新選組

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新選組
Flag of Shinsengumi.svg
創設 1863年文久3年)
廃止 1869年明治2年)
所属政体 江戸幕府
所属組織 京都守護職
人員 24名(発足時)
約200名(最大時)
所在地 京都
最終位置 箱館
主な戦歴 池田屋事件
禁門の変
ぜんざい屋事件
明保野亭事件
三条制札事件
油小路事件
天満屋事件
戊辰戦争
鳥羽・伏見の戦い
甲州勝沼の戦い
宇都宮城の戦い
会津戦争
白河口の戦い
母成峠の戦い
宮古湾海戦
箱館戦争
二股口の戦い
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新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織である。

なお、「選」のは「撰」とも表記されることが多く、実際「新撰組」と表記された史料も多くある。局長近藤勇自身、表記には両方の字を用いている。

概要[編集]

幕末京都政治の中心地となり、諸から尊王攘夷倒幕運動過激派志士が集まり、治安が悪化した。従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、最高治安機関として京都守護職を新設し、会津藩主の松平容保を就任させた。その配下で活動した準軍事的組織が新選組である。同様の配下に京都見廻組があった。ただし、新選組は浪士町人農民身分を含む)で構成された「会津藩預かり」という非正規組織であり、京都見廻組は幕臣旗本御家人)で構成された正規組織であった。

隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。任務は、京都で活動する不逞浪士や倒幕志士の捜索捕縛、担当地域の巡察・警備反乱の鎮圧などであった。その一方で、商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど凄惨な内部抗争を繰り返した。

慶応3年(1867年6月幕臣に取り立てられ、翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従って戦い、敗戦に伴い散り散りになり、解散した。

明治政府が新選組と敵対していた倒幕派たちによって樹立された経緯もあり、近年まで史学的に研究されることがほとんどなく、現在における人気は明治時代からの講談や、後述する数々の小説映画ドラマなどフィクション作品の影響が大きい。漫画アニメゲームにもなり、老若男女から高い注目を集め、隊士の墓参りをするファンも多い。イベントも開催されている。

歴史[編集]

結成[編集]

壬生屯所跡 八木邸

文久2年(1862年)、江戸幕府庄内藩郷士清河八郎の建策を受け入れ、将軍徳川家茂上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集。

翌文久3年(1863年2月27日、集まった200名余りの浪士たちは将軍上洛に先がけ「浪士組」として一団を成し、中山道を西上する。浪士取締役には、松平上総介鵜殿鳩翁窪田鎮勝山岡鉄太郎松岡萬中條金之助佐々木只三郎らが任じられた。

京都に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚する。浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。これに対し近藤勇土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張。

鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄家里次郎に残留者を募るよう指示。これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京都の壬生村に残ったが、根岸派は直後に脱退。殿内・家里は排斥され、同年3月公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することを目的とし、新選組の前身である「壬生浪士組」(精忠浪士組)を結成。一方、江戸に戻ったメンバーは新徴組を結成した。

壬生浪士組は壬生村の八木邸前川邸などを屯所とし、第一次の隊士募集を行う。その結果36名余の集団となり、京都守護職松平容保から、主に不逞浪士の取り締まりと市中警備を任される。

4月大坂両替商平野屋五兵衛に100を提供させ、これを元手に隊服隊旗を揃え、隊規の制定にとりかかる。

6月大坂相撲力士と乱闘になり殺傷する。壬生浪士組にも負傷者が出た。奉行所は力士側に非があると判断。力士側は壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れる。

8月、芹沢鴨ら約30名の隊士が、京都の生糸問屋大和屋庄兵衛に金策を謝絶されたことに腹を立て放火。刀を抜いて火消を寄せ付けず、一晩かけて焼き尽くす。この事件に松平容保は憤り、近藤らを呼び出し処置を命じるとするが、これは現在否定されている[1]

同月、壬生浪士組は八月十八日の政変の警備に出動し、その働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。隊名は武家伝奏[2]から賜ったという説と、松平容保から賜ったという2つの説がある。後者の説は、会津藩主本陣の警備部隊名を容保からもらったという意味である。

