シルヴィオ・ベルルスコーニ
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シルヴィオ・ベルルスコーニ
Silvio Berlusconi |
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| 任期 2008年5月8日 – 2011年11月12日 |
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| 大統領 | ジョルジョ・ナポリターノ |
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| 前任者 | ロマーノ・プローディ |
| 後任者 | マリオ・モンティ(指名) |
| 任期 2001年6月11日 – 2006年5月17日 |
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| 大統領 | カルロ・アツェリオ・チャンピ |
| 代理官 | ジュリオ・トレモンティ ジャンフランコ・フィーニ マルコ・フォルイーニ |
| 前任者 | ジュリアーノ・アマート |
| 後任者 | ロマーノ・プローディ |
| 任期 1994年5月10日 – 1995年1月17日 |
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| 大統領 | オスカル・ルイージ・スカルファロ |
| 代理官 | ジュゼッペ・テレーラ ロベルト・マローニ |
| 前任者 | カルロ・アツェリオ・チャンピ |
| 後任者 | ランベルト・ディーニ |
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| 任期 2010年5月5日 – 2010年10月4日 |
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| 前任者 | クラウディオ・スカヨラ |
| 後任者 | パオロ・ロマーニ |
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| 任期 2006年3月10日 – 2006年5月17日 |
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| 前任者 | フランチェスコ・ストランチェ |
| 後任者 | リウィア・トゥルコ |
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| 任期 2004年7月3日 – 2004年7月16日 |
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| 前任者 | ジュリオ・トレモンティ |
| 後任者 | ドメニコ・シニスカルコ |
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| 任期 2002年1月6日 – 2002年11月14日 |
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| 前任者 | レナート・ルッギエロ |
| 後任者 | フランコ・フラッティーニ |
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| 現職 | |
| 就任 1994年4月21日 |
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| 出生 | 1936年9月29日(75歳) |
| 政党 | 自由の人民 (2009–) |
| 協力政党 | フォルツァ・イタリア (1994–2008) |
| 配偶者 | カーラ(1965–1985) ヴェロニカ (1990–2009) |
| 子女 | マリナ・ベルルスコーニ ピエル・シルヴィオ・ベルルスコーニ バーバラ・ベルルスコーニ エレノラ ルイージ |
| 母校 | ミラノ大学 |
| 専業 | 実業家 |
| 信仰 | カトリック[1] |
| 署名 | |
シルヴィオ・ベルルスコーニ(イタリア語: Silvio Berlusconi、イタリア語発音: [ˈsilvjo berluˈskoːni] (
聞く)、1936年9月29日 - )は、イタリア共和国の政治家、実業家。
