田中米太郎

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田中米太郎
プロフィール
リングネーム 桂浜
身長 176㎝
体重 100㎏
誕生日 1928年1月2日
死亡日 (1995-08-31) 1995年8月31日(67歳没)
出身地 高知県
所属 日本プロレス
新日本プロレス
スポーツ歴 大相撲
トレーナー 力道山
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田中米太郎(たなか よねたろう、1928年1月2日 - 1995年8月31日)は、日本プロレスラー。元二所ノ関部屋力士。プロレス時代には桂浜のリングネームを名乗っていた。

人物[編集]

高知県の出身。大相撲二所ノ関部屋では「桂浜」の四股名で土俵に上がっており、力道山の付き人をしていた[1]序二段まで昇進したのちに廃業し、力道山率いる日本プロレスへ入門する。巨人軍から入団した馬場正平(ジャイアント馬場)のデビュー第1戦の対戦相手としても知られている。ちなみに試合は馬場に敗戦した[1]。また、アントニオ猪木のデビュー第3戦目で相手を務めて初白星を献上している。猪木は自身の著書で田中について「道場では一番弱かった」と回想している[1]

力道山とは親交が深く、大相撲時代を含めてプロレスラーになってからも側近(付き人頭[2])として知られた。

力道山が東京都中央区日本橋浪花町(現在の日本橋富沢町)に道場を開設した際に、田中はちゃんこ番を務めている。菊池孝によると「ちゃんこの腕前は日本マット界随一だった」と言われており、田中がちゃんこを作った際に力道山は、わざわざ道場に出向いて来るほどであったという[2]。その後1961年(昭和36年)春に、港区赤坂台町(現在の赤坂)へ合宿所が移転した際、田中は寮長に就任している[2]

力道山が暴漢に刺されて入院中も付き添っていたが、田中が目を離したすきに力道山が禁じられていた水を口にしていまい、死につながったという逸話がある。[要出典]

力道山が逝去した後にレフェリーへ転向し、ジョー樋口と共に日本プロレスの前座試合を裁いていた。

1973年4月1日坂口征二小沢正志木村たかし・大城大五郎と共に新日本プロレスへ移籍する。そのまま引き継いでレフェリーを務めた。

1995年8月31日、都内の自宅にて病没。[要出典]

関連人物[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c アントニオ猪木自伝(新潮文庫)
  2. ^ a b c ベースボール・マガジン社「週刊プロレス」 2003年12月19日号 P78より