北尾光司

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北尾 光司
プロフィール
リングネーム 北尾 光司
北尾 光覇
本名 北尾 光司
ニックネーム デンジャラス新人類
サンダーストーム
身長 199cm
体重 150kg
誕生日 1963年8月12日(48歳)
出身地 三重県津市
スポーツ歴 大相撲
トレーナー 坂口征二
ルー・テーズ
デビュー 1990年2月10日
引退 1998年10月11日
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双羽黒 光司 Sumo pictogram.svg
基礎情報
四股名 双羽黒 光司
本名 北尾 光司
生年月日 1963年8月12日(48歳)
出身 三重県津市
身長 199cm
体重 157kg
所属部屋 立浪部屋
成績
現在の番付 廃業
最高位 第60代横綱
生涯戦歴 348勝184敗24休(54場所)
幕内戦歴 197勝87敗16休(21場所)
優勝 十両優勝1回
序ノ口優勝1回
殊勲賞5回、技能賞2回
データ
初土俵 1979年3月場所
入幕 1984年9月場所
引退 1987年11月場所(番付上では1988年1月場所)
引退後 プロレスラー
総合格闘家
立浪部屋アドバイザー
備考
金星3個(北の湖1個、千代の富士1個、隆の里1個)
2008年7月11日現在
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国技館辺に展示されている双羽黒の手形

北尾 光司(きたお こうじ、1963年(昭和38年)8月12日 - )は、三重県津市出身で立浪部屋所属の元大相撲力士で第60代横綱双羽黒 光司(ふたはぐろ こうじ)、元プロレスラー、元総合格闘家、元スポーツ冒険家。現在は大相撲立浪部屋のアドバイザー、ナイフ評論家。

目次

[編集] 略歴

大相撲力士としては、いわゆる「花のサンパチ組」の一人だった。優勝制度成立後の横綱としては唯一幕内優勝経験がなく、稽古嫌いでも知られ、千代の富士のみによる長年の一人横綱状態を打破するために、不適格ながら横綱に昇進したとして「仮免横綱」とも揶揄された。1987年12月、師匠の立浪親方(関脇安念山治)との意見の相違などから廃業。

後にスポーツ冒険家、プロレスラー総合格闘家実業家と転身した。大相撲現役当時、PC-9801を使うパソコン・マニアとして有名であった。ナイフのコレクターとしても現役時代から知られ、引退後、テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」にコレクションを出品したことがある。当時の流行語にあやかって「新人類横綱」とも呼ばれた。

現在は部屋付きアドバイザーという形で角界に出戻りし活動している(ただし日本相撲協会所属ではない)。

[編集] 人物

[編集] 大相撲時代

横綱昇進時に付けられた四股名の「双羽黒」は、「双葉山」と「羽黒山」という、立浪部屋が生み出した2人の大横綱の四股名からで、当時の春日野理事長(横綱・栃錦)が名付け親である。しかしこの名前は明らかに不自然で評判が悪く、ある時は「『羽黒』は稽古が嫌いだった元大関の『若羽黒』から、『双』はその若羽黒の倍以上に稽古をしないという意味だ」と、当時やくみつるの四コママンガで揶揄されたこともあった。また後日相撲雑誌で「第二候補の四股名(緑島)が別に存在し、そちらにしておけばもっと長く活躍できたかもしれない」とも言われている。後に北尾は「『素質の北尾・努力の保志(のち第61代横綱・北勝海)』とレッテルを貼られてしまい、『稽古嫌い』とずっと言われ続けたことは非常に心外だった。自分は一生懸命強くなろうと努力していたのに、誰も評価してくれなかった」と述べている。

なお大関時代以前は、ずっと本名の「北尾」で相撲を取っていた。本人は四股名を付けられるのを嫌がっていたと言われるが、横綱に昇進するに当たり本名のままでは問題があると説得されたらしい。なお横綱昇進後も本名のままだった力士は、大相撲の歴史上輪島ただ一人だけだが(帰化によって本名の変わった外国出身力士を除く)、双羽黒も改名届提出が横綱推挙式の後になったため、推挙状は「北尾」名義での発行となった。

