熊野那智大社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

熊野那智大社

熊野那智大社拝殿
所在地 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1
位置 北緯33度40分7.464秒
東経135度53分24.651秒
主祭神 熊野夫須美大神
社格 官幣中社別表神社
創建 不明(伝仁徳天皇5年)
本殿の様式 切妻造向拝付
例祭 7月14日(扇祭、那智の火祭り)
  
二の鳥居
境内風景

熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社。熊野三山の一つ。熊野夫須美大神を主祭神とする。かつては那智神社熊野夫須美神社熊野那智神社などと名乗っていた。また、熊野十二所権現十三所権現那智山権現ともいう。

2004年7月1日ユネスコ世界文化遺産に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録された。

目次

[編集] 境内

参道の長い石段の上は、右に青岸渡寺があり、左はの大鳥居と大社の境内が続いている。拝殿の正面は鈴門を挟んで本殿があり、右から滝宮(第一殿)、証誠殿(第二殿)、中御前(第三殿)、西御前(第四殿)、若宮(第五殿)が並んでいる。正殿の第四殿が最も大きく、若宮の南西には第六殿(八社殿)がある。 第一殿から第五殿までの本殿熊野造といわれ、切妻入が付いており、を釣ってを掛けた形態である。1581年天正9年)の堀内氏善との戦いで燃えたが後に再建され、1853年嘉永6年)に修復された。また第六殿は八間社流造で皮を使っており、これらは全て国の重要文化財に指定されている。

なお、現在は山の上に社殿があるものの、後述のように元来は那智滝に社殿があり滝の神を祀ったものだと考えられる。那智の滝は「一の滝」で、その上流の滝と合わせて那智四十八滝があり、熊野修験の修行地となっている。熊野三山の他の2社(熊野本宮大社熊野速玉大社)では、明治の神仏分離令により仏堂が廃されたが、那智では観音堂が残され、やがて青岸渡寺として復興した。青岸渡寺は西国一番札所である。那智山から下った那智浜には補陀落渡海の拠点となった補陀洛山寺がある。

[編集] 祭神

[編集] 摂末社

[編集] そのほか施設

  • 宝物殿

[編集] 歴史

[編集] 熊野三山の成立まで

『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』によれば孝昭天皇の頃にインドから渡来した裸形上人が十二所権現を祀ったとされ、また『熊野略記』では仁徳天皇の頃に鎮座したとも伝えられるが、創成の詳細は不明。熊野那智大社は熊野三山の中でも熊野坐神社(本宮)・熊野速玉大社(新宮)の二社とは異なり、山中の那智滝を神聖視する原始信仰に始まるため、社殿が創建されたのは他の二社よりも後である。一説には、那智山の奥にある妙法山に登るための禊祓の地だった那智滝が聖地化し、夫須美神勧請されて当社が滝本で創建されたともいう。

806年大同元年)の『新抄格勅符抄』には766年天平神護2年)熊野速玉男神(新宮の主神)とともに熊野牟須美神の記述があり、それぞれ神封戸が4戸あてられている。しかし、その後は貞観元年1月27日859年3月9日)、同年5月28日7月26日)、貞観5年3月2日863年3月28日)の速玉神と坐神(本宮の主神)が従五位上昇階した事に関する『日本三代実録』の記事に牟須美神(ないし夫須美神)の記述がない。927年延長5年)延喜式神名帳牟婁郡6座中にも熊野速玉神社、熊野坐神社の二社のみが書かれている。

一方、984年永観2年)の『三宝絵詞』では熊野両所として速玉神とともに当社主神の夫須美神を取り上げている。本宮・新宮と併せて熊野三山とする記述は永保3年9月4日1083年10月23日)の『熊野本宮別当三綱大衆等解』が最も早く、これまでには三山共通の三所権現を祀る神社として成立していたと考えられる。また、『中右記』の天仁2年10月27日1109年11月28日)条の藤原宗忠らの参拝記録から、この頃までに現在の社地に遷祀されていたとされる。

