吉田司家
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吉田司家(よしだつかさけ)は、大相撲の宗家である。
[編集] 概要
志賀清林を祖とする志賀氏の断絶後、志賀氏に代々受け継がれてきた故実・伝書などを受け継いだ初代、吉田豊後守家次(ぶんごのかみいえつぐ)から始まり、相撲の宗家として代々「追風」の号を名乗る。元来、京都二条家に、奉公し節会相撲の行事官として務めていた。その後、二条家の許しを受け、細川綱利に招聘され熊本藩に仕え、武家奉公をした。以来、熊本県熊本市に住む。
江戸時代には、勧進相撲が取り行われるようになり、寛政元年十一月谷風・小野川に横綱を免許した。
寛政3年および寛政6年に、征夷大将軍徳川家斉の上覧相撲を奉仕し、武家相撲の作法および土俵の登場・礼式などすべての相撲の様式を定めた。以来江戸時代を通じて、横綱免許はすべて吉田司家によって授与されていた。
西南戦争で吉田司家が西郷隆盛率いる反乱軍に従軍してからは一時的に権威が弱体化し、京都の五条家があちこちで横綱免許を出していた。梅ヶ谷藤太郎が吉田司家による免許を望んでからは権威が回復した。
明治維新の中で相撲廃止論が起こったとき、23世 吉田善門は身を挺して国技相撲を救った。後に大坂相撲にも吉田司家の免許を持つ公認横綱が4人登場した。
第40代横綱東富士欽壹までは吉田司家による横綱本免許状授与式(仮免許は、司家の主君であった細川家の東京小石川の別邸で取り行われた)が続いた。しかし、第41代横綱千代の山雅信以降は日本相撲協会が横綱推挙を行なうことになり、免許権を相撲協会に移譲した。
なお、第59代横綱隆の里俊英までは司家も推挙式に参加し、司家の15尺土俵における奉納土俵入りが行なわれたが、第60代横綱双羽黒光司以降は司家は推挙式には参加せず、15尺土俵での土俵入りも行われていない。
司家内部の不祥事により、25世 吉田追風と春日野理事長との会談で、吉田家の横綱授与の儀式を春日野理事長に委ね、当面は協会との関係を中断する旨を双方了解した。

