豊城入彦命
| 豊城入彦命 | |
|---|---|
| 続柄 | 第10代崇神天皇第1皇子 |
| 子女 | 八綱田[1] |
| 父親 | 崇神天皇 |
| 母親 | 遠津年魚眼眼妙媛 |
豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族。豊城命、豊木入日子命とも。崇神天皇の第1皇子。母は荒河戸畔の娘・遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)。垂仁天皇の異母兄、豊鍬入姫命の同母兄。東国の治定にあたったとされ、記紀には上毛野君や下毛野君の始祖とある。
目次 |
伝記[編集]
『日本書紀』によると、崇神天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目尊(いくめのみこと、後の垂仁天皇)に勅して、共に慈愛のある子でありどちらを後継者とするか決めがたいため、それぞれの見る夢で判断すると伝えた(夢占)。豊城命は「御諸山(みもろやま)に登り、東に向かって槍(ほこ)や刀を振り回す夢を見た」と答え、活目尊は「御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。その結果、弟の活目尊は領土の確保と農耕の振興を考えているとして位を継がせることとし、豊城命は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣された(崇神天皇48年正月戊子(10日)条)。
豊城命の説話は、四道将軍の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。
陵墓・霊廟[編集]
陵墓の所在は不明。
群馬県前橋市の総社二子山古墳には、1870年(明治3年)まで陵墓参考地として墓丁が置かれていたという。しかし調査により古墳は6世紀末の築造とされ誤りとされた。また、同市の大室古墳群とする説もある。茨城県石岡市には同市の丸山古墳がそうであるとの伝承が残っている。
後裔[編集]
人物[編集]
『日本書紀』・『新撰姓氏録』・『先代旧事本紀』に記載された、豊城入彦命の子孫伝承を有する人物[2]。
- 子 - 八綱田[1]
- 孫 - 彦狭島王[3]
- 三世孫 - 御諸別王[4]
- 四世孫 - 荒田別[5]、鹿我別(巫別)[6][7]
- 五世孫 - 竹葉瀬(多奇波世、竹合)[8]、田道[9]、現古[10]
- 六世孫 - 奈良別[11]、真若(賀表乃真稚命)[12]
- 八世孫 - 射狭君[13]
- 十世孫 - 佐太公[14]
氏族[編集]
上毛野朝臣、下毛野朝臣、佐味朝臣、大野朝臣、池田朝臣、住江朝臣、池原朝臣、車持公、垂水公、田辺史、佐自努公、佐代公、珍県主、登美首、茨木造、大網公、桑原公、川合公、垂水史、商長首、吉弥候部、広来津公、止美連、村挙首、下養公、韓矢田部造など諸氏族の祖と伝えられる。
豊城入彦命を祀る神社[編集]
など
脚注[編集]
- ^ a b 『新撰姓氏録』皇別 和泉国 登美首条等。
- ^ 熊倉浩靖『古代東国の王者 上毛野氏の研究』(雄山閣、2008年改訂増補版)第六章 始祖四代の伝承節を参考にして作成。
- ^ 『日本書紀』景行天皇55年2月条。
- ^ 『日本書紀』景行天皇56年8月条に「彦狭島王の子」と記載。『新撰姓氏録』皇別 和泉国 珍県主条等に「三世孫」と記載。
- ^ 『新撰姓氏録』皇別 右京 大野朝臣条等。
- ^ 『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)浮田国造条。
- ^ 鹿我別と巫別は同一人物とされる(『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館、2010年普及版)鹿我別項)。
- ^ 『新撰姓氏録』皇別 左京 住吉朝臣条等。
- ^ 『日本書紀』仁徳天皇53年5月条に「竹葉瀬の弟」と記載。
- ^ 『新撰姓氏録』皇別 摂津国 韓矢田部造条に「三世孫・御諸別王の孫」と記載。
- ^ 『新撰姓氏録』皇別 左京 大網公条等。ただし『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)下毛野国造条は四世孫とする。
- ^ 『新撰姓氏録』皇別 左京 吉弥侯部条。ただし『新撰姓氏録』皇別 右京 垂水公条は四世孫とする。
- ^ 『新撰姓氏録』皇別 左京 車持公条。
- ^ 『新撰姓氏録』皇別 左京 池田朝臣。
参考文献[編集]
- 『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館、2010年普及版)豊城入彦命項