睦まじい暮らしぶりであったという。
  • 顎が大きかったと言われる。龍馬は半平太を「顎(アギ)どの」と呼んだ書簡を残している。
  • 剣の腕も一流で教養もあり、指導者としての資質を十二分に持ち合わせていた。芸術方面では南画の腕もあり、獄中自画像や美人画など多くの作品を残している。
  • 甘党の煙草飲みであり、酒豪の多い土佐人の中では珍しく猪口二杯ほどで大酔いになるほどの下戸でもあった。
  • 武市夫妻に子が授からないことを心配した吉村虎太郎が、富子に七去を説いて実家へ帰らせ、その留守に若い娘を女中として送り込んだが、武市は次々と送り込まれた娘たちに手をつけず、吉村の計略に気づいて、吉村を叱りつけた。
  • 半平太が投獄されて死ぬまでの1年9か月間、富子は夫と苦労を共にすべく板の間で寝起きし、夏は蚊帳を吊らずに過ごした。また、毎日3食を欠かさず牢に差し入れ、夫を慰めるため書籍や自作の押絵なども共に差し入れていた。半平太が切腹の際に身につけていた衣装も、富子が縫いあげて届けた死装束であった。富子は大正6年(1917年)まで存命し、墓所は高知県高知市で武市の傍にある。
  • 剣術家時代は愛弟子として岡田以蔵に目をかけ、江戸修行や西国遊歴にも従者として同行させるなど非常に親密であったことが窺える。しかし以蔵が勤王活動から脱落した上に無宿人にまで落ちぶれ、あげくは藩庁の拷問にも早々と屈して自白を重ねて多くの同志を道連れにしてしまった頃には彼を軽蔑していたとも言われ、そうした内容の手紙を実弟や実家に対して書き送っている。
  • 牢番の門谷貫助に対して、切腹の際は腹を一度切り裂く通常の切腹法では無く、十字に切り裂く切腹法と三度切り裂く三文字割腹の法のいずれかを用いる事を予告していたと伝えられる[44]

同時代人からの評価[編集]

暗殺者の黒幕としてのイメージも強いが、 半平太の人格を評する「一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった」や「人望は西郷、政治は大久保、木戸(桂)に匹敵する人材」といった言葉が残されており、中岡慎太郎西郷隆盛に対面した時の印象に付いて「その誠、武市に似る」と評していることから、至誠の人と謳われた西郷に匹敵するほどの誠実な人柄だったことが窺える。

  • 久坂玄瑞 「当世第一の人物、西郷吉之助の上にあり」「その熱誠、西郷の上にあり」「真に国士の風あり」
  • 田中新兵衛 「至誠忠純、洛西にその比を求むるならば、わが大島三右衛門(西郷隆盛)か」
  • 樺山三円 「このうちより武市氏のこと承りおよび候ところ、はじめて面会。健なる人物と相見え、武術師範のよし。よく西郷吉之助に似たり。真に君子なり」
  • 池元徳次 「ある日のこと、朝早うに武市道場へ行ったら半平太さんが腕組みをしたまま、濡れ縁に立って、ジっと庭を見ておった。こういう姿をさいさい見かけた。半平太さんは青白い顔をして背の高い、面長の人じゃった」
  • 安岡覚之助 「人となり、かねて承知には候えども、これほどの好男子とは存知もよらず。(中略)この先生の腸はなかなか太く、頼もし頼もし」
  • 佐々木三四郎
    • 「武市という男はごく渋い男で、痩せてはおらぬが背の高い方で、顔が細長く、眼光人を射るというような、所謂丈夫らしい人物であった。いっこう笑うことをしない。親しく話してみるとそうでもないが、俗人からはいかにも憎体な人であった」
    • 「学問も和漢をかね、剣術は中々上手であった」
    • 「至誠鬼神を泣かしむるというのは、まずこういう人であろうと思った」
    • 「武市はああいう誠実な方であるから(吉田東洋暗殺推進派を)『マアマア』というて制していた」
    • 「武市はああいう着実の男であったから、血気の勇の大事を成すべからざるところを論じて(久坂玄瑞らの外国人刺殺計画の)中止を勧告した」
    • 「どこまでも真面目な男で、上京中門下の激徒数百人は長州に脱走をすすめ、久坂玄瑞などもこれを諷したが応じない。『諸君は水長二藩に投じて、大いになさんとするならそれでも宜しい。予は国に帰って鞠躬尽力。老公を諌め藩庁に説いて、倒れてのち止む決心である。何の面目あって他藩の食客となろうぞ』と。いずれもその精神に感動したそうだ」
  • 高杉晋作 「あれ(半平太)は正論家である。正々堂々として乗り出すことには賛成するが、権道によって事を成すということは何時も嫌っている」
  • 武市富子 「非常に不器用な人で、撃剣は朝から晩まで遣ったが、あるとき義太夫を稽古して唸りました処、それはそれは下手の骨頂で、節も文句も滅茶々々でした」
  • 上田定蔵 「なるほど武市半平太は聞きしに違わぬ豪傑の士なり」
  • 大石弥太郎 「自分よりは一層慷慨家で、朝廷のことを申せば涙を流すので、平生『天皇好』と綽名のある男」
  • 田中光顕 「一死君国のため脱藩した志士達は、全部土佐言葉丸だしで、オンシ、オラを使ったよ。それは、年齢の後先はなかった。身分の上下も越えて、みんなオンシ、オラだった。わたしが坂本君や中岡君にオンシが、オラがといい、坂本君も中岡君も、わたしにオンシが、オラがで話したよ。オンシ、オラが勤皇志士の合言葉であった。なつかしいのう。もっとも武市瑞山先生(半平太)は別じゃった。瑞山先生は一枚上であったので、みなが瑞山先生とか、武市先生とか呼んだ。例の墨絵の龍というのがあるだろう。瑞山先生は、墨絵の龍に似ているというので、墨龍の異名があった。それで、墨龍先生とも呼んだ。今ひとつは、アゴがうんと長かったので、アゴ先生と呼んだ。このように、瑞山先生には、必ず先生をつけて呼んで、呼び切りにしたり、オンシ、オラで話すものは一人もいなかった。陰で、噂をしてもアゴ先生といったよ。さすがに勤皇党の首領だけあって、皆が畏怖尊敬していたよ。ただ、坂本君だけは、瑞山先生の前であぐらをかいて、アゴが、アゴがと放談をやっていた。この時には、瑞山先生も顔をほころばせて、アザが、アザがとからかっていた。とにかく、瑞山先生は桁違いの大人物であった。」

