因幡の白兎

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白兎海岸側の大国主と白兎の像。
後ろは白兎神社の鳥居。手前の舗装地帯の右に道の駅

稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)とは、日本神話古事記)に出てくるウサギのこと。または、このウサギの出てくる物語の名。『古事記』では「稻羽之素菟」と表記。

概説[編集]

この説話は、「大国主の国づくり」の前に、なぜ他の兄弟神をさしおいて大国主が国を持ったかを説明する一連の話の一部である。

この説話は、『先代旧事本紀』にあって『日本書紀』にはない。『日本書紀』では、本文でない一書にある「ヤマタノオロチ退治」の直後に「大国主の国づくり」の話が続く。また、『因幡国風土記』は現存せず、『出雲国風土記』に記載はない。

『古事記』上巻(神代)にある大穴牟遲神(大国主神)の求婚譚の前半に「稻羽之素菟」が登場し、大穴牟遲神に「あなたの求婚は成功するでしょう」と宣託言霊のような予祝を授ける。なお、説話の後半は大国主を参照。

今日では、「稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)」が「淤岐島(おきのしま)」から「稻羽(いなば)」に渡ろうとして、「和邇(ワニ)」を並べてその背を渡ったが、「和邇」に毛皮を剥ぎ取られて泣いていたところを「大穴牟遲神大国主神)」[1]。に助けられる、という部分のみが広く知られている。

古事記(稲羽の素兎)[編集]

大穴牟遲神(おおむなぢのかみ=大国主神のこと)の兄弟(八十神)たちは、稲羽の八神上売(やがみひめ)に求婚したいと思ったため、国を大国主に譲ってしまった。稲羽(いなば)に出掛けた時、八十神は大穴牟遲神(おおむなぢのかみ)に袋を持たせ、従者のように引き連れた。

「気多(けた)の前」に来たとき、裸の兎(あかはだのうさぎ)が伏せっていた。兎は、八十神に「海塩を浴び、山の頂で、強い風と日光にあたって、横になっていることだ」と教えられた通りに伏せていたが、海塩が乾くにつれ、体中の皮がことごとく裂けてきて、痛みに苦しんで泣いていると、最後に現れた大穴牟遲神が「なぜ泣いているの」と聞いた。

菟は「私は隠岐の島からこの地に渡ろうと思ったが、渡る手段がありませんでした。そこで、ワニザメ(和邇)を欺いて、『私とあなたたち一族とを比べて、どちらが同族が多いか数えよう。できるだけ同族を集めてきて、この島から気多の前まで並んでおくれ。私がその上を踏んで走りながら数えて渡ろう』と誘いました。すると、欺かれてワニザメは列をなし、私はその上を踏んで数えるふりをしながら渡ってきて、今にも地に下りようとしたときに、私は『お前たちは欺されたのさ』と言いました。すると最後のワニザメは、たちまち私を捕えてすっかり毛を剥いでしまいました。それを泣き憂いていたところ、先に行った八十神たちが『海で塩水を浴びて、風に当たって伏していなさい』と教えたので、そうしたところ、この身はたちまち傷ついてしまったのです」といった。そこで、大穴牟遲神が兎に「今すぐ水門へ行き、真水で体を洗い、その水門の(がま)の穂をとって敷き散らして、その上を転がって花粉をつければ、膚はもとのように戻り、必ず癒えるだろう」と教えたので、そうすると、その体は回復した。これが、稲羽の素兎(しろうさぎ)である。

その兎は「八十神は八上比賣(やがみひめ)を絶対に得ることはできません」と大穴牟遲神に言った。そのとおり、八上比賣(やがみひめ)は八十神に「あなたたちの言うことは聞かない」とはねつけ、大穴牟遲神に「袋を背負われるあなた様が、私を自分のものにしてください」と言ったため、今では兎神とされる。(原文[2]

解説[編集]

稻羽について[編集]

「因幡の白兎」とあるが、「稲羽」が因幡(現在の鳥取県東部)だという記載はない。「イナバ」は稲葉、稲場であり、イネの置き場を指し、各地の地名にもみえる。また、「往ぬ」「去ぬ」という動詞からきているとして和歌などにも「去ろう」「帰ろう」との意味で詠まれてきた。これを因幡とするのは、大国主の話の前後に彼の義父・素戔嗚命の話があり、素戔嗚は出雲に住んだので、物語の展開上、その隣の因幡を指すとされてきた[誰?]

淤岐嶋について[編集]

「淤岐嶋」には、現在の島根県隠岐郡隠岐島とする説[3]や、ほかの島(沖之島等)とする説がある。他に、『古事記』の他の部分では隠岐島を「隠伎の島」と書くのに、「稻羽之素菟」では「淤岐嶋」と書き、「淤岐」の文字は「淤岐都登理(おきつどり)」など、陸地から離れた海である「沖」を指すことが多いため、「淤岐嶋」は特定の場所ではなく、ただ「沖にある島」を指すとする説[4]もある。

「気多の前」には、「淤岐嶋」を島根県隠岐郡とすれば鳥取県鳥取市(旧鳥取県気高郡、それ以前は旧高草郡)の「気多の岬」とする説や、鳥取県鳥取市(旧鳥取県気高郡、それ以前は旧気多郡)の「長尾鼻」とする説などがある。

「淤岐嶋」を島根県隠岐郡としたとき、鳥取市(旧高草郡)の白兎海岸の沖合150メートルにある島まで点々とある岩礁を「わに」とする説もある。その周辺には「気多の岬」、菟が身を乾かした「身干山」、兎が体を洗った「水門」、かつて海になっていて戦前まで蒲が密生したという「不増不滅之池」、「白兎神社」などがある。

白兎神社[編集]