9年間にわたりイタリアの首相に相当する閣僚評議会議長(第74・79・81代)を務めた、政界再編(タンジェントポリ)後のイタリア政界を代表する政治家の1人である。また1994年からフォルツァ・イタリアの初代党首を務め、2009年の自由の人民(自由国民党)結党後も同党党首を務めたため、両党党首の通算在任期間は約17年にも及ぶ。
ベルルスコーニの総資産は約78億ドル(世界第118位)で、2011年時点で世界有数の資産家の1人でもある[1]。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が創設した労働騎士勲章を1977年に授与されており、支持者からはイル・カヴァリエーレ(Il Cavaliere)と呼ばれる事もある。
目次 |
[編集] 概要
ベルルスコーニは元々は実業家であり、戦後イタリアで60年代から80年代にかけて建設業と放送事業で財を成した企業家であった。特に後者については「イタリアのメディア王」と呼ばれるほどの権勢を誇り、国内の民放局を殆ど独占しているとされている。
90年代から始まったタンジェントポリ後の政界再編ではフォルツァ・イタリアを結党、有力政治家として冷戦後の政界を主導した。ベルルスコーニ政権はファシスト政権の独裁者ベニート・アミルカレ・ムッソリーニ、及び1900年代前半に5期にわたり王国宰相を務めたジョヴァンニ・ジョリッティに次ぐ長期政権をイタリア政界で樹立した。それ以前は共和制移行後、最初に首相となったアルチーデ・デ・ガスペリが戦後イタリアにおける長期政権として知られていたが、既にベルルスコーニの首相在職期間はガスペリを上回っている。
政界再編の混乱で一挙に政権を獲得したが短命に終わった第一次政権(1994年-1995年)、政権奪還後の第二次政権(2001年-2006年)、そして二大政党制を迎えての第三次政権(2008年-2011年)と三度の政権での首相経験年は9年を超える。また、サミット(先進国首脳会議)を議長国首脳として3回主催した唯一の首脳でもある。
ベルルスコーニは自らの事業の一角を占める新聞・テレビ・インターネットなどを通じて有利な政治活動を行っているとしばしば非難を受けている。また首相としての権限を使用してメディア統制を進めているともされており、DDL intercettazioni(通信傍受法)可決に反対してイタリア語版ウィキペディアが一時更新を停止する事件が起こっている。汚職疑惑、性的スキャンダルなどの問題行為も取り沙汰されている[2]。
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
1936年、王政時代のイタリア王国ロンバルディア州ミラノ市で銀行員ルイジ・ベルルスコーニの長男として生まれ、中流家庭で育った[3]。兄弟姉妹にパオロ・ベルルスコーニ、フランチェスカ・ベルルスコーニらが居るとされている。小学生の時にパペット劇団を結成して収入を得るなど、子供のころから商才は際立っていた[4]。
サレジオ会系の寄宿学校在学中に第二次世界大戦と王政廃止を経験している。卒業後にミラノ大学で法律学を学び、広告業における法律を専攻分野にして1961年に卒業資格を得ている。学校での成績は「優等」として記録されているが、一方で徴兵制であった当時のイタリアで兵役義務を回避したとのスキャンダルが報道された事もある[5]。在学中は音楽に熱中しており、コントラバス奏者のコミュニティに参加していた。このグループでの友人知人は後にベルルスコーニの事業に関わる人脈となっている。現在でも音楽に対する嗜好は変わらず、自身が保有するサッカークラブACミランの応援詩を自ら作曲したりしている。
1965年に最初の妻となるカーラ・エルビアと結婚、長女マリアと長男ピエル・シルヴィオを儲けた。後に女優であったヴェロニカ・ラリオと不倫関係となって1985年にカーラとは離婚、ヴェロニカと再婚した。当時ベルルスコーニは著名な資産家になっていたので、再婚式は大きな話題を集めた。2009年、ヴェロニカもまたベルルスコーニの不倫疑惑に離婚交渉へと入ったと発言した[6]。
[編集] 企業家として
詳細は「ミラノ・デュー」、「フィニンベスト」、および「ロッジP2」を参照
ベルルスコーニは1960年代から事業を興し始め、まずは大戦後のマーシャルプランによる復興を経て経済成長が進むイタリアで複数の建設会社を設立、人口増による住宅事業を請負って会社を成長させた。特に再建が進むミラノ市で住宅供給計画「ミラノ・デュー」を発表、隣接するセグラーテ市をミラノ市のベットタウンとするべく新たに1万500棟のアパートを建設した。「ミラノ・デュー」計画は大成功に終わり、膨大な住宅地を販売したベルルスコーニの建設会社は飛躍的な成長を遂げる。
