飾北斎

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葛飾 北斎
自画像(天保10年(1839年)頃)
生誕 1760年10月31日
日本の旗 日本 武蔵国葛飾郡本所割下水
死没 1849年5月10日(満88歳没)
日本の旗 日本 江戸
国籍 日本の旗 日本
著名な実績 浮世絵
代表作 富嶽三十六景』『北斎漫画』『蛸と海女
この人に影響を
与えた芸術家
勝川春章鍬形蕙斎
この人に影響を
受けた芸術家
歌川広重歌川国芳印象派等の西洋芸術
天保13年(1842年)、82歳(数え年83歳)頃の自画像(一部)

飾 北斎(かつしか ほくさい、飾 北齋[1]宝暦10年9月23日1760年10月31日)? - 嘉永2年4月18日1849年5月10日))とは、江戸時代後期の浮世絵師化政文化を代表する一人。

代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。

概説[編集]

森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。しかし、北斎の絵師としての地位は「富嶽三十六景」の発表により、不動のものとなっただけでなく、風景画にも新生面を開いた。北斎の業績は、浮世絵の中でまさに巨大な高峰であったが、達者な描写力、速筆は『北斎漫画』の中にも見ることが可能である。さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したこと、毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところ大であった。葛飾派の祖となり、後には、フィンセント・ファン・ゴッホなどの印象派画壇の芸術家を始め、工芸家[2]や音楽家にも影響を与えている。シーボルト事件では摘発されそうになったが、川原慶賀が身代わりとなり、難を逃れている。ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画ガラス絵も研究、試みたようである。また、油絵に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても、遂に果たせなかった。1999年には、アメリカ合衆国の雑誌『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインした。門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いといわれる。

人物[編集]

生涯年表[編集]

冨嶽三十六景 凱風快晴
(通称:赤富士)
『冨嶽三十六景 駿州江尻
北斎改為一筆(葛飾北斎画)
『冨嶽三十六景 尾州不二見原
北斎改為一筆(葛飾北斎画)
信州小布施、上町祭屋台天井絵(桐板着色肉筆画)のうち、『怒涛図』2図中の1「女浪」、その一部。「#北斎館」も参照。
  • 宝暦10年9月23日?(1760年10月31日?) 武蔵国葛飾郡本所割下水[3]江戸・本所割下水。現・東京都墨田区の一角。「#北斎通り」も参照)にて、貧しい百姓の子として生を受ける。姓は川村氏、幼名は時太郎(ときたろう)。のち、鉄蔵(てつぞう)と称す。通称は中島八右衛門。
  • 明和元年(1764年) 幼くして、幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となったが、のち、実子に家督を譲り、家を出る。その後、貸本屋丁稚、木版彫刻師の従弟(とてい)となって労苦を重ね、実家へ戻る。この時、貸本の絵に関心を持ち、画道を志す。
  • 安永7年(1778年) 浮世絵師・勝川春章の門下となる。狩野派唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び、名所絵(浮世絵風景画)、役者絵を多く手がけた。また黄表紙の挿絵なども描いた。この頃用いていた号は「春朗(しゅんろう)」であるが、これは師・春章とその別号である旭朗井(きょくろうせい)から1字ずつもらい受けたものである。
  • 安永8年(1779年) 役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」でデビュー。
  • 寛政6年(1794年勝川派破門される。理由は、最古参の兄弟子である勝川春好との不仲とも、春章に隠れて狩野融川[4]に出入りし、狩野派の画法を学んだからともいわれるが、真相は不明である。ただ融川以外にも、堤等琳についたり、『芥子園画伝』などから中国絵画をも習得していたようである。
  • 寛政7年(1795年) 「北斎宗理」の号を用いる。
  • 寛政10年(1798年) 「宗理(そうり)」の号を門人琳斎宗二に譲り、自らは「北斎」「可侯(かこう)」「辰政(ときまさ)」を用いる。
  • 享和2年(1802年狂歌絵本『画本東都遊』刊行開始。
  • 文化2年(1805年) 「葛飾北斎」の号を用いる(正字については導入部を参照)。
  • 文化7年(1810年) 「戴斗(たいと)」の号を用いる。
  • 文化9年(1812年) 秋頃、名古屋の牧墨僊邸に逗留、その後、関西(大坂、和州吉野、紀州、伊勢など)方面へ旅行する。
  • 文化11年(1814年) 『北斎漫画』(#)の初編を発刊。
  • 文化14年(1817年) 春頃、名古屋に滞在。10月5日、名古屋西掛所(西本願寺別院)境内にて120畳大の達磨半身像を描く。年末頃、大坂、伊勢、紀州、吉野などへ旅行する。この時、春好斎北洲が大坂にて門人になったとされる。
  • 文政3年(1820年) 「為一(いいつ)」の号を用いる。『富嶽三十六景』(#)の初版は文政6年(1823年)に制作が始まり、天保2年(1831年)に開版、同4年(1833年)に完結する。
  • 天保5年(1834年) 「画狂老人(がきょうろうじん)」「卍(まんじ)」の号を用いる。『富嶽百景』(#)を手がける。
  • 天保13年(1842年) 秋、初めて、信濃国高井郡小布施高井鴻山邸を訪ねた。この時、鴻山は、自宅に碧漪軒(へきいけん)を建てて、北斎を厚遇した。
  • 天保15年(1844年信濃国高井郡小布施に旅し、嘉永元年(1848年)まで滞在。『怒涛図』(右の絵はその一部)などを描く(#)。
  • 嘉永2年4月18日1849年5月10日) 江戸・浅草聖天町にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で没する。享年90。辞世の句は「人魂で 行く気散じや 夏野原」であった(#)。墓所は台東区元浅草の誓教寺。法名は南牕院奇誉北斎居士。生誕二百年記念碑がある。

改号すること30回[編集]

彼は生涯に30回と頻繁に改号していた。使用したは「春朗」「群馬亭」「北斎」「宗理」「可侯」「辰斎」「辰政(ときまさ)」「百琳」「雷斗」「戴斗」「不染居」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「九々蜃」「雷辰」「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「鏡裏庵梅年」「月痴老人」「卍」「是和斎」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」「土持仁三郎」「魚仏」「穿山甲」などと、それらの組み合わせである。北斎研究家の安田剛蔵は、北斎の号を主・副に分け、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主たる号であり、それ以外の「画狂人」などは副次的な号で、数は多いが改名には当たらないとしている[5]。仮にこの説が正しいとしても、主な号を5度も変えているのはやはり多いと言えるだろう。

