役小角

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役小角
舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年(701年)伝
役行者像(五流尊瀧院)
役行者像(五流尊瀧院
幼名 小角、金杵麿
諡号 神変大菩薩
尊称 役行者、役優婆塞
生地 大和国葛城上郡茅原村
(現奈良県御所市
宗派 修験道
弟子 韓国連(からくにのむらじひろたり)または、物部韓国連ともいう

役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年(701年)伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。は君。修験道開祖とされている。後の平安時代山岳信仰の隆盛と共に、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになった。

実在の人物だが、伝えられる人物像は後の伝説によるところが大きい。天河大弁財天社大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。

目次

[編集] 生涯

634年舒明天皇6年)に大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。役氏(役君)は三輪氏族に属する地祇系氏族で、加茂氏(賀茂氏)から出た氏族であることから、加茂役君(賀茂役君)とも呼ばれる[1]役民[2]を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏としたという[3]。また、この氏族は大和国河内国に多く分布していたとされる[1]。生誕の地とされる所には、吉祥草寺が建立されている。

651年、17歳の時に元興寺孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城山(金剛山)で山岳修行を行い、熊野大峰(大峯)の山々で修行を重ね、金峯山(吉野)で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。

二十代の頃(654年663年)、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。

続日本紀[4]は、文武天皇3年(699年5月24日に、役君小角が伊豆島に流されたことを伝える。弟子の韓国連広足が、小角が人々を言葉で惑わしていると讒言したため、小角は遠流になった。人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。

2年後の大宝元年(701年)11月に大赦があり[5]、茅原に帰る。

701年6月7日に68歳で箕面の天上ヶ岳にて入寂したと言われる。


[編集] 日本霊異記にみる役小角

役小角にまつわる話は、やや下って成立した『日本現報善悪霊異記』に採録された。後世に広まった役小角像の原型である。荒唐無稽な話が多い仏教説話集であるから、史実として受け止められるものではないが、著者の完全な創作ではなく、当時流布していた話を元にしていると考えられる。

霊異記で役小角は、仏法を厚くうやまった優婆塞(僧ではない在家の信者)として現れる。大和国葛木上郡茅原村の人で、賀茂役公の民の出である。若くして雲に乗って仙人と遊び、孔雀王呪経の呪法を修め、鬼神を自在に操った。鬼神に命じて大和国の金峯山と葛木山の間に橋をかけようとしたところ、葛木山の神である一言主が人に乗り移って文武天皇に役優婆塞の謀反を讒言した。役は天皇の使いには捕らえられなかったが、母を人質にとられるとおとなしく捕らえられた。伊豆島に流されたが、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行した。大宝元年(701年)正月に赦されて帰り、仙人になった。一言主は、役優婆塞の呪法で縛られて今(霊異記執筆の時点)になっても解けないでいる。

[編集] 神変大菩薩

寛政11年(1799年)には、聖護院宮盈仁親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表した。同年、正月25日に光格天皇は、烏丸大納言勅使として聖護院に遣わして神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)(おくりな)を贈った。

勅書は全文、光格天皇の御真筆による。聖護院に寺宝として残されている。

[編集] 信仰

役行者信仰の一つとして、役行者ゆかりの大阪府奈良県滋賀県京都府和歌山県三重県に所在する36寺社を巡礼する役行者霊蹟札所がある。また、神変大菩薩は役行者の尊称として使われ、寺院に祀られている役行者の像の名称として使われていたり、南無神変大菩薩と記した奉納のぼりなどが見られることがある。

[編集] 肖像

修験道系の寺院で役行者の姿(肖像)を描いた御札を頒布していることがあるが、その姿は老人で、岩座に座り、(すね)を露出させて、頭に頭巾を被り、一本歯の高下駄を履いて、右手に巻物、左手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、前鬼・後鬼と一緒に描かれている。手に持つ道具が密教法具であることもあり、頒布している寺院により差異がある。

[編集] 伝説

葛飾北斎北斎漫画』より、前鬼・後鬼を従えた役小角

役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。

また、役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。

また、ある時、日本から中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいて、道昭に質問したと言う。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

  1. ^ a b 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年
  2. ^ 律令制下の租税の一種として、無償労働にかり出された者のこと。
  3. ^続日本後紀承和10年正月27日条
  4. ^ 『続日本紀』は、延暦16年(797年)に完成した史書。
  5. ^続日本紀
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