堀口一史座

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
 堀口一史座 七段
名前 堀口一史座
生年月日 1975年2月28日(39歳)
プロ入り年月日 1996年4月1日(21歳)
棋士番号 218 
出身地 東京都 
師匠 伊藤果 
段位 七段
戦績
一般棋戦優勝回数 1
2014年4月7日現在

堀口 一史座(ほりぐち かずしざ、1975年2月28日 - )は、将棋棋士伊藤果門下。棋士番号は218。東京都出身。

棋歴[編集]

第18回(1995年度後期)奨励会三段リーグで1位(14勝4敗)の成績を収め、プロ入りした。

プロ3年目の1998年度、NHK杯戦で決勝進出。決勝の相手は羽生善治四冠(当時)であった。堀口の先手で横歩取り模様の出だしで14手まですらすらと進んだが、15手目、通常▲3四飛と横歩を取る一手のところで堀口の手が止まり、序盤早々に時間を使う。そして結局、横歩を取らずに飛車を2八に引き、相掛かり腰掛銀の戦形になった。結果は羽生の勝ちで、堀口は準優勝に終わる。

第30回(1999年度)新人王戦で準優勝(優勝者は藤井猛)。

公式戦として1期目の第8期(2000年度)銀河戦で、本戦(ブロック)で米長邦雄島朗らを破り15連勝。決勝トーナメントでは佐藤康光森内俊之らを下して準優勝(優勝は羽生善治)。

全日本プロ将棋トーナメントを発展させ、準タイトル戦としてスタートした2001年度の朝日オープン将棋選手権において、決勝五番勝負で杉本昌隆を3-1で破って初代チャンピオンとなり、選手権者として1期在位した。祝勝会でのスピーチでは、「朝日オープンはお金がいいので」というあからさまな発言をした[1]。翌年、深浦康市を迎えた初防衛戦では、頭を五厘刈りにし決意の程を見せるも、1-3で敗北する。

第66期(2002年度)C級1組順位戦と第67期B級2組順位戦で2年連続昇級を決め、B級1組に昇級。

2005年9月2日の順位戦B級1組青野照市との対局で、56手目の一手に、昼食休憩を挟む5時間24分の記録的な大長考をしたことで話題となった。順位戦の持ち時間は6時間であるため、持ち時間の9割を費やした計算になる。局面は、角換わりの先後同形からの激しい攻め合いの途中であった。結果は、76手までで堀口の勝ち。後日「囲碁・将棋ジャーナル」に出演した際、「長考できたのは気力が充実していたということだ」と語った。

2013年より2戦を戦ったのみ、順位戦を欠場。既に降級点が一つ付いていたため、C1級の降級が確定となった。しかし、2013年10月には来期順位戦の欠場も発表。理由は病気(病名は明かされていない)のための療養とのことであったが、6月から公式戦復帰を果たし、順位戦第一局に澤田真吾五段と対局した。

棋風[編集]

居飛車党であり、対振り飛車では自玉を固める将棋が多く、相居飛車では矢倉相掛かり横歩取り角換わりなどを一通り指しこなす。

長考派である一方、早指し戦にも強い。

人物[編集]

  • 「一史座(かずしざ)」という名前はガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)に由来する。
  • 将棋を覚えたのは10歳ぐらいの頃で、きっかけは、母親の実家で将棋盤を見たことである[2]。プロ棋士になった人物としては遅いスタートであった。
  • 四段昇段した際、「(年齢制限規定などで)プロを断念したり、これからも苦しい戦いを続ける仲間がいる中で祝賀会に参加するわけにはいけない」として奨励会最終日に奨励会幹事による恒例の昇段祝賀会を辞退した[3]。なお、祝賀会の辞退を決心したのは、半年前に自らが次点で昇段を逃したときであった[4]
  • 将棋をゲームと割り切る棋士が多い中、インタビューにおいて自己の内面性と将棋との関連について語るなど思索的な面をみせる。特に追い詰められたような状況では、指し手に必ずその人の内面性が出ると言い切り、哲学書などにあたって常に内面性を鍛えることを怠らない。その独特な思想体系から、"将棋界の哲人"と呼ばれる[要出典]
  • 愛読している作家は、トルストイドストエフスキー[2]

昇段履歴[編集]

昇段規定は、将棋の段級 を参照。

  • 1988年 6級 = 奨励会入会
  • 1991年 初段
  • 1996年4月1日 四段 = プロ入り
  • 1999年10月14日 五段(勝数規定)
  • 2002年10月1日 六段(特別昇段 朝日オープン選手権優勝)
  • 2004年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)

主な成績[編集]

棋戦優勝[編集]

  • 朝日オープン将棋選手権 1回(第20回)
    合計 1回

在籍クラス[編集]

竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。

将棋大賞[編集]

  • 第27回(1999年)新人賞

脚注[編集]

  1. ^ このスピーチは、囲碁・将棋ジャーナルで紹介された。朝日オープンの優勝賞金は、破格の2000万円であった。また、当時、賞金額が公表されていた棋戦は、竜王戦と朝日オープンだけであった。
  2. ^ a b 平成10年版「将棋年鑑」
  3. ^ この時退会した4人の中に、後にアマチュアで活躍しプロ編入試験でプロ棋士になった瀬川晶司がいた
  4. ^ 将棋世界」2000年1月号付録

関連項目[編集]

外部リンク[編集]