ニコラ・サルコジ

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ニコラ・サルコジ
Nicolas Sarközy
ニコラ・サルコジ

フランス共和国第6代大統領
任期: 2007年5月16日

出生: 1955年1月28日(53歳)
パリ
政党: 国民運動連合 (UMP)
配偶: カーラ・ブルーニ

ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ=ボクサNicolas Paul Stéphane Sarközy de Nagy-Bocsa, 1955年1月28日 - )は、フランス政治家フランス第五共和政第6代大統領(2007年5月16日 - )及びアンドラ公国の共同元首。前国民運動連合党首。フランスの大統領としては異色の新保守主義者新自由主義者で、親米派とされる。ハンガリー系移民2世。カトリック教徒。

尊敬する政治家として英国トニー・ブレア首相を挙げた他、イタリア首相のシルヴィオ・ベルルスコーニを「政治家としての手本」としており、大統領当選時に真っ先に電話するなど親密な関係で知られる。

目次

[編集] 経歴

[編集] 生い立ち

パリ出身。子供時代をパリ17区、次いでヌイイ=シュル=セーヌで過ごす。父方はハンガリー・Alattyánの下級貴族の家系。父パル・ノジ=ボウチャ・イ・サルコジは、ソ連に占領された祖国を逃れ、仏軍占領下のドイツに渡り、そこでフランス外人部隊傭兵となる。新兵教育を受けるも不適格とされ、1948年にマルセイユで除隊。名前をフランス風に、ポール・サルコジ・ド・ナジ=ボクサと改名した。広告業者となった父ポールは1949年、パリ17区の医師の娘で、法学部の学生だったアンドレ・マラーと出会い結婚した。母方は、テッサロニキ出身のギリシアユダヤ人で、祖父の代にカトリックへ改宗している。

ニコラ・サルコジが5歳のとき、父ポールが妻とニコラら3人の子供を見捨て離婚。後に他の女性と2回再婚している。ニコラは、母と母方の祖父に育てられ、貧しい少年時代を送る。母アンドレは、苦しい家計を支えるため、勉学を再開して弁護士となった。ニコラ・サルコジは、「この頃の屈辱が自分の人格形成に最も大きく影響した」と述べている。ニコラの兄ギヨーム・サルコジ繊維会社の社長で、フランス経団連 (MEDEF) の副会長も務めた。弟フランソワ・サルコジは、小児科医を経て生物学者となっている。

中学、高校の成績は優等生ではなく(日本の中1にあたる7年生の時留年している)、政治エリートコースの一つであるパリ政治学院に在学していたこともあるが、途中で法律家ジャーナリズムに志望を変更、結局弁護士となった。

[編集] 政界進出

1976年パリ大学在学中に、ジャック・シラクの結成した保守政党・共和国連合 (RPR) へ入党する。1977年パリ西郊の高級住宅地オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌの市議会議員に最下位で当選する。同年共和国連合中央委員に選出される。1978年から1979年まで共和国連合青年部全国代理、1979年から1981年まで共和国連合全国青年委員会委員長。1981年に弁護士資格を取得し、不動産を専門とする法律事務所をパリに共同で開設する。1983年、28歳でイル=ド=フランス地域圏議会議員、ヌイイ=シュル=セーヌの市長に当選する( - 2002年)。犯罪の減少など一定の成果を上げる。

1988年国民議会下院)議員に初当選。ヌイイ市長と兼職する。1993年バラデュール内閣の予算相として初入閣。同年、ヌイイ市内で発生した幼稚園立てこもり事件が起こる。この事件では、市長として犯人と直接交渉に臨み、人質の解放に貢献して全国的に有名となる。1995年フランス大統領選挙ではジャック・シラクから離反し、シャルル・パスクワに付いてバラデュールを支持する。しかし決選投票の結果、シラクが大統領に当選したため、第1次シラク政権では冷遇された。

[編集] 閣僚

2002年5月、ラファラン内閣の内務・治安・地方自治相として入閣する。2003年3月19日に治安回復を目指し、軽犯罪厳罰化街娼の取り締まりなどを目的としたサルコジ法を施行させる。サルコジ内務相の強硬な治安政策によって、国内の犯罪発生件数は激減し、実績を買われたサルコジは一躍、人気政治家になる。2004年財務大臣に異動。同年11月29日、RPRの流れを組む国民運動連合 (UMP) の党首選挙において、85%の得票率で党首に選出される。サルコジの権力増大を恐れたシラクによって財務相を辞任する。

