富田メモ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

富田メモ(とみたメモ)は、昭和天皇の側近で宮内庁長官だった富田朝彦がつけていたメモ(手帳14冊・日記帳13冊・計27冊)のうち、特に昭和天皇靖国神社参拝に関する発言を記述したと報道された部分を指す。昭和天皇が第二次世界大戦A級戦犯の靖国神社への合祀に強い不快感を示したとされる内容が注目された。

目次

[編集] 内容

公開された富田メモの一部は以下の通りである。靖国神社についての発言は1988年4月28日(昭和天皇の誕生日の前日)のメモにあった。一連のメモは4枚あったとされ、そのうちの4枚目にあたる。

前にもあったが どうしたのだろう
中曽根の靖国参拝もあったが
藤尾(文相)の発言。
=奥野は藤尾と違うと思うがバランス感覚の事と思う、単純な復古ではないとも。

私は或る時に、A級が合祀され
その上 松岡、白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない
それが私の心だ

※「易々と」の左側の位置から「そうですがが多い」「全く関係者も知らず」の2行が縦書きで書かれている。

メモは、「私は或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記している。松岡は日独伊三国同盟を締結し、A級戦犯で合祀されている元外務大臣の松岡洋右、白取はこれもA級戦犯で合祀されている元駐イタリア大使の白鳥敏夫、筑波は1966年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら合祀しなかった靖国神社宮司の筑波藤麿とみられる。昭和天皇は、筑波宮司がA級戦犯合祀に慎重であったのに対し、筑波が退任後、A級戦犯が合祀されたことに懸念を表明し、その中でも松岡洋右と白鳥敏夫までもが合祀されたことに強い不快感を表明した。

メモは、さらに「松平の子の今の宮司がどう考えたのか」「松平は平和に強い考があったと思うのに」と記している。「松平」は終戦直後の最後の宮内相の松平慶民。「松平の子」は、長男で1978年にA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司・松平永芳とみられる。「親の心子知らずと思っている」とは、松平慶民は合祀に慎重であったのに、その子供である松平永芳が、「易々と」合祀してしまったことに対して昭和天皇は強い不快感を表明した。末尾には「だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と記述されている。

当初報道されたのは「私は或る時に~」以下の後半13行である。

[編集] 経緯

[編集] メモの記録

1988年当時の宮内庁長官・富田朝彦は、宮内庁次長(1974年-1978年)と宮内庁長官(1978年-1988年)を務めた時期に、昭和天皇の側近として、天皇と会話した内容や天皇自身の発言を几帳面にメモとして記録していた。2003年に富田が亡くなった後も、メモは遺族によって大切に保存され、2006年一部が公開された。

[編集] 日本経済新聞の報道

日本経済新聞社は2006年5月[1]にメモを遺族から入手し、日本史研究家である秦郁彦半藤一利の両人に分析を依頼した。『日本経済新聞』2006年7月20日朝刊第一面トップで「昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感」という見出しでメモの内容を報じるとともにメモの写真の一部を公開した。その中で、昭和天皇が第二次世界大戦のA級戦犯の靖国神社への合祀に強い不快感を示したという内容が注目された。各報道機関・番組も、この記事を大きく報道した。


また、同報道では、長男の証言による筑波藤麿の言葉を紹介している。

B、C級戦犯は被害者なのでまつるが、A級は戦争責任者なので後回しだ。自分が生きてるうちは合祀はないだろう。

また、長男は「父からは天皇の気持ちについては聞いたことはない。」とも語っていたと報じた。(「後回し」の理由については「宮内庁の関係だ」と筑波がはっきりと言ったと元靖国神社広報課長の馬場久夫は証言している。馬場は「当時は何のことだか分からなかったが、『天皇のお気持ち』の意味だと考えると、なるほどと思う」とも話している。『日本経済新聞』2007年5月1日)

この報道は2006年度の日本新聞協会新聞協会賞(編集部門)に選ばれた。受賞者は記者の井上亮。

[編集] 影響

昭和天皇が1975年11月21日以降靖国神社に参拝しなくなった原因として、以前から推測されていたA級戦犯合祀が問題だったという説を裏付けるものだとして、テレビ・新聞などは大々的に報じた。

当時、小泉純一郎首相は任期の末年を迎え、「8月15日に靖国参拝する」という公約を過去三年間果たしておらずその動向が注目されており、終戦記念日8月15日靖国神社に参拝するべきかどうかで議論が盛んであった。小泉は記者会見で自らの靖国参拝への影響を否定し、後日8月15日日中に報道各社が中継する中、靖国参拝を行った。各種世論調査では参拝支持が過半数となり、不支持を上回った。