恵まれた体格と素質は誰しもが認めるもので、実際大関までの昇進は比較的スムーズだった。しかし父親が建設会社の取締役で、一人息子として甘やかされて育ったためか、稽古が少しでも厳しいと「故郷へ帰らせてもらいます」が口癖で、また師匠も本人ではなく兄弟子に厳しい稽古を注意した。ひどい時は稽古をサボって喫茶店に行ったりもしたが、師匠が注意をしないため、誰も見て見ぬふりをしていた。さらに弟弟子に対するイジメまがいの行動(付き人をエアガンで撃って遊ぶなど)で、付き人が集団脱走・廃業した等と報道されたこともある。

大関(北尾)時代の1986年5月場所、小錦との取組で鯖折りで小錦の右膝を負傷させたが、小錦にとってはこの故障は引退までたたった。一度は小錦に軍配が上がったものの物言いが付き、取り直しとなったあげくに膝を負傷させられたという経緯がある。

1986年7月場所後、横綱審議委員会が開催され北尾の横綱昇進が討議された。北尾は直近の5月場所は12勝3敗で準優勝、7月場所は14勝1敗で優勝同点(優勝決定戦で千代の富士に敗北)だった。横審では「幕内優勝経験が一度も無い力士が横綱になるのはおかしい」「まだ精神面に甘さがある」との意見が出た。稲葉修委員が最後まで反対したものの、他の横綱審議委員からの反対意見は出なかったため、結局横綱に推薦された。横綱推挙伝達式での口上は、「心技体の充実に心懸け、横綱の名に恥じぬよう一層稽古に精進致します」であった。なお横綱土俵入りの型は、短命のジンクスが有る「不知火型」を選択した(立浪部屋の先輩である横綱・羽黒山も不知火型だったため。指導は元横綱・琴櫻佐渡ヶ嶽親方)。

ただ、優勝経験が一度もない北尾(双羽黒)が横綱に昇進できた背景には、当時横綱が千代の富士1人で東西に横綱が欲しいという相撲協会の事情と、同時期に北勝海の大関昇進が決定的で有り、北尾を大関に据え置きにすると一横綱六大関という、非常にバランスの悪い番付構成になってしまうという事情があったからと言える。いわゆる「ところてん式」(関脇→大関・大関→横綱の地位に押し出される意味の例え)による横綱昇進でもあった。

横綱昇進後は、合計3場所(1986年11月・1987年1月・1987年11月)で千秋楽まで優勝争いに絡んだものの、その3回いずれも最後は千代の富士に敗れて惜しくも幕内優勝は果たせなかった。また当時の横綱陣の中で双羽黒が最高成績だったことが一度も無かったために、番付は必ず西の正横綱か東西の張出横綱に甘んじることになり、東の正横綱の座に双羽黒の名前が載ることは遂に無かった。

双羽黒が活躍した時代は千代の富士の全盛時代であったが、それでも対千代の富士戦は6勝8敗(横綱昇進後は2勝3敗)と健闘している。千代の富士自身も後年、朝日新聞のインタビューで「もし双羽黒が廃業していなかったら、自分は横綱の地位にこれだけ長く留まれていたのか、又その後の53連勝や通算1000勝も達成出来たかどうかはわからない」と、その素質と強さを認めるコメントを出している。

1987年12月27日、師匠である立浪親方とのいさかいから部屋を出奔、そのまま破門同然の廃業という事態になった。部屋の若い衆が「あんなちゃんこが食えるかと横綱(双羽黒)が言っている」と師匠にいいつけたことが発端とも言われている。立浪親方談では、双羽黒は立浪親方とちゃんこの味付けをめぐって大喧嘩、仲裁に入った後援会会長を殴るばかりか同部屋の女将にも怪我を負わせるという騒動を起こし、部屋を出ていってしまった。ただし、両者の言い分が全く食い違っていることと公的な告訴もなかったため、実際に殴ったり怪我を負わせたかどうかという信憑性については疑問の余地が全く無いわけではない。