現在広く知られる「北斎」は、当初名乗っていた「北斎辰政」の略称で、これは北極星および北斗七星を神格化した日蓮宗系の北辰妙見菩薩信仰にちなんでいる[6]。他に比してこの名が通用しているのは「北斎改め為一」あるいは「北斎改め戴斗」などというかたちで使われていたことによる。なお、彼の改号の多さについては、弟子に号を譲ることを収入の一手段としていたため、とする説[6]や、北斎の自己韜晦癖が影響しているとする説[7]もある。ちなみに、「北斎」の号さえ弟子の鈴木某[8]、あるいは橋本庄兵衛に譲っている。

転居すること93回[編集]

『富士越龍図』
肉筆画(絹本[9]着色)。嘉永2年1月(嘉永二己酉年正月辰ノ日。1849年)、落款は九十老人卍筆。死の3ヶ月ほど前、北斎最晩年の作であり、これが絶筆、あるいはそれに極めて近いものと考えられている[10]。幾何学的山容を見せる白い霊峰・富士の麓を巡り黒雲とともに昇天する龍に自らをなぞらえて、北斎は逝った。

北斎は、93回に上るとされる転居の多さもまた有名である。一日に3回引っ越したこともあるという[6]。75歳の時には既に56回に達していたらしい。当時の人名録『広益諸家人名録』の付録では天保7・13年版ともに「居所不定」と記されており、これは住所を欠いた一名を除くと473名中北斎ただ一人である。北斎が転居を繰り返したのは、彼自身と、離縁して父・北斎のもとにあった出戻り娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからである[6]。また、北斎は生涯百回引っ越すことを目標とした百庵という人物[11]に倣い、自分も百回引っ越してから死にたいと言ったという説もある。ただし、北斎の93回は極端にしても江戸の庶民は頻繁に引越したらしく、鏑木清方は『紫陽花舎随筆』において、自分の母を例に出し自分も30回以上引越したと、東京人の引越し好きを回想している。なお、明治の浮世絵師豊原国周は、北斎に対抗して生涯117回引越しをした。

最終的に、93回目の引っ越しで以前暮らしていた借家に入居した際、部屋が引き払ったときとなんら変わらず散らかったままであったため、これを境に転居生活はやめにしたとのことである。

挿絵画家の一面[編集]

浮世絵以外にも、いわゆる挿絵画家としても活躍した。黄表紙洒落本読本など数多くの戯作挿絵を手がけたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していた。数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは戯作者の曲亭馬琴とコンビを組んだ一時期で、その間に『新編水滸画伝』『近世怪談霜夜之星』『椿説弓張月』などの作品を発表し、馬琴とともにその名を一躍不動のものとした。読み物のおまけ程度の扱いでしかなかった挿絵の評価を格段に引き上げた人物と言われている。なお、北斎は一時期、馬琴宅に居候(いそうろう)していたことがある[12]

真正の画工と成るを得べし[編集]

嘉永2年4月18日、北斎は卒寿(90歳)にて臨終を迎えた。そのときの様子は次のように書き残されている。

翁 死に臨み大息し 天我をして十年の命を長らわしめば といい 暫くして更に言いて曰く
天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得(う)べし と言吃りて死す

これは、「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに、『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ」との意味である。

辞世の句は、

人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原

その意、「人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか」というものであった。

家族[編集]

葛飾北斎は生涯に2度結婚しており、それぞれの妻との間に一男二女を儲けている(合わせると二男四女)[1]

  • 長女:お美与 - 北斎の門人の柳川重信と結婚するが離縁。
  • 長男:富之助
  • 次女:お辰(またはお鉄)
  • 次男:崎十郎
  • 三女:お栄(葛飾応為) - 絵師の南沢等明と結婚するが離縁、北斎の元で助手・浮世絵師として身を立てる。
  • 四女:お猶

奇行・その他[編集]

食事[編集]

料理は買ってきたり、もらったりして自分では作らなかった。居酒屋のとなりに住んだときは、3食とも店から出前させていた。だから家に食器一つなく、器に移し替えることもない。包装の竹皮や箱のまま食べては、ゴミをそのまま放置した。土瓶と茶碗2,3はもっていたが、自分で茶を入れない。一般に入れるべきとされた、女性である娘のお栄(葛飾応為)も入れない。客があると隣の小僧を呼び出し、土瓶を渡して「茶」とだけいい、小僧に入れさせて客に出した。[6]

ここまで乱れた生活を送りながらも彼が長命だった理由として、彼がクワイを毎日食べていたから、と言う説がある。

斎藤月岑によれば、この親子(北斎とお栄)は生魚をもらうと調理が面倒なため他者にあげてしまう、という。

飲酒・喫煙[編集]

北斎は酒を飲まなかった。これを否定する意見として、「通常の名家、文人墨客で飲まないところはない。また大手の画家であり画工料は多い。にもかかわらず乱れた生活、不衛生な部屋、汚れた衣服を着ている、引っ越しが多いというのは往々にして酒飲みの典型である」というものがある[6]。しかし明治に行われた周辺へのインタビューでは下戸であったというものばかりである。河鍋暁斎によれば「酒を飲まないばかりか、お茶でも上等の茶は嗜まないし、煙草も吸わない。殊に煙が嫌いで夏に蚊遣りも使わない」。別の証言では「酒は飲まないが、菓子を嗜む。訪問するとき大福餅7,8を持って行くと、大喜びし舌鼓を打った。」という。[6] 交流のあった柳亭種彦は「酒は嗜まないが茶をたしなむ。」という文を残している。

貧しい理由[編集]

北斎は金銭に無頓着であった。北斎の画工料は通常の倍(金一分)を得ていたが、赤貧で衣服にも不自由する。しかし金を貯える気は見られない。画工料が送られてきても包みを解かず、数えもせず机に放置しておく。米屋、薪屋が請求にくると包みのまま投げつけて渡した。店は意外な金額なら着服するし、少なければ催促するという形であった。このようないいかげんな金銭の扱いが貧しさの一因であろう。[6]

挨拶[編集]

北斎は、行儀作法を好まなかった。たいへんそっけない返事をし、態度をとる人物であった。人に会っても一礼もしたことがなく、ただ「こんにちは」「いや」とだけこたえ、一般的な時候・健康について長話をしなかった。[6]

外出の様子[編集]

衣服は絹類や流行の服を着たことがない。雑な手織りの紺縞の木綿、柿色の袖無し半天。六尺の天秤棒を杖にして、わらじか麻裏の草履をはく。だれかから「いなかものだ」と言われるのを、ひそかに喜んでいた。また、歩くときに常に呪文を唱えているので、知人に会っても気がつかないことがあった[13][6]

室内の様子[編集]

ある日は、北斎が部屋の隅を筆で指し、娘を呼んで「昨日の晩までここに蜘蛛の巣があっただろう。どうして消えたんだ。お前知らないか?」としばらく気にし続けていたことがあった。

また訪問した人の証言では「北斎は汚れた衣服で机に向かい、近くに食べ物の包みが散らかしてある。娘もそのゴミの中に座って絵を描いていた」という。[14]

晩年の北斎が弟子露木為一に語っている。「9月下旬から4月上旬まではこたつにはいり続け、どんな人が訪れようとも画を書くときも、こたつを出ることはなく、疲れたら横ので寝るし目覚めたら画を描き続ける。昼夜これを続けた。夜着の袖は無駄だから着ない。こたつに入りつづけると炭火はのぼせるから炭団を使う。布団にはしらみが大発生した。」(下図中の文章とほぼ同内容)

北斎仮宅之図露木為一 国立国会図書館所蔵) 弟子が北斎仮宅之図に北斎の様子と、室内の状況を描いている。 晩年の北斎が、こたつの布団をかぶりながら畳の上に紙を敷いて絵を描いている。不敵な顔をした娘のお栄が、箱火鉢に添いながらその様子をながめている。 杉戸には「画帳扇面おことわり」と張り紙をしている。柱にはミカン箱を打ち付けて仏壇としている。はきちらかした草履と下駄。火鉢のうしろが炭と食品容器であったかごや竹皮のごみの山である。

火事[編集]

火事は江戸の名物」といわれるほど江戸は火事が多かったが、北斎は何十回と引っ越しを繰り返しながら、転居56回、75歳になるまで奇跡的に火災に遭わなかった。これが自慢で鎮火の御札を描いて人に渡したりしていた。

75歳でとうとう火災に遭い、もともと乏しかった家財も失い乞食のようになってしまった。若い頃から描き貯めた資料も焼失し、大変がっかりしてもう集めなくなった。火災直後は道具が無い間、徳利を割って底を筆洗いに、破片をパレットにして画を描いていたこともあった。

この火災のとき、仕事中の北斎は筆を握ったまま飛び出し、娘阿栄も飛び出して逃げた。後から思うと家財を運び出す余裕はあったが、その時はあわてていて気が回らなかった。

外国人とのトラブル[編集]

長崎商館長(カピタン)が江戸参府の際(1826年)、北斎に日本人男女の一生を描いた絵、2巻を150金で依頼した。そして随行の医師シーボルトも同じ2巻150金で依頼した。北斎は承諾し数日間で仕上げ彼らの旅館に納めに行った。商館長は契約通り150金を支払い受け取ったが、シーボルトの方は「商館長と違って薄給であり、同じようには謝礼できない。半値75金でどうか」と渋った。北斎は「なぜ最初に言わないのか。同じ絵でも彩色を変えて75金でも仕上げられた。」とすこし憤った。シーボルトは「それならば1巻を買う」というと、通常の絵師ならそれで納めるところだが、激貧にもかかわらず北斎は憤慨して2巻とも持ち帰ってきた。当時一緒に暮らしていた妻も、「丹精込めてお描きでしょうが、このモチーフの絵ではよそでは売れない。損とわかっても売らなければ、また貧苦を重ねるのは当たり前ではないか。」と諌めた。北斎はじっとしばらく黙っていたが「自分も困窮するのはわかっている。そうすれば自分の損失は軽くなるだろう。しかし外国人に日本人は人をみて値段を変えると思われることになる。」と答えた。

通訳官がこれを聞き、商館長に伝えたところ、恥じ入ってただちに追加の150金を支払い、2巻を受け取った。この後長崎から年に数100枚の依頼があり、本国に輸出された。シーボルトは帰国する直前に国内情報を漏洩させたことが露見し、北斎にも追及が及びそうになった。(シーボルト事件)

オランダ国立民族学博物館のマティ・フォラーによると、1822年のオランダ商館長ブロムホフが、江戸参府の際日本文化の収集目的で北斎に発注し4年後受け取る予定としたが、自身の法規違反で帰国。後継の商館長ステューレルと商館医師シーボルトが1826年の参府で受け取った。現在確認できるのは、オランダ国立民族学博物館でシーボルトの収集品、フランス国立図書館にステューレルの死後寄贈された図だという。西洋の絵画をまねて陰影法を使っているが絵の具は日本製(シーボルトコレクションでは紙はオランダ製)である。[15]

歌舞伎役者とのトラブル[編集]

幽霊役で人気だった歌舞伎役者の尾上梅幸(尾上菊五郎 (3代目))が北斎に画を依頼したことがあった。ところが招いても北斎がまったく来ないため、有名人らしく輿に乗って北斎宅に訪問した。もともと貧しい家で、掃除もしたことのない荒れ果てた室内は不潔極まりなく、おどろいて毛氈(敷物)を引かせた後入室し着座。一礼しようとすると北斎は「失礼だ」と怒り出し、机に向かって相手もしようとしなくなった。ついに梅幸も怒って帰ってしまった。

後日梅幸が非礼を詫びると二人は親しくなった。普段の北斎は横柄という事はなく、「おじぎ無用、みやげ無用」と張り紙するように形にはこだわらない人物だった。

武士とのトラブル[編集]

津軽藩主[16]が屏風絵を依頼し、使者が何度も北斎を招いたがいっこうに赴こうとしなかった。10日ほどしてついに藩士が北斎宅までやってきて、「わずかばかりではありますが」と5両を贈って藩邸への同行をうながし「屏風が殿のお気に召せば若干の褒美もありましょう」と言葉を添えたが、北斎は用事があると応えて行かなかった。数日してまた藩士が訪問し再度同行を促したが、また北斎は断った。とうとう藩士は憤慨し「この場で切り捨てて、私も自害する。」と怒り出してしまうが、集まった人々が藩士をなだめ、北斎に出向くよう勧めるなどと大騒ぎになった。それでも頑として拒否し続ける北斎は「じゃ前にもらった5両返せばいいんだろう。明日金を藩邸に送りつけてやる。」と言い出したので、藩士も人々もあきれはててしまったが、その日はなんとか収まった。

数カ月後、招かれないのに唐突に津軽藩邸に現れ、屏風一双を仕上げて帰った。常に貧しく不作法な北斎であったが、気位の高さは王侯にも負けず、富や権力でも動かないことがあった。