記事掲載の翌日7月21日(時間不詳)、日本経済新聞東京本社社屋に火炎瓶が投げ込まれた。2007年4月18日、警視庁公安部は被疑者として自称右翼活動家の男(当時42歳)が逮捕された。捜査機関に対して「日経新聞は、自分が神様とあがめる昭和天皇を靖国神社問題の世論操作に利用した。これを警告しようとした」などと容疑を認めた。

[編集] 富田メモ研究委員会による最終報告

富田メモ(日記・手帳)について、日本経済新聞社は社外有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」を設置した。委員は次のとおり。

同委員会は2006年10月から、計11回の会合を重ねメモ全体を検証し、2007年4月30日に最終報告をまとめた[1][2](以下、「」内は同記事よりの引用)。それによると、「これまで比較的多く日記などが公表されてきた侍従とは立場が異なる宮内庁トップの数少ない記録で、昭和史研究の貴重な史料だ」と評価。 ただしメモは公開されておらず、密室での内輪の関係者のみによる検証で、公正さに欠けるとの批判がある。

最終的に富田メモは、富田家が公的機関への寄託などを検討している。

[編集] 関連報道

朝日新聞』2001年8月15日朝刊では、A級戦犯合祀を契機に昭和天皇の参拝が途絶えたとする以下の報道がなされた。

  • 昭和天皇元側近らが「陛下は、合祀を聞いた時点で参拝をやめるご意向を示めされていた」と証言した。
  • 1986年終戦記念日に昭和天皇が詠んだ歌「この年の この日もまた 靖国の みやしろのことに うれいはふかし」へ挙がった解釈「陛下が首相(中曽根康弘)の参拝断念を憂慮された」に対し、元侍従長の徳川義寛が「都合のいい解釈をしている」と憤っていた。
  • 今上天皇1996年栃木県護国神社に参拝した際、宮内庁がA級戦犯合祀が無いことを事前に問い合わせし確認していた。

東京新聞』2006年7月21日朝刊は、以下のことを報じた。

  • 昭和天皇・今上天皇が春秋の例大祭に欠かさず勅使を派遣するなど靖国重視の姿勢を示し続けていること
  • 高松宮三笠宮の両親王が(A級戦犯の)合祀後も靖国参拝を続けたこと
  • 政府筋の「手帳のあのページ(いわゆる富田メモ該当部分)だけ紙が貼り付けてあるという。メモ(の実物)を宮内庁で見た人はいない。本当に昭和天皇が言ったかどうか分からない」との指摘を報じた。

週刊新潮』2006年8月10日号は、徳川義寛の長男・義眞の談話を掲載。天皇の発言であるとの報道への疑問を提示した。徳川義眞の談話「新聞でメモを見た時は、父の言っていたのと同じだなあ、と思いました。父は、家では役所の話をあまりしませんでしたがね」

文芸春秋』2006年9月号で、保阪正康は以下の点を日本経済新聞の報道に対し示されている疑問を紹介している。

  • TVで報道された際は裏返しであった富田メモの3枚目を反転して読むと、これが天皇の発言とするのに矛盾が生じる。
  • 天皇が自身の参拝を「参拝」と言っているのはおかしい(「参拝」とは言わず「親拝」と言っていたはずだ)。
  • 現在この手帳は遺族が保管し公開されていないため、残り3枚も含めて厳密な資料批判が行えない。
  • (なお、秦・半藤は、メモは真実であると再反論している。さらにこの懐疑的な意見を紹介していた保阪は、研究委員のメンバーとして参加し、富田メモが事実であると結論付けている。『日本経済新聞』2007年5月1日)

産経新聞』2006年8月7日朝刊は、以下のことを報じた。

  • 合祀基準が靖国神社とほぼ等しい護国神社への昭和天皇の参拝が、合祀直前の1978年5月を最後に途絶えていたこと、および、これまで最後の靖国神社参拝と合祀に3年の開きがあるため、参拝取止と合祀とは無関係との見方があったが、これでA級戦犯合祀が靖国神社参拝取止の明確な分岐点であったことが分かった。
  • 今上天皇が1993年に参拝した埼玉県護国神社にA級戦犯が合祀されていない。

朝日新聞』2007年4月26日朝刊で、翌4月27日には読売新聞毎日新聞・日本経済新聞主要各紙は朝刊で、皇室の広報を担当した元侍従卜部亮吾日記が公開されたと報じた上で「A級戦犯合祀が直接の原因で天皇は靖国神社参拝を取りやめたという富田メモの事実が、あらためて確認された」と報じた。各紙は、卜部亮吾侍従日記のうち次の部分を紹介している。

  • 1988年4月28日の日記には「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」との記述があった。
  • 2001年7月31日の日記には「靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」との記述があった。
  • 2001年8月15日の日記には「靖国合祀以来天皇陛下参拝取止めの記事 合祀を受け入れた松平永芳(宮司)は大馬鹿」との記述があった。

