天皇誕生日

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一般参賀の様子。平成16年(2004年12月23日
平成17年(2005年)

天皇誕生日(てんのうたんじょうび)は、日本国民の祝日の一つである。日付は12月23日1989年平成元年)より)。

概要[編集]

宮中祭祀
四方拝
歳旦祭
元始祭
先帝祭(昭和天皇祭)
先帝以前三代の例祭
(孝明天皇祭)
紀元節祭
祈年祭
春季皇霊祭・春季神殿祭
神武天皇祭皇霊殿御神楽
皇妣たる皇后の例祭
先后の例祭
節折大祓
先帝以前三代の例祭
(明治天皇祭)
秋季皇霊祭・秋季神殿祭
神嘗祭
鎮魂祭
招魂祭
新嘗祭大嘗祭
賢所御神楽
天長祭<天長節祭>
先帝以前三代の例祭
(大正天皇祭)
節折大祓
式年祭旬祭

天皇誕生日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「天皇の誕生日を祝う。」ことを趣旨としている。今上天皇誕生日を祝う日である。天皇誕生日は、慣例により日本の国家の日とされる。1948年(昭和23年)までは、天長節(てんちょうせつ)と呼ばれていた。

天皇誕生日の日付は、平成元年(1989年)からは12月23日である。

天皇誕生日に関して以下の行事を行う。

皇后の誕生日は地久節(後述天長地久から対比となっている)と呼ばれるが、戦前から国家の祝日にはなっていない。

諸外国の国王誕生日と同様、在位中の天皇の誕生日に合わせて移動する(共和制国家では初代大統領の誕生日だけが祝日指定になっている事が多い)。

歴史[編集]

古代[編集]

天長節の名は古く、玄宗皇帝の誕生日を天長節と祝った事に由来する。中国暦開元17年(天平元年、西暦729年)に「千秋節」と改められたが、20年後の天宝7年には「天長節」に改められた。「天長」は老子の「天長地久」よりとられている[1]

日本においては27年後の宝亀6年(775年)の光仁天皇の時代、10月13日に天長節の儀が執り行なわれ、臣下は天皇の好物のを献上し、宴を賜ったという

是日天長大酺群臣献翫好酒食宴畢賜禄有差

(これにさきだち同年9月11日に

十月十三日是朕生日毎至此辰威慶兼集宜令諸寺僧尼毎年是日転経行道海内諸国竝宜断屠内外百官賜酺宴一日仍名此日為天長節庶使廻斯功徳虔奉先慈以此慶情普被天下

と勅が下された)。このことは宝亀10年の記録にも見受けられなど、平安時代において既に執り行なわれていた。室町時代の記録としては『御湯殿上日記』に記述がある。

近世・現代[編集]

国家の祝日として表舞台に舞い戻るのは、明治元年9月22日(西暦1868年11月6日)に天長節として祝ったときである(同年8月26日には太政官布告で「九月二十二日ハ聖上ノ御誕辰相当ニ付毎年此辰ヲ以テ群臣ニ酺宴ヲ賜ヒ天長節御執行相成天下ノ刑戮被差停候偏ニ衆庶ト御慶福ヲ共ニ被遊候思召ニ候間於庶民モ一同嘉節ヲ奉祝候様被仰出候事」と布達された)。明治2年9月には各国公使を延遼館に呼び寄せ、酒饌を賜い、明治3年9月には諸官員、非職員、華族などの拝賀があって、勅任官は禁中で、奏任官以下は各官省で酺宴を賜い、諸軍艦で祝砲が撃たれた。天長節の儀礼が整ったのは明治5年で、同年の天長節の勅語で

茲ニ朕カ誕辰ニ方リ群臣ヲ会同シ酺宴ヲ張リ舞楽ヲ奏セシム汝群臣朕カ偕ニ楽シムノ意ヲ体シ其ノ能ク歓ヲ尽セヨ

と宣した。ついで奏任官以上の総代として太政大臣三条実美が、華族総代として従一位中山忠能がそれぞれ奉答した。明治6年(1873年)の太陽暦採用後、11月3日に変更。同年10月14日の太政官布告によって国家の祝日と規定された。

その後、即位した天皇の誕生日にあわせて天長節が定められた。昭和23年(1948年)まで年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム休日ニ関スル件など太政官布告や勅令によって具体的な日付で規定された。戦前は新年紀元節明治節ともに四大節の一つとして、盛大に奉祝されていた。

ただし大正天皇の誕生日は8月31日であるが、大正元年(1912年)は明治天皇崩御(7月30日)直後のことであり、服喪に加えて法改正も間に合わなかったために天長節は行われず、大正2年(1913年)から8月31日が天長節となった。しかし、盛暑期であるために各種式典の斎行が困難であるとして、翌年以降は2ヶ月後の10月31日[2]を天長節祝日とし、本来の誕生日を避ける形をとった。また、休日としても大正2年(1913年)に改正された休日ニ関スル件により天長節祝日が制定された。なお、8月31日は行事こそ行われなかったものの休日であることに変わりなく、天皇誕生日による休日が年2回となっていた。