画法の追求[編集]

北斎は晩年になっても画法の研究を怠らず続けていた。

北斎は「人物を書くには骨格を知らなければ真実とは成り得ない。」とし、接骨家・名倉弥次兵衛のもとに弟子入りして、接骨術や筋骨の解剖学をきわめ、やっと人体を描く本当の方法がわかったと語った。

弟子の露木為一の証言では、「先生に入門して長く画を書いているが、まだ自在に描けない・・・」と嘆いていると、娘阿栄が笑って「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、この前なんか腕組みしたかと思うと、猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。何事も自分が及ばないと自棄になる時が上達する時なんだ。」と言うと、そばで聞いていた北斎は「まったくその通り、まったくその通り」と賛同したという。

即興制作[編集]

ある時、元勘定奉行久須美祐明が北斎を招き席画を書かせた。最初の2、3枚はふつうの細密な絵を描いた。ちょうどその席に子供がいたので、北斎は半紙をひねって渡し「これに墨をつけて紙の上に垂らしてごらん」と言った。子供が言われたとおりにポタポタと墨を垂らすと、北斎は無作為に垂らされた黒い染みに自在なタッチで筆を加え、たちまちのうちに奇々怪々なお化けの絵に仕上げてしまった。一瞬のうちの妙技に、見物していた人々は驚きの声を上げた。

この日は夕方から深夜まで子供と遊びながら画を描いた。同行者は、先生は誰の言うことも聞かないので、どんな絵を描こうとも意のままに描いてもらうしかない。と述べたという。

11代将軍徳川家斉は北斎の画力を聞きつけ、鷹狩の帰りに滞在した浅草伝法院に北斎他を呼び画を描かせた。1人目谷文晁がまともな絵を書き、2人目に北斎が御前に進み出たが恐れる気色なく、まず普通に山水花鳥を描いた。次に長くつないだ紙を横にして刷毛で藍色を引いた。そして持参した籠からだした鶏の足に朱を塗って紙の上に放ち、鶏がつけた赤い足跡を紅葉に見立て、「竜田川でございます」と言って拝礼して退出した。一同はこの斬新な趣向に驚嘆した。[17]

弟子が語るには、北斎自身は将軍の前に出ることを無上の栄誉に感じ大いに喜んでいたが、礼儀を正し窮屈なことには困ったという。また長屋の大家は将軍にご覧に入れるとの内命があると、トラブル・不祥事の心配な北斎の身柄を預かって拝謁の日まで外出を許さなかった。

作品[編集]

風景画や春画、奇想画にいたる多岐の浮世絵を描いている。また、晩年になると肉筆画を多く残している。

主要作品[編集]

ここに示すものは揃物(そろいもの)等まとまった作品群であるが、これらは北斎の画業のごく一部に過ぎない。1点のみで著名な作品もある。また、画業と言うことでは、現代に伝えられなかった大量の作品があり、それらは文字による記録の形で「存在した」程度のことではあるが確認できる場合がある。このため北斎が描いた作品総数は分かっていないが、永田生慈著『葛飾北斎年譜』に付けられた「版木・版画作品目録」では1385点[8]で、これは2冊本も1点と数えており、実際には更に摺物と肉筆画が加わる。数え方にもよるが、挿絵なども1図と数えれば3万点を越えるという意見もある[18]

北斎漫画[編集]

『北斎漫画』 八編(1818年出版)15丁より、座頭瞽女(ごぜ)
視力に障害を持って渡世する人々のさまざまな顔模様を描いてみせた。

全15編。図数は4,000図とされる版本(彩色摺絵本)。北斎54歳、画号・戴斗の頃(文化11年〈1814年〉)に初版あり。初めは絵手本(画学生のための絵の教本)として発表されたものであったが、評判を呼び、職人の意匠手引書などにも用いられることとなって広く普及した。さまざまな職業の人から道具類、ふざけた顔、妖怪、さらには遠近法まで、多岐にわたる内容が含まれている。「#北斎画廊の10」も参照。

百物語[編集]

百物語を画題として妖怪を描いた化物絵。中判錦絵。全5図のうち、四谷怪談皿屋敷を扱った2図が特に有名。落款は為一筆。天保2 - 3年(1831年 - 1832年)頃。版行当初は100に及ぶ揃物として企画されたと考えられている。しかし、今日確認されるものは以下の5図のみである。

「お岩さん」(#4) 「さらやし記」(#5) 「笑ひはんにや」 「しうねん」 「小はだ小平二」

冨嶽三十六景[編集]

『冨嶽三十六景』「神奈川沖浪裏

富士山を主題として描かれた大判錦絵による風景画揃物で、主板の36図、および好評により追加された10図の、計46図。初版は文政6年(1823年)頃に制作が始まり、天保2年(1831年)頃に開版、同4年頃に完結している。落款は北斎改為一筆。版元は西村屋与八(永寿堂)。

北斎の代表作として知られ「凱風快晴」(通称:赤富士)や「神奈川沖浪裏」が特に有名。「神奈川沖浪裏」は、それを見たゴッホが画家仲間宛ての手紙の中で賞賛したり、そこから発想を得たドビュッシー交響詩』を作曲したりと、その後の西欧の芸術家に多大な影響を与えることとなった。波頭が崩れるさまは常人が見る限り抽象表現としかとれないが、ハイスピードカメラなどで撮影された波と比較すると、それが写実的に優れた静止画であることが確かめられる。波の伊八が製作した彫刻との類似性も指摘されている。

千絵の海[編集]

『千絵の海』「総州銚子」

各地の漁を画題とした中判錦絵の10図揃物。変幻する水の表情と漁撈にたずさわる人が織りなす景趣が描かれている。天保4年(1833年)年頃、前北斎為一筆。

「絹川はちふせ」 「総州銚子」「宮戸川長縄」 「待チ網」 「総州利根川」 「甲州火振」 「相州浦賀」 「五島鯨突」「下総登戸」 「蚊針流」。

版行されなかった版下絵2図と、版行された絵より複雑で詳細な墨書きがなされた初稿と考えられる版下絵が3図伝わることから、本来浮世絵で通例の全12図の版行予定だったと想像される。しかしこれでは手間がかかり採算に合わないと版元に拒否され、北斎はしぶしぶ修正したが、残り2図は結局折り合いがつかないままお蔵入りとなったと考えられる。

諸国滝廻り[編集]

