北尾光司

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北尾 光司
プロフィール
リングネーム 北尾 光司
北尾 光覇
本名 北尾 光司
ニックネーム デンジャラス新人類
サンダーストーム
身長 200cm
体重 150kg
誕生日 1963年8月12日(45歳)
出身地 三重県津市
スポーツ歴 大相撲
トレーナー 坂口征二
ルー・テーズ
デビュー 1990年2月10日
引退 1998年10月11日
  
双羽黒 光司
四股名 双羽黒 光司
本名 北尾 光司
生年月日 1963年8月12日(45歳)
出身 三重県津市
身長 199cm
体重 157kg
所属部屋 立浪部屋
成績
現在の番付 廃業
最高位 第60代横綱
生涯戦歴 348勝184敗24休(54場所)
幕内戦歴 197勝87敗16休(21場所)
優勝 十両優勝1回
序ノ口優勝1回
殊勲賞5回、技能賞2回
データ
初土俵 1979年3月場所
入幕 1984年9月場所
引退 1988年1月場所
引退後 プロレスラー
総合格闘家
立浪部屋アドバイザー
備考
金星3個(北の湖1個、千代の富士1個、隆の里1個)
2008年7月11日現在
  

北尾 光司(きたお こうじ、1963年(昭和38年)8月12日 - )は、三重県津市出身で立浪部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー、元総合格闘家、元スポーツ冒険家。現在は大相撲立浪部屋のアドバイザー、ナイフ評論家。第60代横綱双羽黒 光司(ふたはぐろ こうじ)。

目次

[編集] 略歴

いわゆる「花のサンパチ組」の一人。幕内優勝経験のない唯一の横綱(優勝制度成立後)で、稽古嫌いで知られ、千代の富士のみによる長年の一人横綱状態を打破するために不適格ながら横綱に昇進したとして「仮免横綱」と揶揄された。1987年12月、師匠の立浪親方(関脇安念山治)との意見の相違などから廃業。

後にスポーツ冒険家、プロレスラー総合格闘家実業家と転身した。大相撲現役当時、PC-9801を使うパソコン・マニアとして有名であった。ナイフのコレクターとしても現役時代から知られ、引退後、テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」にコレクションを出品した事がある。当時の流行語にあやかって「新人類横綱」とも呼ばれた。

現在は部屋付きアドバイザーという形で角界に出戻りし活動している(ただし日本相撲協会所属ではない)。

[編集] 人物

[編集] 大相撲時代

四股名の双羽黒は、「双葉山」と「羽黒山」という、立浪部屋が生み出した2人の大横綱からつけられた。当時の春日野理事長(横綱・栃錦)が名付け親である。しかしこの名前は明らかに不自然で評判が悪く、ある時は「『羽黒』は稽古をしなかった元大関の『若羽黒』から、『双』はその若羽黒以上に稽古をしないという意味だ」と、当時やくみつるの四コママンガで揶揄されたこともあった。また後日相撲雑誌で『第二候補の四股名(緑島)が別に存在し、そちらにしておけばもっと長く活躍できたかもしれない』とも言われている。後に北尾は「『素質の北尾・努力の保志』とレッテルを貼られて、稽古嫌いと言われた事は非常に心外だった。自分は一生懸命強くなろうと努力していたのに、誰も評価してくれなかった」と述べている。

なお「双羽黒」は横綱昇進時に付けられた四股名で、大関時代以前はずっと本名の「北尾」で相撲を取っていた。本人は四股名を付けられるのを嫌がっていたと言われるが、横綱に昇進するに当たり本名のままでは問題があると説得されたらしい。なお横綱昇進後も本名のままだった力士は、大相撲の歴史上輪島ただ一人だけだが(帰化によって本名の変わった外国出身力士を除く)、双羽黒も改名届提出が横綱推挙式の後になったため、推挙状は「北尾」名義での発行となった。