[編集] 三山成立以降

『長秋記』長承3年2月1日1134年3月5日)条によると、平安時代後期には三山とも天照大神を含む御子神五所王子眷属神四所明神を加え、現在のような十二所権現を祀る形が整った。しかし那智は別格の滝宮を加えて十三所権現となっており、康暦元年11月13日1379年12月30日)の『尼性周田地寄進状写』などに記録が残っている。建仁元年10月19日1201年11月23日)には後鳥羽上皇が那智山に参詣し、その後の1212年建暦2年)に上皇から寄進され熊野新宮領・190のうち12石が那智社に与えられた。

承久の乱では後鳥羽上皇らが敗れて熊野は有力な支持者を失ったが、代わって修験道の発達に伴い、三山の御師先達による組織づくりが盛んとなった。それまでにも仁平元年2月15日1151年3月11日)の『源義国寄進状写』に那智の御師・高坊の名が記載されている。この他にも御師として熊野別当家の一族や、那智最古の家柄という尊勝院、廊之坊などがあり、それぞれ旦那(檀家)が全国に存在した。貞応2年11月19日1223年12月19日)には一山が焼失したが、御師らによって再建された。

南北朝時代には、熊野の勢力を勧誘するために両朝から御師宛に護摩供料などの名目で寄進が行なわれ、貞和2年8月18日1346年9月12日)には熊野三山の検校道昭准后が、那智山の兵部卿律師御房に駿河国北安東荘内を安堵した例などがある。 続く室町時代には各地の神領荘園からの収入が現状し、那智山権現でも年貢米が駿河国の長田・安東両荘および美作国勝田荘からのみになった。このため、有力御師・先達の活動が重要さを増し、社頭の修理なども熊野山伏比丘尼、十穀聖などの勧進に頼るようになった。1478年文明10年)に畿内への課役による棟別銭で那智山の造営を行なったが、弘治年間の十二所権現造営の際は、賦算札に貴庶を勧進結縁させている。

1581年天正9年)には大名・堀内氏善が那智山への支配を強化した事に反発した御師・塩崎廊之坊が武力決起し、逆に氏善が廊之坊を攻撃した。一方で那智山内の実方院は堀内氏に付いて那智一山は二分され、廊之坊側が敗れると同年6月3日7月13日)に一族東学坊などの跡職は実方院に与えられた。

慶長6年1月4日1601年2月6日)の『熊野那智山神領注文写』によると神領は633石余となっている。同年には紀州藩浅野幸長によって那智山は市野々村と二河村(現・那智勝浦町)に300石を与えられた。寛政10年大晦日1798年2月16日)に参拝した高遠藩砲術家坂本天山は、建造物が荘麗で香炉には火が絶えず、社人・社僧の数が多い事を『紀南遊嚢』に記している。 近世末期の那智大社には数多くの社僧坊舎があり、1873年(明治6年)に県社に指定されるとともに那智神社と称し、さらに熊野夫須美神社と改称した。1921年(大正10年)に官幣中社に昇格して熊野那智神社と改称、最終的に1963年昭和38年)に熊野那智大社と改称して現在に至る。

[編集] 組織体系

那智一山の組織は平安時代末期に形成したと考えられるが当時の史料はない。後世の『続風土記』によれば、禰宜神主が存在せず全員が社僧という修験者達の霊場であった。熊野三山の一つとして、三山を管理する三山僧綱の下に那智一山管理組織が設けられた。この中では社僧が東座と西座に分れ、それぞれ東の長官、西の長官がおり、一山を管理して執行と呼ばれた。また両座の下には隠居した執行10人で形成する宿老をはじめ、12人の講誦、75人の衆徒、66人の滝衆、85人の行人、12人の如法道場役人と7人の穀屋などがいて組織を構成した。

東座執行を受け持ったのは潮崎尊勝院で、山内でも最重要とされる飛滝権現(大国主)を祀り、滝衆や行人を統轄した。また、西座の執行は西仙滝院が担当した後、近世には米良実方院に替わった。穀屋には熊野詣の案内役をする熊野先達比丘尼が奉納物を納め、後に御師や先達に属さない者を泊める宿坊も兼ねた。尊勝院と実方院、およびその坊・院は全国各地の旦那(檀家)場からの参詣者を泊める宿坊を営んでいた。これら社僧以外に、山内の堂塔社殿の修理のために勧進を行う本願所として、妙法山阿弥陀寺や浜ノ宮の補陀洛山寺をはじめ御前庵主、大禅院、滝庵主、那智阿弥、理性院があり、那智の七本願と称された。なお、穀屋はこの七本願を指すという見方もある。

