小笠原秀清

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小笠原秀清
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 16世紀中期ごろ
死没 慶長5年7月17日1600年8月25日
改名 秀清(諱)、少斎(法名)
別名 加々美小左衛門、小笠原少斎
墓所 常楽寺跡(熊本市黒髪5丁目23-33)
官位 備前守民部少輔
主君 足利義輝細川藤孝忠興
細川家家老
氏族 小笠原氏(京都小笠原氏)
父母 父:小笠原稙清(稙盛)
菅原氏北野天満宮宮寺松梅院祠官息女)
長元長良、長定(玄也)、長基

小笠原 秀清(おがさわら ひできよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・故実家。室町幕府幕臣・細川氏(後の肥後藩主家)家臣。一般には小笠原少斎[1]の名で、細川ガラシャ介錯した人物として知られる。

生涯[編集]

関ヶ原の戦い以前[編集]

16世紀中期、小笠原稙盛(稙清)の子として出生。生家の京都小笠原氏は、室町時代初期に小笠原宗家(信濃小笠原氏)から分かれ、代々京都で奉公衆として室町幕府に仕えていた。父の稙盛は足利義輝の近習であったが、永禄8年(1565年)5月19日の永禄の変で義輝と共に討死した。秀清は変の後に浪人となったが、後年丹後国細川藤孝の客分となり[2]、500石を給された。後に剃髪して少斎と号したが、その時期は藤孝と同時の天正10年(1582年[3]とも、慶長元年(1596年[4]ともいう。

最期[編集]

慶長5年(1600年)6月、細川忠興会津征伐に従軍すると、家老であった秀清は、河喜多(川北)石見一成[5]稲富祐直らとともに大坂屋敷の留守居を命じられた。7月16日、忠興正室・玉子(ガラシャ)の大坂城登城を促す石田三成方の使者が来るが、秀清らはこれを拒絶。ガラシャと相談の上、重ねて要求のあったときには自害すると決定した。翌17日、石田方の兵に屋敷を囲まれると、秀清はガラシャの胸を長刀で突き介錯した。この後、秀清は屋敷に火をかけて、河喜多らと共に自害した。稲富は包囲方に加わっていた砲術の弟子の手引きで逃亡したため、後に忠興の勘気を蒙ることになった。

武家故実[編集]

生家の京都小笠原氏は室町幕府において代々将軍の弓馬師範を務める家柄であり[6]武家故実の中心的存在であった。秀清も武家故実に関与していたようで、蜷川家文書 の武家故実に関するものには秀清の口伝本を書写したものがある[7]。また弓術日置流雪荷派の伝書などには、始祖の吉田雪荷は秀清から故実を伝授されたとの記述がある[8]。秀清の子孫は明治維新期まで故実を伝えていた[9]

子孫[編集]

秀清の子息らは、細川忠興の近親などと縁戚を結び、家老職を歴任した。

小笠原少斎の登場する作品[編集]

テレビドラマ・映画[編集]

その他[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 勝斎、松斎などの表記も見られる。
  2. ^ 細川氏の丹後支配は天正8年(1580年)以降。
  3. ^ 「ありのままの熊本アーカイブス」(外部リンク参照)
  4. ^ 参考文献「肥後細川藩侍帳」の小笠原七郎の項。
  5. ^ もと明智氏家臣。ガラシャ輿入れに従い細川家に。ガラシャの味土野幽閉にも供した。
  6. ^ ただしそうした地位が定まったのは6代将軍足利義教以降で、小笠原持長の代以降のことである。将軍家弓馬師範小笠原氏については下記二木の論文参照。
  7. ^ 『大日本古文書』家わけ第二十一 蜷川家文書之四 附録四九 「射禮私記」など
  8. ^ 今村嘉雄小笠原清信岸野雄三(編) 『弓術・馬術』(日本武道全集第3巻)、人物往来社、1966。
  9. ^ 武田流弓馬道の旧ウェブサイト (インターネット・アーカイブより)引用『明治十五年に至り、時の当主小笠原長厚の代で、旧細川氏の守護神である出水神社(水前寺公園)に小笠原流最後の流鏑馬を奉納し、その活動を終えた。 しかし、その装束・伝書故実等は、現在鎌倉の武田流司家に保存維持されている。』
  10. ^ 旧暦の日付は「肥後細川藩侍帳」、新暦の日付はカトリック中央協議会の殉教者名簿に拠った。
  11. ^ カトリック中央協議会-「ペトロ岐部と187殉教者」列福関連情報

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 新・肥後細川藩侍帳”. 肥後細川藩拾遺. 2007年12月24日閲覧。
  • 霜女覚書”. 肥後細川藩拾遺. 2007年12月24日閲覧。
  • 二木謙一 「室町幕府弓馬故実家小笠原氏の成立」『中世武家儀礼の研究』二木謙一、吉川弘文館、1985年。

外部リンク[編集]