白兎神社に関しては、江戸時代初期の鳥取藩侍医小泉友賢の『因幡民談記』では[5]、『塵添壒嚢鈔(じんてんあいのうしょう)』[6]に「老兔」の記載があるため、大兔(おおうさぎ)明神は老兔(ろううさぎ)明神であると考察し、菟は◇(にんべんに竹の右側を書く)草の林の「老兔」であり、洪水によって林から流され、◇の根に乗って沖の島に着いた。帰るために「鰐という魚」をたばかって、己とおまえとどちらが家族が多いか数えようと言って鰐を集めてその背を渡ったという[7]

平安時代の『延喜式』神名帳の因幡国には白兎神社の記載がないが、それだけで平安時代に存在しなかったとはいえない。また、八上比売を祀る神社に現在の鳥取県八上郡の売沼神社をあてる説があり、『延喜式』の八上郡に売沼神社の記載がある。

八上の白兎神社[編集]

八頭町には、3つの白兎神社がある。 『郡家町誌』に掲載されている。 八頭町福本にある白兎神社は、840年前後に仁明天皇より、位をいただいた。「大兎大明神」を祀っていた大正時代の合祀以前には江戸期築造の社殿があって、蟇股には「波に兎」と菊の御紋の彫刻が施されている。この福本の白兎神社神社合祀により廃社となり、社殿は八頭町下門尾「青龍寺」に移され、本堂の厨子として再利用されている。 八頭町池田には現在池田神社(「白兎神社」)と呼ばれる神社があるが、祭神は弁財天、兎神、稲荷神で二つの祠が鎮座する。 八頭町土師百井(はじももい)には、もと白兎神社があり、大正時代に池田の白兎神社と併せて、ご神体は八頭町宮谷の「賀茂神社」に合祀された。いずれも廃社ではあるものの、地元の人たちによって今もなお崇敬されている。八頭町には白兎神社関係の灯篭が下門尾と宮谷賀茂神社に残る。

 山間の鳥取県八頭郡八頭町、かつての八上郡(やかみのこおり)を舞台とする白兎の話が、石破洋教授の著作『イナバノシロウサギの総合研究』(マキノ書店刊行)をきっかけに広く知られるようになった。  そこに紹介された、八頭町門尾(かどお)の青龍寺に伝えられていた城光寺縁起、土師百井の慈住寺記録によると、天照大神が八上行幸の際、行宮にふさわしい地を探したところ、一匹の白兎が現れた。白兎は天照大神の御装束を銜(くわ)えて、霊石山頂付近の平地、現在の伊勢ヶ平(いせがなる)まで案内し、そこで姿を消した。白兎は月読(つきよみの)尊(みこと)のご神体で、その後これを道祖白兎大明神と呼び、中山の尾続きの四ケ村の氏神として崇めたという。  天照大神は行宮地の近くの御冠石(みこいわ)で国見をされ、そこに冠を置かれた。その後、天照大神氷ノ山(現赤倉山)の氷ノ越えを通って因幡を去られるとき、樹氷の美しさに感動されてその山を日枝の山(ひえのやま)と命名された。    氷ノ山麓の若桜町舂米(つくよね)集落には、その際、天照大神が詠まれた御製が伝わるという。氷ノ越えの峠には、かつて、因幡堂があり、白兎をまつったというが、現存しない。『須賀山雑記 (1973年) 』(山根達治著 今井書店刊)に掲載されている。  

「波に兎」は江戸中期に庶民も広く愛好したことが知られる瑞祥文様である。謡曲「竹生島」の歌詞にも月の兎は水に映った月の中で波の上を跳ねるとある。東北関東九州近畿、各地の寺社の彫刻に「波に兎」の意匠が見られるが、因幡地方には特に集中している。

 なお、兎が登場する民話は多く、京都府宇治市の宇治神社の縁起には、貴人がウサギに導かれる話が伝わる。

「素菟」について[編集]

この兎は、「白兎神社」や「白兎神」「白兎明神」などに見られるように、「白兎」として伝わる。『古事記』の表記は「菟」、「裸の菟」、「稲羽の素菟」、「菟神」である。本居宣長は、「素」には何もまとわず何にも染まっていないの意があると述べる[8]。『古事記』には兎の毛色の言及はなく、宣長のように「素布 ( そふ )」= 白い布から、「素」に白の意があると考えれば「白兎」ともいえる[9]。なお、日本に広く分布するニホンノウサギは夏期は体毛の色が焦げ茶からベージュに、冬季積雪地域では白へと変化する。また隠岐島には冬になっても白くならない亜種オキノウサギが生息する。

「和邇」について[編集]

「和邇」を特定の実在生物に比定する説を以下にあげる。

サメ説[編集]

因幡国(現・鳥取県東部)を含む山陰地方方言ではサメをワニと呼ぶ[10]。歴史学者の喜田貞吉は、隠岐島の刺し身が「ワニ」と呼ばれることから、古事記神代巻のワニとはフカ(サメ)を指すとする説[要出典]に賛成し、国定教科書編時に、因幡の白兎のワニをワニザメと表記した[11]。中国地方の山陰では浜でも山間部でもサメを「わに」と呼び、山間部に伝わる「わに料理」はサメ・エイ等の魚を煮た料理である。

『古事記』「山幸彦と海幸彦」の段に、山幸彦が「一尋和邇」(ひとひろわに)の首に小刀をつけて返し、佐比持(サヒモチ)神と呼ぶ話がある。サヒは刀の意味で、シュモクザメの頭部が、刀を持っている様であることを表したと考えられ[独自研究?]、「和邇」でサメを意味するとみられる[独自研究?]。シュモクザメは古来から日本近海に生息している[12]

日本書紀』でも山幸彦と海幸彦の物語がある第十段一書の第四において、「海神 所乘駿馬者 八尋鰐也 是 竪其鰭背 而在 橘之小戸[13][14]」とあり、海神の乗る駿馬は「八尋鰐[15]」で、その鰭(ヒレ)を背に立てて橘之小戸にいると記され、サメと読むことができる[誰?]


