木村一基
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木村 一基(きむら かずき、1973年6月23日 - )は、将棋棋士。棋士番号は222。佐瀬勇次名誉九段門下。千葉県四街道市出身。
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[編集] 棋歴
小学6年時代の1985年12月、6級で奨励会に入会。二段(1998年10月)までは順調に昇級・昇段する。しかし、そこから三段昇段までに約2年、さらには三段リーグを抜けるのに6年半かかり、プロ入り(四段昇段)したのは、1997年4月1日、23歳のときであった。
以上のように、遅咲きの棋士であるが、、プロになってからの勝率は非常に高く、棋士仲間の間で「勝率君」(しょうりつくん)と呼ばれていたことがある[1]。通算500局以上対局している棋士の中で通算勝率が7割を超えているのが羽生善治と木村の2名だけという状態が長く続いた。
1998年度、初参加の竜王ランキング戦で初戦を落とすものの、昇級者決定戦(敗者復活)で6連勝をして5組へ昇級。さらには、2期目の参加となる第57期C級2組順位戦でも最終局を残しての9連勝(最後に1敗)でC級1組への昇級を決める活躍で、この年度の将棋大賞の新人賞を受賞。
1999年度は、将棋大賞の勝率1位賞を受賞(0.797)。
2001年度、竜王挑戦者決定三番勝負で羽生と対戦。羽生を土俵際まで追い詰めたものの、敗退。このとき、兄弟子の米長邦雄は、自身のネット掲示板で実況中継を行っていたが、局後、「この将棋は木村君の会心譜となるはずでした。」とコメントしている。同年度は、将棋大賞の勝率1位賞(0.8356 = 歴代3位)、最多勝利賞(61勝 = 歴代4位タイ)、最多対局賞を受賞。年度60勝を達成した棋士は、木村、羽生、森内俊之の3名しかいない[2]。勝率8割以上と60勝以上を同時達成した例は、木村のほかには、1988年度の羽生善治(0.800、64勝)しかない。
2002年度、新人王戦において、決勝三番勝負で鈴木大介を破って優勝。
2003年4月1日、竜王戦の昇段規定により七段昇段。これは、竜王戦の規定による昇段の条件(の一つ)が「竜王ランキング戦2回連続優勝」から「竜王ランキング戦2回連続昇級」へ緩和される前に達成された、難易度の高い昇段であった(同じ条件で昇段したのは、行方尚史のみ)。なお、昇級を決めた2002年秋に昇段しなかったのは、これも、昇段規定が旧規定であったためである(2001年12月27日に六段昇段してから1年以上経った年度始めに昇段)。さらには第16期(2003年度)竜王ランキング戦2組でも優勝。3年連続優勝・昇級で一気に1組入りをする。
2005年、竜王戦の挑戦者決定三番勝負において2-0で三浦弘行を破り、ついにタイトル初挑戦。挑戦を決めた対局の後、盤の前に一人残り、涙を流した[3]。しかし、七番勝負は渡辺明竜王に0-4で敗れる。
2006年度、第65期順位戦B級1組において1位(9勝3敗)の成績を挙げ、2007年4月、A級八段となる。
同じく2007年、竜王ランキング戦1組で優勝。さらに挑戦者決定三番勝負に進出するも、佐藤康光に1-2で敗れる。
2008年、自身4度目の竜王挑戦者決定三番勝負で、7年ぶりに羽生と挑戦権を争う。さらに王座戦でも王座16連覇中の羽生への挑戦権を得、五番勝負を戦う(自身2度目のタイトル戦登場)。この2つの番勝負は日程が並行していたため「八番勝負」のようになったが、いずれも羽生の前に敗退した(竜王挑決1-2、王座戦0-3)。
2009年5月7日、第79期棋聖戦挑戦者決定戦で、同棋戦初参加の新人・稲葉陽四段を破り、快挙を阻止するとともに、自身3度目のタイトル戦出場を決めた。さらに、第50期王位戦でも、羽生名人(当時)、渡辺竜王(当時)らを破って挑戦権を得、タイトル2連続挑戦。
[編集] 棋風
居飛車党の棋士。横歩取り8五飛戦法などの激しい将棋を指しこなすが、受けが得意であり、守りと粘りの棋風である。相手の攻撃を跳ね返す強靱な受けつぶしを見せる。守備駒として強力な竜馬(馬と略す)を自陣に引き付けることも好む。時に、玉を守りに参加させる「顔面受け」を見せるなど、他のプロ棋士を驚かせることがある。
なお、将棋漫画「ハチワンダイバー」の登場人物である中静そよの異名「アキバの受け師」を文字って、「千駄ヶ谷の受け師」と呼ばれることがある。
また、勝負をあきらめないという特徴があり、人によっては不利を認めて投了してしまうところ、木村の場合はハッキリするまで指し続ける場合が多い。木村曰く「相手が誰であっても信用しない」とのことである。実際、羽生善治は木村から1手詰みの頓死を食らったことがある(2001年竜王戦挑戦者決定三番勝負第1局)。その非常に粘っこい棋風を、先崎学は「『木村の玉を詰ますのは疲れる』ということばが業界にはあるくらい」「血液の中にナットウキナーゼが入っているんじゃないかという疑惑がある木村君」と表現している[4]。
[編集] 人物
