藤原実成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 実成
時代 平安時代中期
生誕 天延3年(975年
死没 寛徳元年12月22日1045年1月12日
官位 正二位中納言大宰権帥
主君 一条天皇三条天皇後一条天皇後朱雀天皇
氏族 藤原北家閑院流
父母 父:藤原公季、母:有明親王の娘
兄弟 義子実成如源親賢信覚
藤原陳政の娘
公成祉子源顕基
テンプレートを表示

藤原 実成(ふじわら の さねなり)は、平安時代中期の公卿藤原北家閑院流太政大臣藤原公季の長男。正二位中納言大宰権帥

経歴[編集]

一条朝初頭の永延2年(988年従五位下叙爵すると、翌永延3年(989年)従五位上・侍従、永祚2年(990年右兵衛佐に叙任される。しかし、正暦2年(991年少納言長徳元年(995年従四位下兵部大輔と近衛少将を経ずに官途を進めた。

長徳2年(996年)の長徳の変を通じて権力の座についた左大臣藤原道長のもとで、長徳3年(997年)父の藤原公季内大臣に就任すると、実成も長徳4年(998年)に右近衛中将に任ぜられ、長保3年(1001年)従四位上次いで正四位下、長保6年(1004年蔵人頭(頭中将)と昇進し、寛弘5年(1008年従三位参議に叙任されて公卿に列した。

議政官として、中宮藤原彰子中宮権亮左兵衛督検非違使別当)を務め、この間の長和2年(1013年正三位に昇叙されている。長和4年(1015年)父・公季の左近衛大将辞任の替わりに権中納言に昇進し、その後後一条朝寛仁2年(1018年従二位治安3年(1023年)中納言に叙任され、万寿元年(1024年正二位に至る。

長元6年(1033年大宰権帥を兼任する。しかし、長元9年(1036年)実成の郎等であった源致親が大宰府天満宮を支配していた安楽寺の雑物を盗んだことが原因で、安楽寺から訴えられてしまい、長暦2年(1038年)中納言兼大宰権帥を解任されて、除名された。なお、此の紛争の原因となった源致親は隠岐への流罪に処せられた[1]。長暦4年(1040年)本位の正二位に復している。

後冷泉朝初頭の寛徳元年(1045年)12月22日に出家薨去享年71。

人物[編集]

人相を見るに見識があり、藤原道長三男の顕信が自身の娘との結婚を望んでいることを知ると、顕信に出家の相が出ているとしてこれを断った(娘は顕信の弟能信と結婚)。果たして顕信は後に出家したので、その人を見る目の確かさを『大鏡』の中で賞賛されている。

官歴[編集]

公卿補任』による。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 百錬抄』『扶桑略記
  2. ^ 『権記』
  3. ^ a b 『近衛府補任』
  4. ^ 『小右記』万寿2年12月1日条

参考文献[編集]