役者絵

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役者絵(やくしゃえ)は、江戸時代から明治時代にかけて描かれた浮世絵の様式のひとつである。

役者絵とは、歌舞伎役者や舞台そのもの、書割、大道具、小道具、歌舞伎を楽しむ人々などを描いた浮世絵を指す。その量は、浮世絵の中で、美人画と匹敵するほど膨大なものである。演劇の歴史は古く、庶民の娯楽、芸術として、時代が経つにつれて、種類、領域も増えていき、その内容も高まっていった。この間の変遷を近世において、追い求めようとすれば、役者絵は貴重な資料である。舞台姿を主に、楽屋や街頭、家庭内などにおける日常の姿も扱われた。また、役者が没したときに売り出された死絵(肖像に没年月日、享年、辞世などを添える)も見逃せない。特定の役者をモデルとした例は、すでに寛文1661年1673年)年間の頃の肉筆画、いわゆる寛文美人図のなかに認められるが、浮世絵版画が定着する元禄1688年1704年)年間以降、美人画と並ぶ重要な分野として独立、発展をみる。役者絵専門の流派としては鳥居派が起こり、「瓢箪足(ひょうたんあし)・蚯蚓描(みみずがき)」という独特の様式を踏襲して、歌舞伎の絵看板などにおいて現代まで続いている。

出雲阿国を祖とする初期の歌舞伎は、様々な屏風絵に描かれて現存している。浮世絵における芝居絵も、当然、そこから始まり、これが版画に移行されて暫くの間は、専ら有名スター中心で、劇場全体図というのは好まれなかった。しかし、やがて、奥村政信歌川豊春らの作による浮絵として、劇場全体の雰囲気が再現されるようになる。そして、その後、舞台そのものを描いた鳥居清長が現れ、18世紀後半の頃から写生的な描写が試みられるようになり、大道具、小道具にも関心を抱いた勝川春章歌川豊国東洲斎写楽歌川国貞らが個性的な作風を競った。勝川春章や勝川春英、さらに、歌川豊国以降になると、見物の眼の前に広がる舞台そのままを描くということが、当たり前となってくる。また、勝川派の絵師、東洲斎写楽、歌川豊国らは、絵師の好みや理想で勝手に美男美女を描いて、役者名、役名をただ添えるのではなく、鼻高孝四郎(5代目松本幸四郎)というアダ名のまま、写実的に描こうと努力した。また上方にも江戸の浮世絵風が波及し、幕末には流光斎如圭らが活躍した。明治期には豊原国周が生涯、新時代の役者絵を描き続け、大首絵、半身絵による3枚続、さらには役者半身一人を描くのみの3枚続というように、新しい工夫と画面の拡大、迫力を追い求めている。

一方、役者を何かに見立てて、歴史故事、一般風俗などの中に取入れ、役者と遊女の船遊び、役者たちの寺社詣でというモチーフも生まれ、買い手が、画中に描かれた人物が衣装などにつけている紋によって、これは役者の誰々だと当てるという楽しみも加わった。

関連項目[編集]

参考図書[編集]

  • 浮世絵 藤懸静也 雄山閣 1924年
  • 浮世絵の基礎知識 吉田漱 雄山閣、1987年