9月、近藤・土方ら試衛館派が八木邸で芹沢鴨、平山五郎を暗殺。平間重助は脱走、野口健司12月切腹。水戸派は一掃され、試衛館派が組を掌握し近藤を頂点とする組織を整備した。

発展[編集]

池田屋跡(2009年)

元治元年(1864年6月5日池田屋事件で尊王攘夷派志士を斬殺・捕縛。新選組の名は天下に轟いた。8月禁門の変の鎮圧に参加。

池田屋事件と禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩から感状と200両余りの恩賞を下賜されると、同年9月に第二次の隊士募集を行い、更に近藤が江戸へ帰郷した際に伊東甲子太郎らの一派を入隊させる。新選組は200名を超す集団へと成長し、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転する。

長州征伐への参加に備え、戦場での指揮命令が明確になる小隊制(一番組〜八番組及び小荷駄雑具)に改組。「軍中法度」も制定した。しかし新選組に出動の命令はなかった。

慶応3年(1867年3月、伊東らの一派が思想の違いなどから御陵衛士を結成して脱退。同年6月、新選組は幕臣に取り立てられる。同年11月、御陵衛士を襲撃し、伊東らを暗殺する(油小路事件)。

解散[編集]

慶応3年(1867年)10月に将軍・徳川慶喜大政奉還を行った。新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加するが、初戦の鳥羽・伏見の戦い新政府軍に敗北。榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へ撤退する。この時期、戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走し、戦力が低下した。

流山本陣跡(千葉県流山市
近藤勇・土方歳三の別離地。

その後、幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改め甲州勝沼の戦いに出動するが敗れる。再び江戸に戻ったが、方針の違いから永倉新八原田左之助らが離隊して靖兵隊を結成。近藤、土方らは再起をかけ、流山へ移動するが、近藤が新政府軍に捕われ処刑され、沖田総司も持病だった肺結核の悪化により江戸にて死亡。また諸事情で江戸に戻った原田は彰義隊に加入し上野戦争で戦死した(諸説あり)。

新選組は宇都宮城の戦い会津戦争などに参加するが、会津では斎藤一らが離隊。残る隊士たちは蝦夷地へ向かった榎本らに合流し、二股口の戦い等で活躍する(蝦夷共和国も参照)。新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた隊士たちを助けようと土方ら数名が助けに向かうが、土方が銃弾に当たり戦死し、食料や水も尽きてきたため、新選組は降伏した。旧幕府軍は箱館の五稜郭において新政府軍に降伏した(箱館戦争)。

明治政府は、隊士の遺族らに遺品の所有を禁じた。

評価の変遷[編集]

壬生寺にある近藤勇の像

明治時代は、新選組と敵対していた薩長出身者が政治の実権を握っていたこと、又皇国史観の影響により、賊軍となった新選組を否定する風潮が強かった。この為史学的な研究も遅れた。

大正時代に大佛次郎が著した小説『鞍馬天狗』でも、新選組は悪役として描かれている。但し、講談の影響で庶民からは一定の人気があり、『鞍馬天狗』の中でも近藤勇だけは他の隊士と違って人格者の豪傑として描かれていた。

昭和3年(1928年)に『新選組始末記』(子母澤寛)、『新撰組史録』(平尾道雄)が刊行されると、新選組は再評価され始めた。昭和8年(1933年)、警視庁に創設された特別警備隊(現在の警視庁機動隊)は、「昭和の新選組」の通称で親しまれた。太平洋戦争中には陸軍で編成された飛行第47戦隊(初代隊長 下山登中佐、第2代隊長 奥田暢少佐)と、海軍で編成された第343海軍航空隊戦闘301飛行隊(隊長 菅野直大尉)も「新選組」と呼称されている。