2005年5月31日よりドミニク・ガルゾー・ド・ビルパン内閣の内相に就任する。同年発生したパリ郊外暴動事件の鎮圧にあたる。この際、暴動に加わった若者に対して、「社会のくず (Racaille)」「ゴロツキ (Voyou)」などと発言したことが物議を醸すが、こうした強硬な態度がかえって世論の支持を集めた。暴動の最中の11月12日にイフォップ社が有権者958人を対象に行った電話による世論調査では、国民運動連合の支持者の90%が、極右政党支持者の97%がサルコジ内務相の強硬姿勢を支持すると応えた。

[編集] 大統領

2007年フランス大統領選挙に立候補。保守層や勤労世帯を中心に支持を集め、同年5月6日の決選投票で社会党ロワイヤル候補を下し、大統領に当選する。同月16日、フランス第5共和政下の第6代大統領に就任。

大統領に当選直後、地中海に自家用ジェット機マルタの豪華ヨット(全長60メートル、推定賃料週20万ユーロ=約3240万円)でクルージングし、野党からはあまりに豪華すぎると批判された。これに対し彼は「何が問題か。私は逃げも隠れも謝りもしない」と反論した。

上記の豪遊では批判されるも、旧植民地のマグレブ出身の法務職員の法相への抜擢や、セネガル出身の黒人女性の副官房長への抜擢、野党である社会党出身の政治家の大臣への登用(エリック・ベッソンベルナール・クシュネル)など、これまでのフランスでは考えられなかった画期的な人事を行っている。法務省では次官級の幹部が総辞職してこれの妨害に動くという事態となったが、有色人種の国会議員が一人たりともいないというこれまでの閉鎖的なフランス政界に風穴を開ける革命的なことであると北米のメディアに評されている。国民からの支持率も高く、70パーセント台を記録した。2007年6月に行われたフランスの国民議会選挙では彼の率いる与党・国民運動連合(UMP)が地滑り的勝利を収め、日本の週刊誌エコノミストはフランス版小泉純一郎と彼を評した。

10月、フランス大統領府はサルコジの給与を現状の2倍以上に引き上げる意向を示した。与党国民運動連合は「大統領であるのに他の閣僚よりも給与の額が低いから」と説明したが、折りしもサルコジの改革に対して野党・国民から批判が高まりつつある時期の給与増額は波紋を呼んでいる。野党社会党のビアンコ議員は「多くの国民が月末に出費をやりくりしているご時世にいかがなものか」と批判した。

[編集] 人物

2005年4月にパリ大学ドーフィーヌ校で講演するニコラ・サルコジ
2005年4月パリ大学ドーフィーヌ校で講演するニコラ・サルコジ
2005年11月にフランソワ・フィヨンが主催してパリ市内で開かれた集会で演説するニコラ・サルコジ
2005年11月フランソワ・フィヨンが主催してパリ市内で開かれた集会で演説するニコラ・サルコジ

[編集] 人物像

身長165cm。「ナポレオンより背が低い」と言われるほど、平均的なフランス人(男性の平均身長175.6cm)に比べて身長が低い。そのため、フランスの有料チャンネルテレビ局Canal+の政治風刺人形劇『Les Guignols de l'info』の中では、シラク大統領(当時)人形がサルコジ人形を「スマーフ (Schtroumpf)」と呼んでいたこともあった[1]。大のタバコ嫌いでワインを含めも飲まない。好物はチョコレート

親英米と言われるが英語があまり堪能でなく、パリ政治学院では英語の成績が悪かったと伝えられる。この点でシラク前大統領が英語に堪能でありながら人前で話すのを避けていたのと対照的といわれる。

パリ大学卒で弁護士で移民2世という出自でもあり、高級官僚を養成するENA出身(エナルク)の官僚的な政治家が支配的なフランス政界の中で、庶民派というイメージを強く打ち出している。演説や語りも、他の政治家(ライバルでもある貴族出身のド・ビルパンが典型)が使うような文学的な修辞表現を用いずに、庶民にもわかりやすい単純で率直な言い回しを好み、国民に直接訴えかけるスタイルである。

[編集] 私生活

3度結婚しており、元妻マリーとの間に2人、前妻セシリアとの間に1人、合わせて3人の子供がいる。元妻マリーは、コルシカ島の寒村の薬局の娘で、1982年に結婚し、ピエールとジャンの2男をもうけた。前妻セシリアは、作曲家イサーク・アルベニスのひ孫にあたり、モデルや元老院議員秘書を経て、テレビ司会者と結婚し、2女をもうけていた。セシリアとは、双方ともに配偶者のいる中、不倫愛をつらぬき、1996年に結婚。1998年には息子ルイが生まれる。サルコジは、内務省に席を設けるなどしてセシリアを厚遇した。しかし、セシリアは2005年、支持者の実業家とニューヨーク駆け落ち。ド・ビルパン首相(当時)からは、「妻を魅了できないで有権者を魅了できるのか」と皮肉られた。夫妻は2006年に復縁したが、セシリアはファーストレディとなることを拒絶。結局、夫妻は2007年10月に離婚した。その後、2008年1月に元トップモデルのカーラ・ブルーニと3度目の結婚を果たした。