『肥前国風土記』小城郡条には、世田姫に会うため「海神 謂鰐魚」が佐嘉川を遡上するとあり、『出雲国風土記』仁多郡条の戀山(したいやま)の由来に、「和爾」が阿井村の玉日女命に通おうと「川を遡上」したが、岩で川を塞がれたため恋しがったという話があり、『古事記』の「海の和邇」との比較から、川の和邇ともされる[要出典]。サメは淡水でも生きられるが、その中でもチョウザメオオメジロザメは川を遡上する。現在でも沖縄などの川でサメが捕獲されており、昭和51年(1976年)に静岡県下紙川で、河口から1.5kmほどのところでヨシキリザメ(メジロザメ科)が捕獲された。アマゾン川の上流3700km(ペルー)や、ミシシッピー川の上流3000km(米国イリノイ州)でオオジロザメが発見された例もある[要出典]


ワニ説[編集]

平安時代の辞書『和名類聚抄(和名抄)[16]』には、麻果切韻に和邇は、鰐のことで、

鼈(スッポン)に似て四足が有り、クチバシの長さが三尺、甚だ歯が鋭く、大鹿が川を渡るとき之を中断すると記してある

とある。和邇とは別の鮫の項には、「和名 佐米」と読み方が記され、「さめ」と読む「鮫」という字が使われ始めた平安時代において、爬虫類のワニのことも知られていたことを示す。和漢三才図会の鰐の項では、和名抄には蜥蜴に似ると記されているとある。狩谷エキ斎(エキは木偏に夜)は『箋注和名類聚抄・巻第八』[17]において、和名抄には異本がある事を示し、麻果の切韻の原典は、呉都賦の劉達が『異物志』を引用した注と考えられ、

鰐魚(クロコダイル)はダ(アリゲーター)[18]に似て四足が有り

とある事から、鼈はダの誤りであろうとしている。ただし、エキ斎自身は日本にワニがいないとしてサメ説である。

新井白石は『東雅』[17]の鰐の項において、古事記の和邇は鰐という者を述べたようすがわかる、また、鰐魚ではなく和邇としたことには意味があるのだろうが、今はその意味は不明であるとしている。鱶の項では、和邇について触れていない。

本居宣長は『古事記伝』で『稲葉の白兎』について記した際、和名抄を引用し、ワニとした。宣長がワニ説であったことは、ワニ説・サメ説両方の論者が認めており、後でも触れる。

20世紀に入り、ワニ説はヨーロッパでの神話に対する研究手法を取り入れ、現代の考証に耐える研究として発展した。

高木敏雄1904年『比較神話学』[17]の抜粋を示す。

所謂稲羽の兎の説話は兎の鰐を欺きしを語る。鰐は元来、南洋地方或は熱帯地方の動物にして、日本近海の魚族に非ず。獅子の生存せざる欧羅巴の動物説話に、此動物の現わるるは、その起原の印度なるを示すものとせば、同様の理由によりて、日本説話に鰐の見ゆるは其南方起原を証明する者には非ざるや。(1文略)日本古代の説話は鰐に就いて語ること甚だ多し。之れ恐らく、偶然には非ざる可し。

論理的な考証を積み重ね、発展したワニ説に対し、サメ説では、新たな根拠を提示せず、欠陥を示す記述さえなされている。サメ説の喜田貞吉は、1912年『読史百話』において、サメ説の根拠として、出雲地方でサメをワニという事をあげているが、後述する折口信夫の講演から逆算すると、文字通り十年一日、同じ事を十年間繰り返していただけになる。当然、ワニザメというサメがいるとは記しても、イタチザメやネコザメといったサメがいて、なぜ、イタチやネコがサメを意味しないかといった点については、何の説明もしていない。さらにサメ説を主張したはずが、『出雲風土記』にある海岸を逍遥していた娘が和邇に喰われた話を引用、「こは、実録にして神話にあらず」と記している。丸山林平が古事記に比べ、極めて後の時代で、古事記とは性質が異なるとし、津田左右吉が、和邇は上陸できるとした根拠の一つにした話を、喜田自身が神話でないと明言してしまった訳である。さらに、喜田は、和邇が鰐になったのは、「帰化の史官」が「其の形の彼我ヤヤ相類し、皮膚堅硬、時として人畜をも捕り喰うの点相似」ていたので、うっかり間違えたためだと記した。和邇とワニの特徴が皮膚の特徴に至るまで似ている点を示し、サメについてはこの点何も記してないが、喜田が主張しているのはサメ説である。

1910年代~1920年代、発展するワニ説に対し、サメ説からは離反が続いた。後に、後述する西岡によって「当時学会の論客、白鳥・喜田両博士の強い論調に押されて古事記の」註で和邇を鮫としたと批判された4人のうち、少なくとも3人は、サメ説の主張をやめてしまった。物集高量の1912年『新撰日本歴史辞典』[17]には、古事記に登場する多数の事物が載っているが、因幡の白兎と和邇については項目そのものがない。次田潤は1924年『古事記新講』[17]において、ワニ説・サメ説の両論併記ともどっちつかずの中立とも言える記述をしており、少なくともサメ説を推す立場ではなくなった。松岡静雄は1929年『日本古語大辞典』[17]において、和邇を、『因幡の白兎』ではサメ、別の場合はワニ、また別の場合は舟とする、言わば、サメ・ワニ・舟説に転向した。後述するように中山林平にサメ説を批判されているが、それほど強く主張している訳ではない。サメ説の根拠として、サメの背をウサギが渡ることは、よく思いつきそうなこと、としているが、その例は示していない。サメやエイの魚煮のワニ料理がない日向が舞台とされる話では、ワニ・舟としている分、単純なサメ説よりは、根拠との整合性がある。悪魚の意味で鰐とし中山と似たことを記し、また、舟の起源は南方とし、この場合もワニを海の神とする中山の説と共通することも記している。