[編集] 行事

[編集] 例大祭

例大祭扇会式例祭または扇祭と呼ばれ、7月14日の本社大前の儀式、渡御道中の火祭滝本の行事からなる。かつては旧暦の6月14日18日に行われた。 『紀伊続風土記』の記述によると、6月朔日に全ての社僧が滝本に集まり、さらに十二所権現で神役を務め、14日に12本の大扇を十二神に表し、未の刻に神扇などが滝本宮を巡って田楽を行なう。そして酉の刻に伏拝した後、神扇を立て列ねて献灯し、社僧は十二所権現に集まり、神扇が十二所権現に着くと社僧は大きな松明を持って迎え、田植の儀式や田楽が続く。18日も14日と同様の式があるとされる。

現在では、まず7月9日に社殿を清め、那智大滝の注連縄を張り替える。続いて11日を張り、扇神輿12基を組み立てる。13日は宵宮祭があり、礼殿で田楽舞大和舞が奉納される。翌14日日の例大祭は礼殿で行なわれる。午前中は大和舞、田楽舞、田植舞が奉納され、午後からは扇神輿が大社から旧参道を経て滝本の飛瀧神社へ運ばれる。途中の「伏し拝み」という場所で扇神輿を残して全員が滝本に下がり、これは「扇立て」と呼ばれる。滝本では宮司ら神職が祭壇前に座り、烏帽子をかぶった二臈神職が点灯した2本の松明を持って「伏し拝み」まで使が走る。一の使、二の使、三の使と繰り返した後に扇神輿が滝本に向かうと、出迎えは12本の大松明に火を付けて石段を登る。同時に神職が光ヶ峯遥拝所に行って松明を供え、神饌を献納する。参道の石段では、扇神輿の清めとして大松明と扇神輿との双方200名がもみ合い、乱闘を行なう。滝下に神輿が着いてからは儀式を行ない、舞を奉納して火祭が終わる。その後は本社に登り、還御祭を経て終了する。

この扇祭は那智の火祭として県の無形民俗文化財に指定されており、特に田楽は那智の田楽として国の重要無形民俗文化財になっている。また、田楽資料も県の有形民俗文化財である。

[編集] 牛王符にまつわる行事

那智大社の牛王符(烏牛王)

この他の神事としては熊野牛王符(牛王宝印、烏牛王)の刷り初めにまつわるものが正月に行われる。1月1日には午前3時に那智の滝の奥の「秘所の水」を若水として汲み、1月2日にその水で烏牛王神璽摺初め式を行う。1月8日には滝つぼの前の飛瀧神社での烏牛王神璽祭がある。滝の前に設定した祭壇に刷り上った牛王符を積み上げ、神職が柳の枝で打板といわれる樫の板を激しく打ち、邪気をはらう。牛王符は社務所で配布される。[1] [2]

[編集] 文化財

[編集] 重要文化財(建造物)

  • 第一殿(滝宮)
  • 第二殿(証誠殿)
  • 第三殿(中御前)
  • 第四殿(西御前)
  • 第五殿(若宮)
  • 第六殿(八社殿)
  • 御県彦社
  • 鈴門及び瑞垣

[編集] 重要文化財(工芸品・古文書等)

  • 金銀装宝剣拵 後藤琢乗作 寛永十三年正月徳川頼宣寄進ノ銘アリ(附 銅鍍金銀箱)
  • 熊野那智大社文書
  • 古銅印

[編集] 重要無形民俗文化財

[編集] 樹木

[編集] 周辺の文化財

那智の大滝遠景

[編集] 交通

[編集] 所在地

  • 和歌山県那智勝浦町那智山1番地

[編集] 関連項目

[編集] 周辺情報

周辺地図(熊野古道)

[編集] 脚注

  1. ^ http://www.47news.jp/CN/200501/CN2005010801001430.html
  2. ^ http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=117751

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 参考文献

  • 日本歴史地名大系(オンライン版) 小学館