落下する水の表情を趣旨として全国の有名な滝を描いた大判錦絵による名所絵揃物全8図で、版元は『富嶽三十六景』と同じ西村屋与八(永寿堂)。天保4年(1833年)頃、前北斎為一筆。

下野黒髪山 きりふりの滝」 「相州 大山ろうべんの瀧」 「東都葵ケ岡の滝」 「東海道坂ノ下 清流くわんおん[19]」 「美濃ノ国 養老の滝」 「木曽路ノ奥 阿彌陀ヶ瀧」(#3) 「木曾海道 小野ノ瀑布」 「和州吉野義経 馬洗滝」

諸国名橋奇覧[編集]

『諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし』
飛騨越中の国境に架かる吊り橋(きこり)の夫婦が渡っていく。橋には手すりとて無く、たわむ様子が緊張を誘う。雲海に沈んだ谷は底が知れない。行く手の山には2頭の鹿が草を食み、鳥は高い空を悠然と舞う。

全国の珍しい橋を画題とした全11図の名所絵揃物。大判錦絵。天保4 - 5年(1833年 - 1834年)、前北斎為一筆。描かれた橋の多くは実在するが、伝説上の橋も含まれている。

摂州安治川天保山」 「かめゐど天神たいこばし」 「足利行道山くものかけはし」 「すほうの国きんたいはし[20]」「山城あらし山吐月橋」 「ゑちぜんふくゐの橋」 「摂州天満橋」 「飛越の堺つりはし」(右の画像参照) 「かうつけ佐野ふなはしの古づ」 「東海道岡崎矢はぎのはし[21]」 「三河の八ツ橋の古図」

肉筆画帖[編集]

『肉筆画帖 鷹』 全10図中の第2図。(長野県小布施町、北斎館所蔵)

にくひつ がじょう。全10図一帖からなる晩年の傑作。肉筆画(紙本着色)でありながら版元の西村屋与八から売り出された。天保5 - 10年(1834年 - 1839年)、前北斎為一改画狂老人卍筆。正式な作品名称は、木版刷りの原題簽より「前北斎卍翁 肉筆画帖」。天保の大飢饉(1833年 - 1839年)の最中、版元たちとともに休業状態に追い込まれた北斎は一計を案じ、肉筆画帖をいくつも描いて店先で売らせることで餓死を免れたと伝えられる。ただし、大飢饉の前に出された肉筆画帖発売の広告も知られている。現存全図が揃った完全な状態で残っているのは3帖のみであるが、肉筆画帖は当時、もう少し多く発売されていたらしい。

福寿草と扇面」(「扇子#扇面」に画像あり(右側)) 「」(右の画像参照) 「はさみ」 「桜花と包み」 「蛇と小鳥」 「不如帰と虹」 「鰈と撫子」(#16) 「蛙とゆきのした」(#15) 「鮎と紅葉」(#14) 「塩鮭と鼠」(#13)。北斎館、香雪美術館、葛飾北斎美術館所蔵で、香雪本が最も原装に近い。3冊の収録順もそれぞれ入れ違いが見られるが、現在当初の並び順を知るのは不可能である(上記は北斎館の順番)が、最初は「福寿草と扇面」、最後は「桜花と包み」だと考えられる。[22]

富嶽百景[編集]

『富嶽百景』 二編9丁より「海上の不二」
砕け散る波頭は千鳥の群れと一体となり遠方の富士の峰へと降りかかる。

3巻からなる絵本で、初編天保5年(1834年)刊行、二編は天保6年(1835年)、三編は刊行年不明(かなり遅れたらしい)。75歳のときが初版(北斎改為一筆)。富士山を画題に102図を描いたスケッチ集であるが、当時の風物や人々の営みを巧みに交えたもの。

しかし、広く世に知られているのはこの作品よりもむしろ、尋常ならざる図画への意欲を著した文(後書き)である。

己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし
七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり
故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん
願わくは長寿の君子 予言のならざるを見たまふべし

「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」

百人一首うばが絵説[編集]

天保6年(1835年)から天保9年(1838年)、北斎卍筆。百人一首の歌意を乳母が判りやすく絵で説くとの企画のもと製作された、北斎最後の大判錦絵揃物。全100点の予定だったが、版元の西村与兵衛が版行途中で没落したため、27枚で中断(内1枚は校合摺のみ)。また当初の企画に反して、実際の絵ではかえって解釈し難い図も多く含まれており、当時は不評だったことも中断の理由と考えられる。北斎自身はこの企画に強い意欲があったらしく、全100図の版下絵を描いていたと見られる。現在、版行作品と校合摺、版下絵など合計91点確認されており、版下絵は遺存する数の多さや繊細な表現から晩年期における北斎肉筆画の基準作として重要。フリーア美術館大英博物館などに分蔵。[23]

信州小布施の肉筆画[編集]

信州小布施 東町祭屋台天井絵 『龍図』(桐板着色肉筆画)

信州小布施を生地とし造酒業を主とした豪農商にして陽明学等学問にも通じた高井鴻山(文化3年 - 明治16年〈1806年 - 1883年〉)は、江戸での遊学の折、北斎と知り合い、門下となっている。この縁によって数年後の天保13年(1842年)秋、旅の道すがらとでもいった様子で齢83の北斎が小布施の鴻山屋敷を訪れた。鴻山は感激し、アトリエ「碧軒(へきいけん)」を建てて厚遇。以来、北斎の当地への訪問は4度にわたり、逗留中は鴻山の全面的援助のもとで肉筆画を手がけ、独自の画境に没入していった。このとき描かれたものが、小布施の町の祭り屋台の天井絵であり、岩松院の天井絵である。

祭屋台天井絵[編集]

上町祭屋台天井絵は「男浪〈おなみ〉」と「女浪〈めなみ〉」(節「#生涯年表」の右列に画像あり)の2図からなる『怒涛図』であり、東町祭屋台天井絵は『鳳凰図』(#8)および『図』の2図がある。

『怒涛図』の絢爛たる縁どりの意匠は北斎の下絵に基づき鴻山が描いたものであるが、当時は禁制下にあったにもかかわらずキリシタンのものを髣髴(ほうふつ)とさせる1体の有翼天使像が含まれている。

八方睨み鳳凰図[編集]
岩松院 『八方睨み鳳凰図』下絵

はっぽうにらみ ほうおうず。長野県小布施町にある曹洞宗寺院・岩松院本堂、その大間天井に描かれた巨大な1羽の鳳凰図。嘉永元年(1848年)、無落款、伝北斎88歳から89歳にかけての作品である。肉筆画(桧板着色)。

