土佐日記
土佐日記(とさにっき)は、紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事などを、虚構を交えて綴った日記文学。原本は土左日記(とさのにき)とあったとみられる。成立は935年(承平5年)頃と言われる。
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[編集] 概要
930年(延長8年)から934年(承平4年)まで土佐国の国司だった貫之が、任期を終えて土佐から京へ戻るまでの55日間の紀行を、女性の日記に仮託して仮名文で綴った作品である。57首の和歌も含まれている。 内容は様々だが、中心となるのは土佐国で亡くなった愛娘を思う心情、そして行程の遅れによる帰京をはやる思いである。
日本文学史上、おそらく初めての日記文学であるが、現代でいう日記というより紀行に近い要素ももっていた。その後の仮名による表現、特に女流文学の発達に大きな影響を与えている。『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』などの作品にも影響を及ぼした可能性は高い。また文学史上の意義として、日本文学史上初めて諧謔表現(ジョーク、駄洒落などといったユーモア)を用いたことも特筆される。
[編集] 主な旅程
| 日付 | 到着地(通過地) | 現在の地名 |
|---|---|---|
| 12月21日 | 国府(発) | 高知県南国市比江周辺 |
| 12月21日 - 26日 | 大津 | 高知県高知市大津 |
| 12月27日 | 浦戸 | 高知県高知市浦戸 |
| 12月29日 | 大湊 | 高知県南国市前浜 |
| 1月9日 | 宇多の松原 | 高知県香南市岸本周辺 |
| 1月10日 | 奈半の泊 | 高知県安芸郡奈半利町 |
| 1月11日 | 羽根 | 高知県室戸市羽根町 |
| 1月12日 | 室津 | 高知県室戸市室津 |
| 1月29日 | 土佐の泊 | 徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦 |
| 1月30日 | 阿波の水門 | 鳴門海峡 |
| 〃 | 沼島 | 兵庫県南あわじ市沼島 |
| 〃 | 和泉の灘 | (大阪府南西部) |
| 2月1日 | 黒崎の松原 | 大阪府泉南郡岬町淡輪 |
| 〃 | 箱の浦 | 大阪府阪南市箱作 |
| 2月5日 | 石津 | 大阪府堺市浜寺 |
| 〃 | 住吉 | 大阪府大阪市住吉区 |
| 2月6日 | 難波 | 大阪府大阪市 |
| 2月8日 | 鳥飼の御牧 | 大阪府摂津市鳥飼 |
| 2月9日 | 渚の院 | 大阪府枚方市渚元町 |
| 〃 | 鵜殿 | 大阪府高槻市鵜殿 |
| 2月11日 | 八幡の宮 | 石清水八幡宮 |
| 〃 | 山崎 | 京都府乙訓郡大山崎町 |
| 2月16日 | 島坂 | 京都府向日市上植野町御塔道 |
| 〃 | 京(着) | 京都府京都市 |
[編集] 写本群
貫之自筆本は現存しないが、15世紀末までは蓮華王院の宝蔵に蔵されており、その間に藤原定家(1235年)・藤原為家(1236年)・松本宗綱(1490年)・三条西実隆(1492年)らにより書写された以下の4系統が知られる。
わけても定家本は巻末の2面を臨摸しており、原本が失われた今となっては貫之の文字遣いを知ることの出来る極めて貴重な存在となっている。ちなみに、臨摸した部分以外については、定家は原本の仮名遣によらず自ら考案した定家仮名遣に従って書き直しているが、子の為家の書写本は臨摸まではしていないものの、原本の仮名遣通りに書写しているため、本全体としては為家書写本が最善本という評価を与えられている。池田亀鑑は諸本の研究の上、120種以上に及ぶ写本群から自筆本再構のために証本を選んだ。それには※を付す[1]。証本とはされなかったが系統上主要な写本も示す。
- 定家筆本(前田育徳会尊経閣文庫蔵)※
- 御物本
- 玄陳筆本(現存せず)
- 為家筆本(大阪青山歴史文学博物館蔵)
- 宗綱筆本(現存せず)
- 近衛家本※
- 八条宮本(現存せず)
- 宮内庁書陵部本※
- 実隆筆本(現存せず)
- 三条西家本※
- ?
- 大島家本※
[編集] 研究史
もっとも古いものは文暦2年の定家筆写時の鑑定であろう。三条西実隆は、筆写のおり句読点や声点を施し、ほかにも校合が試みられている。
元和・寛永のころになって註釈的研究が盛んになり、岸本由豆流が諸抄論においてあげた『土佐日記聞書』などは、その最初のものである。加藤盤斎の『土佐日記見聞抄』は年代がなく成立年は不明であるが、万治4(1661)年の跋がある人見卜幽の『土佐日記附注』、北村季吟の『土佐日記抄』などと同時期のものであるらしい。
本居宣長は『土佐日記抄』には『土佐日記附注』の影響が見られるとするが、岸本由豆流は、両書で引用している古典籍の相違が説明できないと指摘している。寛永4年5月に刊行された『土佐日記首書』は、ほとんど『土佐日記抄』のままである。加藤宇万伎は、契沖と賀茂真淵との説を併記した『土佐日記註』を書いた。また上田秋成は、真淵の説に自らの説を添えたものを刊行している。さらに真淵の説は、楫取魚彦によって、別に書き記され、『土佐日記打聞』や『土佐日記聞書』となった。『土佐日記註』と『土佐日記打聞』とで説の相違があるのを、岸本は、「魚彦がしるせるは県居翁の早くの説、宇万伎がしるせるは、後の説なるべし」としている。
岸本由豆流は、のち、『土佐日記考証』(文化12(1815)年ごろか)をあらわし、諸抄を取捨選択、綿密な考証をこころみ、富士谷御杖は『土佐日記灯』をあらわして一大研究をうちたてた。香川景樹も『土佐日記創見』(文政6(1823)年)を著し、綿密な考証をなしている。この3著は研究史上重要なものである。これらの研究は本文批評や諸本研究上高い成かをもたらしただけでなく、文体、動機などにまで論を推し進めている。
明治にいたって前田家本や三条西家本が公開され、橘純一や山田孝雄などによって本文研究が進められた。わけても、原本を忠実に写したとされる青谿書屋本などをもとにして池田亀鑑がなした『古典の批判的処置に関する研究』(1941年)にいたってほとんど完成するに至った。
土左日記は研究し尽くされていると考えられているが、小松英雄は、この日記は女性に仮託したものではなく、冒頭の一節は「漢字ではなく、仮名文字で書いてみよう」という表明を、仮名の特性を活かした技法で巧みに表現したものだという[2]。ただし、この説は広く受け入れられるには至っていない。
また小説家の橋本治は仮名文字を使用した理由について、紀貫之が歌人であったことを挙げている[3]。当時の男性の日記は漢文調であったが、和歌は男女ともに仮名文字を用いていた。そのため和歌の専門家でもある貫之が自分の得意な文字である仮名文字を用いた、というものである。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 大伴茫人 『姫様と紀貫之のおしゃべりしながら土佐日記』 洋泉社、1999年。学習研究社〈学研M文庫〉、2002年。
- 池田亀鑑 『古典の批判的処置に関する研究』 岩波書店、1941年。
- 鈴木知太郎 「解説」 鈴木知太郎・伊坂裕次校注 『土左日記・おくのほそ道』 笠間書院、1976年。
- 西山秀人編 『土佐日記(全)』 角川文庫、2007年。