池田厚子
| 順宮厚子内親王 | |
|---|---|
| 続柄 | 昭和天皇第四皇女(今上天皇姉) |
| 称号 | 順宮(よりのみや) |
| 身位 | 内親王 →降嫁 |
| 敬称 | 殿下 →降嫁 |
| お印 | 菊桜[1] |
| 出生 | 1931年3月7日(82歳) |
| 配偶者 | 池田隆政 |
| 父親 | 昭和天皇 |
| 母親 | 香淳皇后 |
| 役職 | 神宮祭主 |
池田 厚子(いけだ あつこ、1931年(昭和6年)3月7日 - )は、日本の元皇族。昭和天皇と香淳皇后の第四皇女。旧名、順宮 厚子内親王(よりのみや あつこないしんのう)。池田隆政夫人。今上天皇・常陸宮正仁親王の姉にあたる。伊勢神宮神職である神宮祭主。勲等は勲一等。
目次 |
略歴 [編集]
1936年(昭和11年)より、両親の元を離れ呉竹寮で姉妹と共に養育される。学習院初等科・女子学習院(在学中に新学制により学習院女子中等科・学習院女子高等科となる)を経て、学習院女子短期大学文科に入学。2年次に家庭生活科に転科し、同科を卒業。
1951年(昭和26年)5月2日、中国四国地方を訪問した際に岡山市の後楽園荒手茶寮にて池田隆政と面会。その後、6月末に正式に見合いの場が設けられて婚約が内定。仲人にあたったのは松平康昌。
同年5月17日に貞明皇后が崩御してから2ヶ月足らずの時期であったが、昭和天皇は、第1期の服喪期間の50日間が過ぎた7月10日、田島道治・宮内庁長官に命じて順宮厚子内親王と隆政との婚約が内定した旨を公式に発表させた。なお、1947年(昭和22年)に廃止された皇室服喪令をその後も踏襲しているとすれば、祖母である貞明皇后に対する厚子内親王の服喪期間は150日であった(最長は昭和天皇などで1年間となる)。服喪期間中に、さらには皇族会議も経ず、昭和天皇自らの裁可による婚約発表は異例であった。
皇族全員の喪が明けた1952年(昭和27年)10月10日に隆政との結婚により皇籍離脱した。元華族とはいえ内親王の結婚相手が、首都から遠く離れた岡山県、しかも農場主というのは極めて異例なことであった。1953年(昭和28年)2月に有限会社池田産業動植物園を経て、1960年(昭和35年)5月には株式会社池田動物園となり、隆政は園長に就任している。
しかし1965年(昭和40年)前後に敗血症を患い、岡山大学医学部附属病院に長期入院。すでに長姉の東久邇成子が癌で死去しており、身を案じた昭和天皇、香淳皇后は頻繁に岡山へ見舞いのため行幸啓した。
1964年(昭和39年)4月29日には勲一等宝冠章受章。日本赤十字社岡山県支部有功会名誉会長などを務める。
姉の鷹司和子の後を受けて1988年(昭和63年)より神宮祭主を務めている[2]。
性格は派手で有名な妹の島津貴子とは対照的に地味で何事も目立つことを避け、相手から話かけない限りしゃべらないなど物静かな婦人と言われている。
その他 [編集]
- 夫の隆政は備前国岡山藩主の家系で、隆政の父宣政は元侯爵。
- 2006年(平成18年)9月6日、秋篠宮妃紀子が悠仁親王を出産した際、夫隆政と連名で「無事にお子様を出産され、大変嬉しく、ホッとしております。おめでとうございます。お子様が健やかに成長されますことを心よりお祈りいたしております」と祝意を述べた。
著書 [編集]
系譜 [編集]
| 厚子内親王 | 父: 昭和天皇 |
祖父: 大正天皇 |
曾祖父: 明治天皇 |
| 曾祖母: 柳原愛子 |
|||
| 祖母: 貞明皇后 |
曾祖父: 九条道孝 |
||
| 曾祖母: 野間幾子 |
|||
| 母: 香淳皇后 |
祖父: 邦彦王(久邇宮) |
曾祖父: 朝彦親王(久邇宮) |
|
| 曾祖母: 泉萬喜子 |
|||
| 祖母: 俔子 |
曾祖父: 島津忠義 |
||
| 曾祖母: 山崎寿満子 |