戦後は、映画やテレビドラマで新選組が主役に扱われることも多くなり、各隊士にもスポットが当てられるようになった。昭和40年代に放送された『新選組血風録』、『燃えよ剣』(司馬遼太郎原作、栗塚旭主演)は新選組ブームを起こした。近年では、新選組をモチーフにしたアニメやゲームも数多く生まれており、幅広い世代から愛好されている。

年表[編集]

西本願寺太鼓楼

文久3年(1863年)[編集]

文久4年、元治元年(1864年)[編集]

元治2年、慶応元年(1865年)[編集]

慶応2年(1866年)[編集]

慶応3年(1867年)[編集]

慶応4年、明治元年(1868年)[編集]

明治2年(1869年)[編集]

実像[編集]

入隊資格[編集]

年齢や身分(士農工商)による制限はなく、尽忠報国の志がある健康な者であれば入隊できた[3]実技試験もなかった[4][5]。ただし既婚者は妻子を壬生の屯所から10(約40km)以上離れた場所に住まわせることが条件とされた。これは、新選組が男の合宿制をとっていること、妻子が近くにいることによって命を惜しむようになることを防ぐためと考えられる。幹部に昇進すれば京都に家を持ち、妻子やを迎えることが許された。

新選組と交流のあった加太邦憲の述懐によれば、入隊後一定期間は「仮同志」という試用期間となっており、先輩隊士が夜に押し込むなどして度胸が試され、この時に臆病なふるまいをした者は追放されたという[6]

任務[編集]

京都で活動している不逞浪士倒幕志士捜索捕縛、担当地域の巡察・警備など、警察活動を任務としていた。

後述する数々のフィクション作品の影響により、浪士を斬りまくった「人斬り集団」とのイメージが強いが、実際には捕縛(生け捕り)を原則としており、犯人が抵抗して捕縛できない場合のみ斬った[7]。激闘で有名な池田屋事件においても、最初は敵の人数が上回ったため斬る方針で戦ったが、土方隊が到着して新選組が有利になると、方針を捕縛に変えている[8][9]。事件後、近藤勇は「討取七人、疵為負候者四人、召捕二十三人」(7人を殺し、4人に手傷を負わせ、23人を捕縛した)と報告している[10]

新選組の担当地域は歓楽街祇園伏見[11]であり、御所官庁街会津藩兵1000名、その周りは京都見廻組500名が固めていた。従来からの京都所司代京都町奉行も治安維持にあたっていた。他の組織が管轄を順守していたのに対し、新選組は浪士の逃亡などを理由に管轄破りをすることも少なくなかったといわれる。

映画やテレビドラマでは、新選組が隊旗を先頭に集団で巡回する様子が映されることが多いが、そのような目撃記録はない[12]

訓練[編集]

1865年慶応元年)に撃剣柔術文学砲術馬術槍術の各師範を設けた。しかし、どの程度稼働していたのかははっきりしない[13]

局長近藤勇、副長土方歳三、一番隊組長沖田総司ら新選組の代表者が天然理心流試衛館の剣客であったことから、新選組所縁の剣術として天然理心流が有名であるが、他の隊士は神道無念流北辰一刀流その他まちまちであり、新選組イコール天然理心流ではない[14]。撃剣師範7名のうち天然理心流は1名(沖田総司)である。流派や入隊時期が異なれば形稽古はできないため、稽古は竹刀打ち込み稽古に限られていた[14]。稽古はかなりの激しさだったらしく、新選組が駐屯していた八木邸八木為三郎は、打ち倒されて動けなくなっている者をよく見たという。また、近藤勇や芹沢鴨は高いところに座って見ていることが多かったが、土方歳三はいつも胴を着けて汗を流しながら「軽い軽い」などと叱っていたという[15]

戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦い新政府軍に刀で挑んで敗れ、土方が「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし」と語ったこと[16]や、甲州勝沼の戦いで近藤が率いた甲陽鎮撫隊迅衝隊にわずか2時間で敗れた事例などから、白兵戦に特化した集団とのイメージを持たれることが多いが、幕府陸軍に倣いフランス式軍事訓練を行っていた。西本願寺境内で大砲小銃の訓練を行い、銃砲の音に迷惑した西本願寺が訓練の中止を求め会津藩に陳情した。その後壬生寺に訓練場所が移されたが、訓練が参詣人の妨げになり、砲の音響で寺が破損するなどの被害が発生している。

