呪術

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呪術(じゅじゅつ、magic)とは、人類の初期社会や初期文明において、押並べて発生したとされる、祈祷占いなど神託としての運命の決定やそれらを指針とした政(まつりごと)、民間治療ともいわれる呪術医療(呪術医)と生活の糧を得るための「狩り漁り」による薬草毒草知識や使用、または呪い(まじない)や呪い(のろい)や祓い(はらい)といわれる祈祷師による神霊の力の利用をさし、原始宗教でもある文化人類学におけるシャーマニズムアニミズム、それぞれの観念や行為にともなう呪文に代表される形式や様式や儀式をさす。

目次

[編集] 概要

西洋において、英語 のmagicには、「魔法」「魔術」「手品」などの意味があるが、錬金術を含め、原始宗教と呪術が結びついて出来たものが、それらの発祥といわれ、文化人類学や宗教学での学術用語としては、専らこの「呪術」が用いられる。また宗教が集団として組織され地域社会の民間信仰から変化する時には、「奇跡」と呼ばれる現象が伴う場合が多いが、これは手品の発祥ともされる呪術が、権威付けによる如何様、いわゆるトリック手品であったことが知られている。現在でもオウム真理教サイババなどのように、トリックとしての空中浮遊や、手品としての「何もないところから物質を生み出す」といったことが行われ、無垢知識猜疑心のない人々の人心を惑わしている。東洋においても、中華文明圏の散楽やそれを源流とする猿楽から発展した神楽太神楽にあるように、手品や曲芸が神道と結びつき、祈祷の儀式の一部となっている。

何らかの儀式・呪文・物品に霊的な力があると考えている人にも利用される技術であり、この様式は近代から現代に掛けても、迷信などの形で残る物も見られる。

[編集] 毒と薬草・狩猟と医療

呪術には特定の呪術道具があり、その起源や若しくはそのものとして狩猟具漁具の場合もある)が使われている。ギリシャ文明や日本においても弓矢が、神聖なものとされ、や神の力が宿ると考えられ、呪術の道具として使用された。これらは、東南アジアなどの狩猟民族にも見られ、弓矢は世界的に普遍的な、呪術の道具であったと考えられているこれは、弓矢が敵対する社会集団との戦いに用いられたことも大きく起因する。日本においては漁具の釣針も弓矢のも「サチ」とよび霊威が宿る特別な得物であった。また弓矢はその後、弦楽器の多くの起源となり、音楽楽器に呪術的側面を持たせることにつながった。

またこの薬草の知識や陰陽五行が、漢方薬東洋医学整体カイロプラクティックに繋がっており、温泉冷泉治療なども医学的根拠の以前から経験的な医療効果が、信じられヨーロッパや日本などでも利用され、特定の信仰と結びつき呪術的要素を持っているものもある。特に日本においては、「詣で」と宿場温泉地が結びつき、湯治はもちろん宿泊入湯払いであった。

発展途上国などの狩猟を糧としているの少数民族では、(植物にかぎらない)の生成と薬草の使用は生活の上で重要な位置をしめ、それに伴いその知識を独占的に持つシャーマンが存在する。シャーマンは、現在、呪術医として分業するものも多く、手品を利用した「メスを使わない外科手術」などの偽治療も問題となっているが、薬草においては、薬理効果がることが、実証されているという事例もあり、その知識と薬草の提供に対し、提携し契約している製薬会社も存在し実際に新薬の開発に貢献している。

[編集] 占いと祈祷・神霊と憑依

呪術は基本的に神霊が祈祷師に憑依し、神託としての予言預言啓示をいい、これは、ユダヤ教キリスト教イスラム教も同一である、日本の現在の神社神道(かんなぎ)といわれる神主巫女が、神の御魂代(依り代)となり、神の代わりに占いとしての亀甲占い年始神事や、その簡易としての「おみくじ」がある。結局は原始宗教や宗教または、土着の習俗においても、アミニズムによる神霊を信じるということは、その神霊に祈る(祈祷)ことで神頼みをする点や、その啓示を人生の指針として身をゆだねるというのも、占いと変わらないともいえる。このよう現在の宗教の多くは呪術的要素を備えている。

[編集] 諍いと豊饒・呪いと祓い

呪術というとのろう(呪う)や悪魔祓い祟りなどを想像しがちだが、呪術とはそもそも「まじない」や「呪文」であり、原始仏教は別にして、多くの仏教お経と呼ばれるものも唱えるものが、必ずしもその意味を理解しているとは限らず、マニ車のように形骸化しているとも言える側面を見れば、それらも呪文やまじないともいえる。

その発祥の原因として、集団としての人々の暮らしの中で、諍いや一年をどう過ごすかまたは、どうなるのかといった社会や個人の不満や不安であり其の緩衝として、シャ-マンが存在する。具体的には寺社が地域社会の中心であったように、現在のヨーロッパの集落のほとんどが、教会を中心とした街づくりになっており、これは呪術を行うシャーマンが集落の中心にあった名残と考えられる。個人間や家族間の諍いとして処罰や依頼によりのろい(呪い)をかけたとしても実害はなく心理的な抑制効果でしかなく、また成人通過儀礼などの呪術も子供から大人への決意を促す効果をもたらすものである。このように呪術は、裁判制度がない時代や地域の人治としての権威であり脅威としての力であったと考えられる。また個人の不安や不幸を取り除く、静めることも集団社会には必要であり、そのままにすれば、妬みや嫉みなど、反社会行為に発展しかねない、実際には効果がなくとも、祓いを行い不安を取り除けば、相互扶助の関係の中で、不利益より益になると考えられる。

狩りや漁りや農耕の願いは豊饒であり、その土地が豊かになって実りの多いことが、その社会集団の願いである。それに対し集団の社会不安とならないようにするための、指針の提示が必要になり、それがその集団においての祈祷による祈願祈念になり、占いによる大概が1年の禍福の予想をしていたと思われる。このことはどの世界でも呪術の延長である年単位のなかでの時節季節による行事の繰り返しから見て取れる。

[編集] 現在の呪術と社会

例えば、"呪術"とレッテルを貼っていたものの、それに使用されていた物品を実際に自然科学的に検討してみたところ、実は何らかの薬理効果があった、というケースもある。それらは「薬草」と呼ばれるようになる。

また、心理学的な作用が結果として効果を発揮していると見られるケースや、行為者が意識的に心理効果を狙っているケースもある。暗示や催眠によるものなどである。このような心理効果の活用例には「プラセボ」と呼ばれる薬を用いた治療方法が挙げられるであろう。現代の西洋医学の医師が患者にプラセボを処方した時は、それは医師の"技術"のひとつと呼ばれ、医師の"呪術"と呼んでは不適切なように、発展途上国のヒーラーが医薬品が無い中で善意からプラセボを住民に処方しているのを"呪術"と決め付けることもまたあまり適切ではないであろう。

香港では、現在も「打小人」(ダーシウヤン)と呼ばれる、紙で作った人型を靴で叩いて行う黒呪術を代行することによって、報酬を得ている人たちがいる。幸福を得るための「おまじない」と呼ばれる様々な方法を記載した書籍が販売されている。

古くから中国人華僑華人を中心に信奉され、日本にも古くから伝わる陰陽五行思想としての「風水」などのように、根拠を定式化している部分(思想)と、占いとされる部分(呪術)が混在して、呪術と思想の線引きは決してたやすくないようである。

[編集] 呪術と地域文化

これらは地域の文化思想と密接に結びついており、場合によってはタブーのような行為にも関連する。タブーを敢えて犯すことで災いを発生させられるという思想や、あるいはタブーによる祟り呪い(まじない)の効果で無効化しようとする行為が挙げられる。

呪術では、何らかの経験則に沿って呪術の様式が体系化されており、これが民族間の交流で他文化に影響を与えることも多い。これの民俗学的調査により、民族間の交流や移動の経路などが判明する事もある。またこの分野は考古学とも関連し、過去の遺物より呪術の様式を解明し、当時の文化や交易の経路を追跡して調査する事もできる。

[編集] フレイザーによる研究

サー・ジェームズ・ジョージ・フレイザーは、人類学宗教学的観点から呪術を研究し、その成果を著作『金枝篇』(1890年 - 1936年)で発表した。

フレイザーは呪術と宗教を切り分け、呪術には行為と結果の因果関係や観念の合理的体系が存在するという観点から、呪術を宗教ではなく科学の前段階として捉えた。これを合理的過ぎるとする批判もあるが、それについては後ほど述べる。

フレイザーは、呪術を「類感呪術(または模倣呪術)」と「感染呪術」に大別した。

類感呪術(模倣呪術、: imitative magic
類似の原理に基づく呪術である。求める結果を模倣する行為により目的を達成しようとする呪術などがこれに含まれる。
感染呪術: contagious magic
接触の原理に基づく呪術である。狩の獲物の足跡に槍を突き刺すと、その影響が獲物に及んで逃げ足が鈍るとするような行為がこれに含まれる。感染呪術には、類感呪術を含んだものも存在するとフレイザーは述べている。呪術を行使したい対象が接触していた物や、爪・髪の毛など身体の一部だった物に対し、類感呪術を施すような場合などである。

[編集] レヴィ=ストロースによる指摘

レヴィ=ストロースは著書『野生の思考』(1962年)において、呪術的な思考方式を内部的な事情から説明した。すなわち、アカデミックな世界では馴染みとなっている、学術的・明確な概念によって対象を分析するような思考方式(典型例として自然科学の思考方式)があるが、そのような条件が揃っていない環境では、思考する人は、とりあえず知っている記号・言葉・シンボルを組み立ててゆき、ものごとの理解を探るものであり、そのように探らざるを得ない、と指摘した。そして、仮に前者(アカデミックな思考)を「栽培種の思考」と呼ぶことができるならば、後者は「野生の思考」と呼ぶことができる、と述べた。

もっとも、それはちょうど、素人が「あり合わせの材料でする工作」(ブリコラージュ)のようなものであり、このような思考方式は、何も一部の学者が思っているように、いわゆる"未開社会"だけに見られるものでもなく、現代の先進国でも、広く人間というものは日常的にはそのような思考方法を採っていることを指摘した。


[編集] 関連項目