堀岡文吉1927年『日本及汎太平洋民族の研究』[17]の一部抜粋・要約を示す。

和邇がサメでないことは『出雲風土記』の産物にワニとサメが別々に書いてある事を見ても解る[19]。1924年(大正13年)3月5日大阪朝日紙上に『大鰐が地曳網に』と題し、富山県沖で長さ3間目方70貫の大鰐が網にかかったと報じられているが、日本に鰐がいたから『兎と鰐』の話ができたのではなく、『兎と鰐』の話が漂着したとすべきであろう。

後に丸山林平にサメ説を批判されることになる西村真次だが、実際には1927年『民俗断篇』で「日本のワニ神話は、本来は鰐魚に関するものであり、鰐魚から鮫に転じていったとに疑いがない。」と記している。論旨は丸山の記した通りで、サメ説の論旨にワニ説の結論をつけた形で、批判については蘆谷重常の方が事実に即している。また、アイヌ語では、サメはSame、フカはTowa-yuk、チョウザメはYubeとしている。サメとフカの違いと、サメどころか軟骨魚類でさえないチョウザメを挙げた理由は記していない。同様に、徳川義親も、実際はワニ説を支持し、ワニがサメに変化したもので、輸入元はインドネシアだろうとしている。

大正期以降、サメ説を主張する専門家はごく僅かになり、専門家でない釈瓢斎が1929年『苦悶の筍』[17]で、本居宣長が和邇をワニとしたことは偽証罪、新井白石は『東推』[20]でワニ説に疑問を呈している、(日本書紀で龍とあるのは)鰐から龍へ脱線、といった事実無根または事実に反する独断を行い、サメ説の根拠としては、和邇が鰐なら訛の抜けない(当時の)首相はアイヌ人といった偏見と民族蔑視に基づく誹謗中傷、丸山林平に批判された出雲風土記の件とワニザメの件を記した程度である。

島津久基は1933年『国民伝説類聚』[17]において、『因幡の白兎』には、インドの説話『猿の生肝取り』の影響も見られるが、西ボルネオやセレベスの説話がより近い元の話であろうとし、『猿の生肝取り』の紹介をしている。後に、1944年『日本国民童話十二講』では、サメよりワニの方が聞き手にとって、想像しやすいと加えている。一方で、児童に話す場合にはワニでは混乱するので、サメで良く、少し知識が進んだら、南方に起源があることを示してワニで説明すると良い、としている。

丸山林平が1936年『国語教材説話文学の新研究』[17]において『和邇伝説』と題し、サメ説の根拠を一つずつ検証して否定し、ワニ説の根拠を記した要約を示す。本項と直接関係のない、白兎山幸彦と海幸彦、神武東征について記した部分は大部分割愛し、原文で敬語・敬称を用いた部分等は現代の通常の言葉に変更してある。

和邇という動物が日本にいない事から、諸説が現れ、文部省の『国語読本』などでは、すべて「わにざめ」とし因幡の白兎では鮫の挿絵などを描いているが、森鴎外松村武雄等共著『日本神話』では鰐の挿絵を示している。どちらが真か、どちらでもなどという曖昧な態度は許されないだろう。古事記には因幡の白兎とヒコホホデミの二つの和邇伝説がある。日本書紀の本文で龍となっている所があるのは、中国の影響で、「一書」では総て和邇である。風土記には多くの和邇伝説がある。この伝説が古代にのみ存在する事は注意を要する点である。
本居宣長は『古事記伝』で、和邇について『和名抄』を引用しているが、とにかくcrocodile説であって、鮫または他の動物とは見ていない。北国の海には今でも多いと、宣長に語った人は鮫を指しているのであろうが、宣長の方では『切韻』にあるような爬虫類の鰐と信じているのである。西の外国にも多くいる所があるなどは、既に室町末期から西洋人とも接触していたのであるから、こうした知識も自然わが国の人々が持っていたのであろう。
津田左右吉は海蛇であろうと推論しているが、西村真次も指摘しているように、合理主義の形式論理的推論であって、極めて非科学的な態度である。
西村は鮫説で、ワニは鱶のヤンの訛化としているが、これは漢字の知識の不備を物語るもので、「鱶」は、中国で干物か干魚のことで、音はシュウであろう。西村は、一転、オロッコ族の海豹を指すバーニがワニと語源が同じと思うとも述べているが、どうして海豹が鮫になったか納得できない。西村は三転、白鳥庫吉のサヒモチ説にとびついているが、古事記でサヒモチとするのは和邇に小刀を結びつけたことによる。サヒモチは鋭い歯を持つの意味で、crocodileのことを言ったとも言え、鮫説の根拠にはならない。どこかにサメモチの神でもいれば別だが、刃が魚の鮫になるのは飛躍が過ぎる。で、要するに鮫説は少しも我々を満足させていない。西村は『因幡の白兎』の物語がインドネシアから伝播されたと信じているにもかかわらず、サメと考える。サメ説の根拠は、日本にワニがいないこと、日本周辺の外国語にワニに似た語がないこと、それにもまして出雲の方言でサメをワニと呼ぶ程度だろう。
鰐の化石は日本で未発[21]だが、『肥前風土記』の記述は鰐の化石伝説と思われ、でなければ、わが古代人が鰐というものについておぼろげな記憶か言い伝えを持っていたと思われる。ワニは固有の日本語である。「わにぐち」は決して鮫の口を意味するのではなく、鰐の口を意味している。したがって、ワニと同義語のサヒモチの神も鰐を指したものであること言を俟たない。出雲地方の「ワニザメ」は「鰐のように強い鮫」の意味から来たもので、後に単にワニとも呼んでいる。したがって、本来の和邇の意味がわからなくなった、天武天皇の時代と、かなり後の話である『出雲風土記』の和邇はサメだろう。
例え、日本の古代に全然爬虫類の鰐が棲息していなかったと仮定しても、日本固有語としてワニという語があり、鰐の概念があっても一向に差し支えない。過去にも現在にも日本に龍は棲息していないが、邦語としてタツの語がありタツの概念がある。
『因幡の白兎』は明らかに南方から伝播した説話が大国主命の話に入ったもので、インドネシアには鼠鹿と鰐の話があり『因幡の白兎』の伝説と全く同一である。徳川義親は鮫説だが、『稲羽の素兎』で東インド諸島の和邇伝説をニ三紹介し、古事記の出来た和銅5年以前に南洋と交通があり、東インド諸島の伝説が入っていると思われると述べ、その他の伝説を紹介しているが、物語も叙述も大体同じである。その中に鼠鹿が猿になっているものがあるが、騙した動物が何であっても、騙された動物が常に鰐である点に注意が必要である。
「沖の島」が固有名詞でないことはいうまでもない。
(日本書紀では中国思想の影響で龍になっているが)龍はサメよりよほどワニに近い。
トヨタマ姫のお産の和邇も、陸上で匍匐委蛇う(腹ばいで蛇のようにのたうつ)動物が鮫であるはずはない。鮫説の松岡静雄が匍匐委蛇う場合はワニだろうとするのは、サメ説の行き詰まりを示す。
和邇は南方のトーテムとしての鰐の反映で、姓の和邇の元であろう。ワニはワニであり、断じてサメやワニザメなどではない。

