堀河天皇
| 堀河天皇 | |
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| 第73代天皇 | |
| 元号 | 応徳 寛治 嘉保 永長 承徳 康和 長治 嘉承 |
| 先代 | 白河天皇 |
| 次代 | 鳥羽天皇 |
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| 誕生 | 1079年8月8日 |
| 崩御 | 1107年8月9日 |
| 陵所 | 後円教寺御陵 |
| 御名 | 善仁 |
| 父親 | 白河天皇 |
| 母親 | 藤原賢子 |
| 中宮 | 篤子内親王 |
| 女御 | 藤原苡子 |
| 子女 | 鳥羽天皇 悰子内親王 寛暁 最雲法親王 喜子内親王 懐子内親王 |
堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年1月5日) - 嘉承2年7月19日(1107年8月9日))。諱は善仁(たるひと)。
目次 |
[編集] 系譜
白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子。准母に同母姉媞子内親王(郁芳門院)。
[編集] 系図
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(71)後三条天皇 |
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(72)白河天皇 |
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(73)堀河天皇 |
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(74)鳥羽天皇 |
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(75)崇徳天皇 |
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重仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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覚行法親王 |
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最雲法親王 |
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(77)後白河天皇 |
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実仁親王 |
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覚法法親王 |
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(76)近衛天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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媞子内親王 (郁芳門院) |
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輔仁親王 |
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(源)有仁 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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篤子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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[編集] 略歴
応徳3年(1086年)11月26日、立太子と同日に8歳で父白河天皇から譲位され即位した。このような短期間での立太子・即位は、異母弟の輔仁親王に皇統が移ることを避けるための白河天皇の強い意向によるものであったとされる。
即位に伴い、義理の外祖父にあたる関白藤原師実が摂政となるが、上皇となった白河院が院政を敷き、全権を掌握した。もっとも、天皇が成人して関白も藤原師通に代わると両者が協力して政務を行ったために、上皇の政治的権限が抑制された時期もあった(『後二条師通記』・『中右記』)[1]。だが、承徳3年(1099年)に師通が死去すると、摂関家の内紛に乗じて白河院が再び政務に関与するようになっていった。 「末代の賢王」(『続古事談』)と評される賢帝であり、当初は朝政にも熱心に取り組み、「天が下治まりて、民安く世のどかなり」(『発心集』)といわれた。しかしながら、白河院の政務への関与が強まると、堀河天皇の興味は音楽・和歌という趣味の世界に移っていった[2]。
堀河天皇は女御藤原苡子(贈皇太后)との間に生まれた皇子宗仁親王(鳥羽天皇)を皇太子としたが、苡子が没すると宗仁親王は白河院に引き取られ、院の下で養育された。叔母にあたる中宮篤子内親王の薫陶を受け、学問と和歌、管弦に才能を発揮して廷臣らに慕われたが病弱で、帝位にあるまま29歳で亡くなった。なお、臨終の様子は乳母子である典侍藤原長子の『讃岐典侍日記』に詳しい。ちなみに、マラリアに罹患していたとする説が、明治34年頃には、存在した。
[編集] 人物
性格は上品・優雅であり、誠実な人柄で宮廷社会でも人望を集めたとされる。
音楽、とりわけ管弦を愛好し、夜の御殿の壁に笛の譜を貼って覚えるほどの熱心さであり、その腕前も優れていた[3]。笛の師は源政長であった。
和歌にも優れ、康和4年(1102年)には歌人たちに恋の歌を詠ませた「堀河院艶書合」を開催、また当時評判の歌人14人[4]に100首の和歌を詠ませた、初の組題百首である「堀河百首」を奏覧している。『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に9首が入集。
[編集] 后妃・皇子女
- 中宮:篤子内親王(1060-1114) - 後三条天皇第四皇女
- 女御(贈皇太后):藤原苡子(1076-1103) - 藤原実季女
- 宗仁親王(鳥羽天皇)(1103-1156)
- 典侍:仁子女王(?-1126) - 康資王女
- 典侍:藤原宗子(?-1129) - 藤原隆宗女、後に藤原家保妻
- 藤原時経女
- 生母未詳
[編集] 在位中の元号
- 応徳 (1086年11月26日)- 1087年4月7日
- 寛治 1087年4月7日- 1094年12月25日
- 嘉保 1094年11月25日- 1096年12月27日
- 永長 1096年12月27日- 1097年11月21日
- 承徳 1097年11月21日- 1099年8月28日
- 康和 1099年8月28日- 1104年2月10日
- 長治 1104年2月10日- 1106年4月9日
- 嘉承 1106年4月9日- (1107年8月9日)
[編集] 陵墓
京都市右京区竜安寺の後円教寺御陵(のちのえんきょうじのみささぎ)に葬られる。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 都築甚之助、大町文興著『我邦ニ於ケル麻刺里亜蚊伝搬ノ証明』英蘭堂書店。1901年(明治34年)10月29日発行(2008年1月24日現在、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で閲覧可能)
[編集] 外部リンク
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