朝日新聞』2007年8月4日朝刊は、昭和天皇がA級戦犯合祀についての深く懸念を側近に語っていたことを示す新たな資料を報道した。記事の内容は、靖国神社へのA級戦犯合祀について、昭和天皇が「戦死者の霊を鎮める社であるのに、その性格が変わる」などと憂えていたと昭和天皇の侍従長だった徳川義寛が語っていたことがわかった。歌人で皇室の和歌の相談役を務めてきた岡野弘彦が、徳川の証言として、昨年末に出版した著書で明らかにしていた。著書は『四季の歌』(同朋舎メディアプラン)。

同書によると、1986年秋ごろ、徳川が、岡野を訪れた。3-4カ月に1度、昭和天皇の歌が30-40首たまったところで相談するため会う習慣になっていた。その中に、靖国神社について触れた「この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし」という1首があった。岡野が「うれひ」の理由が歌の表現だけでは十分に伝わらないと指摘すると、徳川は「ことはA級戦犯の合祀に関することなのです」と述べたうえで「お上はそのことに反対の考えを持っていられました。その理由は二つある」と語り、「一つは(靖国神社は)国のために戦にのぞんで戦死した人々のみ霊を鎮める社であるのに、そのご祭神の性格が変わるとお思いになっていること」と説明。さらに「もう一つは、あの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになるとのお考えなのです」と述べたという。さらに徳川元侍従長は「それをあまりはっきりとお歌いになっては、差し支えがあるので、少し婉曲にしていただいたのです」と述べたという。

[編集] 論評

[編集] 懐疑的な意見・否定論

  • 大原康男國學院大學神道文化学部教授は、「メモが事実であったとしても昭和天皇がA級戦犯の合祀そのものに不快感を示していたとは言えない」と指摘した。
  • 憲法学者の百地章日本大学教授)は、「公の発言ではなく非公式のメモをA級戦犯分祀論に結びつけるのは、天皇の政治利用になりかねない」と、この報道以降取り沙汰されたA級戦犯分祀論に対し懸念を示した。
  • 作家の上坂冬子は、「昭和天皇の意思明確にと新聞に書かれていたが、これは早とちり」「大騒ぎするほどの内容のメモではない」という趣旨で、一連の騒動への見解を示した[2]
  • 解剖学者の養老孟司は、「天皇の中立性を侵した日経こそ問題である」と富田メモ報道を批判した[2]
  • ジャーナリストの櫻井よしこは、「メモの内容には天皇の真意が反映されているかどうか不明」とメモの解釈に懐疑的な意見を述べた[2]
  • 政府筋から、「手帳のあのページ(いわゆる富田メモ該当部分)だけ紙が貼り付けてあるという。メモ(の実物)を宮内庁で見た人はいない。本当に昭和天皇が言ったかどうか分からない」という問題点が指摘されている[要出典]
  • 人間環境大学非常勤講師(教育学)の若狭和朋は、富田メモは、徳川侍従長の退職(1988年4月12日)を受けての記者会見(同年4月28日)のもので、昭和天皇の言葉を記したものではない、としている[3]
  • 公開を前提としていない皇族の私的な話しを洩らす行為は、職務上知り得た秘密を守るべき公務員の守秘義務(国家公務員法第100条第1項[4])違反に当たるのではないかとの批判がある。[要出典]

[編集] 肯定論

日記の信憑性にたいしては、当時、メモを分析した秦・半藤は、ただちに同紙上で、メモの記述は、過去の歴史的資料と整合しており、間違いなく事実であると反論した。日記の全てを公開しない理由については、昭和天皇の極めてプライベートな発言が多数記述されているためとしている。

また、日記の価値については、『共同通信』2007年4月27日、2007年4月29日の『報道2001』ほかにおいて、秦郁彦は、『卜部亮吾侍従日記』の公開をうけ、これでいわゆる富田メモの解釈「昭和天皇が靖国神社参拝を行わなくなったのはA級戦犯の合祀が原因」が「事実であることが裏付けられた」と述べている。

2007年4月27日、日経BP「メディア ソシオ-ポリティクス」で立花隆は、第105回「A級戦犯合祀が御意に召さず卜部侍従日記が明かした真実」と題した論評で、『卜部亮吾侍従日記』は、富田メモを裏付ける決定的な資料であると述べている。

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 入手時期については『AERA』が「2005年9月」と報じたが、誤報と判明し訂正を出した。日経は富田メモを入手したのは「2006年5月」としている。
  2. ^ a b c 『週刊文春』2006年8月3日号。
  3. ^ 『続 日本人が知ってはならない歴史』 朱鳥社。
  4. ^ 【国家公務員法 第100条第1項】「職員は、職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後といえども同様とする。」

[編集] 参考文献

  • 『文藝春秋』2006年9月号
  • 『日本経済新聞』2007年5月1日朝刊

[編集] 関連項目