蘆谷重常の1936年『国定教科書に現れたる国民説話の研究』[17]の要約を記す。

さすがに本居宣長は和邇を鰐と解釈していると記している。西村真次が海の鰐と湖の鰐が戦った話を記した上で、ワニがサメと混同されたとする(この時点での)西村の説には具体的な根拠が語られていない。津田左右吉のウミヘビ説の4つの根拠はワニにも当てはまる。丸山林平のトーテムにまで進めたワニ説は、卓見である。

中田千畝は1941年『黒潮につながる日本と南洋』[17]において、久米邦武が日本人が日本へ移住してきてから南方の故郷で親しくしていた爬虫類を記憶していたか、説話的に語り継いで来たとの説を紹介し、南洋の話では、騙す動物が鰐の数を数えるという点まで一致している事が重要であると記している。

松本信廣は1942年『和邇其他爬蟲類名義考』[22]において、日本民族が「気宇壮大な海国民であった」のに、その後「事象を国内の事例によって説明せんとする迂愚に陥った」、「島国根性の所産である」としてワニ説を論証している。サメ説が根拠とする出雲でサメをワニと呼ぶことについては、サメとワニの混同を示すだけで、意味がないとしている。松本は、南方でワニを意味する語として、マレー語のbuaya(buwaya)、ジャワのwu(h)aya、他 woea woae waia等50以上の地域における実例をあげ、音韻上の考察と呼称の地理的な分布から、bと母音で始まる語よりvまたはwと母音で始まる語の方が古いと推定できる事、古代日本における「邇」の発音の推定をもって、語形の変遷の推定まで行い、日本語のワニの語源が、南方のワニを意味する語にあることを論証した。さらに、各地に棲息する動物、ワニが単数か多数かの比較を行い、ワニがいない地域でワニがサメに変化した例はあっても、その逆はないことも示した。ワニだった話が日本に入った後、本来のワニがわからなくなり、サメに置き換えられたものとしている。さらに、兎と鰐の説話がインドネシアの説話の類似するだけでなく、出雲風土記の話、豊玉姫伝説など多くの物語の類話が南方にある事も記し、出雲風土記の類話が南方に存在する事は、すでに天明期の『紅毛雑話』に示されているとの実例も挙げている。背中が鋭角をなしたサメより、平たいワニと解した方が合理的であるとし、後に西岡秀雄が、この点を高く評価している。ワニとしての記憶があったため、サメ説の学者の否定にも関わらず、ワニとする考え方が残ったことが、民間信仰の根強さを示しているとしている。