由良哲次説によると、北斎は83歳のときを初めとして4度、小布施を訪れているが、本作は、4度目の滞在時のおよそ1年を費やして描き込まれ、渾身の一作を仕上げた翌年、江戸に戻った北斎は齢90で亡くなったと考証された。しかし現在では、本図が描かれたとされる嘉年元年6月に、北斎は江戸浅草で門人・本間北曜と面談し、北曜に「鬼図」(現佐野美術館蔵)を与えていた事実が確認され、北斎が89歳の老体をもって小布施を訪れ、直接描いたとする説には否定的な見解が強くなっている。(娘の葛飾応為が手伝って描いたものではないかと推測されている)。

21畳敷の天井一面を使って描かれた鳳凰は、畳に寝転ばないと全体が見渡せないほどに大きい。伝北斎の現存する作品の中では画面最大のものである。植物油性岩絵具による画法で、中国・から輸入した辰砂孔雀石鶏冠石といった高価な鉱石をふんだんに使い、その費用は金150と記録される。加えて金箔4,400枚を用いて表現された極彩色の瑞獣は、その鮮やかな色彩と光沢を塗り替え等の修復をされることもなく今日に伝えられている。

なお、平成2年(1990年)には、画面中央下にあって逆さまの三角形を形作る白い空間(右に示した下絵では黒い空間)が富士山の隠し絵であることが、当時の住職によって発見されている。また、製作手段については、下で描いて完成させたものを天井に吊り上げたと推定されている。[要出典]

喜能會之故眞通[編集]

『喜能會之故眞通 蛸と海女

きのえのこのまつ。春画の揃物(色摺半紙本)で、その中の1図「蛸と海女」が有名である。文政3年(1820年)頃。

肉筆浮世絵[編集]

『潮干狩図』(大阪市立美術館蔵、重要文化財)
『二美人図』(MOA美術館蔵、重要文化財)
  • 「化粧美人図」 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵
  • 「鯉と亀図」 紙本着色 埼玉県立博物館所蔵
  • 漢武人一人立図」 絹本着色 東京国立博物館所蔵
  • 獅子図屏風」 紙本着色 2曲1双 東京国立博物館所蔵
  • 「七面大明神応現図」 紙本着色 茨城・妙光寺所蔵 東京国立博物館寄託
  • 「西瓜図」 絹本着色 三の丸尚蔵館所蔵 天保10年(1839年明治維新前から皇室のコレクションに入っており、光格天皇遺愛の品と言われる。
  • 「月下歩行美人図」 紙本着色 出光美術館所蔵 山東京伝
  • 「春秋美人図」 絹本着色 双幅 出光美術館所蔵
  • 「風俗三美人図」 紙本着色 3幅対 浮世絵太田記念美術館所蔵
  • 「源氏物語図」 絹本着色 浮世絵太田記念美術館所蔵
  • 「茶摘み図」 絹本着色 浮世絵太田記念美術館所蔵
  • 「見立三番叟図」 紙本着色 3幅対 浮世絵太田記念美術館所蔵
  • 「雨中の虎図」 紙本着色 浮世絵太田記念美術館所蔵
  • 「ほととぎす虹図」 紙本着色 ニューオータニ美術館所蔵
  • 「蚊帳美人図」 落款判読不能 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵(伝葛飾北斎筆)
  • 「弁慶図」 無款 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵(伝葛飾北斎筆) 扇子に「北□」の書込みあり
  • 「鬼は外図」 無款 紙本着色 ニューオータニ美術館所蔵(伝葛飾北斎筆)
  • 「十六羅漢図」 無款 紙本着色 ニューオータニ美術館所蔵(伝葛飾北斎筆)
  • 「酔余美人図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
  • 「若衆文案図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
  • 「雪中張飛図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
  • 「見立児島高徳図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
  • 「寿布袋図」 紙本淡彩 鎌倉国宝館所蔵
  • 「阿耨観音図」 紙本着色 鎌倉国宝館所蔵
  • 「三番叟図」 紙本着色 鎌倉国宝館所蔵
  • 「桜に鷲図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
  • 「鶴図屏風」 絹本着色 2曲1雙 鎌倉国宝館所蔵
  • 「春日山鹿図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
  • 「蛸図」 紙本着色 鎌倉国宝館所蔵
  • 「波に燕図」 紙本着色 扇面 鎌倉国宝館所蔵
  • 「小雀を狙う山かがし図額」 絹本着色 1面 鎌倉国宝館所蔵
  • 「一枚物各種(いもの葉に虫図など)」 紙本着色 11枚 鎌倉国宝館所蔵
  • 「画帖(若竹と雀図他)」 紙本着色 1冊(4枚) 鎌倉国宝館所蔵
  • 「井手玉川図」 紙本着色 千葉市美術館所蔵
  • 「日・龍・月図)」 紙本着色 3幅対 光記念館所蔵
  • 「浅妻舟図」 紙本着色 光記念館所蔵
  • 「日蓮図」 紙本着色 光記念館所蔵
  • 「黄石公張良図」 紙本着色 日本浮世絵博物館所蔵
  • 「馬上農夫図」 紙本着色 日本浮世絵博物館所蔵
  • 「養老の孝子図」 絹本着色 日本浮世絵博物館所蔵
  • 「二美人図」 絹本着色 MOA美術館所蔵 重要文化財
  • 「汐干狩図」 絹本着色  大阪市立美術館所蔵 重要文化財
  • 「柳下傘持美人図」 絹本着色 北斎館所蔵
  • 「八朔太夫図」 紙本着色 北斎館所蔵
  • 「夜鷹図」 紙本淡彩 細見美術館所蔵
  • 「東方朔と美人図」 紙本着色 葛飾北斎美術館所蔵
  • 「来燕帰雁図」 絹本着色 吉野石膏所蔵
  • 「狐狸図」 紙本着色 双幅 個人所蔵
  • 「花魁図」 紙本着色 ミネアポリス美術館所蔵
  • 遊女図」 紙本着色 フリーア美術館所蔵
  • 「雷神図」 フリーア美術館所蔵
  • 「雑画巻」 紙本着色 1巻 フリーア美術館所蔵[24]
  • 「五美人図」 絹本着色 シアトル美術館所蔵
  • 鳳凰図屏風」 紙本着色 八曲一隻 ボストン美術館所蔵

作品画像[編集]