建設業界での成功を足がかりに今度は成長しつつあったメディア業界への事業進出に意欲を見せる。1973年、ベルルスコーニは地元ミラノにケーブルテレビ局「テレミラノ」を開局する。当初は小規模なローカル放送であったが、建設業で得た資金を投じる形で幾つかの放送局を購入して会社組織を整え、1977年に地上波放送の免許を取得してより幅広い層に番組を放送する[7]。1978年、所有する複数の企業を統合してフィニンベスト社を設立、建設業とメディア業の事業管理を一本化した。
建設業での成長に加えて「テレミラノ」も有力な地方放送局として収益を上げていくようになり、1983年までの5年間にフィニンベスト社が公表した収益は1130億リラであった。娯楽産業を新たな柱とすべく1980年代はメディア面を強化する事に熱意を注ぎ、「テレミラノ」のような地方放送局を次々とフィニンベスト社の放送部門「メディアセット」の傘下におさめて独自の全国放送ネットワークを確立した。これは全国放送権は国営放送(RAI)のみが保持するとしたイタリア共和国憲法への明確な違反行為であったが、ベルルスコーニは意に介する事もなく事業拡大を続けて「チャンネル5」「イタリア第一放送」「レテ4」などの大手民放局すら子会社とした。
独自の全国放送網、大手民放局の相次ぐ子会社化によって彼は建設業界の寵児から転じて「イタリアのメディア王」として知られるようになった。1984年10月16日に裁判所が全国放送権に関する違反から放送停止命令を出すが、政界への働きかけによって10月20日にイタリア社会党書記長であったベッティーノ・クラクシ首相から民放として初めて全国放送を許可され、メディア方面での事業は磐石となった。ドイツ・フランス・スペインなど周辺国の放送局への買収も進めており、スペインのテレシンコ社は同国の三大民放の一つに成長している。
実業家として高い名声を得たベルルスコーニであったが、彼がそもそも事業を興す上で資金を借り入れていた人脈については未だに謎が多く、ボローニャ駅爆破事件を起こしたロッジP2への関与もあって疑惑や陰謀論の対象にされる事もある。
[編集] 政界進出
詳細は「:en:Political career of Silvio Berlusconi」、「:en:Policies of Silvio Berlusconi」、「シルヴィオ・ベルルスコーニの政界活動」、および「フォルツァ・イタリア」を参照
ベルルスコーニの台頭は冷戦終結直後の1992年から始まった大規模な汚職事件捜査、及びそれに関連する既存政党の崩壊による政界再編(タンジェントポリ)によって始まった。
ベルルスコーニは実業家としての豊富な資金力と人脈を背景に新政党「フォルツァ・イタリア」を結成、政界再編で極めて重要な役割を果たした。彼は自由主義・資本主義・保守主義・キリスト教民主主義などをスローガンに掲げて、中道右派系の議員を糾合する事に成功した。フォルツァ・イタリアは同じく再編で台頭した極右政党「国民同盟」(旧共和ファシスト党)、地域政党の連合体「北部同盟」などと連立を組んで第一次ベルルスコーニ政権を樹立した。僅か数年で大物政治家たちを押し退けて首相になった事は大きな話題を集めたが、国民同盟と北部同盟の対立により政権は一年足らずで崩壊した。
1996年4月に臨時開催された首相選挙でベルルスコーニは再起を図ったものの存在感を発揮できず、逆に左派勢力を糾合したロマーノ・プローディに敗北した。しかしその後も野党勢力の一角として政権奪回への意欲は捨てず、2001年に入念な根回しの末に野党連合「自由の家」を結成して総選挙に勝利を収めた。二度の首相指名を含む第二次ベルルスコーニ政権は前回の反省を踏まえて連立政権内の権力バランスに注意を払い、5年間の長期政権を維持した。特に移民問題について強硬路線を採った事が連立政権で特徴的な行動であった。
2006年4月の総選挙で左派連合を単独政党「イタリア民主党」に纏め上げたロマーノ・プローディに二度目の敗北を喫し、政権は終焉を迎えた。ベルルスコーニは単一政党となった反対勢力に対抗するべく、自らもフォルツァ・イタリアと国民同盟を母体とした大政党の結成を目論んだ。当初、これは周囲の支持を得られずに暗礁へ乗り上げていたが、国民同盟書記長ジャンフランコ・フィーニとの党首合意で状況を一転させた。かくして北部同盟を除く自由の家の構成政党は新党「自由の人民」(自由国民党)を結成して2008年に第三次ベルルスコーニ政権を樹立した[8]。
2010年、旧・国民同盟の書記長で政治的後継者と明言していたジャンフランコ・フィーニ下院議長が「イタリアのための未来と自由」を分派して野党に転じた事で政権基盤が崩れる。2011年には自身の汚職に対する追及が本格化し、ミラノ地裁から未成年者売春罪と職権乱用罪で起訴された[9]。更にギリシャ危機による欧州経済の不安定化によりギリシャ・ポルトガル・スペイン・フランスといった南欧諸国と並んでイタリアが経済不安に陥った。
苦境に立たされたベルルスコーニは欧州連合に公約した国家財政緊縮(健全化)法案のイタリア議会下院可決後に退陣すると発表、同時に政界引退を表明した[10]。
[編集] 汚職問題
[編集] 疑惑一覧
詳細は「:en:Trials involving Silvio Berlusconi」を参照
ベルルスコーニは大規模汚職事件「タンジェントポリ」を契機に台頭したにも関わらず、自身も政治家・事業家の双方で疑惑を抱えている。代表的なものとして賄賂、脱税、不正経理、マフィアとの癒着などで捜査対象となっており、幾つかの疑惑では立件にまで到っている。しかし在職中に可決させた首相免責法により、在任中は全ての刑事捜査を棚上げさせる事に成功した[11][12]。その間に事件の多くは証拠不十分により無罪となるか、長期政権である事から免責中に時効が成立して取り下げられるなどして、現在まで逮捕を免れている[13][14][15][16][17]。自身は警察の捜査や民事訴訟を「政治的弾圧」と批判し、「そのような行為に立ち向かい続ける事が、国の司法制度をより公正にする」と主張している[18]。また彼は「1994年から2006年にかけて私の支持基盤を失わせようと789名の判事が暗躍していた」という発言まで行っている[19][20]。
ベルルスコーニのこうした汚職疑惑を資金力と政治力で回避し、それを政治弾圧への対処とする方向は広い批判を集めた。だが一方で強硬路線を支持する者も少なくなく、政治的盟友であるフランス大統領ニコラ・サルコジは熱心にベルルスコーニを擁護した[21][22][23]。
| 裁判の状態 | 審理内容 | |
|---|---|---|
| 不起訴処分 | 公訴時効 |
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| 審理凍結 |
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| 無罪 | 法律改正による無罪 |
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| Other acquittals |
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| 保留 | 法律改正による保留 | |
| 他の理由 |
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| 進行中 | ||
[編集] ロッジP2事件
1978年、ベルルスコーニは国民同盟の前身である極右政党「イタリア社会運動」(MSI)の幹部で、後にボローニャ駅爆破事件、ロベルト・カルヴィ暗殺事件の主犯格として逮捕されたリーチオ・ジェッリ代表が率いる秘密結社「ロッジP2」のメンバーと公表された[26]。「ロッジP2」は元々フリーメイソンの加盟組織の一つであったが、南アメリカの反共軍事政権への援助などを理由に1976年に承認を取り消され、以降はジェッリによる反共主義の政治結社として機能していた。
1981年3月、ジェッリが国家転覆罪などで逮捕された際にロッジP2の会員一覧が押収されると事実が明らかとなった。他にメンバーには第二次世界大戦後の王制廃止により亡命生活を余儀なくされていたサヴォイア家当主である最後の王太子ヴィットーリオ・エマヌエーレ、後にベルルスコーニ政権下で国防大臣を務めたアントニオ・マルティーノーを含む30名の軍高官、38人の国会議員、4人の現役閣僚、情報部員、実業家、大学教授などが含まれており、イタリア政界を揺るがす「P2ロッジ事件」と呼ばれる大スキャンダルとなった。関与を否定したベルルスコーニを裁判所は偽証罪で有罪と判決しているが、首相時に可決させた首相免責法で裁判を凍結させている。