折口信夫が1942年文部省教学局『日本諸学講演集第4輯』[17]収録『古代日本文学における南方要素』において述べた事の一部抜粋[23]を示す。

何にせよ、古代人は「わに」という語及びそれ表す「わに」という動物を知っていたに違いない。ところで、「わに」という語を使っていた古代人の考えていた「わに」なる物は、現に我々の考えている「わに」と同じだったとしたら、我々の祖先は南方から来たに違いない。(略)ところが、やがて四十年も前になりましょうか。故喜田貞吉博士が、隠岐島へ行かれました。「わにを食べてきた」、こう言うことを申されました。それは鱶のことでした。だから、神代の巻に出て来る「わに」は、実は鱶なんだ、と言うようなことを申し出されて、皆な一時それに賛成しました。(略)しかし考えて見ると、一体何故、「わに」と言う語が、南方の鰐魚を意味してはいけないか、と言うことです。(略)動物園にあるからこそ見ることができるのだ。その位の考えでしょう。昔の人は見ることは出来まい。(略)しかしそれは非常に短気な話で、日本民族の持った非常に広い経験というものを軽蔑しているのです。日本民族は昔から知り難い多くの獣を知っていました。我々は獅子だとか、本とうの虎だとか、象、鰐、或は又、なかつがみ[24]こういう風に色々な動物を知っておりますけれども、その知っていた理由は私には唯一点説明できるだけです。(略)恐らくある点まで知っている人もあったのだろうと思います。とにかく自分達は今見ることも出来ないけれども、聞いてもおり或は古い経験を語るものによって知っていたというような恐ろしいものを、あちらこちらで、待ち迎えて、祭りのときに訪れて貰う。(略)さすれば、我々の祖先が、「わに」を知っていたのも、不思議はない。唯まれ人神として来る場合ではなく、因幡の白兎が向う岸へ渡る為に鰐を騙したとか、海祇の宮から神を送り還し申しあげた、「さひもちの神」なるわにの物語とか、出雲風土記に見えた語臣猪麻呂の、鰐を仇として討ったとか、この前後の二つの物語には、鰐の大群が来たことが語られているのです。(略)そういう風に、我々の祖先の一部が長く鰐と馴染を重ねて来ておったので、日本の国に来ても、忘却に委する訣にはいかなかったのでしょう。(略)何故ならば鰐の物語、「因幡の白兎」の類型とか、或は小さな狡猾な動物鰐の口にのって殺されに行こうとしたのが、今度はあちらこちらに、鰐を騙して逃げ乍ら悪口するという類型。これは南の方では、一つの話になっていることが多いようです。そう言う物語はどうも日本の国以前に、我々の祖先が持って居って、此処に来て更に育てたものではなかろうかと言う気が、誰にもする筈だと思います。(文頭略)我々の持った文化を蔑みしたりすることを、一つの態度とするような情けない者もあります。(以下略)

まれびとは、折口の学説の中核を成す概念である。

戦後、ワニ説は、日本人の文化や日本人自身の起源の一つが東南アジアにあるとする説と相補的な関係となりさらに発展した。

西岡秀雄の1947年『兎と鰐説話の伝播』[22]の一部の抜粋要約を示す。

喜田貞吉が、頭から古の学者が邦語のワニに誤って鰐の字を当てたとするのは、何の証拠もない独断に過ぎるのではないか。
津田左右吉は出雲風土記にワニとサメが別々に記してある点からワニはサメでないとし、ウミヘビとしているが、その後、追随する者はいないようである。
西岡は、現地調査を行った上で、安南、カンボジア、マレーほかの『兎と鰐』説話を詳細に紹介し、本来、ワニであるとし、次のように記した。「所変われば品変わる」で兎の方は、鼠鹿、猿、金狼(ジャッカル)と変わったものの鰐には変更がなく、僅かにミンダナオで鱶になり、日本では近年ワニザメ説が横行し危うく古事記の和邇まで鮫にされそうになったわけであるが、カムチャッカでは、遂に鯨に転向されてしまったわけである。
西岡は、兎と鰐の説話が古事記に組み込まれる過程についても論証し、広い視野に立って観察すれば、古事記の和邇は、決してサメでもウミヘビでも舟でも南方民族でもなく、鰐そのものと素直に考えるべきである、とした。
さらに、前掲の折口信夫の講演を引用、「国内起源(サメ説)論者には耳の痛い」、「白鳥・喜田両博士を中心としたワニザメ説を顔色なかしめるもの」とし、次のように結論づけている。
松本信廣・折口信夫両教授を中心とした南洋ワニ説が卓見であり、古事記の和邇はワニザメやフカを指したものではないことを再確認する者である。

森鴎外にも師事し、折口信夫の先輩で松岡静雄の実兄である柳田國男は、1961年『海上の道』において、『因幡の素兎』を引用、和邇についての問題提起を行い、同じ古事記のトヨタマヒメの出産場面を考えると、鮫とは納得しにくいとし、トヨタマヒメの話を引用、その仕草から鮫は連想しにくいが、ワニとすれば、自然に受け入れやすいとし、さらにハイヌウェレ型神話について記した。また、鰐は和邇氏の祖霊であるとした。祖霊は柳田の学説の中核を成す概念である。

黒沢幸三の1972年奈良大学紀要第1号[25]『ワニ氏の伝承氏名の由来をめぐって』の一部要約を示す。

古事記・日本書紀両方にあるトヨタマヒメの話にある和邇・鰐はサメでは説明できない。鰐に乗る話においては、舟かも知れないが、『因幡の白兎』を含めた他の話においては、動物である。記紀等にある動物の和邇・鰐はワニで、松本の考察により、和邇・鰐はワニということが、ほぼ論証されたと考える。
サビモチはサメの根拠にはならず、ワニに対する信仰から考えると動物のワニである。
ワニに対する信仰から、ワニ氏の氏名は動物のワニに由来すると想定される。日本に残るワニに関する地名は、ワニに対する信仰か、ワニ氏に由来するものである。

前述の次田潤の長男である次田真幸は、兎とワニの物語がインドネシア方面からもたらされたことは明らかとし[26]、東南アジアのイモ栽培起源[26]等、『古事記』への他の南方系神話の混入も示している。他の話については日本神話#研究参照。

後述する石破洋によれば、中西進は1985年『天つ神の世界』の中で、東南アジアの説話との違いとその理由について考察している。

石破洋は1993年『因幡の白兎説話考 A Study of Japanese Traditional Story of "Inaba no Shiro-usagi"』[27]において、『因幡の白兎』説話の成立過程に対する考察の中で、ウサギやワニを民族とする説を「けだし、珍説」とし、視覚的な考証として「因みに和邇をばワニザメと認定したものの、サメの背では滑り易いと気になってか、サメを交互に向きを変えて横に並ばせた」「児童書があって思わず苦笑させられる」と記し、サメ説のサメが実際のサメの特徴と合わないことを批判している。