双羽黒がマンションの一室に篭城中に立浪親方が廃業届を協会に提出、この事態を受け大晦日ぎりぎりの12月31日に日本相撲協会緊急理事会が開かれ、双羽黒の廃業を決議した(破門・除名すべしとの意見もあったが、まだ24歳という青年の将来に配慮し、恩情的に廃業という形がとられた)。同日、双羽黒は記者会見を開き「相撲道の違いで師匠について行けない、自分を貫いた」と正式に廃業を発表した。既に発表されていた1988年1月場所の番付には、双羽黒の名が残っていたが、横綱在位数はわずか8場所(番付上では9場所)と、横綱在位場所数では琴櫻三重ノ海と並ぶ最短記録2位タイの短命に終わった。

怪我や力の衰えで引退したのではなく、師匠と喧嘩したあげくの廃業ということもあって、世間の見方は厳しく同情論はほとんど聞かれなかったものの、著名人の中にも作家の野坂昭如などわずかではあったが双羽黒支持を表明した者たちもいた。翌年3月には東京都内のホテルで断髪式が行われたが、3月場所の直前ということもあって相撲協会関係者は一人も出席しなかった。止めばさみを入れたのは父親だった。

当時は双羽黒の廃業直後から、テレビ新聞を中心とするマスコミの報道では、殆ど北尾を一方的に悪者扱いする報道が一般的であった。後年、2010年1月場所後に第68代横綱・朝青龍が度重なる素行問題やトラブルの末に現役引退に追い込まれた際にも、過去例として双羽黒のケースを引用していた。なお、当時マスコミが報道した立浪親方の主張に基づいた内容と、後年に明らかになってきた事実との相違について、検証などはほぼ全く行われていない。

[編集] プロレスラー・総合格闘家時代

[編集] プロレス参戦まで

大相撲廃業後からプロレス入りまでの間は、ボクシングアメフトなどからのオファーを断り、「スポーツ冒険家」という肩書きでタレント活動を行った。テレビや週刊誌等の取材にもよく応じており、曰く「相撲はビジネスの一つ。未練は全くない」とのことであった。「週刊プレイボーイ」「ビッグコミックスピリッツ」等で人生相談のコーナーなども持ち、「大相撲をやめたからプロレスにいくんだろうとか思っているかもしれないが、そんな安易な考えはない」と語っていた。

とはいえ「やはり北尾の進むべき道はプロレスしかない」という世間の見方は根強かった。そんな中、「スポーツ冒険家」の仕事で、アメリカプロレスラー養成所のひとつ「モンスター・ファクトリー」を訪れる。そこで同行していた東京スポーツの取材に対し「(もしプロレスを)やるなら外人と同じように1シリーズごとに契約という形だね」と、初めてプロレス転向に色気を示す発言をした。その場は進展こそなかったが、この発言以降、急速にプロレスへと傾倒していく。

[編集] 新日本参戦

そして1990年2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会でのプロレスデビューが決定。「アメリカで数か月間、みっちり修行を重ねた」という触れ込みで帰国した。その際にはルー・テーズの指導も受けており、北尾は「僕の(プロレスの)師匠(と呼べるの)はルーお父さん」と語っている。リングネームは自身が考案したサンダーストーム北尾を希望していたが、実際には使用されず本名でデビューする運びとなった。

北尾のデビュー戦の対戦相手は巨体と優れた運動神経、全身にタトゥーを刻んだインパクトのある外見で当時人気を博していたクラッシャー・バンバン・ビガロが選ばれた。「プロレスラー・北尾光司」の初披露はデーモン小暮閣下に作曲を依頼した入場テーマ曲『超闘王のテーマ』が流れ、次々とスモークが吹き上がり無数のスポットライトが照らす中、派手なコスチュームに身を包んだ北尾が現れるという新人としては異例といえるほど非常に豪華なものだった。なおこの際に着用していたリベットなどで装飾を施した独特のデザインの革製ジャケットは、北尾が漫画『北斗の拳』の大ファンであったことを受け制作した品だという。