「ロッジP2」とジェッリ元代表はベルルスコーニが右派政党やマフィアとの人脈を構築することに大きく貢献しており、政界における基盤を作ったとする論者もいる。彼らはベルルスコーニ政権はイタリアにファシスト政権を再建しようとした「ロッジP2事件」の続きであるとする陰謀論を展開している。またベルルスコーニ政権下の2007年にジェッリ元代表がカルヴィ暗殺事件において無罪判決を勝ち取っており、ベルルスコーニ政権が圧力を加えて無罪にさせたと言われている。
[編集] 評価
[編集] 政治姿勢
2度目の政権においては、失業率の改善など経済の漸進的な回復を背景に5年の長期にわたって政権を維持、2008年には再度政権返り咲きを果たした。3度にわたる政権担当期間の合計は9年に及ぶが、これは連続して7年余り首相職にあったアルチーデ・デ・ガスペリの在職日数を大きく超えて戦後イタリアで最長である。中小政党が乱立し政権基盤が不安定で短命に終わりがちだったイタリア内閣史においては例外的な強いリーダーを体現している。90年代の政界進出以降、曲折を経ながらも乱立していた右派勢力の結集に成功(現在は自由の人民(自由国民党))、対応する形で左派もオリーブの木、ルニオーネ、民主党など様々な形を取りながら概ね統一勢力として右派と対峙した結果、ベルルスコーニ時代にイタリア政治は長年の小党分立時代を脱し、2008年の総選挙では中小政党の多くが壊滅、実質的な二大政党時代に入りつつある。
他方で圧倒的なメディア支配力と資金力を背景にした強圧的な政治姿勢には、「独裁的である」との批判が内外から寄せられている。再び政権について以降は、メディアセットの競合となる国営放送「RAI」に対しても影響力を行使しようと画策した。2002年にはメディアセット社が、民放1局を衛星放送に切り替えるように憲法裁判所から判決を下されたものの、翌2003年12月にいわゆるガスパリ法案が議会で可決する。メディア寡占規制が緩和されると同時に、国営放送RAIは分割民営化されることになると見られていた。しかし、イタリア内外で非難を浴びたため、カルロ・アツェリオ・チャンピ大統領は署名を拒否し、法案を下院に差し戻した(参照:イタリア共和国憲法)。「ロッジP2」のメンバーであったこと、マフィアや極右勢力との人脈も度々報道されている。
「マーガレット・サッチャーを尊敬する」と語る通り、自身も新自由主義の政治家に分類され、国民の多くが反対する中でもイラク戦争を支持して派兵するなど、EU内でも際立った親米姿勢を示した。同時代の政治家ではフランス大統領のニコラ・サルコジと親しく、サルコジがベルルスコーニを「手本である」と称賛する一方、ベルルスコーニはそれぞれの政権獲得で互いに真っ先に電話連絡する仲であると認めており、移民問題や財政においてEUの基本政策に懐疑的であるなど政策的にも共通点が多いため、EUでは両者の結び付きによる発言力の高まりに懸念を示す声もある[27]。
ワンマン政治家という特徴が一致するロシアのウラジーミル・プーチン現首相とも親しい間柄であり、欧州各国が懸念を示すロシアのチェチェン政策にも比較的寛容だった他、2008年夏の南オセチア紛争においても、対露批判を微妙に抑えた言動を見せるなど、独自の外交路線を示している[28]。
日本に対しては2005年10月19日に来日する予定であったが、2006年4月9日、10日投票のイタリア総選挙の準備のため、来日をキャンセルした。しかし、2008年5月にイタリア首相に復帰したことにより、7月の主要国首脳会議(洞爺湖サミット)に出席するために初来日した。なお、2008年に福田康夫がイタリアを訪問したが、国際連合食糧農業機関(FAO)本部で開催の食糧サミットの参加のための非公式訪問である。
[編集] スポーツ振興
ベルルスコーニは政治家としてだけでなく、サッカークラブのACミラン会長・オーナーとしての側面も持っている。ミランはそれまですこぶる低迷していたが、元々このクラブのファンであったベルルスコーニの会長就任後、セリエA3連覇や、UEFAチャンピオンズリーグでの5度の優勝など、20年以上にわたってイタリアはもとより欧州でも屈指の強豪クラブを作り上げた。また、自らの名を冠したベルルスコーニ杯という大会が開催されている。
2008年5月9日、3度目の首相就任に伴って会長職を退任した。
[編集] エピソード
饒舌な語り口による演説を得意とし、学者や官僚出身の政治家と異なり親しみやすい態度を見せることで資産家でありながら労働者階級にも人気がある。一方で周囲に無配慮な発言も多く、批判の対象ともされる。
- アメリカ同時多発テロ事件の直後には「残念ながらムスリムは1400年前の価値観に留まっており、西洋世界はムスリムや共産主義者にはない、自由を愛する原則と価値観を護らねばならない」と発言して物議を醸した。