小説家司馬遼太郎は『古事記』の山幸彦と海幸彦の章の豊玉姫の出産場面で豊玉姫が「八尋和邇(やひろわに)に化りて、匍匐(はらば)ひ委蛇(もこよ)ひき」とあり、「八尋鰐」が「匍匐」すなわち、はらばうのだから「和邇」はワニだとしている[28]

赤城毅彦は2007年『『古事記』『日本書紀』の解明 作成の動機と作成の方法』[29]において、中国南部のヨウスコウアリゲーターというワニだとする説を記し、古墳時代、倭の五王などは中国の南朝に使いを出した、これが『古事記』の「和邇」だとするには、稲作文化またはその担い手の人々が日本に来た時に中国南部のワニの話を持ってきて、書き手がそのワニを想起しながら古事記を書いたと考えられる、とした。

海外では、Chamberlian,Basil Hall(1919)が"The White Hare of Inaba"で和邇をcrocodileとしている。

未確認動物研究家實吉達郎イリエワニが日本に漂着する可能性を指摘しており、イリエワニは卵を温めるために葦で巣を作るため、産屋を作るエピソードとの類似性からワニ説の根拠とする。

ウミヘビ説[編集]

『古事記』の山幸彦と海幸彦の記述に、豊玉姫の出産場面で豊玉姫が「八尋和邇(やひろわに)に化りて、匍匐(はらば)ひ委蛇(もこよ)ひき」とある。津田左右吉は仏教におけるナーガ(水蛟、龍神)信仰を念頭において(すなわち、仏教伝来以後に仏教以前の信仰があるようにとして書いたものが記紀であるということをも示唆している)、『日本古典の研究』において「八尋鰐」と化した豊玉姫が「委蛇ひき」すなわち「蛇のごとくうねった」という日本語の描写の表現的な観点から、「鰐」はワニやサメのようなものよりももっと長くて細い、ウミヘビ状のものではないかと記述した。

その他[編集]

『万葉集註釈』巻第二の『壱岐国風土記』逸文[30]の鯨伏(いさふし)の郷の由来に、「昔者 鮐鰐追鯨 鯨走來隱伏 故云 鯨伏 鰐並鯨 並化為石 相去一里 昔者俗云鯨為 伊佐譯注 鮐 原為海魚 亦有年老之意 此以鮐鰐引作大鰐也[31]」とある。「昔、鮐鰐(わに)鯨(いさ)を追ひければ、鯨(いさ)走り来て隠(かく)り伏しき。故(ゆえ)に鯨伏(いさふし)と云ふ。鰐(わに)と鯨(いさ)と、並び石と化為(な)れり。相去ること一里(さと)なり。昔、俗に云う、鯨を伊佐(いさ)と為す。譚注 鮐は海魚を為し、また年老いるの意有り、これをもって鮐鰐は大鰐に引き作る」とあり、「鰐」がクジラを追う様子と考えられる。

医療について[編集]

この説話で「蒲黃」が薬草として登場するため、日本における薬の最初の史籍だとする見方もある[32]。なお、外傷や火傷に外用薬として用いる漢方薬でに、「ホオウ(蒲黄)」というヒメガマ(ガマ科)の成熟花粉を乾燥させて粉末状にしたものが存在する[33]。大国主神は、この説話及び『日本書紀』の少彦名命(すくなひこな)と共に病気の治療法を定めたとされるため、医療の神ともされ、様々な薬草を使用している。

世界の類話[編集]

島から戻る話
シベリア少数民族の民話に、アオサギによって孤島に運ばれてたキツネアザラシに頭数を数えると言って一列に並ばせ、背を渡って戻る場面がある。キツネは渡った先で猟師の獲物となり、毛皮をはがされる。[34]
袋を持った人間が動物を助け、あるいは動物に助けられる話
『古事記』において、倭建命が火に囲まれたときに叔母からもらった袋とネズミのおかげで難を逃れた話(草薙剣の話として知られる)、大国主が袋を背負ってやってきてウサギを助ける話(稲羽の白兎)を想起させる。
西アフリカのサバンナ地帯の口承民話。草原でワニが火に囲まれ、困っていると、通行人が、ワニを袋に入れて背に担ぎ、湖まで運んでやる。袋からワニを出すと、ワニは「腹が空いているからお前を食べる」という。人間は、「助けてやったのだから、食べないでくれ」と頼む。そこで、ワニは、湖に水を飲みに来たロバたちに意見をきく。ロバたちは、我々は人間を助けて乗り物となったり荷物を運んだりするが、感謝されたことはないと言う。動物たちに責められ、窮地に立った人間を、唯一、ウサギが助けてくれる。知恵者のウサギが、「この袋は小さすぎる。人間は、本当にこの袋にワニを入れてここまで運んできたのか。もう一度袋に入ってみてくれないか」とワニにいう。そこで、再びワニが袋に入ると、ワニは人間に撲殺され、食用とされることになった。ワニの入った袋を背負った人間が村に帰ると、子が病に伏せっていた。助けるにはワニの血とウサギの肉が要る。ちょうどワニはウサギの知恵のおかげで袋に入れて持ちかえっている。あとはウサギだが、助けてくれたウサギがいる[35]
ウサギの尻尾が短い理由を説明する話
アフリカの民話では、湖を迂回するのを億劫がったウサギが親類の数を誇るワニを挑発し、その自慢が本当か数えると騙して渡るが、ワニに尻尾を食いちぎられてしまい、そのために現在のウサギには尻尾がないと説明される。[36]ウサギの尻尾が短い理由を説明する話としては、中国の広西(瑶族)民間動物故事にも同じウサギとワニの話があるほか、漢族民間動物故事ではウサギとスッポンで語られる。