リングに上がった北尾は黄色いタンクトップを引き裂くパフォーマンスを見せ、しきりに声を上げては決めポーズを取るアメリカンプロレスを意識したプロレスを展開、デビュー戦を勝利で終えた。この試合でのフィニッシュ技ギロチン・ドロップ。試合運びやパフォーマンスは世界的人気レスラーハルク・ホーガンを意識したものだったようだが、身のこなしや技の切れはまだまだプロレスラーとしての説得力には欠けており、勝利を得たのはスター候補生としての特別待遇からだと誰の目にも明らかだった(ちなみに北尾が力士時代に付けられたアダ名は「超人ハルク」だった)。それでいて自信満々の態度で入場し、相手を挑発し、勝利に意気揚々としているなど、余りの思い上がった態度と言動によりプロレスファンの失笑を買い「帰れ」コールが起きた。北尾の数年前に全日本プロレスでデビューした元横綱・輪島大士にも同様の特別待遇は見られたが、輪島は当時既に30代後半と体力的なピークは過ぎたとされており、また北尾のような勘違いした行動も見せなかったため、大相撲時代のファンから同情され温かい目で見守られる余地もあった。しかし北尾は20代半ばと若く、下積みの努力をすれば本格的なレスラーとしても通用するはずだと認識されていただけに、大相撲廃業時と同様に厳しい目に晒される結果となった。

それ以降も対戦相手に恵まれて勝ちはするものの、デビュー戦から改善が見られない単調な試合運びはプロレスファンの間で冷評され「北尾はしょっぱい」という声が上がり始める。やがてほとんどの試合でブーイングや強烈な野次を浴びせられ、果ては対戦相手の二線級の外人レスラーに応援コールが沸き起こってしまう始末だった。本来ならば日本のエース選手にもなれる素質を持っていると見られているのに、日本のファンから見放され、完全にヒール扱いになってしまっていた。更に北尾がその評価に対して不満を顕にしたことも、ますますファンの反感を煽る結果を招いた。当時、シングルCDとして発売された『超闘王のテーマ』のキャンペーンで中日スポーツの取材に応じた北尾は「自分の試合が早く終わるので、客はそれに不満に思いブーイングが起きる」という持論を展開している。

この北尾の言動はファンのみならず、対戦レスラーの間でも「技を受けない」「セルを取らない」などの不満の声が上がり、露骨に北尾を軽蔑した態度をとるなど、リング上でさえしばしば不穏な空気が流れるようになる。また、北尾は受け身の技術に難があったため特定の技をかけられることを極度に嫌い、これが技を受けない姿勢に拍車をかけた。そしてある試合中、ブレーンバスターをかけられた際に恐怖心から無理な体勢で着地し腰を強打、負傷する。このアクシデントの後、北尾は「今日は腰が痛い」「体調が良くない」など理由をつけては練習をサボるようになり、大相撲時代と同様「練習嫌いの問題児」の悪名を響かせ始めた。

その後程なくして、当時新日本の現場責任者とマッチメイカーを務めていた長州力と対立。そしてある時、北尾のあまりに怠慢な態度に業を煮やした長州が発した「プロレスラーは常に多少なりとも故障を抱えて試合に臨んでいる。フロントがどう言おうと、練習をしない奴は試合で使わない」という言葉に対し北尾は「何か文句があるなら勝負(喧嘩)をして、俺が負けたら言うことを聞く」「怖いのか、この朝鮮人野郎」という度を過ぎた暴言、さらには民族差別発言をして、新日本プロレスから契約解除を言い渡された。

