本居宣長
本居 宣長(もとおり のりなが、1730年6月21日(享保15年5月7日) - 1801年11月5日(享和元年9月29日))は、江戸時代の国学者・文献学者・医師。名は栄貞。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵、自宅の鈴屋(すずのや)[1]にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。当時、既に解読不能に陥っていた『古事記』の解読に成功し、『古事記伝』を著した。紀州徳川家に「玉くしげ別本」の中で寛刑主義をすすめた。
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[編集] 生涯
本居宣長は1730年6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿商である小津家[2]の次男として生まれた。幼名は富之助。少年時代から習字を習い、漢籍も学んだ。そして、執筆もするようになった。寛延元年(1744年)、16歳の時伊勢山田の今井田家の養子となり紙商売を始める。しかし3年後に離縁して松坂に帰った。延享2年(1745年)商売の勉強の為に江戸に赴いた。延享3年、江戸から郷里に帰る。当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記」すとして「山川海島悉く図する」資料集の『大日本天下四海画図』を起筆した[3]。この時期の見聞を元に、自分用の資料として『都考抜書(とこうばっしょ)』を延享3年(1746年)より起筆(宝暦元年(1751年)頃まで書き継がれた)した。兄が死んだ後、小津家を継ぐ。宝暦2年、22歳になったとき、医学の修行のため京都へ遊学した。京では医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、寄宿して漢学や国学などを学んだ。景山は広島藩儒医で朱子学を奉じたが、反朱子学の荻生徂徠の学にも興味を持っており、また契沖の支援者でもあった。同年、姓を先祖の姓である「本居」に戻した。この頃から日本固有の古典学に身を入れるようになり、景山の影響もあって荻生徂徠や契沖に影響を受け、国学の道に入ることを志す。その京都での生活に感化され、王朝文化への憧れを強めていく。
宝暦7年(1758年)京都から松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。27歳の時、『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵の書[4]に出会って国学の研究に入ることになる。その後宣長は真淵に手紙で教えを乞うようになった。宝暦13年(1763年)5月25日、宣長は、伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見した。そして、かねてから志していた古事記の注釈について、指導を願うのである。その時に入門を希望し、その年の終わり頃に入門を許可され、翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。
真淵は、万葉仮名に慣れるため、『万葉集』の注釈から始めた方が良いという旨の教授をした。以後、真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進むことを決意した。この真淵との出会いは、宣長の随筆『玉勝間(たまがつま)』[5]に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている。この2つの文章から再構成された宣長と真淵との出会いは、「松阪の一夜」として戦前期の『小学国語読本』に掲載された。一時は紀伊藩に仕えた[6]が生涯市井の学者として過ごした。門人も数多く、特に、天明年間 (1781~1789) の末頃から増加する。天明8年 (1788) 末のまでの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が死去したときには487人に達していた。伊勢国の門人が200人と多く、尾張国やその他の地方にも存在していた。職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。
60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、また、各地にいる門人を励ましたりもする良い機会となった。さらに死後、弟子を自認し、その思想を継承した平田篤胤らがいる。
遺言に自分の墓のデザインを示した。昭和34年(1959年)に松阪市内を見渡す小高い山(生前の宣長が好んだ場所とされる)へ移され、さらに平成11年(1999年)には遺言のデザインに沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。
[編集] 思想