- "con la sinistra al potere, miseria terrore e morte"(左翼が権力を握ると悲惨、恐怖、死が来る)と主張し、一方でイラクのサッダーム・フセイン大統領と比較して「ムッソリーニは政敵を殺したり引退させたりしなかった。離島に追放しただけ」と発言した。
- 2003年7月:EU議長国の演説で、彼を批判したドイツのマルティン・シュルツ議員に対し、「私はナチス時代のドイツの強制収容所に関する映画の製作者を知っています。あなたを看守役に提案しましょう。あなたならピッタリだ!」と発言した。
- 2005年:フィンランドのスモークトナカイについて「パルマ産のハムのほうが比べ物にならないほど美味い」と発言し、フィンランド人を怒らせた。なお2008年、アメリカで行われた料理の国際コンペティションで、フィンランドのピザがイタリアをおさえ優勝したが、このピザレストラン・コティピザでは、トナカイを使ったピザに「ベルルスコーニ」と名づけている。
- 2006年4月:「選挙期間中はセックスを断ちます」と公に宣言した。
- 2006年4月:チャットガールに自分と政敵のプローディについてどう思うか尋ね、党員に「9人のチャットガールのうち7人の若い女の子が私のほうが好きだと言ってくれたんだよ。これはすごいニュースだろう。」と報告していた。その日の新聞各紙の見出しは経済危機に関する問題(税金、あるいは公共支出)によって占められると思われていたが、ベルルスコーニ首相の赤裸々な告白が各紙の見出しを占領してしまった。一方、プローディ陣営のあるメンバーは、「首相をおだてたチャットガールたちは、エロチャットに電話をかけてきた必死な男を担ぎ上げただけでしょう」と話した。
- 2006年4月:総選挙を前に「わたしは我慢強い犠牲者。この身を投げ出し、すべての人々のために犠牲になる自分はまるでイタリア政界のイエス・キリストのようだ」と述べた。先日、自身をフランス皇帝のナポレオン・ボナパルトと比較し、話題になった矢先のことだった。
- 2008年4月15日:記者会見で、スペインの閣僚の過半数が女性になったことに対して「ピンク過ぎる。イタリアではありえない。イタリアは優秀な男性であふれているし、閣僚にふさわしい有能な女性を見つけるのは容易ではない」と発言。
- 2008年11月6日:ロシア訪問中の記者会見でバラク・オバマがアメリカ大統領選に勝利した話題に触れ「オバマは若く、ハンサムで、そして日焼けしている」と述べ、野党議員たちから「良くても配慮に欠ける発言、悪ければ人種差別だ」と批判された[29]。
- 2009年9月27日の演説でも、「何て名前だっけ? あの日焼けした男。ああ、バラク・オバマだ」と、再び「日焼け」という言葉を使った。また、ミシェル・オバマ大統領夫人に関しても「君たちは信じないだろうが、ミシェルも日焼けしているから、2人でビーチに行ったんだ」と語った。なお、同月に行われたG20ピッツバーグ・サミットの開幕レセプションで、ミシェル夫人は多くの首脳とキスや抱擁を交わしてあいさつしたが、ベルルスコーニには握手だけで対応した[30]。
- 2009年1月:イタリアで多発するレイプ事件に関して、対策を議会から求められたとき「イタリアには可愛らしい女の子がたくさんいるから、レイプをなくすことは無理だ」と発言した。また批判に関しては、「イタリア人女性を褒めただけ」と述べた[31]。
- フランスのサルコジ大統領の夫人カーラ・ブルーニがイタリア系であることを挙げ、サルコジに対し「あなたの妻は私があげた」と発言した。ベルルスコーニと極めて親しい関係にあるサルコジも、さすがに不愉快そうな表情になったという。
- 2009年4月:イタリア中部地震発生の際、家を失くした人々の被災者キャンプを見て、「毎日キャンプで暮らせるから、楽しいんじゃないかな」と発言し、被災者の怒りを買った。また被災者キャンプで医療活動に従事していた女性医師に対し「あなたからの蘇生措置なら喜んで受ける」と発言した。
- 2009年12月13日:ミラノ中心部で演説中に42歳の暴漢から投げ付けられたミラノの大聖堂のミニチュア模型が顔面を直撃し、鼻や歯2本を折る全治15日の重傷を負った。
- 2010年11月2日:ミラノで開催中のバイクフェアで「同性愛者になるより、美しい少女が好きな方がいい」とスピーチ。同性愛者の権利団体から抗議されたほか「同性愛者と女性の両方を侮辱している」として数十人が首相官邸前でデモを行なう騒ぎとなった[32]。