北尾が辞める際には、北尾に坂口征二社長(当時)が同席しての記者会見が開かれ、デビューは新日本プロレスだが、実際には所属レスラーではなくフリーランス扱い(「アームズ」という芸能事務所に在籍)だったこと、そのため北尾は新日本の社員として扱われる他の所属レスラーとは違い、個別にフロントとの交渉を行っていたこと、待遇面に関しても新人選手ではなく、所属選手と同等かそれ以上の扱いであったなど数々の内部事情が明らかにされた。それらの情報を公表した新日本サイドは「トラブルなどによる解雇ではなく、本人の十分な同意を得た円満退社」という旨のコメントを出している。

なお長州は後にインタビュー記事で「どの団体が獲得しても、北尾は必ず同じトラブルを起こすぞ」という旨の発言をしており、それはさほど時を要さず現実のものとなった。

[編集] SWS参戦

新日本プロレスを解雇されると、大相撲の先輩である天龍源一郎を頼って創立間もないSWSへ参戦。しかし同じく元大相撲力士であるジョン・テンタ(ジ・アースクエイク 元幕下・琴天山)との試合で反則負けを宣せられたあげく、マイクでテンタに対し「この八百長野郎!八百長ばっかりやりやがって!」と発言、さらに観客に向かって「お前ら、こんなもの(八百長試合)見て面白いのか!」と叫んだ。観客の前でプロレス業界における「禁句」を連呼する北尾の姿は、会場のみならずプロレス業界全体を騒然とさせた。ただし北尾本人はこの直後に満足気な態度で「どうだ、盛り上がっただろう?」と話すなど、騒動を起こしたという自覚は無かったようである[1]

その後は発言のみが一人歩きしてスキャンダラスに報じられただけでなく、当時、団体の社長となっていた天龍が「この件は私の不徳と致すところ」と田中八郎オーナーに辞表を提出し(田中オーナーは慰留)、ザ・グレート・カブキが「北尾復帰戦は俺がやる」と発言するなど、その波紋と代償は大きかった。団体側は一旦北尾に謹慎を命じたものの、内外から批判が渦巻いたことで事態を重視、ついに北尾解雇の断を下す。このSWSの決定には、さすがに北尾も「仕方ありません」と甘んじて受け入れざるを得なかった。新日本プロレス、SWSと立て続けに解雇となったことで、大相撲だけではなくプロレス界も復帰不可能と見る関係者も多かった。

問題となったテンタとの試合では、プロレスの試合を組み立てようとするテンタに対し、まともに技の受け合いをしようとせず、あげくの果てに目潰しのポーズをとって威嚇するなど(シュートを仕掛けた)、目に余る態度だった。なおテンタとの試合での目潰しポーズは、いわゆるサミング(親指による目潰し)ではなく、人差し指と中指を立てたもの。ただしポーズをとっただけで、両者ともに一切の攻撃は仕掛けていない。この際も客席からは北尾に対するブーイングが巻き起こっている。

[編集] 復帰と引退

SWSを解雇されてから約1年半後の1992年に、「武道家の道を歩みたい」と宣言、総合格闘家としてマット界に復帰。UWFインターナショナルに登場し、山崎一夫には勝利したものの、高田延彦にハイキックKO負け。この一戦は、過去の北尾の言動を快く思っていなかったプロレスファンの溜飲を下げ、前田日明と比較して目立たなかった高田の名前を上げることになったが、北尾に対する幻想は大いにそがれることとなった。しかし、総合格闘技への復帰後は以前のような態度は影を潜め、リング四方に深々と頭を下げる謙虚さを見せ、昔を知るファンを大いに驚かせた[2]1994年1月には格闘技塾・北尾道場(後の武輝道場)を旗揚げし、道場生と共に天龍源一郎率いるWARを主戦場にした。この時期の北尾は、プロレスもある程度そつなくこなせ、ファンからも声援を送られるようになっており、天龍とタッグを組むことも多かった。しかし、前述のジョン・テンタとの数年ぶりの再戦がWARの興行にて行われた際は、終始いきり立って格闘色の際立つ展開となってしまい呆気ない幕切れとなった。