代表作『富嶽三十六景』は単独項目を参照のこと。

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画像-1 :『五美人図』 肉筆画。文化5 - 10年(1808年 - 1813年)頃、北斎の号を使い始めた(落款は葛飾北斎筆)50歳前後の時期の作品。絹本着色。細見美術館所蔵。
画像-2 :『鯉図』 肉筆画(紙本墨画)。文化10年(1813年)4月25日、北斎筆。紙本着色。左端の添え書きは北斎直筆で、弟子の葛飾北明に印顆と共に与えた作。埼玉県立歴史と民俗の博物館所蔵。公式サイトに解説あり(外部リンク)。
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画像-3 :『諸廻リ 木曽路ノ奥 阿陀ヶ瀧』(諸国滝廻り 木曽路の奥 阿弥陀ヶ滝) 名所絵揃物『諸国滝廻り』中の1図。美濃国は毘沙門岳山麓にある名滝。丸鏡のようにも見える上流の空間と滝の流れが織りなす幾何学的構図が荘厳と不可思議を演出している。
画像-4 :『百物語 お岩さん』 『百物語』全5図のうち、四谷怪談のお岩さん。提灯に浮かび上がる恨めしげなお岩の形相。
画像-5 :『百物語 さらやし記』(ひゃくものがたり さらやしき) 『百物語』のうち、皿屋敷。北斎の独創性により、井戸から現れたお菊の幽霊は、その首が長い黒髪の絡まりで連なった皿になっている。
画像-6 :『八十三歳自画像』 天保10年(1842年)、北斎82歳(数え年83歳)のときの自画像。肉筆画(紙本墨画)。描かれたのは41、2歳の頃の作品についての質問に対する返信状であり、落款は八十三歳八右衛門。オランダ、ライデン国立民族学博物館所蔵。
画像-7 :「武家」 肉筆画。
画像-8 :『鳳凰図』 信州小布施、東町祭屋台天井絵(桐板着色肉筆画)。
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画像-9 :『西村屋版大判花鳥集 芥子』 花鳥画揃物全10図中の1図。天保4 - 5年(1833年 - 1834年)頃、前北斎為一筆。
画像-10 :『北斎漫画』のうち「家久連里」(かくれざと) 日本古来の伝承「鼠の隠れ里」を描いた1図。「ネズミ#物語に出てくるネズミ」に、二代目歌川国輝の手による着色版の画像あり。
画像-11 :『長大判花鳥図 滝に』 花鳥画揃物全5図中の1図。天保5年頃、前北斎為一筆。
画像-12 :『勝景奇覧 信州諏訪湖』 全8図中の1図。団扇絵。天保元年 - 15年(1830年 - 1844年)、前北斎卍筆。
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画像-13 :『肉筆画帖 塩鮭』 北斎晩年の傑作『肉筆画帖』全10図一帖中の1図。
画像-14 :『肉筆画帖 と紅葉』 上に同じ。
画像-15 :『肉筆画帖 ゆきのした』 上に同じ。
画像-16 :『肉筆画帖 撫子』 上に同じ。
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画像-17 :『分福茶釜図』 肉筆画(紙本墨画)。寛政9年(1797年)頃。
画像-18 :『節李の商家』 肉筆画。北斎と娘の葛飾応為の合作。オランダ商館医であったシーボルトが国へ持ち帰ったと伝えられる1枚。オランダ国立民族博物館所蔵。
画像-19 :『布袋図』 肉筆画(紙本墨画)。
画像-20 :『鍾馗騎獅図』 肉筆画(紙本着色)。天保15年(1844年)、画狂老人卍筆。東京都、出光美術館所蔵。
画像-21 :『煙管を吸う漁師図』 摺物(すりもの)。天保6年(1835年)、自画讃。自画像との説がある。

諸国滝廻り[編集]

諸国名橋奇覧[編集]

関連事項[編集]

北斎またはその作品に関連する施設・店舗、作品など。

北斎館[編集]

晩年の北斎が4年間を過ごした信州小布施(現・長野県上高井郡小布施町。「#生涯年表」の「天保15年」、および、「#信州小布施の肉筆画」参照)にある博物館。昭和51年(1976年)完成。北斎の作品が多数展示されている。

北斎通り[編集]

東京都墨田区亀沢1丁目から錦糸公園につきあたるまでの、かつての江戸・本所南割下水の排水路を暗渠(あんきょ)化して道路にした通り。東京都江戸東京博物館の建設を機に整備され、この名に改められた。正確な根拠は不明ながら、生地とされる割下水の南部に位置することを基として「北斎生誕の地」を謳う碑が建っている。また、通りの照明灯にはすべて北斎の浮世絵が貼られており、携帯バーコード・サービスによって解説文の閲覧が可能(NTTドコモの提供)。

その他[編集]

  • 北斎を題材とした小説・映画等作品
    • 小説『溟い海』 - 藤沢周平の出世作となった短編で、1971年発表。第38回オール讀物新人賞受賞作、直木賞候補。晩年の北斎を主人公とし、『東海道五十三次』をヒットさせた気鋭・歌川広重への陰鬱な葛藤を主題とする。後年の藤沢作品とは異なる、暗澹とした展開と雰囲気が特徴。
    • 戯曲『北斎漫画』- 劇作家矢代静一の作品。昭和48年(1973年)発表、昭和56年(1981年)に映画化。
    • 映画北斎漫画』- 富士映画(のち、松竹富士)による昭和56年(1981年)製作の日本映画。矢代静一原作の戯曲『北斎漫画』を映画化した作品。春画の大家としても知られる北斎とその娘・お栄(応為)の生涯と、刎頸の友[25]・曲亭馬琴との交流を描いている。監督・脚本:新藤兼人。演者:緒形拳(鉄蔵〈葛飾北斎〉役)、西田敏行(左七〈曲亭馬琴〉役)、田中裕子(お栄〈北斎の娘・応為〉役)、樋口可南子(お直、春画「蛸と海女」の海女のモデル役)。
    • 漫画百日紅(さるすべり)』- 杉浦日向子の作品。文化の頃が舞台。葛飾北斎とその娘で同じく浮世絵師のお栄(葛飾応為)や弟子たちの目を通して北斎の人となりや江戸の息遣いを描いた作品。
    • 小説『応為坦坦録』 - 山本昌代の作品。棟割り長屋で三食店屋物、絵以外は一切お構いなしで奔放自在に生きる北斎父娘。父の代筆もする娘応為の飄々とした生きっぷりを、江戸戯作者風才筆で活写する。現在は絶版 第20回文藝賞受賞 日本図書館協会選定図書 ISBN 978-4-309-00358-0