恵まれた体格と素質は誰しもが認めるもので、実際大関までの昇進は比較的スムーズだった。しかし父親が建設会社取締役で、一人息子として甘やかされて育ったためか、稽古が少しでも厳しいと「故郷へ帰らせてもらいます」が口癖で、また師匠も本人ではなく兄弟子に厳しい稽古を注意した。ひどい時は稽古をサボって喫茶店に行ったりもしたが、師匠が注意をしない為、誰も見て見ぬふりをしていた。さらに弟弟子に対するイジメまがいの行動(付き人をエアガンで撃って遊ぶなど)で、付き人が集団脱走・廃業した等と報道されたこともある。そういった人格面での問題と、不透明な横綱昇進の経緯もあって、全盛時代から相撲ファンの間での評価は割れていた。

大関(北尾)時代の1986年5月場所、小錦の取組で鯖折りで小錦の右膝を負傷させたが、小錦にとってはこの故障は引退までたたった。一度は小錦に軍配が上がったものの物言いが付き、取り直しとなったあげくに膝を負傷させられたという経緯がある。諸説あるが「最初の取組は行司の判断通り小錦優勢」と見る者も多く、取り直しとなったのは「外国人差別ではなかったか」という疑念を呈する向きもある。

一部の報道では、小錦は不可解な裁定を受けたあげく怪我をさせられたため、周囲に「相撲をやめる」と強く訴えたと言う説もある。小錦にあの故障がなかったら、という意見は根強く、また1987年の双羽黒廃業事件で横綱昇進の基準が厳格化されたことも、結果として「横綱・小錦」誕生に向かい風となった。このため平幕三役時代の強かった小錦を惜しむ人の中に、「小錦の横綱への道を断った」と双羽黒を恨む声もある。しかし小錦本人は双羽黒を恨んではいないらしい。

1986年7月場所後、横綱審議委員会が開催され北尾の横綱昇進が討議された。北尾は直近の5月場所は12勝3敗で準優勝、7月場所は14勝1敗で優勝同点(優勝決定戦で千代の富士に敗北)だった。横審では「優勝経験のない力士が横綱になるのはおかしい」「精神面に甘さがある」との意見が出た。稲葉修委員が最後まで反対したものの、結局横綱に推薦された。横綱推挙伝達式での口上は、「心技体の充実に心懸け、横綱の名に恥じぬよう一層稽古に精進致します」であった。

優勝経験が一度もない北尾(双羽黒)が横綱に昇進できたのは、当時横綱が千代の富士1人で東西に横綱が欲しいという相撲協会の事情と、同時期に保志(後の北勝海)の大関昇進が確定的で北尾を大関に据え置きにすると一横綱六大関になり非常にバランスの悪い番付になるという事情があったからと言える。また北尾(双羽黒)の素質・年齢からいってそのうち優勝はできるだろうという甘い見通しがあったと見る向きもある。

しかし双羽黒の横綱昇進後は、合計3回の場所(1986年11月・1987年1月・1987年11月)で千秋楽まで優勝争いに絡んだものの、3回いずれも最後は千代の富士に敗れて優勝は出来なかった。又当時の横綱陣の中で、双羽黒が一番良い成績だった事が一度も無かった為に、番付は必ず西の正横綱か東西の張出横綱に甘んずることになり、東の正横綱の座に双羽黒の名前が載ることは遂に無かった。

双羽黒が活躍した時代は千代の富士の全盛時代であったが、それでも対千代の富士戦は6勝8敗(横綱昇進後は2勝3敗)と健闘している。千代の富士自身も後年、朝日新聞のインタビューで「双羽黒が廃業しなかったら、自分は横綱の地位にこれだけ長く留まれたかどうかわからない」と、その素質と強さを認めるコメントを出している。

