大内延介

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大内 延介(おおうち のぶゆき、1941年10月2日 - )は、将棋棋士。2010年、引退。土居市太郎名誉名人門下。棋士番号は86。東京都港区出身。中央大学卒業。

目次

[編集] 棋歴

小学4年生のとき、将棋道場で二枚落ちで3連敗し、それがきっかけで将棋にのめりこむ。小学6年生の頃には、将棋の駒の名産地として知られる山形県天童市にて、1ヶ月間、将棋修行をする[1]

1954年、土居市太郎名誉名人の最後の弟子として入門。1963年4月1日の四段昇段(プロ入り)は、米長邦雄と同期である。

1963年のプロデビュー直後、初参加の順位戦から2期連続昇級。

1967年、第8期王位戦にて大山康晴への挑戦権を得、タイトル戦初登場。六段の挑戦者は史上初。しかし、七番勝負は1勝4敗で敗退した。

穴熊戦法を駆使し、1975年には第34期名人戦中原誠に挑戦するまでに至った。二人は対比的に、“中原は王道、大内は覇道”と表現された。この名人戦で大内は中原と互角に戦い、3勝3敗でフルセットとなる(このほか千日手も1局あった)。迎えた最終第7局は1日目の封じ手の時点で大内が大優勢となった。しかし、勝利目前でミス(手順前後)をして勝ちを逃し、持将棋に持ち込まれてしまった。これについては、後に大内自身が、「対局室の近くにビアガーデンがあり、そこから聞こえる酔った人の話し声と将棋の読みとの‘葛藤’があり、後で指すべき手を先に指してしまった」と語っている[2]。そして指し直しの第8局で敗れ、名人を獲得することができなかった。

第1期棋王戦(1975年度)で、内藤國雄高島弘光との三者リーグを制し、初代棋王の座に着く。第1局(内藤-大内)はハワイで行われ、将棋の公式戦では初の海外対局となった。

第68期(2009年度)順位戦でC級2組からの降級が決定。しかし、60歳以上であるためフリークラスに編入できず、以降、最終対局(各棋戦で不戦敗が生じないところ)まで指したところで引退することが決まった。タイトル経験者のこうした形での引退は、同年の有吉道夫のケースとともに初である。そして、勝っても負けても引退日となる2010年4月20日竜王戦5組残留決定戦で石田和雄を破って6組に降級させ、自身は6組降級(の成績)の汚点を棋士人生に残すことなく、勝負師として最後の華を飾った。

[編集] 人物

  • かつてプロ将棋界で評価されなかった穴熊囲いを戦法に取り入れ、実用化に努めた。「穴熊党総裁」との呼び名がある[3]
  • 将棋のルーツについての研究家でもあり、著書に「将棋の来た道」がある。
  • 江戸っ子気質の持ち主として知られ、それを物語るエピソードに事欠かない。
  • 加藤一二三に対局時の癖(空咳をする、相手の後ろに回り込んで将棋盤を見るなど)の改善を求め、将棋連盟理事会に申し入れをしたことがある。「気にしては損だとわかってはいるんだけど、気になるのだからしようがない」と語ったこともある[4]。自身のタイトル防衛がかかった第2期棋王戦は、加藤に0-3で敗れた。
  • 1984年、第42期順位戦10回戦・関西将棋会館での小林健二との対局で、対局場を東京の将棋会館と勘違いして不戦敗となった。この期は結局この一敗が響いて、B級1組から降級してしまった。
  • 1991年の竜王戦予選で、当時五段の村山聖と対局した際、爪を切るのを嫌って伸ばしていた村山に、「駒に傷もつくし、相手にも失礼だろう」と年長棋士として遠慮なく注意した。厳しく言われた村山は落ち込んだ風であったものの、その対局に勝っている[5]
  • 2003年10月10日、成田空港で日本航空関連会社の案内係員に暴行して顔面を負傷(全治3週間)させた傷害事件が報道され、日本将棋連盟理事会に謝罪の文章を提出した。
  • 2006年5月1日に妻が死去。
  • 若き時代は、スキーゴルフなどのスポーツに熱中しており、特にスキーは1級指導員の資格を保有するほどの腕前である。

[編集] 普及活動など

  • 日本将棋連盟の専務理事を長く務め、1999年から開始された国際将棋フォーラムの立ち上げなどで活躍した。
  • 弟子の育成に熱心で、飯田弘之塚田泰明富岡英作鈴木大介田村康介を棋士に、藤森奈津子を女流棋士に育て上げた。なお、鈴木の「大介」という名前は、鈴木の親が大内の名前にあやかってつけたものである。
  • 1999年以降、毎年新橋駅SL広場にて名人戦の大盤解説会を開催。(聞き手は弟子の藤森奈津子)

[編集] 昇段履歴

  • 1954年 6級 = 奨励会入会
  • 1958年 初段
  • 1963年4月1日 四段 = プロ入り
  • 1964年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
  • 1965年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
  • 1970年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
  • 1972年4月1日 八段(順位戦A級昇級)
  • 1984年4月1日 九段(勝数規定
  • 2010年4月20日 引退

[編集] 主な成績

通算成績
887勝807敗 勝率 0.5236

[編集] 獲得タイトル

  • 棋王 1期(1975年度 = 第1期)
    登場回数4、獲得1

[編集] 一般棋戦優勝

[編集] 在籍クラス

  • 順位戦A級 通算6期(第27, 29-30, 37, 40-41期)
  • 竜王戦1組 通算1期(第2期)

[編集] 将棋大賞

  • 第2回(1974年度) 連勝賞・殊勲賞
  • 第3回(1975年度) 敢闘賞
  • 第5回(1977年度) 連勝賞
  • 第14回(1986年度) 特別賞
  • 第36回(2008年度) 東京将棋記者会賞

[編集] その他表彰

[編集] 主な著書

[編集] 脚注

  1. ^ 以上、「将棋世界」(日本将棋連盟)2000年1月号付録から引用。
  2. ^ 2009年の第67期名人戦第6局の立会人を務めた際、1日目のテレビ中継(NHK衛星第2テレビジョン、2009年6月15日午前)で、大内の名人戦登場の映像が紹介された際、アナウンサーが、「名人位に手が届くとなると平常心を保てなくなるか」と質問したのに対して語ったものである。なお、語った後、微笑しながら「一生言うまいと思っていましたが、気が緩みましたね」との言葉を添えている。
  3. ^ 著書「史上最強の穴熊」の紹介記事([1][2])など
  4. ^ 山田史生『将棋名勝負の全秘話全実話』(講談社プラスアルファ文庫、2002年)、167ページ。
  5. ^ 前掲書、70ページ。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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