初期のPRIDEにも参戦しており、1996年4月5日、第1回ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティングでペドロ・オタービオと対戦し、1R5分49秒、グラウンドでの肘打ちで敗北。1997年10月11日、PRIDE.1において総合格闘技戦で初勝利。1998年、5月1日に開催の全日本プロレス東京ドーム大会で同じ大相撲出身の田上明とのシングルマッチが組まれたが、カード発表直後にキャンセル[3]。その後「やりたいことをやり終えた」として引退を表明。1998年10月11日、PRIDE.4にて引退セレモニーを行った。武輝道場は、当時所属選手の岡村隆志が引き継いだ。

[編集] 相撲界復帰後

2003年9月、日本相撲協会所属ではないフリーランスの立場ながら、代替わりした立浪部屋アドバイザーに就任。現役時代に使用した化粧回しを日本相撲協会に寄贈した。

この時、それまで縁の無かった現立浪親方(小結・旭豊勝照)と北尾を間で取り持ったのは、双羽黒が暴行したために集団脱走騒動を起こしたと先代立浪親方(関脇・安念山治)が主張していた双羽黒の元付き人の1人(幕下6・立田仲憲二、現在の世話人羽黒海憲司)であると言われている。また、先代立浪には後年発生した現立浪親方とのトラブルの他にも、「横綱・大関昇進の際の祝儀金は大半を先代立浪親方に先取りされてしまい、自分の手元にはほとんど残らなかった」という北尾の指摘や、旭國黒姫山など他の弟子が昇進の際に得た祝儀金にまつわる同様の疑惑、さらには相撲協会から支給される部屋所属の幕下以下の力士への手当金やちゃんこ代を着服していたのではないかという疑惑など、金銭に関する不始末ともいえる複数の問題が囁かれている。

この様なこともあり、北尾のアドバイザー就任と共に、双羽黒の力士廃業の件にまつわる先代立浪によって説明された経緯やその主張の信憑性については、あらためて大きな疑問を抱かれる様になった。また、双羽黒の騒動を報道した大晦日のニュースでは、当時の春日野理事長が先代立浪についてかなり突き放したコメントを残しており、この事もこれらの裏付けとして世間では見られている。

双羽黒廃業の実際の原因についても、先代立浪が主張している様な双羽黒の粗暴行為ではなく、実際には先代立浪が引き起こした金銭トラブルなどなんらかの不祥事に、双羽黒は本人の意思とは無関係に巻き込まれ、このことで先代立浪に横綱としての権威と体面を維持することができなくなる様な事態を引き起こされ(例えば暴力団八百長の関与など)、これにより相撲界から離れざるを得なくなったのではないか、という見方も現れている。また、先代立浪が主張していた粗暴行為などの問題行動という、双羽黒に責任の大半が帰する理由で彼が相撲界から自ら飛び出したのであれば、きわめて保守的な体質で知られる相撲協会が、いくら外部の立場とはいえ北尾(双羽黒)の相撲部屋・角界への関与を容認するとは考えにくいという見方も根強く、これも先代立浪に対する疑義の根拠の1つとなっている。

先代立浪が定年退職するまでは、双羽黒廃業の一件は角界や相撲関連マスコミでも少なからずタブーとされてきた出来事であった。だが退職後の現立浪親方とのトラブルの表面化や訴訟沙汰などの経緯を経て、相撲部屋の運営能力やさらには親方・指導者としての資質・人間性そのものについて、先代立浪への疑念が囁かれる様になった結果、先代立浪にまつわる諸問題に関する情報も少なからず聞かれる様になった。現在では先代立浪が繰り広げた主張・説明のみをただ鵜呑みにして、北尾だけを一方的に悪者視する見方は少なくなっている。

そういった面からも、北尾は度重なるトラブルに反省し人間的に成長したとの見方も出てきている。現立浪部屋のアドバイザーとなっていること、近年になって横綱会に参加していることなどはスポーツ新聞などでも報じられている。