1987年12月27日、師匠である立浪親方とのいさかいから部屋を出奔、そのまま破門同然の廃業という事態になった。部屋の若い衆が「あんなちゃんこが食えるかと横綱(双羽黒)が言っている」と師匠にいいつけたことが事の発端とも言われているが、双羽黒は立浪親方とちゃんこの味付けをめぐって大喧嘩、仲裁に入った後援会会長を殴るばかりか、同部屋の女将にも怪我を負わせるという騒動を起こし、部屋を出ていってしまった(両者の言い分が食い違っていることと、公的な告訴もなかったため、実際に殴ったり怪我を負わせたかどうかは不明)。双羽黒がマンションの一室に篭城中に立浪親方が廃業届を協会に提出、この事態を受け大晦日ぎりぎりの12月31日に日本相撲協会緊急理事会が開かれ、双羽黒の廃業を決議した(破門すべしとの意見も当然あったわけであるが、まだ24歳という青年の将来に配慮し、恩情的に廃業という形がとられた)。同日、双羽黒は記者会見を開き「相撲道の違いで師匠について行けない、自分を貫いた」と正式に廃業を発表した。既に発表されていた1988年1月場所の番付には、双羽黒の名が残っている。

怪我や力の衰えで引退したのではなく、師匠と喧嘩したあげくの廃業ということもあって、世間の見方は厳しく同情論はほとんど聞かれなかったものの、その素質を惜しむ声もあり、作家の野坂昭如などわずかではあったが双羽黒を支持した者たちもいた。翌年3月には東京都内のホテルで断髪式が行われたが、3月場所の直前ということもあって相撲協会関係者は一人も出席しなかった(止めばさみを入れたのは父親であった)。

[編集] プロレスラー・総合格闘家時代

大相撲廃業後からプロレス入りまでの間は、ボクシングアメフトなどからのオファーを断り、「スポーツ冒険家」という肩書きでタレント活動。テレビや週刊誌等の取材にもよく応じており、曰く「相撲はビジネスの一つ。未練は全くない」とのことであった。「週刊プレイボーイ」「ビッグコミックスピリッツ」等で人生相談のコーナーなども持ち、「大相撲をやめたからプロレスにいくんだろうとか思ってるかもしれないが、そんな安易な考えはない」と語っていた。

とはいえ「やはり北尾の進むべき道はプロレスしかない」という世間の見方は根強かった。そんななか、「スポーツ冒険家」の仕事で、アメリカプロレスラー養成所のひとつ「モンスター・ファクトリー」を訪れる。そこで同行していた東京スポーツの取材に対し「(もしプロレスを)やるなら外人と同じように1シリーズごとに契約という形だね」と、初めてプロレス転向に色気を示す発言をした。その場は進展こそなかったが、この発言以降、急速にプロレスへと傾倒していく。

そして1990年2月10日新日本プロレス東京ドーム大会でプロレスデビューすることになる。「アメリカで数か月間、みっちり修行を重ねた」という触れ込みで帰国。その際にはルー・テーズの指導も受けており、北尾は「僕の(プロレスの)師匠(と呼べるの)はルーお父さん」と語っている。リングネームは自身で考えたサンダーストーム北尾で(実際には使われなかった)、対戦相手はクラッシャー・バンバン・ビガロ。入場時のテーマ曲は「超闘王のテーマ」で、デーモン小暮閣下による作曲。黄色いタンクトップをリング上で引き裂くパフォーマンスを見せ、デビュー戦を勝利で終えた。この試合でのフィニッシュ技はギロチン・ドロップ。

試合運びやパフォーマンスは世界的人気レスラーハルク・ホーガンを意識したものだったようだが、身のこなしや技の切れはまだまだプロレスラーとしての説得力には欠けており、勝利を得たのはスター候補生としての特別待遇からだと誰の目にも明らかだった(ちなみに北尾が力士時代に付けられたアダ名は「超人ハルク」だった)。それでいて自信満々の態度で入場し、相手を挑発し、勝利に意気揚々としているなど、あまりの勘違いっぷりからプロレスファンの失笑を買い「帰れコール」が起きた。北尾の数年前に全日本プロレスでデビューした元横綱・輪島大士にも同様の特別待遇は見られたが、輪島は当時既に30代後半と体力的なピークは過ぎたとされており、また北尾のような勘違いした行動も見せなかったため、大相撲時代のファンから同情され温かい目で見守られる余地もあった。しかし北尾は20代半ばと若く、下積みの努力をすれば本格的なレスラーとしても通用するはずだと認識されていただけに、大相撲廃業時と同様に厳しい目に晒される結果となった。