宣長の代表作には、約35年を費やして執筆された『古事記』註釈の集大成『古事記伝』と『源氏物語』の注解『源氏物語玉の小櫛』、そして『玉勝間』、『馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)』[7]などがある。日本固有の情緒「もののあはれ」が文学の本質であると提唱した。大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な孔子の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明や思想を尊重する荻生徂徠を批判した。しかし、徂徠の学問の方法論である古文辞学からは多大な影響を受けていることも指摘されている。『古事記伝』の画期は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、やがて国学の源流を形成してゆく。師・賀茂真淵との関係では「後によき考への出できたらんには、必ずしも師の説にたがふとて、なはばかりそ」と言い、師の教えを仰ぎながらも良いと適ったことは遠慮なく主張した。
門下生として服部中庸・石塚龍麿・夏目甕麿(みかまろ)・長瀬真幸(まさき)・高林方朗(みちあきら)・小国重年・竹村尚規・横井千秋・代官の村田七右衛門(橋彦)春門父子・神主の坂倉茂樹・一見直樹・倉田実樹・白子昌平・植松有信・肥後の国、山鹿の天目一神社神官・帆足長秋・帆足京(みさと)父子・飛騨高山の田中大秀・本居春庭(宣長の実子)・本居大平(宣長の養子)などが在籍している。
また、宣長は法学においても特記される提言を行っている。紀州徳川家に贈られた「玉くしげ別本」の中で「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」と死刑の緩和をすすめている。
[編集] 人物
家業を手伝うも、読書に熱中し商人には向かないと、母に相談して医業を学んだ。地元・松坂では医師として40年以上にわたって活動しており、かつ、寛政4年(1792年)紀州藩に仕官し御針医格十人扶持となっていた。
宣長は昼間は医師としての仕事に専念し、自身の研究や門人への教授は主に夜に行った。宣長は『済世録』と呼ばれる日誌を付けて、毎日の患者や処方した薬の数、薬礼の金額などを記しており、当時の医師の経営の実態を知ることが出来る。亡くなる10日前まで患者の治療にあたってきたことが記録されている。内科全般を手がけていたが、小児科医としても著名であった。当時の医師は薬(家伝薬)の調剤・販売を手掛けている例も少なくなかったが、宣長も小児用の薬製造を手掛けて成功し、家計の足しとした[8]。また、乳児の病気の原因は母親にあるとして、付き添いの母親を必要以上に診察した逸話がある。
しかしながら、あくまでその意識は「医師は、男子本懐の仕事ではない」と子孫に残した言葉に表れている。[9]
鈴コレクターで、駅鈴のレプリカなど珍しいものを多く所有していた。また、自宅に「鈴屋」という屋号もつけている。
平安朝の王朝文化に深い憧れを持ち、中でも『源氏物語』を好んだ。これは、万葉の「ますらをぶり」を尊び、平安文芸を「たをやめぶり」と貶めた賀茂真淵の態度とは対照的である。書物の貸し借りや読み方にこだわりがあり、借りた本を傷めるな、借りたらすぐ読んで早く返せ、けれど良い本は多くの人に読んで貰いたい、などの考えを記している。
宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋により明らかになった面が大きい。
[編集] 作品
『本居宣長全集』は筑摩書房(全23冊)。他に『全集』は大正期に吉川弘文館(全12冊)、戦中期に岩波書店(6冊、未完)で刊行された。
[編集] 国学
- 『古事記伝』 村岡典嗣校訂、岩波文庫全4巻(全44巻のうち第1から第17巻まで)
- 『源氏物語年紀考』
- 『紫文要領』
- 『源氏物語玉の小櫛』
- 『直毘霊(なおびのみたま)』[10] 村岡典嗣校訂、岩波文庫
- 『玉鉾百首』 同上
- 『玉くしげ』 村岡校訂
- 『鈴野屋問答』 村岡校訂
- 『うひ山ぶみ』 同上、学問論でもある。
- 『古今集遠鏡』
[編集] 評論
[編集] 語学
[編集] 随筆
- 『玉勝間』 村岡典嗣校訂、岩波文庫上下
[編集] 歌論
[編集] 経済
[編集] 家集(和歌集)
- 『大日本天下四海画図』考證の為の自筆稿本(資料集)
- 「日本の絵図世に多いといっても、諸国の城下其外名所旧跡悉く在所が相違している。又行程の宿場や馬借の駅が微細でない。そのため自分は今この絵図を描くにあたり、城下町や船着場、名所遺跡の方角を正確に記し、在所を分明にして道中の行程や駅を微細に記し山川海島を悉くを描く。ならびに六十六洲の諸郡を顕して、又知行や高田数を書いて、大坂を起点とした諸方への道法を東西に分てこれを記す、異国の道のりも略顕した。延享三年五月吉日」(大日本天下四海画図より現代語訳)
[編集] 著作文献
- 大野晋、大久保正編集 『本居宣長全集』 (全20巻別巻3)、筑摩書房
- 吉川幸次郎、佐竹昭広、日野龍夫校注 『本居宣長』 <日本思想大系40>岩波書店、1978年
- 日野龍夫校注 『本居宣長集』 <新潮日本古典集成>新潮社、1983年
- 今西祐一郎校注 『古今集遠鏡』 平凡社東洋文庫全2巻、2008年
- 白石良夫訳注 『本居宣長「うひ山ぶみ」全訳注』 講談社学術文庫、2009年 ISBN 4-06-291943-5
- 村岡典嗣校訂 『うひ山ふみ 鈴屋問答録』、『玉くしげ・秘本玉くしげ』 岩波文庫
- 『現代語訳 本居宣長選集』、山口志義夫訳、多摩通信社
- 1. 『玉くしげ - 美しい国のための提言』(玉くしげ、玉くしげ別巻、直毘霊)、2010年、ISBN 978-4-9903617-2-3
- 2. 『馭戎慨言 - 日本外交史』、2009年、ISBN 978-4-9903617-1-6
