フランソワ・フィヨン

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フランソワ・フィヨン(2003年撮影)
フランソワ・フィヨン(2003年撮影)

フランソワ・フィヨンFrançois Fillon1954年3月4日 - )は、フランス政治家国民運動連合所属。サルト県ル・マン出身。

目次

[編集] 経歴

フランソワ・フィヨンは、スブレのブリ家のドミニク・ドゥ・ヴィルパンのいとこに当たる歴史家アニー・スレと、ヴァンデ出身の公証人のミシェル・フィヨンの息子として生まれた。

フィヨンは彼の3人の兄弟と共に、サルテの小さな町に育った。ル・マンのノートルダム・ドゥ・サント=クロワ高校を卒業、1972年に哲学のバカロレアを取った。

彼はその後、メン大学でクリスティアン・フィリップ(政治家)のもとで学び、1976年に公法のマスターを取得。翌年、パリのデカルト大学で公法の博士課程研究免状を、また国立政治学研究院(Fondation nationale des sciences politiques)で政治学の博士課程研究免状を得た。

彼はその後、ジャーナリストになるために、3年間フランス通信(AFP)で研修を行うが、早くに政治家としてのキャリアを開始した。

1980年6月28日には、ウェールズ出身のペネロプ・クラルクと結婚。マリー、シャルル、アントワーヌ、エドワール、そして、アルノの5児をもうける。

2002年ジャン=ピエール・ラファラン内閣の労相(社会問題・労働・連帯相)として入閣する。労相としては、週35時間労働制の緩和を内容とする「賃金・労働時間・雇用促進法」(フィヨン法、Loi Fillon)制定を実現した。2004年高等教育・研究相に就任し、バカロレアの改革を含むフィヨン教育法を制定し論争の的となった。2005年ドミニク・ド・ヴィルパン内閣には入閣せず、同年サルト県から上院元老院)議員に選出された。

2007年フランス大統領選挙では、ニコラ・サルコジの選挙参謀を務め、サルコジの下、首相就任へと至った。

[編集] 政治家としてのキャリア

[編集] 初期

[編集] 地方議員

  • 1981年 : ジョエル・ル・トゥルの死去に伴い、サブレ=シュル=サルト市議会議員に出馬。当選し、1986年まで務める。途中、経済担当の市助役にも就任。
  • 1983年3月 - 2001年 : サブレ=シュル=サルト市長。
  • 1981年2月 - 1998年 : サブレ=シュル=サルト郡からサルト県県会議員。
    • 1985年3月 :サルト県の県議会副議長。
    • 1992年 - 1998年 : サルト県、県議会議長。
  • 1998年以降 : ロワール地域の地方議員。
    • 1998年4月 - 2002年5月 : ロワール地域の地方議会議長。
  • 2001年以降 : サルト県の自治体ソレスム市議会議員。
  • サブレ・シュル・サルトの地域共同体の議長。
  • 彼は、1981年から2002年まで下院議員であったサルト県の第5選挙区の、総選挙立候補者である。これは、フランス政府のリーダーはその正当性を普通選挙において立証しなければならないからである。このことは1958年憲法の23項に記載されている[1]

[編集] 国会議員

  •  1981年、ジョエル・ル・トゥルの死去に伴い、サルトの第4選挙区から出馬、当選する。当時27歳であり、下院最年少議員となった。同じく若手議員であったフィリップ・セガンと親しくなる。
  •  1986年、1988年、1993年、1997年そして2002年に再選されている。
  •  防衛委員会のメンバーである(1986年から1988年まで委員長を務める)。
  •  仏タイ友好委員会グループの委員長である。
  •  2005年9月18日以降、サルトのUMP所属の上院議員。第1回投票では54,9%を獲得した。首相就任。

[編集] 大臣

先代:
ドミニク・ド・ヴィルパン
フランスの首相
2007年-
次代:
先代:
エリザベート・ギグー
フランス社会問題・労働・連帯大臣
2002年 - 2004年
次代:
ジャン=ルイ・ボルロー
先代:
リュック・フェリー
フランス高等教育・研究大臣
2004年 - 2005年
次代:
ジル・ド・ロビアン

[編集] 参照

  1. ^ Constitution de la République française, Titre III

[編集] 外部リンク

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