戦術[編集]

組織力を強化するため、#役職を設け、指揮命令系統を作り上げた。

戦法は、必ず敵より多い人数で臨み、集団で取り囲んで襲撃するものであった。例えば三条制札事件では8人の敵に対し34人の味方を用意し、油小路事件では7人の敵に対し35、6人で襲撃した[17]。さらに、「死番」という突入担当者をローテーションであらかじめ決めておき、突然事件が起きても怯むことなく対処できるようにした。

服装・装備[編集]

ダンダラ羽織、鉢金

当初、袖口に山形の模様(ダンダラ模様)を白く染め抜いた浅葱色水色)の羽織を着用していたとされる。羽織のダンダラは忠臣蔵赤穂浪士吉良邸に討ち入りしたときに着ていた羽織の柄で、浅葱色は武士切腹のときに着るの色である。製作したのは大文字屋呉服店(現在の大丸)。一説には、大文字屋ではなく「呉服問屋・菱屋」ともいわれる。

ダンダラ羽織は最初の1年ほどで廃止されたらしく、池田屋事件の時に着用していたとする証言が最後の記録である。池田屋事件の2日後に目撃された隊士の服装は、着込襦袢、襠高脚絆、後鉢巻、白のであった[18]。新選組に尾行されていた大村藩士・渡辺昇によれば、尾行者が黒衣・黒袴であればすぐに新選組であると判ったという。また、明治末期に老人が、新選組は黒羅紗筒袖の陣羽織を着ていたと証言していることから、ダンダラ羽織の廃止後は黒ずくめであったと考えられる。

警備や戦闘の際には、鉢金鎖帷子籠手などの防具を装着した。主な武器はであった。局長の近藤勇は打刀とほぼ同寸の長脇差を好んだ。副長の土方歳三も、刃長28和泉守兼定、1尺9寸5堀川国広の刀を用いていた。

鳥羽・伏見の戦い新政府軍に敗れた直後に土方が会津藩から2000を受給しており、新式の兵装備品に充てた可能性が高い[19]

隊旗[編集]

隊旗の一例

地に字または字で「誠」を染め抜き、隊服と同じようにダンダラが入っていたとする隊旗が一般的。全部で6種類あるとされている。現在の高島屋にあたる古着木綿商によって特注で製作されたものである。その隊旗が現れたとき、敵は恐怖で凍りついたと言われる。

新選組の隊旗が「誠」であったことから、近藤勇の実家・試衛館は「誠衛館」の誤りと推測する説もある。

給料[編集]

結成当初は資金難であり、新選組の後援者佐藤彦五郎からの支援だけでは足りなかったため、商家から資金を提供させたと伝えられる[20]

京都守護職配下時代は、会津藩からの御用金で賄っていた。その後、幕府配下になると、各隊士は幕府から給料を得た。『新撰組永倉新八』(昭和2年私家本)によれば、局長50、副長40両、副長助勤30両、平隊士10両の月給であったとされるが、実際はそれ以下であったと考えられる[21]。諸々の事件への出動により褒賞金等恩賞が下されることもあった。

局中法度・粛清[編集]

烏合の衆である浪人集団を統率する為、俗に「局中法度」(局中法度書)といわれる隊規を定めた。隊規は厳格に運用され、違反した組員は粛清された。成立は会津藩預かりとなった浪士組時代(文久3年/1863年)に近藤ら試衛館派から芹沢ら水戸派に提示されたと考えられている。天然理心流に入門する際に誓約させられる神文帳との類似性も指摘されている。

として機能し始めたのは「新選組」と名を改め近藤・土方を中心とする組織が整ってからで、伊東甲子太郎ら一派の暗殺の際にも適用されたといわれる。第一条「士道ニ背キ間敷事」等のように、内容は抽象的で、解釈は局長や副長の一存に委ねられるものであった。