それ以降も対戦相手に恵まれて勝ちはするものの、リング外での大口叩きやふてぶてしい態度、さらにはいつまでたっても「しょっぱい」ままで成長のない試合内容からプロレスファンの目は厳しかった。ほとんどの試合でブーイングや強烈な野次を浴びせられ、果ては対戦相手の二線級の外人レスラーに応援コールが沸き起こってしまう始末だった。本来ならば日本のエース選手にもなれる素質を持っていると見られているのに、日本のファンから見放され、完全にヒール扱いになってしまっていた。北尾がそれに不満そうな態度だったことも、ますますファンの反感を買う結果となった。当時、シングルCDとして発売された「超闘王のテーマ」のキャンペーンで、中日スポーツ(スポーツ紙)の取材に応じた北尾は「自分の試合が速く終わるので、それが不満でブーイングが起きる」などと語っている。「技を受けない」「セルを取らない」北尾に対し、対戦レスラーは露骨に不満を現し、しばしばリング上で不穏な空気が流れた。

デビューは新日本プロレスだが、実際には所属レスラーではなくフリー選手扱いであり、程なくしてマッチメイカーの長州力と対立した。大相撲時代と同様に練習嫌いは直らず「今日は腰が痛い」といって練習をサボるようになり、長州力に対し『この朝鮮人野郎』と民族差別発言をして、新日本プロレスから契約解除を言い渡された。ただし、北尾が辞める際には、北尾に坂口征二社長(当時)が同席しての記者会見が開かれ、表向きは円満退社のような扱いがなされていた。その一方で、(「アームズ」という芸能事務所に所属してのフリーランス扱いだったとはいえ)待遇面に関しては、所属選手と同等の扱いだったことも、会見の席上で明らかにされた。

新日本プロレスを解雇されると、大相撲の先輩である天龍源一郎を頼って創立間もないSWSへ参戦。しかし同じく元大相撲力士であるジョン・テンタ(ジ・アースクエイク 元幕下・琴天山)との試合で反則負けを宣せられたあげく、マイクでテンタに対し『この八百長野郎!八百長ばっかりやりやがって!』と発言、さらに観客に向かって『こんな八百長試合を見て面白いのか!』と叫んだ。プロレス業界で「禁句」といえる八百長発言に、会場だけではなくプロレス業界全体が騒然となる(本人は「盛り上がっただろう?」と至ってご満悦だったようである)。発言のみが一人歩きしてスキャンダラスに報じられただけでなく、当時、団体の社長となっていた天龍が「この件は私の不徳と致すところ」と田中八郎オーナーに辞表を提出し(田中オーナーは慰留)、ザ・グレート・カブキが「北尾復帰戦は俺がやる」と発言するなど、その波紋と代償は大きかった。団体側は一旦北尾に謹慎を命じたものの、内外から批判が渦巻いたことで事態を重くみたSWSは、北尾解雇の断を下し、さすがに北尾も「仕方ありません」と甘んじて受け入れざるを得なかった。新日本プロレス、SWSと立て続けに解雇となったことで、大相撲だけではなくプロレス界も復帰不可能と見る関係者も多かった。

問題となったテンタとの試合でも、プロレスの試合を組み立てようとするテンタに対し、まともに技の受け合いをしようとせず、あげくの果てに目潰しのポーズをとって威嚇するなど(シュートを仕掛けたらしい)、目に余る態度だったのは広く知られている。なおテンタとの試合での目潰しポーズは、いわゆるサミング(親指による目潰し)ではなく、人差し指と中指を立てたもの。ポーズをとっただけで、実際の攻撃はしていない。この際も客席からは北尾に対するブーイングが巻き起こっている。