- 3. 『うい山ぶみ - 皇朝学入門』(うい山ぶみ、答問録、講後談)、2010年、ISBN 978-4-9903617-3-0
[編集] 主な伝記・研究
- 村岡典嗣 『本居宣長』 岩波書店、初版1928年/新版・平凡社東洋文庫 全2巻、2008年。
- 吉川幸次郎 『仁斎・徂徠・宣長』 岩波書店、1975年、復刊2001年
- 『本居宣長』、『文弱の価値』 各・筑摩書房/のち同「全集」に所収。
- 小林秀雄 『本居宣長』 新潮社、1977年/新潮文庫上下、1992年、改版2006年。
- 岡田千昭 『本居宣長の研究』 吉川弘文館 2006年
- 菅野覚明 『本居宣長 言葉と雅び』 ぺりかん社、改訂版2004年
- 相良亨 『本居宣長』 新版・講談社学術文庫、2011年6月
- 子安宣邦 『本居宣長』 岩波新書 1992年
- 岩田隆 『本居宣長の生涯 その学の軌跡』 以文社、1999年。
- 長谷川三千子 『からごころ』 中央公論社〈中公叢書〉、1986年、ISBN 4-12-001489-4。
- 小井土繁(漫画)・岡田勝(シナリオ) 『鈴せんせい 歴史漫画・本居宣長のすべて』 松阪青年会議所、1989年。
- 『本居宣長事典』 本居宣長記念館編、東京堂出版、2001年
[編集] 本居家
宣長以後、本居家は家督を継いだ養子本居大平の系譜に連なる和歌山の本居家と、実子本居春庭の系譜に連なる松坂の本居家に分かれる。
[編集] 和歌山本居家歴代当主
- 1本居宣長
- 2本居大平(1756-1833):本居宣長養子。
- (本居建正)(1788-1819):本居大平長男。32歳で早逝する。
- (本居清島)(1789-1821):本居大平次男。33歳で早逝する。
- 3本居内遠(1792-1855):本居大平養子。学識は宣長に次ぐといわれる。
- (本居永平)(1819-1842):本居大平四男。後嗣となるが、24歳で早逝する。
- 4本居豊穎(1834-1913):本居内遠長男。近代を代表する国学者。
- (松野勇雄)(1852-1893):明治10年(1878)に本居豊穎の養子となるが、明治12年(1880)7月に離縁。
- (増田于信)(1862-没年不詳):明治17年(1884)に本居豊穎の養子となるが、まもなく離縁。
- 5本居並子(1843-1886):本居豊穎長女。
- 6本居長世(1885-1945):本居並子次男(増田于信長男)。作曲家。童謡の先駆者。
- 7本居雷章(菱山修三)(1909-1967):本居長世養子。詩人。
[編集] 松坂本居家歴代当主
- 1本居宣長
- 2本居春庭(1763-1828):本居宣長長男。32歳で失明。
- 3本居有郷(1804-1852):本居春庭長男。
- 4本居信郷(1825-1900):本居有郷養子。本居宣長曾孫。
- 5本居清造(1873-1958):本居信郷次男。本居豊穎から学統を継承する。
- 6本居弥生(1903-1983):本居清造長男。
- 7本居芳野
*歴代は、本居宣長記念館の記述[1]に従う。()は一時期、後継者になったが、当主にならなかった人物。
[編集] 関連人物
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 大久保正 「本居宣長」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, p. 1815)
- ^ 父は小津定利(おづさだとし)
- ^ 宝暦元年(1752年)12月上旬に書写作業完了
- ^ 『冠辞考』(かんじこう)は『万葉集』に出てくる枕詞について詳細な解釈、精密な考察を施した書。
- ^ 杉戸清彬 「玉勝間」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, pp. 1189-1190)
- ^ 寛政4年(1792)に五人扶持
- ^ 杉戸清彬 「馭戎慨言」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, p. 506)
- ^ 青柳精一『診療報酬の歴史』思文閣出版、1996年、ISBN 978-4-7842-0896-8 P160-163
- ^ 布施昌一「医師の歴史」中央公論 1979
- ^ 大久保正 「直毘霊」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, p. 1345)
- ^ 岩田隆 「排蘆小船」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, p. 29)
- ^ 山口明穂 「てにをは紐鏡」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, p. 1282)
- ^ 鈴木真喜男 「字音仮字用格」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, p. 844)
- ^ 永野賢 「詞の玉緒」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, p. 733)
- ^ 大久保正 「秘本玉くしげ」 (日本古典文学大辞典編集委員会編 1986, p. 1527)
[編集] 参考文献
- 日本古典文学大辞典編集委員会編 (1986), 日本古典文学大辞典簡約版, 岩波書店.