[編集] 家族
前妻カルラ・デッローリオとの間に長女マリア・エルヴィラ(通称マリーナ)と長男ピエルシルヴィオ、現在の妻ヴェロニカ(本名:ミリアム・ラッファエッラ・バルトリーニ。元女優で「ヴェロニカ・ラリオ」の芸名で活動していた。)との間に次女バルバラ、三女エレオノーラ、次男ルイージがいる。
2009年5月に18歳の下着モデル、ノエミ・レティツィア(Noemi Letizia)との親密な関係が発覚[33]、更には2009年7月頃、パトリツィア・ダダリオ(Patrizia D'Addario)という売春婦を相手に買春した疑惑が浮上し、報道が過熱[34]。妻のヴェロニカ・ラリオから三行半を突きつけられ、毎月350万ユーロ(日本円で約4億6000万円)の生活費を請求されていることが報じられた[35]。
[編集] 脚注
- ^ a b “Silvio Berlusconi”. Nndb.com. 2011年9月10日閲覧。
- ^ Opponents tell Berlusconi to quit over sex scanal
- ^ footballista 2009/6/24号
- ^ footballista 2009/6/24号
- ^ Guarino, Mario. L'orgia del potere. Il Mulino. "[The author] claims that Berlusconi avoided it because he was the first-born child in his family. However, this did not constitute reasonable grounds for exemption"
- ^ “Berlusconi's wife to divorce him”. BBC News. (3 May 2009)
- ^ Mastellarini, Gabriele (2003). Assalto alla stampa: Controllare i media per governare l’opinione pubblica. Bari: Dedalo. pp. 159ff.
- ^ “PPE: accolta la richiesta d'ingresso del PdL” (Italian). (12 June 2009)
- ^ 2011年2月16日の朝日新聞朝刊8面
- ^ ベルルスコーニ伊首相が辞任へ、新予算関連法案の成立後に ロイター・ジャパン 2011年11月9日閲覧
- ^ “All Iberian, Berlusconi assolto "Falso in bilancio non è più reato"” (Italian). la Repubblica. (26 September 2005)
- ^ “Caso Lentini, reati prescritti” (Italian). la Repubblica. (5 July 2002)
- ^ “Berlusconi-Fini, c'è l'accordo nel Pdl sui tempi dei processi” (Italian). Lastampa.it (2009年11月11日). 2010年3月2日閲覧。
- ^ Dolasilla (1999年2月22日). “Il processo breve arriva al Senato e per i giudici parte la corsa contro il tempo” (Italian). Loccidentale.it. 2010年3月2日閲覧。
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- ^ “Berlusconi : le "bon Nicolas Sarkozy" a été mon avocat” (French). Le Nouvel Observateur (France). (29 June 2009)
- ^ “Corfù, il vertice del disgelo "Riparte collaborazione Nato-Russia"” (Italian). la Repubblica. (27 June 2009). "Il Cavaliere: "Mandai il mio avvocato Sarkozy da lui per la Georgia...""