- 解説者としては、丁寧でわかりやすく、時にとぼけたり、毒舌を交えたりするという、軽妙でサービス精神旺盛なトークをする。
- 若手に”おっちゃん”と呼ばれ慕われている。
- 子煩悩であることを公言してはばからない。
- 対局中の食事は、バナナ・ヨーグルト・チョコレート・コーラといったもので済ますことが多い。これは本人曰く、普通の食事では満腹感から集中力が低下するためである[要出典]。これらの品目は、通称「木村定跡(定食)」と呼ばれている[要出典]。また、対局中によく梅のど飴を口に含む。食事に関しては、最近はしばしば「肉南蛮そば」を注文しており、いわゆる「木村定跡」にも改良が加えられているようである(食事とおやつ 木村一基)。
- 正月にNHK BS2で放送されるバラエティー番組「大逆転将棋」の中の企画である「脳内対局10秒将棋」で、2年連続優勝したことがある。しかし、2004年正月放送分で佐藤康光棋聖(当時)と戦ったときに、「駒台にない歩」を打って反則負けし、3連覇を逸した。
[編集] 対局に関するエピソード
- 2008年8月12日、中原誠十六世名人との対局(王将戦二次予選)で敗れたが、その対局直後に中原が体調の異変を訴え、病院に緊急搬送される(脳内出血)。以降、中原は休場したが、これによる中原の最初の不戦敗の相手も木村であった(2008年8月21日予定の棋王戦3回戦)。中原は休場のまま2009年3月31日に引退したため、中原の最後の勝局(1308勝目)は、結果的に、前述の木村との対局ということになった。
- 通算勝率が極めて高いにもかかわらず、和服着用の対局では負けやすいというジンクスがある。2008年の公式戦の限りでも、A級順位戦最終局[5]、NHK杯、日本シリーズ、王座戦すべてで負けている。2009年6月19日、棋聖戦五番勝負第2局で羽生善治に勝ち、ついに和服で初勝利。最後、羽生の竜を連続王手の千日手(反則)の筋に誘って受け切るという将棋であった。
[編集] 昇段履歴
昇段規定は、将棋の段級 を参照。
- 1985年12月 6級 = 奨励会入会
- 1988年5月 初段
- 1988年10月 二段
- 1990年9月 三段(1990年度後期から三段リーグ)
- 1997年4月1日 四段 = プロ入り
- 1999年4月1日 五段 (順位戦C級1組昇級)
- 2001年12月27日 六段 (勝数規定)
- 2003年4月1日 七段 (竜王ランキング戦連続2回優勝(4組優勝(第14期=2001年)、3組優勝(第15期=2002年)[6])
- 2007年4月1日 八段 (順位戦A級昇級)
[編集] 主な成績
[編集] タイトル戦登場
- 登場回数2
- 決着前
[編集] 一般棋戦優勝
- 新人王戦 1回(第33回)
- 優勝合計 1回
[編集] 在籍クラス
竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。
[編集] 将棋大賞
- 第26回(1998年度) 新人賞
- 第27回(1999年度) 勝率一位賞
- 第29回(2001年度) 勝率一位賞・最多勝利賞・最多対局賞
[編集] 著書
- 木村一基の急戦・四間飛車破り(2005年3月、日本放送出版協会、ISBN 4-14-016132-9)
[編集] 脚注
- ^ NHKテレビで解説役の内藤國雄が証言。
- ^ 2008年度終了現在。ただし、羽生だけは4回達成。
- ^ 涙を流した様子は、囲碁・将棋ジャーナルで紹介された
- ^ 『先崎学の実況!盤外戦』(講談社文庫、2006年)pp.54 - 55
- ^ 対戦相手の佐藤康光はスーツであったのに対し、木村はあえて和服で対局に臨んだ。このとき佐藤はA級陥落の瀬戸際にあり、木村の和服着用は、兄弟子である米長邦雄の、いわゆる‘米長哲学(理論)’の表れと、テレビ解説の深浦康市はコメントした。
- ^ 当時の昇段規定では、竜王戦の規定といえども1年に2つ以上の昇段ができなかったため、六段免状発行から1年経過後の年度始めの日付で七段に昇段した。
[編集] 関連項目
| 第21期竜王:渡辺明 |
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| 第22期竜王戦1組(2008年秋~2009年秋) |
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羽生善治| 深浦康市| 久保利明| 中原誠(休場→引退)| 佐藤康光| 高橋道雄| 丸山忠久| 郷田真隆| 阿部隆| 先崎学| 鈴木大介| 木村一基| 杉本昌隆| 山崎隆之| 松尾歩| 橋本崇載 |
| 名人戦(第67期名人:羽生善治) |
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| 第68期(2009年度)A級順位戦 |
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郷田真隆 | 佐藤康光 | 森内俊之 | 丸山忠久 | 木村一基 | 藤井猛 | 谷川浩司 | 三浦弘行 | 高橋道雄 | 井上慶太 |