一、士道ニ背キ間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手ニ金策致不可
一、勝手ニ訴訟取扱不可
一、私ノ闘争ヲ不許
右条々相背候者切腹申付ベク候也

子母沢寛昭和3年(1928年)に著した『新選組始末記』で紹介されて以来有名となり、上記の5ヶ条として知られるが、同時代史料にはこれを全て記録した物は現在までのところ発見されていない。永倉新八大正2年(1913年)に語った内容を記録した『小樽新聞』の記事(『新選組顛末記』)には、「私ノ闘争ヲ不許」を除く4ヶ条しか提示されておらず、名称も「局中法度」ではなく、「禁令」「法令」としか言及されていない。その為、上記の5ヶ条と「局中法度」という名称は、別に定められていた「軍中法度」を混ぜて子母沢寛が脚色したものと推測されている。

鳥羽・伏見の戦い以前の5年間での新選組内部における死者は45名にのぼる[22]。内訳を見ると倒幕志士との戦闘による死者数は6名で[23]、その他は殆どが切腹暗殺等の粛清絡みのものであった。記録を見る限りでは、新選組は自組織内での相互不信と内部抗争に明け暮れて、敵よりも同志を殺した数のほうがよほど多かった[24]

役職[編集]

局長を頂点に副長が補佐し、以下に副長助勤、監察方(内務監察)、勘定方(会計)などの役職を設けた。副長助勤は組長として平隊士を統率した。各隊は一番から十番まであり、各人員は10名前後。組長の下に伍長を置いた。新選組の組織編制は、職務の複数制を原則とする江戸時代の各組織と違い一人制であり、洋式軍制の影響が指摘されている。

以下に構成員。新選組の名を用いる以前(壬生浪士組)も含む。

隊士一覧[編集]

歴代局長[編集]

会津新選組局長[編集]

箱館新選組局長[編集]

局長[編集]

参謀[編集]

歴代副長[編集]

組長・組頭・副長助勤[編集]

1864年編成時組頭

諸士取調役兼監察方・浪士調役[編集]

勘定方[編集]

会計方[編集]

伍長[編集]

初期副長助勤[編集]

国事探偵方[編集]

文武師範[編集]

平隊士・同志[編集]

下記以外の隊士はCategory:新選組隊士を参照。

美男五人衆[編集]

自称新選組隊士・関係者など[編集]

壬生浪士組同志[編集]

箱館新選組[編集]

一分隊
一分隊平隊士
二分隊
二分隊平隊士
三分隊
三分隊平隊士
四分隊
四分隊平隊士
所属隊不明
平隊士

新選組を主題にした作品[編集]

モデルとした創作作品、端役として登場する作品は多数ある。ここでは新選組を主題としたもののみを掲げる。

小説[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

舞台[編集]

漫画[編集]

アニメ[編集]

ゲーム[編集]

音楽[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 宮地正人『歴史のなかの新選組』、岩波書店
  2. ^ 当時は野宮定功飛鳥井雅典
  3. ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 79頁
  4. ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 194頁
  5. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 84頁
  6. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 83-84頁
  7. ^ 伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、KTC中央出版 308頁
  8. ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 27頁
  9. ^ 歴史群像シリーズ『図説・新選組史跡紀行』、学習研究社 74頁
  10. ^ 伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、KTC中央出版 144頁
  11. ^ 伏見は当時、京都ではなかった。
  12. ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 188頁
  13. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 84頁
  14. ^ a b 小佐野淳『図説 武術事典』、新紀元社 152頁「新選組と武術」
  15. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 82頁
  16. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 128頁
  17. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 84-85頁
  18. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 126頁
  19. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 128頁
  20. ^ 特別陳列新選組-史料が語る新選組の実像- 京都国立博物館
  21. ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 199-200頁
  22. ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 209頁
  23. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 89頁
  24. ^ 伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、KTC中央出版 308-309頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]