子孫[編集]

  • 武市には子がなく、甥の子である半太を養子とし、後継とした。
  • 中央大学法学部教授であった武市楯夫は、生前、武市半太の子であることを学生に公言していた。[45]

関連作品[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

漫画[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 松岡司『武市半平太伝』p21
  2. ^ 入交好脩『武市半平太』p25
  3. ^ 『維新土佐勤王史』p36
  4. ^ 入交好脩『武市半平太』p26
  5. ^ 入交好脩『武市半平太』p26-27
  6. ^ 入交好脩『武市半平太』p27
  7. ^ 安政4年8月17日付武市半平太書簡。『坂本龍馬歴史大事典』p343
  8. ^ 入交好脩『武市半平太』p28-29
  9. ^ 松岡司『武市半平太伝』p27
  10. ^ 『維新土佐勤王史』p61-62
  11. ^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』p122-123
  12. ^ 『維新土佐勤王史』p63
  13. ^ 『維新土佐勤王史』p63-66
  14. ^ 半平太会『維新土佐勤王史』p64
  15. ^ 『維新土佐勤王史』p68-69
  16. ^ 入交好脩『武市半平太』p43
  17. ^ 『維新土佐勤王史』p74
  18. ^ 『幕末土佐の群像』p62
  19. ^ 『維新土佐勤王史』p70-72
  20. ^ 『幕末諸隊録』p60
  21. ^ 松浦玲『坂本龍馬』p17-18
  22. ^ 入交好脩『武市半平太』p49
  23. ^ 『維新土佐勤王史』p85
  24. ^ 『維新土佐勤王史』p91-92
  25. ^ 『維新土佐勤王史』p108
  26. ^ 『維新土佐勤王史』p113
  27. ^ 『維新土佐勤王史』p113-114
  28. ^ 入交好脩『武市半平太』p69
  29. ^ 飛鳥井雅道『坂本龍馬』p162
  30. ^ 入交好脩『武市半平太』p78-79
  31. ^ 『官武通紀』。入交好脩『武市半平太』p79
  32. ^ 入交好脩『武市半平太』p81
  33. ^ 松岡司『武市半平太伝』p76
  34. ^ 松岡司『武市半平太伝』p78
  35. ^ 入交好脩『武市半平太』p87-95
  36. ^ 松岡司『武市半平太伝』p90-102
  37. ^ 瑞山会『維新土佐勤王史』p178-182
  38. ^ 入交好脩『武市半平太』p101
  39. ^ 入交好脩『武市半平太』p104
  40. ^ 松岡司『武市半平太伝』p150-151
  41. ^ 瑞山会『維新土佐勤王史』p341-343
  42. ^ 松岡司『武市半平太伝』p359
  43. ^ 松岡司『武市半平太伝』p361-364
  44. ^ 松岡司『武市半平太伝』p335
  45. ^ 『月刊歴史百科』創刊号(1980年)

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 瑞山会『維新土佐勤王史』(富山房、1912年)
  • 入交好脩『武市半平太―ある草莽の実像』(中央公論新社、1982年)ISBN 978-4121006455
  • 松岡司『武市半平太伝―月と影と』(新人物往来社、1997年)ISBN 978-4404024732
  • 飛鳥井雅道 『坂本龍馬』(講談社学術文庫、2002年)ISBN 978-4061595460
  • 『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2009年)ISBN 978-4404037626
  • 『図説 幕末土佐の群像』(学研パブリッシング、2009年)
  • 『坂本龍馬と海援隊』(学研パブリッシング、2009年)ISBN 978-4056057515
  • 『幕末諸隊録―崛起する草奔、結集する志士』(学研パブリッシング、2008年)ISBN 978-4056051681

外部リンク[編集]