関連書籍[編集]

  • 楢崎宗重 『北斎』(『原色写真文庫』) 講談社、1967年
  • 林美一 『艶本研究 北斎』 有光書房、1968年
  • 尾崎周道 『北斎 ある画狂人の生涯』(『日経新書』)日本経済新聞社 1968年
  • 福本和夫 『北斎と近代絵画』 フジ出版社、1968年
  • 小林太市郎 『北斎とドガ』 全国書房、1971年
  • 瀬木慎一 『画狂人北斎』(『講談社現代新書』) 1973年
  • 矢代静一 『画狂人・北斎考』 PHP研究所、1981年
  • 桂木寛子 『葛飾北斎 世界の伝記』 ぎょうせい、1981年
  • 福田和彦 『北斎-華麗なるエロス』 実業之日本社、1984年
  • 永田生慈 『葛飾北斎年譜』 三彩新社、1985年
  • 林美一ほか 『北斎漫画と春画』(『とんぼの本』) 新潮社、1989年
  • 中村英樹 『北斎万華鏡 ポリフォニー的主体へ』 美術出版社、1990年
  • 永田生慈 『北斎 世界を魅了した絵本』 三彩社、1991年
  • 荒井勉 『新訳・北斎伝 世界に挑んだ絵師』 信濃毎日新聞社、1998年
  • 諏訪春雄 『北斎の謎を解く 生活・芸術・信仰』(『歴史文化ライブラリー』) 吉川弘文館、2001年
  • 京極夏彦多田克己久保田一洋 『北斎妖怪百景』 国書刊行会、2004年
  • 内田千鶴子 『宇宙をめざした北斎』(『日経プレミアシリーズ』) 日本経済新聞出版社、2011年

北斎が登場するフィクション[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 」は正確には正字である「葛#中国語)」が用いられたが、表記システム上の都合により、以降の記述では省略する。「斎」についても正字「」を以下は省略する。
  2. ^ 『富嶽三十六景』の影響についてはよく語られるところであるが、他にも、例えばアール・ヌーヴォーを代表するガラス工芸家エミール・ガレには、『北斎漫画』 十三編にある、鯉に乗った観世音菩薩の図「魚濫観世音」をモチーフとした作品がある。
  3. ^ 東海道武蔵国葛飾郡本所割下水(とうかいどう むさしのくに かつしかごおり ほんじょ わりげすい)。
  4. ^ 寛信(1778年 - 1815年)。狩野常信の次男岑信を祖とする表絵師浜町狩野家の5代目。
  5. ^ 安田剛蔵 『画狂北斎』 有光書房、1971年
  6. ^ a b c d e f g h i j 飯島虚心『葛飾北斎伝』
  7. ^ 瀬木慎一 「写楽と北斎の虚実」『浮世絵芸術』32号、1971年、15頁。河野元昭 『日本の美術367 北斎と葛飾派』 至文堂、1996年、46-48頁、ISBN 978-4-784-33367-7
  8. ^ a b 永田生慈 『葛飾北斎年譜』 三彩新社、1985年
  9. ^ けんぽん。書画を描くための地の素材としてを用いているもの。そのうちの、生糸(きいと)で平織りされている通常のものを言う。上質で光沢のあるものは「本(こうほん)」と言う。
  10. ^ ただし、「九十老人卍筆」の落款がある作品だけでも、現在15点ほども確認されている。当時は数え年なため、正月から死ぬまでの5ヶ月弱でこれだけの作品を描いたことになる。北斎の生命力が尽きかけていること、年紀がない作品や現在失われた作品もあるだろうことを考慮すると、これらの中に贋作が含まれていることを指摘する声もある(久保田一洋 「北斎の肉筆画」、日本浮世絵学会監修 『緑青 vol.2 画狂人北斎 HOKUSAI』所収、マリア書房、2010年 ISBN 978-4-89511-571-1)。
  11. ^ この百庵は『続俳家奇人談』に載り、嘉永6年版『俳林小伝』にも見える実在の人物で、転居百回の後、下谷七軒町で亡くなったという。
  12. ^ 北斎の挿絵については、辻惟雄 『奇想の江戸挿絵』(集英社新書 2008年 ISBN 978-4-087-20440-7)などに詳しい。
  13. ^ 妙法蓮華経 普賢品「阿檀地 檀陀婆地 檀陀婆帝」あーたんだい・たんだーはーだい・たんだーはて 
  14. ^ 伊藤めぐみ 北斎研究16,20
  15. ^ 浅野秀剛監修「北斎決定版」、『別冊太陽』、平凡社、2010年10月27日
  16. ^ 津軽越中守とされるが、越中守を受領している人物は2,4,7代。7代藩主津軽信寧(藩主在任:1744年 - 1784年)は天明4年(1784)に没しており、この時点で北斎は25歳でまだ大名に招かれる時期ではなく、他の大名の間違いの可能性もある。
  17. ^ 大島屋伝右衛門の話としてこの画は失敗したが他の画で面目を保ったという説や、鶏の足の爪で紙を損ねるため信憑性を疑問視する説もある。
  18. ^ 林美一 『艶本研究 北斎』 有光書房、1968年
  19. ^ とうかいどう さかのした きよたきかんのん。
  20. ^ 周防岩国の錦帯橋
  21. ^ 東海道岡崎矢矧橋(現・矢作橋)
  22. ^ 伊藤めぐみ 「肉筆画帖について─制作の背景と研究上の諸課題」、所収:永田生慈 『北斎肉筆画大成』 小学館、2000年、248-256頁、ISBN 4-09-699581-9
  23. ^ 永田生慈 『北斎肉筆画大成』 小学館、2000年、245-247頁
  24. ^ フリーア美術館には他にも北斎肉筆画とされる作品が多くあるが、これらは北斎の真筆に比べると、どことなく「ドライ」な画風で、筆勢の力強さが遥かに劣っており、華やかさも創造的な面白さもなく、凝縮力のある劇的な観点に欠けるとして、これらを贋作とする意見もある(リチャード・レイン『伝記画集 北斎』 291-292頁)。
  25. ^ ふんけいのとも。刎頸の交わりで結ばれた友人。

参考文献[編集]

  • 史料
    • 飯島虚心 『葛飾北斎伝』 蓬枢閣、1891年
    • 飯島虚心著(鈴木重三校註) 『葛飾北斎伝』〈『岩波文庫』〉 1999年
    • 日本経済新聞社編 『北斎展 HOKUSAI』 日本経済新聞社、2005年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]