- ^ “Berlusconi al vertice Nato-Russia "Quando mandai l'avvocato Sarkozy"” (Italian). L'Unione Sarda. (27 June 2009)
- ^ “Silvio Berlusconi: Sex charge trial to begin in April”. BBC News (2011年2月15日). 2011年2月15日閲覧。
- ^ “Silvio Berlusconi Q&A: Italian prime minister on trial”. BBC News (2011年2月15日). 2011年2月15日閲覧。
- ^ Proceedings of the parliamentary inquiry commission headed by Tina Anselmi
- ^ 「イタリア:仏との親密関係に独警戒」毎日新聞、2008年4月17日。
- ^ "Italy upsets US over Georgia", The Financial Times, September 9, 2008.
- ^ "Berlusconi says Obama is 'tanned'", BBC, November 8, 2008.
- ^ 伊首相、オバマ大統領夫人について「彼女も日焼け」朝日新聞2009年9月28日
- ^ 「伊ベルルスコーニ首相がまた暴言」 サンケイスポーツ、2009年1月29日付。
- ^ 渦中の伊首相「同性愛者になるより、美しい女性が好きな方がいい」 産経新聞2010年11月4日
- ^ ベルルスコーニ伊首相が誕生日に駆けつけ、離婚騒動の原因となった18歳女性 - MSN産経ニュース
- ^ ベルルスコーニ伊首相の買春疑惑、渦中の売春婦が暴露本 (1/2ページ) - MSN産経ニュース
- ^ 中日新聞:浮気の代償は月4億6千万円! 伊首相に夫人請求:国際(CHUNICHI Web)中日新聞 2009年11月27日 夕刊
[編集] 関連項目
- ベルルスコーニ主義(it:Berlusconismo)
- ACミラン
- ルパート・マードック
- ジョン・エルカーン
- マフィア - 彼は「マフィアは根こそぎ取り去ってしまうことは出来ない。共存する必要がある。」と発言した。ベルルスコーニ自身マフィアと深い関係があるのではないかと思われている。
- ロベルト・カルヴィ
- フリーメイソン
- マリアーノ・アピチェッラ - 2008年発売のCDアルバム共作者。CDアルバムにはベルルスコーニ自身の作詞楽曲も収録[1]
[編集] 外部リンク
- イタリア首相府 (イタリア語)
- Progetto Politica: le 10 domande di Repubblica a Berlusconi (イタリア語)
- Progetto Politica: le 10 NUOVE domande di Repubblica a Berlusconi (イタリア語)
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: カルロ・アツェリオ・チャンピ ジュリアーノ・アマート ロマーノ・プローディ |
第74代:1994 - 1995 第79代:2001 - 2006 第81代:2008 - 2011 |
次代: ランベルト・ディーニ ロマーノ・プローディ マリオ・モンティ |
| 先代: クラウディオ・スカヨラ |
(代行)2010 |
次代: パオロ・ロマーニ |
| 先代: Mario Baccini |
無任所大臣(行政改革・技術革新担当) (代行)2006 |
次代: ルイージ・ニコライス |
| 先代: フランチェスコ・ストランチェ |
(代行)2006 |
次代: リウィア・トゥルコ |
| 先代: ジュリオ・トレモンティ |
(代行)2004 |
次代: ドメニコ・シニスカルコ |
| 先代: レナート・ルッギエロ |
(代行)2002 |
次代: フランコ・フラッティーニ |
| 党職 | ||
| 先代: (フォルツァ・イタリアより改称) |
自由の人民党首 初代:2009 - |
次代: (現職) |
| 先代: (結党) |
フォルツァ・イタリア党首 初代:1994 - 2009 |
次代: (自由の人民に改称) |
| 外交職 | ||
| 先代: 宮澤喜一 森喜朗 福田康夫 日本 |
主要国首脳会議議長 1994 2001 2009 |
次代: ジャン・クレティエン ジャン・クレティエン スティーヴン・ハーパー カナダ |