[編集] 略歴

  • 1979年3月:立浪部屋に入門、初土俵。四股名は本名の北尾光司
  • 1984年1月:新十両
  • 1984年9月:新入幕。
  • 1984年11月:初の金星(北の湖)獲得。
  • 1985年1月:新小結、初の三賞(技能賞)獲得。
  • 1985年5月:新関脇。
  • 1986年1月:大関昇進。
  • 1986年9月:横綱昇進、双羽黒光司と改名。
  • 1987年12月:廃業。
  • 1990年2月10日:新日本プロレス東京ドーム大会、対バンバン・ビガロ戦にてプロレスデビュー、同年SWSに移籍。
  • 1991年4月1日:SWS神戸大会にて「八百長発言」、同団体を解雇される。
  • 1992年10月23日:武道家に転身、UWFインターナショナルにおいて、高田延彦と対戦。KO負け。
  • 1993年:格闘技塾・北尾(武輝)道場設立。
  • 1994年1月21日:東京・後楽園ホールにて北尾道場旗揚げ戦。
  • 1996年:クエスト(The Quest)キシュウヤマ(力士)役でハリウッド・デビュー。
  • 1997年:リングネームを北尾光覇(-みつはる)に改名。
  • 1997年10月11日:PRIDE.1ネイサン・ジョーンズ戦にて、総合格闘技戦初勝利。
  • 1998年7月1日:現役引退を表明。
  • 1998年10月11日:PRIDE.4にて引退セレモニー
  • 2003年9月:立浪部屋のアドバイザーに就任。

[編集] 大相撲時代のデータ

[編集] 主な成績

  • 通算成績:348勝184敗24休
  • 幕内成績:197勝87敗16休
  • 横綱成績:74勝33敗13休
  • 幕内在位:20場所(番付上は21場所)
  • 横綱在位:8場所(番付上は9場所)
  • 大関在位:4場所
  • 三役在位:5場所(関脇3場所・小結2場所)
  • 連勝記録:13(1987年11月場所初日~1987年11月場所13日目)
  • 連続6場所勝利:69(1985年9月場所~1986年7月場所)
  • 通算連続勝ち越し記録:10場所(1983年9月場所~1985年3月場所)
  • 幕内連続2桁勝利記録:7場所(1985年7月場所~1986年7月場所)

[編集] 各段優勝

  • 十両優勝:1回(1984年7月場所)
  • 序ノ口優勝:1回(1979年5月場所)

[編集] 三賞・金星

  • 三賞:7回
    • 殊勲賞:5回(1984年11月場所、1985年3月場所、7月場所、9月場所、11月場所)
    • 技能賞:2回(1985年1月場所、7月場所)
  • 金星:3個(北の湖1個、千代の富士1個、隆の里1個)

[編集] 幕内での場所別成績

双羽黒光司
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1979年
(昭和54年)
x (前相撲) 東 序ノ口 #5
優勝
7–0
東 序二段 #21
4–3
 
東 序二段 #2
4–3
 
東 三段目 #78
4–3
 
1980年
(昭和55年)
西 三段目 #56
4–3
 
西 三段目 #40
2–5
 
西 三段目 #69
4–3
 
東 三段目 #55
4–3
 
東 三段目 #36
5–2
 
西 三段目 #9
4–3
 
1981年
(昭和56年)
西 幕下 #55
4–3
 
西 幕下 #40
5–2
 
東 幕下 #23
4–3
 
西 幕下 #15
3–4
 
西 幕下 #21
4–3
 
西 幕下 #13
4–3
 
1982年
(昭和57年)
東 幕下 #9
3–4
 
東 幕下 #15
0–1–6
 
東 幕下 #50
6–1
 
東 幕下 #22
5–2
 
西 幕下 #11
4–3
 
東 幕下 #9
3–4
 
1983年
(昭和58年)
東 幕下 #15
4–3
 
東 幕下 #12
4–3
 
東 幕下 #7
4–3
 
東 幕下 #3
2–3–2
 
東 幕下 #18
6–1
 
西 幕下 #4
4–3
 
1984年
(昭和59年)
東 十両 #13
8–7
 
東 十両 #9
10–5
 
東 十両 #7
10–5
 
西 十両 #1
優勝
12–3
東 前頭 #8
8–7
 
西 前頭 #3
8–7
1985年
(昭和60年)
西 小結
10–5
東 小結
10–5
西 関脇
6–6–3[4]
 