SWSを解雇された約1年半後の1992年に、総合格闘家として復帰。UWFインターナショナルや、初期のPRIDEなどにも登場していたが、高田戦におけるハイキックKO負けですべてが終わったと見るファンは多い。1994年1月には格闘技塾・北尾道場(後の武輝道場)を旗揚げし、道場生と共に天龍源一郎率いるWARを主戦場にした。1996年4月5日、第1回ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティングでペドロ・オタービオと対戦し、1R5分49秒、グラウンドでの肘打ちで敗北。総合格闘技への復帰後は以前のような態度は影を潜め、リング四方に深々と頭を下げる謙虚さを見せ、昔を知るファンを大いに驚かせた。1997年10月11日PRIDE.1において総合格闘技戦で初勝利を収めた直後、「やりたいことをやり終えた」として引退を表明。1998年10月11日PRIDE.4にて引退セレモニーを行った。

[編集] 相撲界復帰時代

2003年9月、日本相撲協会所属ではないフリーの立場ながら、代替わりした立浪部屋のアドバイザーに就任。現役時代に使用した化粧回しを日本相撲協会に寄贈した。

この時、縁の無かった現立浪親方(小結・旭豊勝照)と北尾を結びつけたのは、双羽黒が暴行したために集団脱走騒動を起こしたと先代立浪親方(関脇・安念山治)が主張していた双羽黒の元付き人の一人(幕下6・立田仲憲二、現在の世話人羽黒海憲司)であると言われている。また、先代立浪には後年発生した立浪親方とのトラブルの他にも、「横綱・大関昇進の際の祝儀金は大半を先代立浪親方に先取りされてしまい、自分の手元にはほとんど残らなかった」という北尾の指摘や、所属する幕下以下の力士への手当金を着服していたのではないかという疑惑など、金銭に関する不始末ともいえる問題が複数囁かれている。

また、双羽黒が廃業となった原因の大晦日のニュースで、当時の春日野理事長が先代立浪に対して突き放した発言を残しており、この事もこれらの裏付けとして世間では見られている。

この様な事もあり、双羽黒の力士廃業の経緯についての先代立浪の主張については、後年に至りあらためて大きな疑義を抱かれている。双羽黒の廃業の実際の原因についても、先代立浪の主張する様な粗暴行為ではなく、先代立浪が引き起こした金銭トラブルに巻き込まれ、この事で横綱の権威に傷が付く様な事態を引き起こされ(たとえば暴力団の関与など)、これにより相撲界から離れざるを得なくなったのではないか、という見方をする者も現れている。また、単純に双羽黒が粗暴行為などの先代立浪が主張した様な問題行動だけで相撲界から飛び出したのであれば、保守的な体質で知られる相撲協会が、いくら外部の立場とはいえ北尾(双羽黒)の相撲部屋への関与を容認するとは考えにくいという見方も根強く、これも疑義を抱く者たちの一つの根拠となっている。いずれにせよ、双羽黒を一方的な悪者とする見方は減っている。

そういった面からも、北尾は度重なるトラブルに反省し人間的に成長したとの見方も出てきている。現立浪部屋のアドバイザーとなっていること、近年になって横綱会に参加している事などはスポーツ新聞などでも報じられている。