脚注[編集]

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  1. ^ 『古事記』の大穴牟遲、葦原色許男(ア)、八千矛(ヤチホコ)、宇都志國玉(ウツシクニタマ)は同じ大国主のこととされる。『日本書紀』では、さらに、大国玉、大物主と大国主は多くの別名を持つ。これは神徳の高さを現すとも、本来別々の神を統合したともされた。
  2. ^ (以上、「古事記」大國主神の文のうち「故、此大國主神之兄弟、八十神坐。然皆國者、避於大國主神。所以避者、其八十神、各有欲婚稻羽之八上比賣之心、共行稻羽時、於大穴牟遲神負帒、爲從者率往。於是到氣多之前時、裸菟伏也。爾八十神謂其菟云、汝將爲者、浴此海鹽、當風吹而、伏高山尾上。故、其菟從八十神之教而伏。爾其鹽隨乾、其身皮悉風見吹拆。故、痛苦泣伏者、最後之來大穴牟遲神、見其菟言、何由汝泣伏。菟答言、僕在淤岐嶋、雖欲度此地、無度因。故、欺海和邇(此二字以音、下效此)。言、吾與汝競、欲計族之多小。故、汝者隨其族在悉率來、自此嶋至于氣多前、皆列伏度。爾吾蹈其上、走乍讀度。於是知與吾族孰多。如此言者、見欺而列伏之時、吾蹈其上、讀度來、今將下地時、吾云、汝者我見欺言竟、卽伏最端和邇、捕我悉剥我衣服。因此泣患者、先行八十神之命以、誨告浴海鹽、當風伏。故、爲如教者、我身悉傷。於是大穴牟遲神、教告其菟、今急往此水門、以水洗汝身、卽取其水門之蒲黃、敷散而、輾轉其上者、汝身如本膚必差。故、爲如教、其身如本也。此稻羽之素菟者也。於今者謂菟神也。故、其菟白大穴牟遲神、此八十神者、必不得八上比賣。雖負帒、汝命獲之。於是八上比賣、答八十神言、吾者不聞汝等之言。」を現代語訳。田辺聖子全集 14 「田辺聖子の小倉百人一首/田辺聖子の古事記 」(集英社)を参考)
  3. ^ 戸部民夫『日本神話』 73頁。
  4. ^ 梅原猛『神々の流竄』
  5. ^ 「兔宮」(「兔」は「兎」の旧字)は「大兔明神」を祀るが、一度廃れた時期があるため由来は不明と記載。いくつかの再話民話集はこの『因幡民談記』による。
  6. ^ 天文元年(1532年)に成立とされる寺社縁起などを集めたもの。高草郡の郡名の由来の部分。
  7. ^ 因幡国風土記逸文とされるが、真贋は不明。「風土記逸文」〜山陰道”. 露草色の郷. 2009年12月6日閲覧。
  8. ^ 古事記伝
  9. ^ 武田祐吉『新訂古事記 付 現代語訳』角川日本古典文庫 43頁
  10. ^ 日本国語大辞典
  11. ^ 明治36年(1903年)の教科書での表記。
  12. ^ 鳥取県の青谷上寺地遺跡や兵庫県北部の袴狭遺跡ではシュモクザメを描いた絵が多く発見されている。
  13. ^ 『日本書紀』を原文で読む”. 日本書紀. pp. 第2巻. 2010年6月10日閲覧。
  14. ^ 古代史獺祭 日本書紀 巻第二 神代下 第十段 一書第四
  15. ^ 八尋は「とても広くて大きい」の意。
  16. ^ 倭名類聚抄 鱗介部第三十 竜魚類第二百三十六”. 倭名類聚抄. 2010年7月15日閲覧。
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m 国立国会図書館蔵
  18. ^ ダにある2種類の異字のうち、魚偏でなく鼈に似た字の方。ヨウスコウアリゲーターを示す漢字ダについては、ヨウスコウアリゲーター中国語版参照。
  19. ^ 津田左右吉の引用
  20. ^ 原文ママ
  21. ^ Toyotamaphimeiaの学名も提唱されているマチカネワニの発見は1964年
  22. ^ a b サイニーまたは慶応大学リポジトリで検索、閲覧可能
  23. ^ かな、漢字は現代式に改め、特に示してない限り各文は途中で切らずに文ごと抜粋して示す。文を略した所は(略)と記す。
  24. ^ ヒョウ
  25. ^ 奈良大学リポジトリより選択
  26. ^ a b 講談社学術文庫古事記(中)全訳注
  27. ^ サイニーより検索閲覧可能
  28. ^ 『街道をゆく 27 因幡・伯耆のみち、檮原街道』
  29. ^ 2014年1月現在インターネットでの検索により閲覧可能
  30. ^ 國土としての始原史:「風土記逸文」〜西海道
  31. ^ 風土逸文 九州甲類風土記(仁和寺本『萬葉集註釋』卷第2 2‧131番歌條)
  32. ^ 富士川游「史談-日本医史:大穴牟遲神」『中外医事新報』1915年、835号、p47
  33. ^ 社団法人富山県薬剤師会 薬剤師会広報誌「富薬(とみやく)」 No.217 より
  34. ^ 稲田浩二『世界昔話ハンドブック』 三省堂 ISBN 978-4385410494
  35. ^ コートジボワールの民俗学者アマドゥー・ハンパテ・バの『Il n’y a pas de petite querelle』(未邦訳)収録の「人とワニ」による。なお、ウサギは人間の話をこっそり聞き、逃げ出していた。
  36. ^ 『子どもに語る世界昔ばなし』生活シリーズ 主婦と生活社 ISBN 4-391-61111-2