東 前頭 #1
12–3
西 関脇
11–4
東 関脇
12–3
1986年
(昭和61年)
東 張出大関
10–5
 
西 大関
10–5
 
東 大関
12–3
 
東 大関
14–1[5]
 
西 横綱
3–4–8[6]
 
西 横綱
12–3
 
1987年
(昭和62年)
西 横綱
12–3[5]
 
西 横綱
7–3–5[7]
 
西 横綱
10–5
 
西 横綱
8–7
 
東 張出横綱
9–6
 
西 張出横綱
13–2
 
1988年
(昭和63年)
東 張出横綱
引退
0–0–0
x x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

注:「引退」は正しくは「廃業」。テンプレートの技術的問題による。

[編集] 改名歴

  • 北尾 光司(きたお こうじ)1979年3月場所 - 1986年7月場所
  • 双羽黒 光司(ふたはぐろ -)1986年9月場所 - 1987年11月(番付上では1988年1月)場所

[編集] プロレスラー、総合格闘家時代のデータ

[編集] タイトル歴

[編集] オリジナル技

サンダーストーム
変形ジャイアントスイング。仰向けに寝た相手の両足をテキサスクローバーホールドと同型のクラッチで固め、自ら横回転することで振り回すという流れになる。プロレスデビュー当時に必殺技と喧伝されたものの、北尾本人は数えるほどしか使用しなかったため「幻の必殺技」とも呼ばれていたが、後に井上京子が「キョーコスペシャル」の名称で同型の技を使用している。
北尾ドリラー
変形パイルドライバー[8]。相手をハイアングル・ボディスラムのように肩に担ぎ上げ、そのまま垂直に脳天をマットに突き刺す技。仕掛けから完成までのプロセスはみちのくドライバーIIとほぼ同様だが、北尾ドリラーは担ぎ上げた直後に独特の溜めがある。北尾道場を旗揚げ後、プロレスに本腰を入れるようになってから好んで使い始めた。

[編集] 著書

  • 『しゃべるぞ!』 徳間書店 1988年3月 ISBN 419553643X
  • 『北尾光司の相撲界言い捨て御免』 大陸書房 1989年2月 ISBN 4803318999

[編集] 脚注

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  1. ^ 「八百長発言」が出た1991年4月1日の神戸ワールド記念ホール大会のわずか2日前、北尾とテンタは同年3月30日の東京ドーム大会にて初めてシングルで対戦。しかし、この時フォール負けした北尾は、自身の試合が終わるとすぐに、大会の全カード終了を待たずして会場から去ってしまうという、事件を起こしている
  2. ^ 復帰に際して記者会見を行った際、頭を丸刈りにして現れたり、用意した声明文を読み上げる際に丁寧な表現を使うなど、既にそうした態度の一端はうかがえた
  3. ^ キャンセルとなった事情は明らかになっていない。(もちろんキャンセルが確定した後ではあるが)結局北尾は、この東京ドーム大会と同日、すなわち真裏で行われた、大日本プロレス埼玉県戸田市スポーツセンター大会に参戦、8人タッグマッチに出場している
  4. ^ 左足母趾第二趾中足趾関節挫傷により途中休場
  5. ^ a b 千代の富士優勝決定戦
  6. ^ 頸部捻挫及び神経根症により途中休場
  7. ^膝関節挫傷・左膝蓋靭帯英語版及び左膝外側側副靭帯損傷により途中休場
  8. ^ ツームストーン・パイルドライバーの一種とされる場合があるが、膝で相手の頭を挟み込まない点が異なる

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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