[編集] 略歴

  • 1979年3月:立浪部屋に入門。四股名は本名の北尾
  • 1984年1月:新十両
  • 1984年9月:新入幕。
  • 1986年9月:横綱に昇進、双羽黒を名乗る。
  • 1987年12月:廃業。
  • 1990年2月10日:新日本プロレス東京ドーム大会、対バンバンビガロ戦にてプロレスデビュー、同年SWSに移籍。
  • 1991年4月:SWS神戸大会にて「八百長発言」、同団体を解雇される。
  • 1992年10月23日:武道家に転身、UWFインターナショナルにおいて、高田延彦と対戦。KO負け。
  • 1993年:格闘技塾・北尾(武輝)道場設立。
  • 1994年1月21日:東京・後楽園ホールにて武輝道場旗揚げ戦。
  • 1996年:クエスト(The Quest)キシュウヤマ(力士)役でハリウッド・デビュー。
  • 1997年:リングネームを北尾光覇(-みつはる)に改名。
  • 1997年10月11日:PRIDE.1のネイサン・ジョーンズ戦にて、総合格闘技戦初勝利。
  • 1998年7月1日:現役引退を表明
  • 1998年10月11日:PRIDE.4にて引退セレモニー。
  • 2003年9月:立浪部屋のアドバイザーに就任。

[編集] 大相撲時代のデータ

[編集] 幕内での場所別成績

197勝 - 87敗 - 16休場
殊勲賞5回、技能賞2回、金星3個[1]
双羽黒光司
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1984年
(昭和59年)
x x x x 東 前頭 #8
8–7
 
西 前頭 #3
8–7
1985年
(昭和60年)
西 小結
10–5
東 小結
10–5
西 関脇
6–6–3[2]
 
東 前頭 #1
12–3
西 関脇
11–4
 
東 関脇
12–3
1986年
(昭和61年)
東 張出大関
10–5
 
西 大関
10–5
 
東 大関
12–3
 
東 大関
14–1[3]
 
西 横綱
3–4–8[4]
 
西 横綱
12–3
 
1987年
(昭和62年)
西 横綱
12–3[3]
 
西 横綱
7–3–5[5]
 
西 横綱
10–5
 
西 横綱
8–7
 
東 張出横綱
9–6
 
西 張出横綱
13–2
 
1988年
(昭和63年)
東 張出横綱
引退
0–0–15
x x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下

三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口

幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

注:「引退」は正しくは「廃業」。テンプレートの技術的問題による。

[編集] 主な成績

  • 通算成績:348勝184敗24休
  • 幕内成績:197勝87敗16休
  • 横綱成績:74勝33敗13休
  • 幕内在位:20場所(番付上は21場所)
  • 横綱在位:8場所(番付上は9場所)

[編集] 各段優勝

  • 十両優勝:1回

[編集] 三賞・金星

  • 三賞:7回
  • 殊勲賞:5回(1984年11月場所、1985年3月場所、7月場所、9月場所、11月場所)
  • 技能賞:2回(1985年1月場所、7月場所)
  • 金星:3個(北の湖1個、千代の富士1個、隆の里1個)

[編集] 改名歴

  • 北尾 光司(きたお こうじ)1979年3月場所 - 1986年7月場所
  • 双羽黒 光司(ふたはぐろ -)1986年9月場所 - 1988年1月場所

[編集] プロレスラー、総合格闘家時代のデータ

[編集] タイトル歴

[編集] オリジナル技

北尾ドリラー
変形パイルドライバー。相手を肩にかつぎ、そのまま垂直に脳天をマットに突き刺す危険技である。難易度は低いが危険度は高いという、北尾らしい技である。

[編集] 著書

  • 『しゃべるぞ!』 徳間書店 1988年3月 ISBN 419553643X
  • 『北尾光司の相撲界言い捨て御免』 大陸書房 1989年2月 ISBN 4803318999

[編集] 脚注

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  1. ^北の湖千代の富士隆の里
  2. ^ 左足母趾第二趾中足趾関節挫傷により途中休場
  3. ^ a b 千代の富士優勝決定戦
  4. ^ 頸部捻挫及び神経根症により途中休場
  5. ^ 左膝関節挫傷・左膝蓋靭帯及び左膝外側側副靭帯損傷により途中休場

[編集] 外部リンク

先代:
大乃国康
大関
(在位:1986年1月-1986年7月)
次代:
北勝海信芳
先代:
隆の里俊英
第60代横綱
(在位: 1986年9月 - 1987年11月)
次代:
北勝海信芳
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