戦後昭和23年(1948年)は祝日法が制定され、昭和24年(1949年)以降は天皇誕生日として国民の祝日と定められて現在に至る。また、祝日法制定に先立って行われた、「希望する祝日」の政府の世論調査では、「新年」に次いで「天皇陛下のお生まれになった日」が第2位であった。

歴代天皇の天長節・天皇誕生日[編集]

歴代天皇の天長節・天皇誕生日
年月日 在位天皇 誕生日 法で規定された
祝日の月日
旧暦
明治元年(1868年)8月26日 - 明治5年(1872年)12月2日 明治天皇 9月22日 9月22日
新暦
明治6年(1873年)1月1日 - 明治45年(1912年)7月30日 明治天皇 11月3日 11月3日
明治45年(1912年)7月30日 - 大正元年(1912年)9月4日 大正天皇 8月31日 11月3日
大正元年(1912年)9月4日 - 大正2年(1913年)7月16日 大正天皇 8月31日 8月31日
大正2年(1913年)7月16日 - 大正15年(1926年)12月25日 大正天皇 8月31日 8月31日と10月31日
大正15年(1926年)12月25日 - 昭和2年(1927年)3月4日 昭和天皇 4月29日 8月31日と10月31日
昭和2年(1927年)3月4日 - 昭和64年(1989年)1月7日 昭和天皇 4月29日 4月29日
昭和64年(1989年)1月7日 - 平成元年(1989年)2月17日 今上天皇 12月23日 4月29日
平成元年(1989年)2月17日 - 今上天皇 12月23日 12月23日

天皇誕生日(天長節)による休日は、昭和23年(1948年)7月19日以前は年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム休日ニ関スル件など太政官布告勅令によって具体的な日付で規定され、昭和23年(1948年)7月20日以降は国民の祝日に関する法律という法律によって具体的な日付で規定されている。

皇位継承によって天皇誕生日が自動的に移動・変更されるわけではなく、ほとんどの場合において先帝誕生日と天皇誕生日が異なるため、法改正をする必要がある。そのため、先帝崩御日と天皇誕生日または先帝誕生日が近接していると法改正が間に合わない可能性があり、7月30日以降が新元号となる大正元年(1912年)は大正天皇誕生日の8月31日まで法改正が間に合わなかった。

崩御後の誕生日の扱い[編集]

休日ニ関スル件、国民の祝日に関する法律のいずれにおいても、天皇の誕生日は先帝崩御・今上帝践祚に伴い移動する。休日ニ関スル件では天長節に代わり先帝崩御日が先帝祭となっていたが、国民の祝日に関する法律では原則として先帝誕生日は休日にならず、先帝祭に相当する休日も設けられていない。ただし明治時代以降、先帝誕生日が休日になったケースが2回存在する。

明治天皇の誕生日
明治天皇の誕生日は、崩御後は休日ではなくなったが、崩御から15年後の昭和2年(1927年)、明治節という休日となった。なお、休日ニ関スル件時代において、国民の帝国議会への請願を受けて設けられた唯一の休日である。
戦前はこの日は閲兵が行われた。宮中、豊明殿では宴会があり、お召しに与った者は宮中席次第一階ないし第三階第二十七の者ならびに勲一等雇外国人および伯、子、男爵ならびに大日本帝国駐剳各国大使公使であった。天皇親臨のうえ勅語を賜り、内閣総理大臣、ついで大使、公使の首席が奉答の辞を述べ、聖寿の無疆を祝した。
なお戦後は同じ日が国民の祝日「文化の日」となったが、これは昭和21年(1946年)の11月3日に日本国憲法が公布されたことに由来し、明治節とは関係なく定められたということになっている。ただし、当時の首相である吉田茂は、憲法制定のスケジュールを、当初は8月11日公布、2月11日紀元節)施行とし、その日程に間に合わなかったことから11月3日(明治節)公布、5月3日施行にしており、意図的にそれまでの四大節に日程を合わせている。
大正天皇の誕生日
大正天皇の誕生日と、盛暑期であることを理由とした10月31日の天長節祝日は、明治天皇や昭和天皇のように再び休日となることはなかった。しかし、大正期限定の天長節祝日は結果的にその後の休日増加へとつながり、昭和期に明治節を制定することで休日減少を回避させている。
昭和天皇の誕生日
昭和天皇の誕生日は平成元年(1989年)、崩御直後の祝日法改正で「みどりの日」とされ、国民の祝日として残された。さらに平成19年(2007年)に「昭和の日」と名称を変更し、それに伴い5月4日が「みどりの日」となった。

[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 「年中行事事典」p512 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 西角井正慶編 東京堂出版
  2. ^ 月遅れではなくふた月遅れとなっているのは、9月31日が存在しないため。

外部リンク[編集]