[編集] 舌禍

  • 人間のクズ」―大統領就任前の2005年10月にパリ市内などで暴動が発生した際、参加者に対して。
  • それなら、お前が失せろ。この野郎」―2008年2月23日、パリの国際農業見本市会場で来場者と握手中。

[編集] 主張

2007年11月、公式訪米でブッシュ大統領と会談し親米ぶりを強調
2007年11月、公式訪米でブッシュ大統領と会談し親米ぶりを強調

シラク政権のイラク戦争反対により冷え込んだ対米関係の改善と、フランス伝統の平等主義を捨て自由競争を重視する英米型の新自由主義経済政策路線を提唱している。モットーは「もっと働き、もっと稼ごう」。サルコジの政策は、米国と距離を置きフランス独自の外交政策を目指し国内経済に積極的に介入する保守派主流思想のド・ゴール主義とは一線を画している。

[編集] 外交

外交姿勢は親米派とみなされることが多く、対米追従を拒否していたシラク大統領は後任として首相ド・ビルパンを推したため、内務大臣であり大統領を目指していたサルコジとシラク、ド・ビルパン間には不協和音が目立っていた。2007年8月にはアメリカ大統領ブッシュから別荘に招かれ、イラク戦争当時の対立を克服する事で合意。親米ぶりを強調した。

日本に対する姿勢は厳しく、2004年1月中華人民共和国香港特別行政区を訪問した際、香港は魅惑的な都市だが、東京は息が詰まる。京都御所はうらぶれている。有名な庭園も陰気だった」「ポニーテールの太った男同士が戦うことがなぜそんなに魅力的なのか。(相撲は)インテリのスポーツではない」などと、日本をこき下ろす発言をした[2][3]。一方で、日本の国際連合常任理事国入りは支持している[4]

大統領当選直後は「人権外交」を掲げて、圧政国家には物申す姿勢を明らかにしていたが、その後、独裁者として知られるリビアカッザーフィー大佐のフランス訪問を認めて国民や野党から非難を浴びた。サルコジ自身は、会談で人権問題に触れたと弁明した。また人権問題を抱える中国を訪問した際には、人権担当相を訪問団に加えず人権問題・民主化問題にも触れなかったため、野党から批判された。これら一連の会談や訪問には「人権派」として知られるクシュネル外相は同行しなかった。

[編集] 内政

強気な姿勢は国民からも一定の人気がある。移民が数多く暮らしている治安が安定しない地域を視察し、彼等を「社会のくず」「ごろつき」呼ばわりした事は大きな波紋を呼んだ。こうした発言はフランス各地で起こった若者達による暴動激化の一因だとされている。しかし彼はそれでもその姿勢を崩さず、批判を浴びてもそれを物ともしないばかりか、逆にますます過激な強硬発言を増やしている。その為、暴動を起こしている若者達、彼らを心情的に支持する層からは憎悪の対象となっているが、自らも移民2世であり、「私は移民反対のジャン=マリー・ルペン党首(国民戦線)とは違う。この国には優秀な移民が必要だ」と主張しており、人種間の機会を平等にするために大学の入学者枠を人種ごとに設定するアファーマティブ・アクションの導入を訴えている。

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 脚注

  1. ^ ちなみに、ロシアのつるふさの法則のように、第五共和国の歴代大統領は、長身とそうではないものが交互で就任するというトリビアが存在する。
  2. ^ 日本を引き合いに大統領批判―フランス 世界日報 2007年1月16日
  3. ^ <07仏大統領選挙>サルコジ氏勝利による日仏関係の行方は - 東京 AFPBB News 2007年5月8日
  4. ^ 仏大統領、日本など5か国の安保理常任理事国入りへの「支持」を表明AFPBB News 2007年1月9日

先代:
フィリップ・セガン
共和国連合副総裁
1999年
次代:
ミシェル・アリヨマリ
先代:
ダニエル・ヴァイヨン
フランス内務大臣
2002年 - 2004年
次代:
ドミニク・ド・ビルパン
先代:
フランシス・メール
フランス財務大臣
2004年
次代:
エルヴェ・ゲマール
先代:
ドミニク・ド・ヴィルパン
フランス内務大臣
2005年 - 2007年
次代:
フランソワ・バロワン
先代:
アラン・ジュペ
国民運動連合総裁
2004年 - 2007年
次代:
ジャン=クロード・ゴーダン
(総裁代理)
先代:
ジャック・シラク
フランスの大統領
2007年 -
次代: