ジェロム・レ・バンナ

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ジェロム・レ・バンナ
基本情報
本名 ジェロム・レ・バンナ
通称 進化し続けるハイパー・バトルサイボーグ
無冠の帝王
ワンマッチ最強
K-1の番長
黄金の左
ジェロニモ
JLB
The hard hitting
The Bulldog of Normandy
階級 スーパーヘビー級K-1
国籍 フランスの旗 フランス
誕生日 1972年12月26日(41歳)
出身地 セーヌ=マリティーム県
ル・アーヴル
身長 190cm
体重 120kg
スタイル キックボクシングサウスポー
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ジェロム・レ・バンナ[1]: Jérôme Le Banner1972年12月26日 - )はフランスセーヌ=マリティーム県ル・アーヴル出身のキックボクサー総合格闘家俳優。Le Banner X tream Team所属。右利きだが構えはサウスポーK-1・キックボクシング界で屈指のハードパンチャーかつハードキッカーであり、常にKO勝ちを狙うファイトスタイルや歯に衣着せぬ言動からK-1の番長とも呼ばれているほか、進化し続けるハイパー・バトルサイボーグ無冠の帝王ワンマッチ最強ジェロニモなどの異名を持つ。得意技の左ストレートは「黄金の左」とも称される。K-1・キックボクシングを本職としながらも「ルールは問題ではない、俺の仕事は殴ることだから」との言葉通り、総合格闘技、プロボクシングなどルールや日程を問わず戦い続け、数々の大怪我と不運を乗り越えて40歳を過ぎた現在でも世界トップクラスのキックボクサーとして活躍している。

来歴[編集]

生い立ち〜K-1参戦まで[編集]

元プロボクシング国内ヘビー級王者で、“Normandy Bullノルマンディーの闘牛)”の異名を持つ父フィリップに憧れたバンナはボクシングかキックボクシングをやりたがっていたが、母親の猛烈な反対に遭い、自らの意思でフルコンタクトのクラブに入会できる18歳になるまで出来なかった。代わりに6歳から14歳まで柔道を学び、優秀な成績を残していたが、ある試合で不当な判定に対して父親が審判に不服を訴えたことがきっかけで柔道の世界から退くことになる。なお、得意の柔道技は大外刈りであった。14歳の時に映画ドラゴン怒りの鉄拳』を見てブルース・リーに憧れ、空手ジークンドーを学び、右利きだがブルース・リーにあやかってサウスポーに構えて、コンバーテッド・サウスポーとなった。

18歳で念願叶ってキックボクシングを始め、早くから頭角を現し、20歳の時にISKAフルコンタクト・フランス王座を獲得。さらに1994年4月16日にはアンディ・マヨにKO勝ちしてISKAヨーロッパ王座を、アンドレ・ブァン・ブァーレンにKO勝利してRCFA世界スーパーヘビー級王座を獲得。そして南アフリカケープタウンで行われたISKAインターコンチネンタル王座戦でマイク・ベルナルドと対戦し、激闘の末に判定勝利し同王座を獲得。この試合をK-1主催者が高く評価したため、K-1に参戦することになった。また、この試合はお互いの持ち味が存分に発揮された名勝負であったために、勝ったバンナはもちろん、負けたベルナルドもK-1に参戦することになった。バンナのK-1デビュー前の戦績は22戦全勝19KO。

K-1参戦[編集]

1995年3月3日、「K-1 GRAND PRIX '95 開幕戦」に出場。それまでローキック禁止のフルコンタクトルールを主戦場としてきたバンナにとってローキック有りのルールはこの試合が初めてであったが、タイのムエタイ戦士ノックウィー・デービーを3-0の判定勝ちで下し、決勝トーナメント進出を決める。

5月4日、「K-1 GRAND PRIX '95 決勝戦」では準々決勝で佐竹雅昭に左ストレートで3ラウンドKO勝ち。準決勝でマイク・ベルナルドと再戦し、ベルナルドの膝蹴りを浴びて鼻を骨折しながらもローキックを効かせて2ラウンドKO勝ち。決勝戦で前年度K-1 GP王者ピーター・アーツに1ラウンドKO負けし準優勝。準決勝のベルナルド戦で負った鼻の骨折は現在でも完治しない古傷となっている。

その後の約1年間は兵役につきながらK-1に参戦した。12月9日、K-1 HERCULESにてアンディ・フグと対戦し判定負け。

1996年3月10日、「K-1 GRAND PRIX '96 開幕戦」に出場。ミルコ・タイガーと対戦し、終盤に追い詰めるが判定負け。

4月に兵役を終え、6月1日、パリで行われたISKAムエタイ世界スーパーヘビー級タイトルマッチのカーチス・シュースター戦に判定勝利し、ISKAムエタイ世界スーパーヘビー級王座を獲得。

10月18日、K-1 STAR WARS '96にて、アーネスト・ホーストと対戦、2ラウンドKO勝利。

12月8日、K-1 HERCULES '96にて、サム・グレコと対戦。パワー溢れるハードパンチャー同士の対戦とあって打ち合いが期待されたが、グレコはバンナの強打を恐れて打ち合いを避けて終始アウトボクシングし続けた。試合を通してグレコのローキックを受け続けたものの、耐えてパンチを中心に攻めて、引き分けとなった。

1997年2月1日、フランスで行われたISKAムエタイ世界スーパーヘビー級タイトルマッチのモーリス・スミス戦に判定勝利し、ISKAムエタイ世界スーパーヘビー級王座の防衛に成功。

4月29日のK-1 BRAVES '97ではレイ・セフォーと対戦。前戦のスミス戦で膝の怪我を負ったため、一度は大会への欠場が発表されたが、主催者側の説得に応じて大会1週間前に急遽参戦が決定した。試合前のミット打ちでも蹴りを打たなかった様子が記者からも目撃されており、怪我の影響を感じさせた[2]が1ラウンドに右フックで先制のダウンを奪うも、直後にセフォーのブーメランフックを喰らいKO負け。

7月20日、K-1 DREAM '97にて、欠場したアーネスト・ホーストに代わって急遽ピーター・アーツと対戦し2ラウンドKO負け。試合後、「1Rに反則のサミングをされて目が見えなくなった」とレフェリーに不満を述べた。

9月7日、K-1 GRAND PRIX '97 開幕戦ではリック・ルーファスに3ラウンドTKO勝利。試合後、ルーファスに「あなたは自分にとって永遠のチャンピオンだ」と言って敬意を表した。

11月9日、K-1 GRAND PRIX '97 決勝戦準々決勝ではアーネスト・ホーストに1ラウンド逆転KO負け。

K-1・ボクシングルール両立時代[編集]

1998年にはプロボクシングの世界2大プロモーターと評価されるドン・キングと契約を結んで、K-1と並行してボクシングにも挑戦。イベンダー・ホリフィールドのトレーナーを務めるドン・ターナー、ロバート・リーとも契約し、ホリフィールドらと練習を積んだ。ホリフィールドはバンナについて「強い選手だと思う。特にパンチ力は物凄い。パンチの破壊力だけなら俺が今まで戦った相手の中でも最強クラスだ。あとはどれだけテクニックを身に付けられるか期待してるよ」と当時語っていた[3]。同年のボクシングでの戦績は4戦4勝3KOで、KOにならなかった試合はバンナがダウンを奪った後に相手がホールディングを連発したことによる反則勝ち。

1998年7月18日、K-1 DREAM '98にて、サム・グレコと再戦し、1ラウンドにハイキックとパンチで2度のダウンを奪われながらも、2ラウンドに左ストレートで逆転のKO勝利。

9月19日にアメリカ合衆国アトランタで、ドン・キング主催のボクシング興行でイベンダー・ホリフィールド対ボーン・ビーン戦が行われたが、前座のキックボクシングマッチでブラジルのエスペディト・ダ・シウバ(Espedito DA SILVA)と対戦して左ハイキックで1ラウンドKO勝ちし、WKNムエタイ世界スーパーヘビー級王者になった。

その後も1998年は11月28日に1試合、さらにマディソン・スクエア・ガーデンで行われた1999年2月20日のフェリックス・トリニダードパーネル・ウィテカー戦及び3月13日のイベンダー・ホリフィールド対レノックス・ルイス戦の前座でのボクシングマッチ出場が予定されていた[4]が、ドン・キングとの仲介役を担っていたフランス人マネージャーのジャン・クリストフ・クレージュの業務怠慢に対して抗議すると、干されて試合が出来なくなってしまい、当時のK-1プロデューサー石井和義に契約問題の解決を頼んでK-1に復帰する。

衝撃のK-1復帰・看板スターに[編集]

1999年、K-1に復帰。なお、クレージュとの契約は解除したが、プロボクシングへの並行参戦は続けていく予定だった。

契約問題によって試合枯れに陥っている間に、「試合が決まらなくてスパーリング等の実戦的な練習を重視する段階でもないし、新しい練習環境を求めて他国に出稽古に行こうにも娘が生まれたばかりで家を離れられず、他に何もすることがないから筋力トレーニングばかりやっていた」と語るほど集中的なトレーニングによって、元々が筋肉質な体質だったバンナは大幅な肉体改造に成功し、通常体重は筋肉主体で130kgを超えるようになり、試合に出場する際には付き過ぎた筋肉を減量で落として臨むようになった。

10月3日、K-1 GRAND PRIX '99 開幕戦に参戦。ローキック以外でのダウン経験が一度も無いほどの打たれ強さから「大英帝国の不沈艦」の異名を持ち、後にプロボクシングのヘビー級世界ランカーとなってWBA世界ヘビー級王座に挑戦するマット・スケルトンをパンチで圧倒して1ラウンドKO勝利。アーツやグレコを苦しめ、アーツからは「K-1でトップ5に入る実力」と高評価されていたスケルトンを何もさせずに圧倒して一方的にKOしたことで一躍、優勝候補として脚光を浴びた。また、テクニック面でも前年のグレコ戦ではボクシングに傾倒した構えによって、こねるような蹴り方になっていたローキックや、相手のローキックに対する防御もやや改善されたところを披露した.

試合後には次戦となる準々決勝で前年のK-1 GPを3試合連続1ラウンドKO勝ちで通算3度目の優勝を果たすなど9連勝中と最盛期だった絶対王者ピーター・アーツとの対戦を熱望。翌日に行われたトーナメント組み合わせ抽選会ではバンナ以外の誰もがアーツとの対戦を避けるなか、希望通りにアーツを指名した。

12月5日、K-1 GRAND PRIX '99 決勝戦の決勝トーナメントに出場。 トーナメント初戦となる準々決勝で希望通り前年度王者ピーター・アーツと対戦。大会前から「最強の王者であるアーツを倒せば俺が最強だと証明されるから、初戦のアーツ戦に全てを集中する。準決勝以降のことは何も考えてない」と明言していた。一方のアーツも、自身が苦戦したスケルトンを簡単に倒したバンナの実力を警戒しており、「バンナ戦が最大の難関だから彼を倒す事に専念する」と語っていた。

試合開始から15秒でアーツの強烈なカウンターの右ハイキックでダウンを奪われる。しかし、それでもKOされることなく立ち上がり、その直後に圧力をかけて左フックで逆転の1ラウンド失神KO勝利。 続く準決勝では、下馬評を覆してアンディ・フグに勝利してきたアーネスト・ホーストと対戦。1ラウンドはバンナはパンチで猛ラッシュを仕掛け、優勢に進める。ホーストはガードを固めるも、バンナはガードの上からでも効かせられる強打に加え、時折交えるボディブローを浴びせて優勢となる。その後ホーストは徐々にタイミングを計って単発ながらも右のカウンターで反撃。最初の2発は浴びたバンナだったが、すぐにホーストのカウンターをスリッピングでダメージを受け流したり、パーリングして対応するなど両者ともにハイレベルな攻防が続く。そして1ラウンド終了間際、ホーストが右ストレートを放ったところでホーストの攻撃を読み切ったバンナが逆に左のクロスカウンターをクリーンヒットさせてホーストをグラつかせる。ふらついたホーストに追撃を加えようとしたところで1ラウンド終了のゴングが鳴り、ホーストはゴングに救われた形となった。

しかし、1ラウンドのラッシュによってスタミナを大きく消耗したバンナは、2ラウンドに入るとローキックを放った際に疲労でガードが下がった隙を突かれてカウンターの右ストレートからラッシュを受け逆転KO負けを喫した。

大会後のインタビューでは「アーツを倒したので自分が最強だということは証明できたと思う。準決勝のホースト戦は、決勝に備えて消耗を少なく勝ち上がりたいと考えていたので1ラウンドKO勝ちを狙ってラッシュを仕掛けたが、それによって力み過ぎてしまい、2ラウンドにはスタミナ切れしてしまった。力まず普段通りに戦えばスタミナは切れなかったので、これからはワンマッチだけでなく、トーナメント用に消耗を少なく勝ち上がる戦い方を研究しないといけない」とコメントした。ちなみに同大会で準優勝したミルコ・クロコップは控え室でバンナ対ホースト戦を観戦し、ホーストよりもバンナの方が手強い相手と警戒しており、ホーストが勝った際には自分の優勝を確信したかのように喜んでいた。一方、ホーストは大会後の格闘技通信のインタビューで「(所属する)ボスジムのヨハン・ボス会長と共に準決勝はバンナが勝ちあがってくると予想していたので対策はしていた」「仮に私が優勝できなくても、少なくともバンナとマイク・ベルナルドの優勝だけは絶対に阻止しなければと思っていた。別に彼らに個人的な恨みがあるわけではない。しかし、ボクシング主体で蹴り技に欠けるファイトスタイルの彼らが優勝したらK-1・キックボクシングという競技そのものの存在意義が否定されてしまうので、彼らが蹴りが上手くない間は絶対に優勝させてはいけないと思った。実際に、バンナはこの2年間ボクシングを学んだことでパンチは良くなったが、上手かったはずの蹴りが下手になっていて、その下手になったローキックにカウンターを合わせて私が勝ったんだ」とコメントし、こちらも打倒バンナに全てを懸けていたことを明かした。また、アンディ・フグは「私が準々決勝でホーストの足にローキックでダメージを与えていたのだから、バンナはローキックを蹴り、頭を使って戦術的に戦えば優勝できたはず」とコメントした。

千年に一度のKO劇[編集]

2000年2月19日、マンダレイ・ベイ・イベント・センターで行われたマルコ・アントニオ・バレラエリック・モラレス戦の前座でボクシングルールの試合を行う予定だったが試合が消滅。代わりに2月26日にマルセイユでプロボクシングのフランス・ヘビー級王座に挑戦することが決定していたが、当時のフランス・ヘビー級王者がシリル・アビディスパーリング・パートナーとして呼んだところ、逆にスパーリングでのされてしまい、アビディ以上のK-1の実力者であるバンナを恐れて対戦を拒否してしまった[5]。その後もボクシングへの並行参戦を望んでいたが、今度はドン・キングと契約問題で対立し、戦う機会を得られないままボクシングから撤退する不運に遭った。

3月17日、ラスベガスMGMグランド・ガーデン・アリーナにてパリス・バシリコスと対戦して2ラウンドKO勝利、ISKAムエタイ世界スーパーヘビー級王座の防衛に成功。

4月23日、K-1 THE MILLENNIUMで当時の現役極真空手世界王者フランシスコ・フィリォと対戦。試合前の記者会見では「(試合会場の)大阪ドームから一番近い病院のベッドをフィリォのために予約しておいてやってくれ!」と強気なKO勝利宣言を行い、注目を集めた。『一撃』のカウンターを代名詞とする極真世界王者フィリォに対し、バンナは強引なラッシュを仕掛けることなく改善されたローキックを交えた冷静な戦いを繰り広げていく。そして一瞬の隙を逃さず逆に必殺の左ストレート一撃でフィリォを失神させ1ラウンドKO勝利。この試合は「千年に一度のKO劇」と呼ばれる伝説のKO劇となった。試合後、痙攣しながら倒れこんでいたフィリォが意識を取り戻して悔し涙を流しているところに駆け寄り、「泣くな!君は極真の王者なんだから!」と激励した。バンナが試合前に予告していた通り、本当にフィリォは病院送りにされ、検査を受けることとなった。なお、バンナ自身は試合前から左肘に怪我を抱えており、2日前に治療を受けたばかりのなかでの左ストレート一撃KOであった。

5月28日、K-1 SURVIVAL 2000にてヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤ。『1ラウンド2分以内のノルキヤタイム内であればK-1王者クラス』とも評される実力を持つ大巨人ノルキヤに対して開始早々に真っ向勝負で殴り合い、逆に1ラウンド1分7秒でKO勝ち。

7月30日、K-1 WORLD GP 2000 in 名古屋の予選トーナメントに参戦。「俺はワンマッチでは最強だが、トーナメントは苦手だと言われることが多いから、今回は12月の決勝トーナメントに向けてトーナメント用の戦い方を身に付けたところを見せる。1回戦から全力は出さずに消耗を抑えて優勝する」と宣言して臨んだこの大会の1回戦でマーク・ハントと対戦。相手が当時はまだ無名で、パンチ力があるということ以外にデータの少ないハントが相手ということもあり、パンチと蹴りを交えた堅実な戦いぶりで1ラウンドにポイントを奪うと、そのまま全力は出さずにハントを完封して3-0の判定勝利。

続く準決勝でニコラス・ペタスと対戦。大会前にペタスが「極真の仲間であるフィリォの仇を討つためにバンナを倒す」とコメントしたことや、フィリォが「たしかにバンナは強いがまだ私より強いとは証明していない。もう一度私に勝ったらバンナが私より強いと認めるから再戦してほしい」とコメントしていたため、バンナは当初は極真勢に対して敬意を表していたが、これらのコメントを伝え聞いて群れることを嫌う一匹狼な性格のバンナは不快感を露にするようになり、ペタス戦は試合前から殺気立った表情で臨んだ。試合が始まると、全力を出さなかった1回戦とは全く違い、力任せな強引な強打で格下のペタスを一気に潰そうと猛ラッシュを仕掛ける。ペタスの反撃の右ハイキックも腕でブロックして余裕の挑発を返し、ガードの上から殴りつけて2度のダウンを奪って1ラウンドKO勝利。試合後、バンナが両手を挙げて勝利を喜んでいる最中に、まだ負けた事に気付いていないペタスがバンナに殴りかかろうとしたことで、これに激怒したバンナが右フックを打ち込んで再びペタスをKOした。試合後の攻撃による反則に批判も起きたものの、バンナがペタスをKOして試合終了のゴングが鳴った時点でバンナの勝利は成立していることと、試合後に先に殴りかかろうとしたペタスにも非があるため、バンナの1ラウンドKO勝利という結果に変更は無かった。

続く決勝戦ではアーネスト・ホーストと対戦し、1ラウンド終了間際に左ストレートをクリーンヒットさせたところでラウンド終了となり、1ラウンド終了時にタオル投入によるTKO勝ちで予選トーナメントを優勝した。これにより12月10日に開催されるK-1 WORLD GP 2000 決勝戦への出場権を得た。

K-1 WORLD GP 2000 決勝トーナメントの組み合わせ抽選会に向かう途中で交通事故に遭い、抽選会を欠席。自身が乗っていた車は大破し、同乗していたスパーリング・パートナーのフィリップ・ゴミスは意識不明の重体になるほど大きな事故であったが、それでも優勝に懸けるバンナは出場を決意。抽選会当日には国際電話で参加し、代理で引かれた抽選クジの結果を伝えられると、準々決勝の相手にフランシスコ・フィリォを指名し、「奴がもう一度病院送りにされたいようだからやってやることにした。アイ・ドント・ライク・キョクシン!」とコメントして怒りを露にした。この大会では前年度王者ホーストを差し置いて優勝候補本命と目されていたが、伝染性単核球症により本大会を欠場。

2001年になるとバンナが欠場したK-1 WGP 2000決勝トーナメントが判定決着続出の低調な内容だったこともあり、さらにバンナに注目が集まるようになり、本人も「俺様が触った物は全て黄金になる!日出ずる国・日本のK-1を俺がさらに輝かせてやるよ!」と強気な発言を繰り返した。

3月4日、マルセイユでアンドレイ・ズラウコフと対戦し、2RKO勝ち。しかし、この試合で左脛に怪我を負い、14針を縫った。

3月17日、K-1 GLADIATORS 2001にてマイク・ベルナルドと対戦。この試合では負傷したバンナの左脛にサポーターを着けることが両者合意の下、特別に承認された。1ラウンド終了間際、ベルナルドの体を入れ替えての左右のフックがバンナの顔面に直撃しそのままマットに沈み、一度は1ラウンドKO負けと判定されるも、バンナ陣営はこの結果に抗議。検証の結果、ダウンする数秒前にゴングが鳴っていたことに加えて、観客の歓声でゴングの音がかき消されレフェリーには聞こえていなかった。ゆえにノーコンテスト(無効試合)となった。

4月29日、K-1 WORLD GP 2001 in 大阪の予選トーナメントで、全試合1ラウンドKO勝利で優勝。大会後、「この優勝を天国にいるアンディに捧げる」と言って前年8月24日に死去したアンディ・フグへの追悼の意を示した。また、石井館長からは「強引なラッシュ頼りではなく、バックギアも使った冷静な試合運びで、トーナメント用の戦い方をした上での全試合1ラウンドKO勝ちによる優勝は素晴らしい!」と評価された。

6月24日、K-1 SURVIVAL 2001 〜JAPAN GP 開幕戦〜にてステファン・レコと対戦。3月に負傷した左脛の怪我が完治せず簡易サポーターを巻いたまま臨んだが、左ハイキックでダウンを奪って判定勝ち。試合後、背中を怪我していたことも明らかになった。

12月8日、K-1 WORLD GP 2001 決勝戦の1回戦でマーク・ハントと再戦。3月に負傷した左脛は相変わらず完治せず簡易サポーターを着けたままながらそれでも揺るがぬ優勝候補本命とされたバンナは、試合直前のインタビューで「今回はワンマッチではなくトーナメントだから、初戦から全力は出さない。初戦は力をセーブして消耗少なく勝ち上がるよ」とコメントしていた[6]。試合が始まると派手な打ち合いはせず、左ミドルキック主体の慎重な試合運びを繰り広げ、ハントがラッシュを仕掛けてきたところにボディへのカウンターのテンカオをヒットさせるなど1Rから2ラウンド中盤まで終始優勢に戦っていたが、2ラウンド終盤に反則の肘打ちを浴び、それにレフェリーが気付かないままパンチの連打をくらって番狂わせの2ラウンド逆転KO負けしリベンジを許した。なお、ハントが反則の肘打ちを打った場面の写真がSRS-DX No.60の巻頭記事に掲載されたが、バンナ側は特に抗議しなかったため裁定に変更はなかった。

12月31日、「INOKI BOM-BA-YE 2001」で総合格闘技に初挑戦。K-1 WORLD GP 2001 決勝戦からわずか3週間後という短い練習期間のなかで安田忠夫と対戦し、1ラウンドは優勢だったが、2ラウンドにギロチンチョークで一本負け。

最盛期[編集]

不運な形ながらも優勝を逃した2001年の反省を踏まえ、2002年に入るとチーム、トレーナーを一新。マイク・タイソンのセコンドを務めていたボクシング・トレーナーを解雇し、フランスの名ムエタイ選手だったステファン・ニキエマをトレーナーとして招聘し、2001年まではパンチとローキック主体だったファイトスタイルを、ムエタイテクニックを学ぶことによってハイキックとミドルキックを含め破壊的なキックとパンチを融合した新しいファイトスタイルに進化することに成功。

2002年3月3日、K-1 WORLD GP 2002 in 名古屋にて天田ヒロミと対戦。天田の隙を突いて新しい武器である豪快な左ハイキックでダウンを奪い、再開後はカウンターのテンカオとパンチの連打で1ラウンドKO勝利し、コーナーに駆け上がって雄叫びをあげた。足が伸びきっていないやや不完全なハイキックではあるものの、右手で顎の部分をガードしていた天田のガードごと吹っ飛ばしてダウンさせる強烈な蹴りで新たな進化の一端を披露した。

5月25日、K-1 WORLD GP 2002 in Parisにて、前年のK-1 WORLD GP王者となったマーク・ハントラバーマッチ。この試合はバンナの母国フランスのパリで開催となったため、凱旋試合として気合いが入っているかと思いきや、対戦発表会見でバンナは「俺は生まれも育ちもフランスのフランス人だが、俺はフランス人が嫌いだし、日本の方が好きだ!フランスの国民性ってのは有名人に取り入ろうとしたり妬んだりする奴が多い。ハントとのビッグファイトは愛する日本のファンの前でやりたかった」と不満を述べた。また、同大会はフランスのスポーツ省が「暴力性が高い」との意向で、蹴り足をつかんでの攻撃・膝蹴りなどが反則となる特別ルールで行われる大会前日に正式決定したため、これらの技が当然使えると思い、接近戦でのハント対策として膝蹴りを重要視して練習してきたバンナにとって、母国開催にも関わらず大きな痛手となった。

1ラウンド、猛特訓してきた蹴り技を駆使して優勢に試合を進めるが、残り30秒ほどになったところでハントの右アッパーを一発浴びると、膝蹴りでの迎撃が使えないこともあってパンチでの打ち合いにも応じて、パンチをヒットさせる。

2ラウンド開始早々にパンチを浴びせてダウンを奪い(打たれ強いハントがパンチでダウンするのはこれが生涯初めて)、一気に攻め込むが、ハントの反撃によりダウンを奪い返される。そして2ラウンド終了直前にハント対策として猛特訓を積んできた左ハイキックでバンナがダウンを奪う。2R終了後のインターバル中にハントがドクターチェックを受け、ハントサイドが目の負傷によりタオルを投入し、バンナが2ラウンド終了TKO勝利で前回のリベンジを果たして2勝1敗と勝ち越して母国凱旋を飾った[7]

8月28日、Dynamite!にてマーク・ハントの欠場に伴う代役として急遽試合当日に来日してドン・フライと対戦し、左ハイキックからのパンチ連打で最初のダウンを奪うと、最後は右フック一発で1ラウンド失神KO勝ち。

その後、ステファン・ニキエマと袂を分かち(後年になって和解)、WGP開幕戦を前に再びチームを再編成。

10月5日、K-1 WORLD GP 2002 開幕戦でPRIDEからの外敵ゲーリー・グッドリッジと対戦。マイク・ベルナルドに1ラウンドKO勝ちして出場権を得てきた外敵グッドリッジが「ベルナルドがトップ選手の一人だって言うならK-1 WGP優勝なんて簡単だ」と発言したことに激怒したバンナは試合開始のゴングが鳴る直前から「かかってこいよ!」と手招きをして挑発。壮絶な打ち合いの末に1ラウンドKO勝ち。

翌日に行われた決勝トーナメント抽選会に出席。開幕戦の前の時点では抽選会ではミルコ・クロコップを相手に選ぶことを宣言していたバンナだったが、ミルコがWGPを欠場していた。そして抽選の結果、バンナは武蔵を指名する形となった。武蔵を相手に選んだ理由について「今回はワンマッチではなくトーナメントだから優勝することが一番大切だ。優勝するために一番楽な相手を選んだんだ、省エネだよ」とコメントした。このコメントを聞いた武蔵が奮起したことが後に繋がっていく。

12月7日、K-1 WORLD GP 2002 決勝戦で、準々決勝で武蔵と対戦。やはり今回も「トーナメントなので消耗を少なく勝ち上がることが大切なので力をセーブして頭を使って戦う」とコメントしていたバンナは慎重な戦いぶりを見せる。すると、抽選会後のバンナの省エネ発言に怒った武蔵が、普段の徹底的に足を使ったアウトボクシングをやらず、フットワークを使って出入りしながらパンチの打ち合いを仕掛ける戦術を取る。いつも通りのアウトボクサースタイルの武蔵ならダメージは少ないと踏んでいたバンナは意表を突かれ、古傷である鼻にパンチを浴びて鼻血を出してしまう。しかし、それでも打ち合いを得意とし、なおかつ逃げる相手への追い足を使えるようにしてきたバンナがラッシュを仕掛け、1ラウンド終了直前に強烈なダウンを奪う。武蔵はふらつきながら辛うじて立ち上がったものの、ロープを掴まなければコーナーに戻れないほどのダメージを負わせるがレフェリーストップとはならず、インターバルに突入。そして2ラウンドに武蔵のハイキックをブロックした直後に隙を突いてTKO勝利。完勝したものの、予想外の武蔵の戦術によって古傷の鼻から出血したことで呼吸し辛い状態になったまま準決勝を迎える事になった。また、バンナの試合は準々決勝第4試合なため、準決勝までの休憩時間が一番少ない試合順となった。

準決勝はマーク・ハントとの4度目の対戦。ハントは準々決勝のレコ戦で左足に右ローキックを浴びていたこともあり、バンナは試合開始直後にオーソドックス構えからの右ローキックを放つなど、インサイドワークを駆使しながらも右ローキックを連打し、1ラウンド終了間際にはハントの足を引きずらせ、2ラウンドに右ローでダウンを奪う。しかし、武蔵戦での古傷の鼻のダメージもあって決勝戦のために消耗を少なくして勝ち上がりたいバンナは普段の多彩な攻撃を使わず、時折左ストレートを打つ以外はほぼ右ローキックに固執するようになって攻撃が単純化したことで、ハントの驚異的な打たれ強さもあってKOしきることができなかった。試合終了間際にダウンを奪われるも特にダメージもなくカウント2ですぐに続行のファイティングポーズを構えたまま試合終了となり、結果は3-0の判定勝利。

決勝ではアーネスト・ホーストと対戦。 ホーストは10月の開幕戦に続いてこの日の準々決勝でも当時最盛期だったボブ・サップにスタンディングダウンの末のレフェリーストップTKO負けしたものの、サップの拳の怪我によるドクターストップによって敗者復活で準決勝に進出、準決勝はピーター・アーツに明らかに負けていたにも関わらず疑惑の判定勝利をしたレイ・セフォーがホーストと対戦したが、セフォーが大会2週間前から怪我していた右足を自ら蹴った右ローキックで負傷する自爆TKOによってホーストは無傷で決勝に勝ち上がってきた。

ホーストの右ミドルキックを受けて左腕を粉砕骨折し、3ラウンドKO負け。この試合で粉砕骨折したバンナの左肘部分が完全に砕けて骨が外部に飛び出ているにも関わらずレフェリーストップもせず、ドクターチェックも受けさせず、3ノックダウン・ルールによって自動的に試合終了となるまで何もしなかったレフェリー角田信朗のレフェリングが問題視された(詳細は角田信朗#レフェリングに対する批判の項を参照)。粉砕骨折した左腕を治すためにプレート2本とボルト13本を埋め込む手術を行った。なお、バンナ本人はこの試合については「俺は侍のようなネバー・ギブアップをスピリットで戦ったから最後まで諦めずに戦ったんだ」とコメントしており、角田に対して何かを語ったことは無い。

左腕粉砕骨折以降 K-1・MMAルール両立時代[編集]

WGP決勝戦におけるダメージによって、最大の武器である左腕を粉砕骨折する重傷を負って以来、バンナの左パンチに時折異変が見られ、対戦相手からも左腕を集中攻撃されることが多くなった。

2003年6月14日、K-1 WORLD GP 2003 in PARISで復帰し、ヴィタリ・オフラメンコと対戦して2ラウンドKO勝利。

同年のWORLD GP開幕戦に出場予定だったが、練習中に左腕に埋まっている金属ボルトがズレたため欠場。ジャン=クロード・ヴァン・ダムがジムに来訪したため、練習に力が入りすぎたとのこと。

2004年7月17日、K-1 WORLD GP 2004 in SEOULにてテレンス・リーズビィと対戦し、1ラウンドKO勝利。

9月25日、K-1 WORLD GP 2004 in TOKYO 開幕戦でフランソワ・"ザ・ホワイトバッファロー"・ボタと対戦。バンナが圧倒するも2ラウンドにダウンを奪われる。ダウンを奪われた後にはすぐ反撃し終始バンナペースで判定でドローとなるが、延長ラウンドを前にタオル投入によるTKO負け。この試合の1か月前にはバンナの母親が死去し、さらにバンナの粉砕骨折以降ボルトが入ったままの左腕には炎症が起こるなど、試合前から肉体的にも精神的にもボロボロの状態であったにもかかわらず、K-1への想いと大会のメインイベンターとしての責任感の強さから強行出場する男気を見せた。この試合についてバンナは「俺がネバー・ギブアップの精神を唯一失ってしまったのが、あの試合だ。あの試合では母が死んだ辛さで頭の中が真っ白になっちまった。俺は肘や鼻など自分の体が破壊されても戦えるが、あの時は延長戦をやろうと思った時、時速230kmの速さで俺自身のスピリットがぶっ飛んでしまった。あの時の俺を思い出すと、ホント自分自身に腹が立つね!もう二度とあんな試合はしないと誓ったんだ!」と語っている[8]

12月31日、K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!にてボブ・サップとK-1と総合格闘技のMIXルールで対戦。K-1ルールで行われた1ラウンドと3ラウンドでは圧倒するも、総合格闘技ルールで行われた2ラウンドと4ラウンドでは巻き返され、引き分け。この試合では左のパンチをほとんど打たず、右のパンチ一辺倒の戦いが続くなど、左腕粉砕骨折の影響が色濃く出た試合であった。

2005年3月26日、HERO'S秋山成勲と総合格闘技ルールで対戦。膝蹴りで1ラウンドKO勝利し、総合格闘技での初勝利を挙げた。

4月30日、スイスジュネーヴでオリヴァー・ヴァン・ダムに1ラウンドKO勝利し、WKNムエタイ世界スーパーヘビー級王座の初防衛に成功。

5月27日、K-1 WORLD GP 2005 IN PARISでシリル・アビディと対戦。アビディが反則の頭突き攻撃を連発(レフェリーは見逃す)で受け続け、額に巨大なタンコブができながらも5ラウンドTKO勝利。

9月23日、K-1 WORLD GP 2005 IN OSAKA 開幕戦にてゲーリー・グッドリッジと対戦し、1ラウンドKO勝利。試合後、バンナは控え室に戻らずにグッドリッジの元へと向かい、バンナのローキックのダメージによって歩けなくなっているグッドリッジを自分の背中におんぶして医者の元へと連れていった。

11月19日、K-1 WORLD GP 2005 IN TOKYO 決勝戦の準々決勝でピーター・アーツと対戦し、延長1ラウンド判定負け。しかし、勝ったアーツも肋骨を骨折して準決勝を棄権した。

12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!アラン・カラエフと総合格闘技ルールで対戦し、左ミドルキックで2ラウンドKO勝利。なお、カラエフは試合後、意識不明の重体のまま救急車で病院に運ばれ、生死の境を彷徨う重傷を負っていたことが同大会に出場していた大山峻護のブログにて明かされた。

2006年3月15日、HERO'S 2006にてジミー・アンブリッツと総合格闘技ルールで対戦し、1ラウンドKO勝利。

5月13日、K-1 WORLD GP 2006 IN AMSTERDAMでレミー・ボンヤスキーと対戦。一度は判定0-2での敗北となるも、この結果にバンナ陣営から抗議が申し立てられ、日本で再審議し、日本人6名、アメリカ人2名で構成された検証審判員によるビデオ検証の結果、6月30日付けで判定3-0でのバンナの勝利に変更された[9]

9月30日、K-1 WORLD GP 2006 IN OSAKA 開幕戦ではチェ・ホンマンと対戦。バンナは後述の諸事情によって調整不足のまま試合当日に来日する不運に遭った(ジェロム・レ・バンナ#芸能活動を参照)が、延長1ラウンド判定勝利。

12月2日、K-1 WORLD GP 2006 IN TOKYO 決勝戦の準々決勝では抽選会で自ら対戦相手に指名した前年のK-1 WORLD GP王者セーム・シュルトと対戦。シュルトの左ジャブと膝蹴りを巧みにかわし、強靭なボディによってシュルトの前蹴りに屈せずに攻め続けるが、2ラウンドに左ハイキックでダウンを奪われる。ダウンから再会直後に左ストレートをヒットさせてシュルトのマウスピースを弾き飛ばすも及ばず3ラウンド判定負け。しかし、シュルトの三大技である左ジャブ、膝蹴り、前蹴りの全てを完封したことで大会後シュルトからは「今日戦った三人(バンナ、ホースト、アーツ)の中でバンナ戦が一番難しかった」と評された。

左腕内部の金属ボルト除去・膝の手術[編集]

3月4日、K-1 WORLD GP 2007 IN YOKOHAMAで澤屋敷純一と対戦。1ラウンドと3ラウンドの計2度のダウンを喫し判定負け。K-1ルールによる日本人選手との対戦で初めての敗戦となった。この試合ではリング上を逃げ回りながらカウンター狙いに徹する澤屋敷の戦い方が物議を醸したが、バンナは試合後に「1月に右膝を痛め、充分な練習ができなかった。澤屋敷のことは知らなかった。彼はあの作戦でしか勝てないと判断したのだろう。でも作戦は作戦。審判も注意をしていたから彼に対する悪意は無い。ぜひ彼にリベンジしたい」とコメントした。

6月には2002年末以来、左腕に埋め込まれたままになっていた2本のプレートと金属のボルト13本を手術によって除去。また、澤屋敷戦の前に怪我した右膝も手術した。

9月29日、K-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16でルスラン・カラエフと対戦予定だったが、ルスランが試合直前に交通事故で欠場となり、急遽パク・ヨンスと対戦。右フックで1ラウンドKO勝ち。

12月8日、K-1 WORLD GP 2007 FINALの準々決勝でチェ・ホンマンと再戦し、判定勝ち。準決勝では王者セーム・シュルトと対戦。1ラウンド開始からシュルトの前蹴りと左ジャブを巧みにかわして積極的に前に出るが終盤に右膝蹴りを顔に受けぐらつくもゴングに救われる。2ラウンドに同年に手術した膝に右ローキックを受けダウン、それを見たセコンドがタオルを投入しTKO負け。

大会後、1年近く続く右膝の怪我を治しての再起を誓うと共にシュルトの持つK-1世界スーパーヘビー級王座への挑戦、マイティ・モーメルヴィン・マヌーフバダ・ハリとの対戦を熱望した[10]

2008年6月29日、K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKAで行われたK-1世界スーパーヘビー級タイトルマッチでセーム・シュルトと対戦。2ラウンドまでのジャッジの採点はイーブンだったが、3ラウンドに首相撲からの膝蹴りを2連続で打つ反則攻撃を浴びて大きなダメージを受け、この反則以降に失速し判定負け。なお、レフェリーの角田信朗はシュルトの反則に対して減点をとらず注意のみに留めた。

9月27日、K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16澤屋敷純一と対戦。ダウンを奪って3-0判定勝ちでリベンジを果たした。

12月6日、K-1 WORLD GP 2008 FINALの準々決勝でレミー・ボンヤスキー戦と対戦。2ラウンドまで互角の展開だったが、3ラウンドにレミーのミドルキックが左腕に直撃し、ダウンカウントの後に左腕骨折の疑いでドクターストップがかかりTKO負け。会見にて「レミーは前蹴りが得意だから、それをディフェンスする練習をしてる時に左腕を怪我してしまい、そこを攻められた。まだ戦いたかったが残念だ」とコメントした。なお、同大会で優勝したレミーは「今日の3試合(バンナ、グーカン・サキ、バダ・ハリ)の中でバンナが一番強かった」とコメントした。

K-1・ボクシング・MMAルール両立へ[編集]

2009年2月18日、かつてボクシングでのプロモーターだったジャン・クリストフ・クレージュと和解して再契約し、また、ドン・ターナーとも再契約した。

3月28日、K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMAのスーパーファイトにてエヴェルトン・テイシェイラと対戦し、延長2ラウンドまで縺れ込むも2-1の判定負け。この試合をテレビ解説していた魔裟斗と会場で見ていたピーター・アーツは「バンナの勝ちだった」と明言しており、一部の観客も判定に対してブーイングを飛ばしていた。バンナ自身も4ラウンド終了時の判定に対しては不満を露わにしたが、試合後は苦笑しながらも潔くテイシェイラと握手をかわした。

5月23日、フランスのドーヴィルで11年ぶりにプロボクシングの試合を行い4ラウンドTKO勝ち。

9月26日、K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16で引退を賭けた武蔵と対戦し、3ラウンドにダウンを奪うなどして判定勝ち。試合後、リング上でバンナは武蔵に対し土下座で敬意を表した。

11月13日、ドーヴィルでプロボクシング4回戦に出場し、左ストレートで2ラウンドTKO勝ち。

12月5日、K-1 WORLD GP 2009 FINALセーム・シュルトと対戦し、1ラウンドKO負け。試合後のインタビューで戦前言われていた引退説を否定した[11]

ドージョー・チャクリキへの移籍[編集]

2009年は引退後の生活のために練習と並行して映画撮影をやらざるをえなかったため、戦いへのモチベーションが落ちていたことを反省。2010年2月には再びモントリオールのトライスタージムでジョルジュ・サンピエールらと練習した後、3月からはアムステルダムに単身赴任して名門ドージョー・チャクリキで練習に集中するようになった[12]。なお、元プロボクシングWBAWBC世界クルーザー級統一王者ジャン=マルク・モルメクとボクシングルールでの対戦を3月または4月にフランスで実現させるために交渉していたが、モルメクが対戦を拒否したため実現しなかった[13][14]

4月3日、K-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMAタイロン・スポーンと対戦し、1ラウンドにダウンを奪い判定勝ちを収めた。

7月23日、レユニオンサン=ドニにて、3分5ラウンドのムエタイルールでWPMFムエタイ世界スーパーヘビー級王者トーマス・ノヴァクに挑戦し、1ラウンドにダウンを奪い、5ラウンドに右フックで失神KO勝ちを収め、同王座を獲得。また、試合前から怪我していた足の治療をすることを公言した[15]。その後、同王座は返上した。

10月2日、K-1 WORLD GP 2010 IN SEOUL FINAL16にてK-1世界ヘビー級王者・京太郎と対戦。試合は判定に入り、日本人ジャッジ3人のうち1人がバンナを支持するも1-0でドローとなり延長ラウンドへ突入する。しかし、判定の結果が告げられると判定に対して怒りを露にしたバンナがリングを下り控え室へ戻ってしまったため、試合放棄とみなされ敗退となった。試合後の会見でバンナは「京太郎は素晴らしい選手だが、判定は公平じゃなかった」と不満を語った。一方の京太郎は「今まで21試合してきて初めて勝ちたいと思ったし、一番怖かった試合でした。僕は判定を聞くまで"90パーセント負けた"と思っていた」と語った[16]

12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜にて4年ぶりの総合格闘技ルールマッチで北京オリンピック柔道男子100kg超級の金メダリスト石井慧と対戦。スタンドで膝蹴りを浴びせ、寝技では石井の関節技をかわしきってマウントポジションを奪う場面もあり、バンナがパウンドを打つ際には日本人の石井が相手でありながら観客から掛け声があがったが、3Rに抑え込まれて判定負け。試合後、石井から「バンナ選手の寝技が予想以上にうまかった。僕は吉田秀彦さんからパスガードしてサイドポジションを奪うことは出来たし、今回の試合に備えてエメリヤーエンコ・ヒョードルに一本勝ちした柔術世界王者ファブリシオ・ヴェウドゥムと練習してきて、寝技スパーリングで僕はファブリシオからパスガードしてサイドポジションを奪って抑え込めていたから寝技には自信があった。しかし、バンナは寝技でもファブリシオと同じくらい足が利いていて、今までで一番パスガードするのが難しい相手だったし、アキレス腱固めヒールホールドの防御のやり方も出来ていて、寝技で下から打ってくるパンチも強かった[17]」」と評された。バンナは「今年はあまり寝技の練習ができなかった。自分も6歳から柔道をやっていたので、嘉納治五郎のような柔道マスターで金メダリストの石井と対戦できて光栄」と語った[18]

GLORY、IGF参戦[編集]

2011年になるとK-1の経営母体であるFEGの経営難が表面化し、特にバンナが主戦場とする無差別級のK-1 WORLD GPシリーズは大会開催の目処が全く立たない状況となり、バンナも前年大晦日の石井慧戦のファイトマネーが未払いにされたままとなった。K-1優勝を目指して前年からオランダに単身赴任してドージョー・チャクリキで練習するようになったバンナだが、K-1の開催自体が出来なくなったことで目標を失い、拠点をフランスに戻すことにする。

そんななか3月11日に東日本大震災が起こり、愛する日本のために何かしたいと考えたバンナは新たな道を進むことになる。

4月28日、IGFの東日本大震災復興チャリティー大会として開催されたGENOME15に電撃参戦し、IGFチャンピオンシップ・トーナメント一回戦にて異種格闘技戦鈴川真一と対戦し、6度のダウンを奪ってKO勝ち[19]。この試合を見た青木真也北岡悟らはTwitter上で、「プロレス興行での試合だが(ケーフェイの無い)、完全にガチンコの試合だった」とコメントしている。

2011年6月11日、スイスジュネーヴで行われたISKAフリースタイル世界スーパーヘビー級タイトルマッチでステファン・レコと再戦し判定勝ちして王座を獲得。この試合はレコの引退試合であり、試合後バンナは土下座でレコへの敬意を表した(しかし、その後にレコは引退を撤回)。

2011年7月10日、東日本大震災復興チャリティー大会GENOME16でのIGFトーナメント準決勝で、レイ・セフォーに勝利してIGF戦績12戦全勝としていたエリック・ハマーと異種格闘技戦で対戦し、5度のダウンを奪ってKO勝ち[20]

2011年8月22日、8月27日のIGFトーナメント決勝戦の対戦相手であるジョシュ・バーネットの欠場が決まったため、バンナの不戦勝扱いとして初代IGF王者に認定された[21]。8月24日、IGF王座のチャンピオンベルトが授与された。同日に放送されたSアリーナに生出演した際には、「今日は友人であるアンディ・フグの命日だから、このベルトを手に入れたことでアンディに良い報告が出来ると思う」と語り、「皆さんは僕の人生の一部です」と日本語でコメントして日本のファンへの感謝を現した。

2011年8月27日、INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜でのIGF王座初防衛戦で藤田和之と対戦し、KO勝ちで初防衛に成功した[22]

2011年9月3日、GENOME17にてノンタイトル戦でモンターニャ・シウバにKO勝ち。

2011年12月2日、INOKI BOM-BA-YE 2011でのIGF王座防衛戦で、トーナメント決勝戦で対戦するはずだったジョシュ・バーネットと対戦し、KO勝ちで2度目の防衛に成功した。

2011年12月4日、震災被災地である福島県いわき市いわき明星大学で開催された「闘魂祭り in いわき」にて、チャリティー・エキシビションマッチ角谷正義と対戦し、3度のダウンを奪って1RKO勝ち。

2011年12月30日、タイパタヤにてアンドレイ・キルサノフと対戦。かつて石井和義から「マーク・ハント以上に打たれ強い」と評されたキルサノフから2度ダウンを奪って3RKO勝ちを収め、初代World Pro Leagueムエタイ世界スーパーヘビー級王座を獲得した。この興行はバンナがタイでトレーニングする際に拠点としているフェアテックスジム・パタヤへの恩返しと、タイ洪水の被災者へのチャリティーマッチとして行われた。試合後、リング上でのマイク・パフォーマンスで交際中の恋人にプロポーズした。

2012年2月17日、GENOME18でのIGF王座防衛戦でピーター・アーツと対戦し、腕ひしぎ十字固めでアーツをタップアウトさせて勝利し、3度目の防衛に成功した[23]。試合前には、2月14日に死去した盟友マイク・ベルナルドへの追悼10カウントゴングがバンナの提案によって行われ[24]、試合後のリング上でもバンナは「マイク、見守ってくれてありがとう。天国の君にこの試合を捧げる。君のことは絶対忘れない。君のために戦った。安らかに眠ってくれ」とベルナルドに追悼メッセージを送った。また、自ら希望してアントニオ猪木の闘魂ビンタをくらった。

2012年2月25日、ポーランドの総合格闘技団体KSWの大会KSW 18のメインイベントで地元出身のマーティン・ロザルスキーと対戦予定だったが、試合直前に膝の半月板を負傷し、欠場した[25]

2012年5月26日、GENOME20でのIGF王座防衛戦でアレキサンダー・コズロフにKO勝ちで4度目の防衛成功。レフェリーストップに納得がいかないコズロフと試合後にも乱闘を繰り広げた。

2012年7月10日、IGF初の上海興行でコズロフと再戦し、パンチでダウンを奪ってフォール勝ちで5度目の防衛成功。なお、この試合で古傷の左腕を負傷するというアングルが組まれた。4日後の7月14日、GENOME21で藤田和之と再戦し、フォール負けでIGF王座6度目の防衛に失敗。

その後はアメリカでヴァンダレイ・シウバのジムやマーク・ムニョスのジムなどで石井慧らと共に練習を重ねていたが、負傷によって9月15日のKSW 20、9月29日のGENOME22を欠場した。

2012年12月31日のDREAM.18 & GLORY 4のGLORY Grand Slam – Heavyweightトーナメントに参戦予定だったが、怪我が治りきっていないため、トーナメントは回避し[26]、2分3ラウンドのワンマッチでKOICHIと対戦。来日のための機内で病気を移されため前日会見を欠席し、試合当日の朝になっても発熱し嘔吐を繰り返すほどの体調不良でありながら強行出場。試合前から宣言していた通り、IGFとアントニオ猪木のTシャツを羽織って入場し、左ミドルキックを効かせて最後は右フック一発でKO勝ち[27]。試合後も休むことなく、直後に行われたチームメイトのブリース・ギドンのセコンドに就いた。

2013年5月3日、GLORY 8 TOKYOでKOICHIと再戦。2Rにダウン寸前まで追い詰めるなど終始圧倒しフルマークの判定勝ち。

6月16日、ロマン・クレイブルと対戦し、2Rに左ミドルキックでクレイブルの腕を骨折させてKO勝ち。

8月4日、13連勝中だったヴィタリ・オフラメンコと10年ぶりに再戦し、前回同様に2RKO勝ちでWKNオリエンタル・キックボクシング世界スーパーヘビー級王座の防衛に成功。試合後、俳優のシルヴェスター・スタローンから祝福され、チャンピオンベルトを腰に巻かれた。

11月23日、マルセイユにてシンデン・ハマーレインと対戦し、1Rにスリップで転倒した際に追撃の蹴りをくらう反則をくらい、そのダメージが残るなかで直後にハイキックでダウンを喫するが、2RにKO勝ちを収めた。地方テレビLCMの取材に対し、「反則の蹴りは効いたが、彼とは一緒に練習したこともある友人だし、責める気はない。ストレスの溜まる状況で少しミスもしたが、俺はまだ戦うことが好きだから頑張っていきたい」と語った。

12月21日、GLORY 13 TOKYOにてセルゲイ・ハリトーノフと対戦し、1Rはやや優勢だったが2R以降にダウンを奪われ判定負け。練習中の怪我によって本来の強い蹴りが打てず動きが悪かったことが試合後に明らかになった[28]

12月30日、フジテレビのテレビ番組ジャイアントキリング 3にて各スポーツの世界トップアスリート32名による腕相撲トーナメントに参戦し、マーク・ハント、大相撲の遠藤聖大、ハンドボールの宮崎大輔に勝利しベスト4入りした。

2014年5月30日、現在も居住するル・アーヴルでの故郷凱旋試合でルシアン・ダニレンクと対戦。近年で最高のコンディションで臨み、圧倒的なパワーとキレの良さで開始早々からダニレンクを圧倒し、2R開始早々に左ミドルキックでダウンを奪うと、すぐさま左ミドルで2度目のダウンを奪い、この際に左足を痛めると今度は強烈な右ボディフックで3度目のダウンを奪ってKO勝ち。バンナのボディフックを浴びたダニレンクの身体が浮き上がるほど豪快なKO勝ちとなり、セコンドに飛びついて喜びを爆発させた。試合後にマイクを握るとファンと仲間への感謝を何度も連発し、勢いで「明日死んでも後悔しないくらいだぜ」と英語で語るほど興奮し、「この5ヶ月間で怪我を治して身体作りに専念してきた成果が出た」と語った。

2014年7月20日~22日にかけて行われたIGFの東日本大震災復興支援チャリティー大会『元気祭り2014』に参戦し、福島県のいわき明星大学、スポーツアリーナそうま、宮城県の岩沼市総合体育館でチャリティー・プロレスマッチを戦った。

8月4日、サントロペにてマイクスジムのダニエル・サムと対戦予定だったが、直前でサムが欠場したため、サムと同門で身長207cmのコリン・ジョージと対戦し、2RKO勝ち。

8月23日、INOKI GENOME FIGHT 2にて小川直也とのタッグで藤田和之クラッシャー川口組と対戦。試合前に小川は「何でバンナとタッグを組まされるのか分からない。控え室が同じかどうかも知らない。全員が敵だと思って戦う」と語っていたが、いざ試合が始まるとプロレスルールに順応したバンナが連携ブレーンバスターを繰り出すなど意外な好連携を発揮して勝利。試合後、小川からタッグ継続を希望された[29]

8月30日~31日、IGF初の北朝鮮での大会『インターナショナル・プロレスリング・フェスティバルin平壌』に参戦。

芸能活動[編集]

2006年頃から映画俳優としても活動しており、『ザ・スコーピオン キング・オブ・リングス』(原題:Scorpion)やハリウッドデビュー作となった『バビロンA.D.』ではアクション演技を披露した。マッドワールドのフランス版CMなどにも出演している。さらにヨーロッパ映画史上歴代2位の制作費122億円がかかった映画アステリックスシリーズ第3作『Asterix aux jeux olympiques』では、ジャン=クロード・ヴァン・ダムに代わってClaudius Cornedurusという映画内でも重要な役に抜擢され、友人であるアラン・ドロンとの共演も果たした。また、その撮影期間中の2006年9月30日に行われたK-1 WORLD GP開幕戦のメインイベントでバンナはチェ・ホンマンと対戦予定だった。しかし、バンナのマネージャーが「撮影が終わる11月2日までは格闘技の試合はもちろん、スパーリングなどの怪我しやすい練習もしてはいけない」という契約を映画会社と結んでいたことによって欠場が濃厚となっていた。しかし、バンナのマネージメント側は開幕戦の半年以上前からK-1主催者とフジテレビに映画撮影のため、開幕戦に出場できないことを伝えていたにもかかわらず、フジテレビから「出場しなければ契約を解除する」と通告され、K-1ファイター人生の危機に陥っていた。そこでドロンが「君は戦うために生まれてきた男だ。そんな契約は気にせず、日本で試合をしてきなさい。後のことはこっちで何とかするから」と言ってバンナを撮影地のスペインから送り出したことにより、何とか開幕戦当日の試合開始6時間前に来日を果たした。そしてホンマン戦では顔に傷が付くことを恐れない真っ向勝負の戦い方で勝利した後、リング上でマイクを握ったバンナは「快く送り出してくれたアラン・ドロンに感謝します」とコメントした(通訳者はこの言葉を省略)。

2007年1月16日に日本テレビで放送された現代に甦った闇の死置人 あなたの怨み晴らしますというドラマに本人役として出演した。

無冠の帝王・ワンマッチ最強[編集]

お互いが公平な条件で戦えるワンマッチでは圧倒的な強さとKO率の高さを誇る一方で、K-1 WORLD GP決勝トーナメントには10度出場しながらも準優勝が最高位のため、「無冠の帝王」「ワンマッチ最強」と呼ばれる。10度の決勝トーナメントのうち、2005年を除く9度が優勝者に敗れており、決して弱い相手に敗れているわけではない。唯一該当しない2005年はバンナに勝利したアーツはバンナ戦のダメージで肋骨を骨折したため準決勝をドクターストップで棄権している。また、優勝者が「今日戦った3試合の中でバンナ戦が一番厳しい試合だった」と答えたのは1995年と2007年を除く7度である。1998年は同年に優勝するピーター・アーツからも警戒する相手としてバンナの名前を挙げられていた[30]が、プロボクシングのプロモーターとの契約問題によって欠場となり、怪我をしてるわけでもないのに観客席からの観戦という無念を味わった。優勝候補大本命と目され、他の出場者も決して好調ではなかった2000年の決勝トーナメントは直前で病気によって無念の欠場。2001年は前述のようにKOされた際に反則の肘打ちを浴びているにも関わらずレフェリーが反則をとらずに終わった。2002年の決勝トーナメントで最大の武器である黄金の左腕を角田信朗の不可解なレフェリングもあって粉砕骨折して以降は左パンチの数と威力が激減。他の優勝候補4人が怪我や病気、PRIDE移籍などでことごとく欠場した2003年の決勝トーナメントはバンナ自身も左腕粉砕骨折の怪我の悪化によって欠場。以後も左腕の怪我に悩まされ続けている。また、2010年にK-1優勝を目指してフランスを離れてオランダの名門ドージョー・チャクリキに入門した際に、チャクリキのトム・ハーリック会長から「3年計画でバンナを王者にする」との計画の元で猛特訓を積んできたが、2011年にK-1の運営会社が活動を停止し、以後K-1の無差別級は実質消滅しており、チャクリキの3年計画は丸1年にして戦う場所を失う形で頓挫してしまった。2012年にK-1に代わって世界最大のキックボクシング団体となったGLORYと契約し、2012年大晦日のDREAM.18 & GLORY 4でのGLORYグランドスラム・ヘビー級世界トーナメントに参戦予定だったが、同年9月に負った怪我が治りきっていないため、トーナメントは回避することになった。

人物・エピソード[編集]

  • 両親はスコットランドからの移民。祖先はケルト人であり、「好戦的なケルト人は、“は栄誉の保証であり、武勇をもたらすシンボルで、力を与えてくれる特別な物”と考えていたから」という理由で2000年には勝利した後にリング上で剣を掲げるパフォーマンスを行ったり、2002年からは入場する際にケルト人の末裔であることを意識した王様の様な赤いマントを着用して入場することが度々あった。また、剣を持っていたもう一つの理由として、バンナの好きな映画であるコナン・ザ・グレートを意識しており、入場曲も同映画のテーマ曲を使ったと答えている。
  • 小学生時代には体が大きかったため“ブルドーザー”と呼ばれていた。“ハイパー・バトルサイボーグ”という異名について本人は「“ただ強ければいい”という嫌なニックネームだ。それより俺はジェロニモのような勇敢で慈悲深く、果敢に前に突き進む戦士でありたい」として嫌っていた時期もあったが、試合を控えてのインタビューでバンナ自ら「俺様は“ファイティング・サイボーグ”だ。どんな時でも戦って豪快に勝つぜ」と言う等、長年“バトルサイボーグ”と呼ばれているうちに愛着が生まれたことが伺える。また、K-1初参戦から数年間は入場時にジェロニモが描かれたコスチュームを着ることが多かった。2004年頃から呼ばれ始めた“K-1の番長”というニックネームは気に入っているようで、“BANCHO”と書かれたTシャツを着ていたこともあった。リングコールとしては、K-1 GRAND PRIX '99 決勝戦準々決勝のアーツ戦とフランスでの試合でジェロム“ジェロニモ”レ・バンナ、2000年のISKA Championship Kickboxingでのジョンソン戦とK-1 WORLD GP 2007 FINAL準決勝のシュルト戦でジミー・レノン・ジュニアに“The hard hitting”ジェロム・レ・バンナとコールされた。上記の例を除いて、K-1の大会で外国人リングアナがバンナをリングコールする時は“ハイパー・バトルサイボーグ”がコールされている。
  • K-1 GRAND PRIX '99 決勝戦の抽選会ではピーター・アーツ、K-1 WORLD GP 2006 in TOKYO 決勝戦の抽選会ではセーム・シュルトと、当時、「絶対王者」と評価されていた前年度王者との対戦を自ら希望して指名した。
  • 歯に衣着せぬトラッシュトークを連発し、バンナが大会の看板選手だった2001年のWORLD GP決勝戦の前にフジテレビで放送されたすぽると!では、「今日の俺の格言!」と題したコーナーで、過去から当時までのバンナの名言を連日に渡って放送した。
  • K-1屈指の人気を誇り、特にヨーロッパアジアでの人気は絶大である。谷川貞治は「オランダではオランダ人のレミー・ボンヤスキーを差し置いてバンナの方が人気が高いくらい」とコメントしていた。また、プロ格闘技において通常は地元の選手や実績や人気が上の選手が赤コーナーで、格下の選手やアウェーの選手が青コーナーとなるが、K-1 WORLD GP 2006 in AMSTERDAMでは前K-1 WORLD GP王者でオランダ人のレミーを差し置いてバンナが赤コーナーとなった。日本での人気の高さに加えて、韓国で開催されたK-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16では、演出で不死鳥の翼を纏ったバンナが大会ポスターとパンフレットの表紙を独占的に飾り、K-1 WORLD GP 2010 IN SEOUL FINAL16でもパンフレットの表紙を飾るなどアジアでの人気の高さも現れている。
  • K-1に対する熱意と愛情も人一倍深く熱いことでも知られている。1998年にプロボクシングに転向した際に、契約の問題等もあって干されてしまい、「試合が出来ず、ファイトマネーが稼げないから生まれてきたばかりの娘へのミルク代すら無い」と苦しんでいた所をK-1に救ってもらったことに対して恩義を感じており、「K-1は俺にとって皮膚みたいなもんだ。運命共同体なのさ。ファンとK-1のためなら俺の命を捧げる覚悟がある」と言い切る。その覚悟ゆえに、怪我などを抱えていたり、過密日程による過酷な連戦であってもK-1の興行を支えるために試合を受諾してしまうことがある。また、K-1の外敵に対して凄まじい闘争心を燃やしており、K-1ではなく極真を主戦場としているフィリォとペタスと対戦した際には試合前から尋常じゃない殺気を放って対抗心を露にしたり、「谷川モンスター路線(詳細は谷川貞治の項を参照)」の象徴的選手であるボブ・サップチェ・ホンマンらに対しては、「アイツらはK-1を見世物小屋にしやがった。奴らは人間としては良い奴だが、ファイターとしては大嫌いだ」と嫌悪感を露にしていた。プロボクシング3団体統一世界ヘビー級王者マイク・タイソンのK-1参戦が浮上した時やK-1vsPRIDEなどの対抗戦が行われる際にはバンナは真っ先に「K-1代表としてどのルールでも戦う」と名乗り出ている。2000年に石井和義は「今のK-1では、バンナだけが試合用トランクスに"K-1"って刺繍を入れてる。バンナの頭の中には常に"バンナ=K-1"っていうのがあって、K-1が極真やPRIDEやプロレスやボクシングとかに絶対勝たなきゃいけないという気持ちを持ってるのはバンナ一人だけです。最もK-1を象徴するMr.K-1はアーツでもアンディ・フグでもホーストでもなくバンナですね」と語っている[31]。また、K-1を主催するFEGファイトマネー未払い問題については口を閉ざしてきたが、2010年大晦日の試合のファイトマネーが半年以上も経っても支払われないことに対して遂に我慢の限界に達し、「石井館長にはとても感謝しているし、尊敬している。しかしその後、ピエロのような人が現れた。いま、報道陣が笑ったように、それは谷川貞治だ。谷川は信頼できない。彼はタダのワラ人形、パペットだ。谷川を制裁するためにもIGFでアントニオ猪木さんと闘ってほしいね。谷川がいる限り、K-1には出ない!」と怒りを露にした[32][33]。2011年8月24日のSアリーナに生出演した際には、「K-1には色々な問題が起きているが、何とか復活できたらまたK-1に参戦したい」とコメントした。
  • バンナのパンチはトップクラスのボクサー達からも高く評価されており、前述のように伝説のボクシング世界王者イベンダー・ホリフィールドからも「パンチ力だけなら既に世界最強」と認められたほか、アトランタオリンピックボクシングヘビー級フランス代表のクリストフ・マンディや元WBA世界ジュニアウェルター級王者カル・ライリーらからも高く評価されてボクシングへの挑戦を薦められ、ホリフィールドを含めた数多くの世界王者を育てた名トレーナーのドン・ターナーとロバート・リーからも実力を認められたこともあり、1998年にK-1と並行してプロボクシングにも挑戦した。プロボクシングでの戦績は全勝で、ビッグマッチの前座に出場するなど期待されていたが、契約問題でプロモーターに干されたためにK-1に専念することになり、ボクシングでの実力は未知のままとなったが、1999年にはダウン経験が一度も無いほどの打たれ強さを持ち、後にWBA世界ヘビー級王座に挑戦するマット・スケルトンをパンチで圧倒して1ラウンドKO勝利、2002年にはこれまでパンチでダウンしたことのなかったマーク・ハントからパンチでダウンを奪ってTKO勝利、2001年には前年にWBO世界クルーザー級王座に挑戦したアダム・ワットにパンチだけで1ラウンドKO勝ちを収め、マイク・タイソンの練習仲間であるワットに「ガードの上から殴られたのにKOされてしまった。物凄いパワーだった」と言わしめるなど、バンナがボクシングでも活躍した可能性の片鱗を見せている。2010年には元世界クルーザー級統一王者ジャン=マルク・モルメクがバンナとのボクシングルールでの対戦を避けた。また、バンナ本人は自分のボクシングテクニックについては「俺のテクニックは改善すべき点が多くあるからもっと強くなれる。タイソンやオスカー・デ・ラ・ホーヤのような技術を身につけるまではまだまだだ」と謙虚に語る一方、パンチ力については「俺様のパンチはただのパンチじゃない。相手の身体に風穴を開けて身体も心もぶち壊すパンチだ」とのほか、SRS-DX No.41においては「フィリオがつまらない闘いをするようになったのもピーターが低迷しているのも、オレのパンチがあまりにも強すぎるせいだな。俺のパンチは単に痛いだけでなく相手の身体にも心にも染み込んで破壊してしまうから仕方ないね」と語っていた。
  • 総合格闘技については、フランスで総合格闘技が法律で禁止されていることに加えて、そのK-1に対する愛情から当初は嫌っていたが、総合デビュー戦の安田忠夫戦ではK-1WGP決勝の直後の試合ということもあってわずか2週間しか寝技の練習が出来なかったにもかかわらず、スイープしてマウントポジションを奪うなど順応できたことと、総合ルールの練習と試合をこなしていくうちに好きになっていったとのこと。2002年には当時ヴァンダレイ・シウバらが所属していたシュートボクセ・アカデミーに所属することを検討していることも表明し、2012年にはラスベガスにあるヴァンダレイ・シウバのジムでシウバ達と総合格闘技の練習をしている。2005年にエメリヤーエンコ・ヒョードルらと合同練習した際にはヒョードルから「絞め技が上手い」と評価された。これからもK-1と並行してMMAの試合をしていくことを希望している。2006年にUFCからオファーが来た際にはUFCでティム・シルビアミルコ・クロコップとの対戦を熱望していたが、UFCは他団体への出場を許可しない独占契約であるため、あくまでK-1との並行参戦を望むバンナはUFCとの契約に至らなかった。その後、2009年にモントリオールのトライスタージムでジョルジュ・サンピエールデニス・カーンらと練習して世話になったことに加えて、UFCから出場オファーが来たため、「彼らを喜ばせるために、2試合くらいならやってもいいかと考えている」と語った。その一方で、「しかし俺の心のボスは石井和義館長。心はここにある」とK-1への忠誠も忘れていない[34]。MMAルールではシルビア、ミルコ、アリスター・オーフレイムらとの対戦を熱望している。
  • 昔からファンに対しては感謝の念を度々口にしており、その対応は非常に紳士的である。試合前にもかかわらず、ホテルに押しかけたファンと共に食事に応じたこともある。自国のフランスに対して誇りを持っているが非常に親日家である。初来日する以前から元々日本料理が好きで、日本の武士道精神などの「和」を感じるものを好んでおり、誰にも聞かずに自分で池上本門寺の場所を調べて参拝しに行くなどしている[35]東日本大震災が起きた後、IGFのチャリティー大会に参戦したことについては、家族からも来日を反対されたなかで「もし大変なことにあったら、俺は日本で死んでもいい。その覚悟で日本に来た。フィアンセにも"絶対に俺は行くぞ"と言って認めてもらってきた」「俺は震災のショックを少しでも吹き飛ばすファイトをするつもりだ。震災で色々なものを失い、希望を失い、絶望の中にいる日本の皆さんに勇気と希望を与えられるような、明るい未来を見てもらえるような試合を必ずして元気を与えたい」「京都、名古屋、大阪にも行きたいが、できれば仙台に行きたい。それで現地の人と話をしたいと思っている。日本は俺にとって第二の故郷。何か少しでも力になりたい。それが俺の今の夢なんだ」[36]と語っている。日本以外のマスコミからのインタビューでは「日本は素晴らしい国だから皆も来ると良いよ」と答えることも多く、日本に対する愛着と敬意が表れている。「俺が戦う理由はK-1王座が欲しいからじゃないし、金を稼ぐためでも、自分のためでも、娘のためですらない。俺を信じて応援し続けてくれているファンのためだ。ファンのために必ずK-1王座を取る」「俺には、誰にも負けない世界に誇れる武器が一つだけある!それは俺のことを応援してくれるファンの力だ!」と語るほどファンへの感謝の想いは強い。
  • K-1 WORLD GP 2005 IN OSAKA 開幕戦にてゲーリー・グッドリッジと対戦し、1ラウンドKO勝利した後、バンナは控え室に戻らずにグッドリッジの元へと向かい、バンナのローキックのダメージによって歩けなくなっているグッドリッジを自分の背中におんぶして医者の元へと連れていった。この時のことについてバンナは「周りにゲーリーをおぶれるような体格の人もいなかったから咄嗟に身体が動いたんだ」と語っている。
  • 最初の妻とは別居生活が続いた末に2005年2月に離婚。2006年に別の女性と再婚するがその後2度目の離婚。2011年12月30日の試合でKO勝利して王座を獲得した後のリング上で恋人にプロポーズして2012年7月に正式に3度目の結婚。現在の妻はカメラ撮影のプロであり、フランスの格闘技専門チャンネルKOMBAT SPORTにて2012年以来、毎月放送されているジェロム・レ・バンナのドキュメンタリー番組の撮影・編集も妻が行っている。現妻はニコニコ動画のIGFの公式番組にバンナと共に出演することもある。最初の妻との間に1999年生まれのヴィクトリアという一人娘がおり、時折自分の試合の観戦のために日本に同行させている。「日本で娘に対して見せたいものはありますか?」という質問には「いろんな人がいるということ。日本人は見た目も違うし、違う文化があるということ、日本人の優しい面、人は優しくなれるんだということ、日本人がお互い尊敬の念を持って暮らしていること、違う文明同士が調和を持って暮らしていけるということを分かってほしいと思っている」と答えて父親らしい一面を見せている[37]
  • 動物好きであり、ポニーウサギアヒルなど様々な動物を飼育している。大学では獣医学を学んでいた。動物好きになったのは友達のいない幼少期のバンナに、彼の母親が一匹の亀をプレゼントしたことがきっかけ。以来、彼は亀を自室の洋服箪笥の引き出しの中で飼う様になった。将来の夢は動物園の設立。動物と触れ合って感じたことについて、「人生で大切なことを学べるね。動物を大切にすればするほど彼らもそれに応えてくれる。絆が固くなるんだ。忠誠心だよ。今の仲間のことを考えたとき、共通点があるとしたらそこだね。互いの愛情さ」と語っている。
  • 以前までは人嫌いで「今のK-1の連中は仲良しクラブみてえだ」「人間と違って犬は人を裏切らないから好きだ」「お前ら、俺を憎め。もっと憎めばいい。その方がやりやすいぜ。全員ぶっ倒してやる」と語るなど一匹狼的な性格だった。また、トレーナーや練習相手を雇っても対立して頻繁に解雇したため、一時期は試合の度にセコンドに就く人間が代わっており、バンナ本人も「毎日トレーナーと顔を合わせてるとモメるから必要な時だけ俺のジムに来てもらってる」と語るなど、本人も認めるほど気難しい性格だった。その一方で、ハンガリー出身の少年が、経済的に余裕がないために空手クラブの入会金を支払えないと知るとバンナが黙って代わりに支払ったり、日本のラーメン屋で食事中に通りがかったバンナファンの女性がバンナを見て興奮のあまり気分が悪くなってしまった際には丁寧に介抱するなど、優しい一面も持つ[38]。インタビュー中に不機嫌になると貧乏揺すりをする癖があり、無愛想かつ短いコメントで済ます。しかし、当時から娘のことに話が移った際は途端に饒舌になる。試合用トランクスには必ずヴィクトリアの名前が刺繍してあり、試合前には必ず娘の名前の部分を触る。左腕粉砕骨折の治療のため手術をした際にも、手術した左肘周辺にヴィクトリアの名前を刺青している。「徹底的に殴り合う。リング上で死んでも構わない」と覚悟を決めているなかで、「いつ死ぬかもしれない。死ぬ前に思い浮かべるのは娘のヴィクトリアでいたい」と語っている[39]。また、近年は他のファイターとも談笑するなど落ち着いてきたようであり、2010年3月からはアムステルダムに単身赴任してドージョー・チャクリキで練習するなど、一匹狼だったかつてと違って仲間との絆を大切にしている。
  • 2014年7月18日、大森ゴールドジムでの練習後のバンナとドージョー・チャクリキ古河の相澤宏使の前で、お年寄りが横断歩道で転倒するのを見かけるとすぐに駆け寄って助け起こし、お婆さんの手をとって横断歩道を渡った。この出来事がゴング格闘技のTwitterで紹介されるとバンナを絶賛する声が続出し、めざましテレビでも紹介された[40]
  • 自身の生き様について「戦いとロックは同じだ。ロックンロール的な人生が大好きだ!そこには魂の破壊があるからな。後先考えたりしない。だから俺の人生はロックンロールだ。過去なんかどうでもいい、今の俺に期待しろ。いつでもやり直せる、それが人生ってもんだろ」「俺は戦うためにこの世に生まれた。俺は生きるために戦い、戦うために生きる」「たとえリングで死んでも、それが人生だ。どんな時でも俺は恐れず真っ向勝負でKO勝ちを狙う」と語っている。2007年から「It's Rock'n Roll, baby! Rock'n Roll」という言葉を決め台詞にするようになった。
  • 左腕を粉砕骨折して以来、2007年6月まで左腕に2本のプレートと金属のボルト13本を埋め込んでいた。そのため「空港では必ず金属探知機の検査に引っかかるから、いちいち説明するのが面倒だ」とジャンクSPORTSに出演した時とK-1公式サイトのインタビューで語った[41]。また、バンナの鍛え抜かれた腕が太すぎて、一般人の腕に埋め込むために使われているプレートでは小さすぎるため、足に埋め込むための大きめのプレートがバンナの腕には埋め込まれていた。
  • フランスではキックボクシングが盛んではなく、総合格闘技に至っては法律で禁止されているため、練習相手を探すことにも苦労しており、「せっかくスパーリング・パートナーを連れてきても俺の打撃に耐えられなくてすぐ潰れる奴が多い」とぼやくこともあった。そのため、オランダタイアメリカ合衆国ロシアカナダなど世界各国に出稽古をしている。
  • 義理人情に厚く、器の大きい性格である。前述のように1998年にプロボクシングに転向した際には、仲介役のプロモーターだったジャン・クリストフ・クレージュの業務怠慢に対して抗議すると逆ギレされて試合が組まれなくなったという出来事があったが、それでも2009年には「色々あったが、クレージュに世話になったからボクシングの試合が出来た。だから再び彼が自分の興行で俺に戦ってほしいと言うなら喜んで戦って勝つ」と言ってクレージュと和解するなど、器の大きい一面を見せた。また、バンナの友人であり、練習パートナーでもあるヨハン・デュプラスが所属しているボクシングジムは、プロライセンスを持っているのがヨハンのみであり、ジムの会員も少なく、有力なプロモーターもいないため練習相手を探すのも困っていることを知ると、「俺もスパーリングパートナー探しやマネージメントで苦労した経験があるから気持ちはよく分かるし、彼は良い友達だ。俺がヨハンのジムを代表して彼と共にボクシングマッチを戦えばジムの宣伝にもなる」と言って、ヨハンをクレージュに紹介してプロモート契約を結ばせ、2009年5月23日のクレージュの興行でヨハンと共に11年ぶりのボクシングマッチを戦うことを決意した[42]。その試合でKO勝利した直後のマイクアピールでは、母国のファンと会場に招待していたアラン・ドロンとマチュー・カソヴィッツにも感謝の言葉を残した。その後、ヨハンは2012年に来日し、ボクシング転向後の藤本京太郎がメインを務めた興行セミ前で竹原真敬からKO勝利を挙げている。
  • K-1を世界中に広めるべく、フランスだけでなくイタリアベルギーなど世界各地に出向いて格闘技セミナーを開催している。

他のファイターとの関係[編集]

ピーター・アーツ
長年に渡ってお互いをライバルと認め合う盟友。2000 - 2004年頃のバンナは多くの対戦相手に対して挑発的なトラッシュトークを連発していたが、当時もアーツに対してだけは敬意を欠かさない発言をしており、当時のアーツが不調にあえいで引退を囁かれていたなかで「ピーターはこのまま終わる奴じゃない」と語っていた。2010年にバンナがアーツの所属するドージョー・チャクリキに所属するようになったこともあって、お互いのセコンドに就くなどしている。
マイク・ベルナルド
K-1に参戦する前から対戦しており、お互いをライバルと認め合う盟友。特にベルナルドはバンナをライバル視する発言が多く、プロボクシングからのK-1本格復帰後に強くなったバンナを参考にしてプロボクシングに挑戦したこともあった。ベルナルドの現役引退セレモニーが行なわれたK-1 WORLD GP 2006 開幕戦後のインタビューでベルナルドは「僕は結局K-1 WORLD GPで優勝できなかったけど、僕と同じ年にK-1デビューして今も初優勝を目指してるジェロムに僕が叶えられなかった夢を託すよ」とコメントしていた。ベルナルドの死去が報じられた際のインタビューで「彼は本当のチャンピオンだと思う。向こうのことわざで"いい奴から先に逝く"というが、そのことわざの通りだ」と語った。
アンディ・フグ
バンナは最も理想とするK-1の象徴としてアンディの名前を挙げたこともある。1996年には大阪の正道会館でバンナ、フグ、ベルナルド、武蔵の4人で合宿をしたこともあった。アンディは「バンナは圧倒的なパワーもあり、才能もある素晴らしい選手。彼の練習環境が整えばもっと強くなって、手がつけられなくなるだろう」と語っていた。バンナはK-1 WORLD GP 2001 in 大阪のトーナメントで全試合1ラウンドKO勝利で優勝した後のリング上でアンディへの追悼コメントをしたほか、2011年8月24日に生放送されたSアリーナに生出演した際には、「今日は友人であるアンディの命日だから、IGF王座を手に入れたことで彼に良い報告が出来ると思う」と語るなど、アンディの死後から10年以上経った現在でも忘れず敬意を抱いている。
アーネスト・ホースト
バンナとは正反対のファイトスタイルであり、2000年 - 2003年頃までファイトスタイルを巡ってマスコミを通じて舌戦を繰り広げていた。しかし、2005年頃には両者共に完全に互いを尊敬し合うコメントを残している。また、「左腕粉砕骨折の怪我を負わせた張本人であるホーストへの怨みはあるのか」という質問に対して、「怨みなんてないよ。あれは神とか天の仕業に違いない。大切なのは起こってしまった後さ。つべこべ言っても何にもならない。どうやってそれを受け入れるかが一番重要なのさ。ホーストは凄くイイ奴だ。日本人風に言うならアイツは親分だ。たとえ互いの間で色々あっても俺たちはファイターだし、良心がある。ホーストはK-1を引っ張ってきたし、アーツやアンディ・フグや佐竹雅昭もそうだ。だから俺は彼らを尊敬し続けている」とコメントしている[43]。なお、K-1 WORLD GP 2005 in TOKYO 決勝戦の組み合わせ抽選会では、当時K-1 WORLD GP引退を表明していたホーストを貴賓席で見つけると、登壇する前に握手を求めてホーストへの敬意と惜別の気持ちを示した[44]
マーク・ハント
バンナは2002年のハントとの2戦を自身の格闘技キャリアの中で好きな試合として挙げている。ハントはバンナとの通算4度目の対戦後、「僕はバンナと戦う度に寿命が10年縮んだよ。今回の僕は調子が良かったのに、それでも負けたし、もう二度とバンナに勝てる気がしない(笑)」と冗談で語った。また、この試合でバンナのローキックをくらって受けたダメージによってハントは膝を手術し、総合格闘技への転向を余儀なくされた。[要出典]2008年12月31日のDynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜にて総合格闘技ルールでの対戦が組まれるも、バンナがインフルエンザに感染し大会を欠場したため実現しなかった。
セーム・シュルト
2011年現在、4戦全敗しているものの、シュルトはバンナを苦手としているとコメントしている。K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16にてシュルトがピーター・アーツに敗れたことについては、「ピーターとは以前から一緒にK-1を盛り上げてきた戦友だから彼に勝ってもらいたかったし、勝つと信じていた」と語る一方で、「でもな、シュルトも実力のある選手だ。すぐに復活するだろう。復活すれば再び手強い相手になることは間違いない。だが、オレだって負けっ放しで終わるつもりはない。次こそはブッ倒してやるさ」と言ってシュルトに対しても敬意を表すと同時に対戦を希望している[45]
石井慧
石井は子供の頃からの憧れの選手の一人としてバンナを挙げており、2010年大晦日の対戦以降、親交を深めた。バンナがアメリカに出稽古に来た際に再会し、その後は石井をオランダのドージョー・チャクリキやフランスの自分のジムでの練習に同行させるなどしている。バンナは石井について「俺にとって息子みたいな奴だ」と気に入っており[46]、バンナの友人のラッパーのPVにも自身と共に石井を出演させている[47]。2012年12月31日にはバンナがさいたまスーパーアリーナで開催のDREAM.18 & GLORY 4に、石井が両国国技館で開催のINOKI BOM-BA-YE 2012にそれぞれ出場したが、バンナは「さいたまから両国に行って石井のセコンドに就きたい。終わったらまたさいたまに戻って自分の試合に出る」と語るほど石井のサポートに名乗り出ていた[48]。INOKI GENOME FIGHT 2でのミルコ戦では石井のセコンドに就いた。
武蔵
「K-1 10年の奇跡」のインタビューにて「俺達は同志だし、俺はすごい武蔵ファンなんだ」と発言し、さらに同インタビューではK-1 ANDY MEMORIAL 2001 〜JAPAN GP 決勝戦〜のトーナメント決勝にてニコラス・ペタスに判定負けした武蔵を「お前の方が強いのになぜ負けたんだ」と叱りつけたことを明かしている。武蔵が引退を賭けてバンナに挑み、バンナが勝利したK-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16では前述の通り試合後のリング上でバンナは武蔵に対し土下座で敬意を表しており、K-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMAにて行われた武蔵の引退セレモニーで武蔵に花束を渡した際には目に涙を浮かべながら土下座で敬意を表した。

戦績[編集]

キックボクシング[編集]

キックボクシング 戦績
104試合 (T)KO 判定 その他 引き分け 無効試合
82 64 18 1 1
20 10 9 1
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
コリン・ジョージ 2R 0:23 KO(左ミドルキック) Fight Night Saint-Tropez II 2014年8月4日
ルシアン・ダニレンク 2R 0:48 KO(3ノックダウン : 右ボディフック)  Final Fight - Retour aux sources 2014年5月30日
× セルゲイ・ハリトーノフ 3R終了 判定0-3 GLORY 13 TOKYO 2013年12月21日
シンデン・ハマーレイン 2R KO(右ボディフック)  La 20ème Nuit des Champion 2013年11月23日
ヴィタリ・オフラメンコ 2R KO(3ノックダウン:右ローキック)  Fight Night Saint Tropez
【WKNオリエンタル・キックボクシング世界スーパーヘビー級タイトルマッチ】
2013年8月4日
ロマン・クレイブル 2R 0:53 KO(左ミドルキック) Time Fight 3 2013年6月16日
KOICHI 3R終了 判定150-135 GLORY 8 TOKYO 2013年5月3日
KOICHI 3R 2:48 KO(右フック) DREAM.18 & GLORY 4
【ボーナス・ファイト 2分3ラウンド】
2012年12月31日
アーノルド・オボロトフ 2分5R終了 判定 Le Banner Series Acte 1
【WKNオリエンタル・キックボクシング世界スーパーヘビー級タイトルマッチ】
2012年4月28日
× エロール・ジマーマン 1R TKO(レフェリーストップ/3ノックダウン) United Glory 15 2012年03月23日
アンドレイ・キルサノフ 3R KO(左ミドルキック) Gladiator's War - Le Banner Tour 1st Fight
【ワールドプロリーグ・ムエタイ世界スーパーヘビー級タイトルマッチ】
2011年12月30日
ステファン・レコ 5R終了 判定3-0 8ème Nuit des Sports de Combatbr
I.S.K.A.フリースタイル世界スーパーヘビー級タイトルマッチ】
2011年6月11日
× 京太郎 試合放棄
(※3R終了 判定1-0)
K-1 WORLD GP 2010 IN SEOUL FINAL16
【WORLD GP 1回戦】
2010年10月2日
トーマス・ノヴァク 5R 2:56 KO(右フック) MUAYTHAI GALA INTERNATIONAL
【WPMFムエタイ世界スーパーヘビー級タイトルマッチ】
2010年7月23日
タイロン・スポーン 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMA 2010年4月3日
× セーム・シュルト 1R 1:21 KO(2ノックダウン:左前蹴り) K-1 WORLD GP 2009 FINAL
【WORLD GP 準々決勝】
2009年12月5日
武蔵 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16
【WORLD GP 1回戦】
2009年9月26日
× エヴェルトン・テイシェイラ 延長2R終了 判定1-2 K-1 WORLD GP 2009 IN YOKOHAMA
【スーパーファイト】
2009年3月28日
× レミー・ボンヤスキー 3R 1:46 TKO(ドクターストップ:左上腕骨折の疑い) K-1 WORLD GP 2008 FINAL
【WORLD GP 準々決勝】
2008年12月6日
澤屋敷純一 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16
【WORLD GP 1回戦】
2008年9月27日
× セーム・シュルト 3R終了 判定0-2 K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKA
【K-1スーパーヘビー級タイトルマッチ】
2008年6月29日
× セーム・シュルト 2R 1:02 TKO(タオル投入) K-1 WORLD GP 2007 FINAL
【WORLD GP 準決勝】
2007年12月8日
チェ・ホンマン 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2007 FINAL
【WORLD GP 準々決勝】
2007年12月8日
パク・ヨンス 1R 0:54 KO(右フック) K-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16
【WORLD GP 1回戦】
2007年9月29日
× 澤屋敷純一 3R終了 判定0-3 K-1 WORLD GP 2007 IN YOKOHAMA 2007年3月4日
× セーム・シュルト 3R終了 判定0-3 K-1 WORLD GP 2006 IN TOKYO 決勝戦
【WORLD GP 準々決勝】
2006年12月2日
チェ・ホンマン 延長1R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2006 IN OSAKA 開幕戦
【WORLD GP 1回戦】
2006年9月30日
レミー・ボンヤスキー 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2006 IN AMSTERDAM
【スーパーファイト】
2006年5月13日
× ピーター・アーツ 延長1R終了 判定0-3 K-1 WORLD GP 2005 IN TOKYO 決勝戦
【WORLD GP 準々決勝】
2005年11月19日
ゲーリー・グッドリッジ 1R 2:13 KO(3ノックダウン:右フック) K-1 WORLD GP 2005 IN OSAKA 開幕戦
【WORLD GP 1回戦】
2005年9月23日
ディミトリ・ポドガイスキー 1R 1:49 KO(右フック) La Finale du Grand Tournoi 2005年7月2日
シリル・アビディ 5R 2:53 KO(右フック) K-1 WORLD GP 2005 IN PARIS
【スーパーファイト】
2005年5月27日
オリヴァー・ヴァン・ダム 1R KO(左フック) Post Tenebra Cup 2005
【WKNムエタイ世界スーパーヘビー級タイトルマッチ】
2005年4月30日
天田ヒロミ 2R 1:03 KO(2ノックダウン:左ローキック) K-1 WORLD GP 2004 決勝戦
【WORLD GP リザーブファイト】
2004年12月4日
× フランソワ・"ザ・ホワイトバッファロー"・ボタ 3R終了時 TKO(タオル投入) K-1 WORLD GP 2004 in TOKYO 開幕戦
【1回戦】
2004年9月25日
テレンス・リーズビィ 1R 0:53 KO(右膝蹴り) K-1 WORLD GP 2004 in SEOUL
【スーパーファイト】
2004年7月17日
シャカ・ズール 2R 1:16 KO(右ローキック) K-1 SURVIVAL 2003 〜JAPAN GP 決勝戦〜
【スーパーファイト】
2003年9月21日
ヴィタリ・オフラメンコ 2R 2:32 KO(右ストレート) K-1 WORLD GP 2003 in パリ
【スーパーファイト】
2003年6月14日
× アーネスト・ホースト 3R 1:25 KO(3ノックダウン:右ミドルキック) K-1 WORLD GP 2002 決勝戦
【WORLD GP 決勝】
2002年12月7日
マーク・ハント 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2002 決勝戦
【WORLD GP 準決勝】
2002年12月7日
武蔵 2R 0:51 TKO(タオル投入) K-1 WORLD GP 2002 決勝戦
【WORLD GP 準々決勝】
2002年12月7日
ゲーリー・グッドリッジ 1R 0:42 KO(右ストレート) K-1 WORLD GP 2002 開幕戦
【WORLD GP 1回戦】
2002年10月5日
ドン・フライ 1R 1:30 KO(左フック) Dynamite! SUMMER NIGHT FEVER in 国立 2002年8月28日
シニサ・アンドリヤセビッチ 4R終了時 TKO(タオル投入) ISKA Championship Kickboxing
【2分7R変則ムエタイルール】
2002年7月6日
マーク・ハント 2R終了時 TKO(タオル投入) K-1 WORLD GP 2002 in パリ 2002年5月25日
天田ヒロミ 1R 1:42 KO(右ストレート) K-1 WORLD GP 2002 in 名古屋 2002年3月3日
× マーク・ハント 2R 2:32 KO(パンチ連打) K-1 WORLD GP 2001 決勝戦
【WORLD GP 1回戦】
2001年12月8日
マーク・デ・ウィット 2R 1:45 KO(右ストレート) K-1 ANDY MEMORIAL 2001 〜JAPAN GP 決勝戦〜
【スーパーファイト】
2001年8月19日
ステファン・レコ 5R終了 判定3-0 K-1 SURVIVAL 2001 〜JAPAN GP 開幕戦〜
【スーパーファイト】
2001年6月24日
アダム・ワット 1R 0:46 KO(右フック) K-1 WORLD GP 2001 in 大阪
【GP予選トーナメント 決勝】
2001年4月29日
エベンゼール・フォンテス・ブラガ 1R 1:03 KO(2ノックダウン:右フック) K-1 WORLD GP 2001 in 大阪
【GP予選トーナメント 準決勝】
2001年4月29日
パヴェル・マイヤー 1R 2:15 KO(左フック) K-1 WORLD GP 2001 in 大阪
【GP予選トーナメント 1回戦】
2001年4月29日
マイク・ベルナルド ノーコンテスト K-1 GRADIATORS 2001 〜新世紀 一撃伝説の幕開け〜 2001年3月17日
アンドレイ・ズラウコフ 2R TKO(レフェリーストップ) Double Shock Power 2001年3月4日
アーネスト・ホースト 1R終了時 TKO(タオル投入) K-1 WORLD GP 2000 in 名古屋
【GP予選トーナメント 決勝】
2000年7月30日
ニコラス・ペタス 1R 3:00 KO(2ノックダウン:右フック) K-1 WORLD GP 2000 in 名古屋
【GP予選トーナメント 準決勝】
2000年7月30日
マーク・ハント 3R終了 判定3-0 K-1 WORLD GP 2000 in 名古屋
【GP予選トーナメント 1回戦】
2000年7月30日
ショーン・ジョンソン 1R KO(左フック) ISKA Championship Kickboxing 2000年7月13日
ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤ 1R 1:07 KO(左フック) K-1 SURVIVAL 2000 2000年5月28日
フランシスコ・フィリォ 1R 2:02 KO(左ストレート) K-1 THE MILLENNIUM 2000年4月23日
パリス・バシリコス 2R 1:09 KO(右フック) ISKA Championship Kickboxing
【ISKAムエタイ世界スーパーヘビー級タイトルマッチ】
2000年3月17日
× アーネスト・ホースト 2R 0:26 KO(右フック) K-1 GRAND PRIX '99 決勝戦
【GRAND PRIX 準決勝】
1999年12月5日
ピーター・アーツ 1R 1:11 KO(左フック) K-1 GRAND PRIX '99 決勝戦
【GRAND PRIX 準々決勝】
1999年12月5日
マット・スケルトン 1R 1:59 KO(右フック) K-1 GRAND PRIX '99 開幕戦
【GRAND PRIX 1回戦】
1999年10月3日
ロブ・ファン・エスドンク 1R KO(左フック) LES CHOCS DU MUAY-THAI 1999年2月27日
エスペディート・ダ・シルバ 1R 0:52 KO(左ハイキック) アメリカ・ボクシング興行(ムエタイルール)
【WKNムエタイ世界スーパーヘビー級タイトルマッチ】
1998年9月19日
サム・グレコ 2R 3:07 KO(右フック) K-1 DREAM '98 1998年7月18日
コンバット・ジーヨ 3R 2:52 TKO(レフェリーストップ:左フック) K-1 BRAVES '98 1998年5月24日
× アーネスト・ホースト 1R 1:15 KO(右フック) K-1 GRAND PRIX '97 決勝戦
【GRAND PRIX 準々決勝】
1997年11月9日
リック・ルーファス 3R 2:05 TKO(レフェリーストップ:左ハイキック) K-1 GRAND PRIX '97 開幕戦
【GRAND PRIX 1回戦】
1997年9月7日
× ピーター・アーツ 2R 1:19 KO(右ハイキック) K-1 DREAM '97 1997年7月20日
× レイ・セフォー 1R 1:13 KO(右フック) K-1 BRAVES '97 1997年4月29日
モーリス・スミス 5R終了 判定 Le Choc des Champions
【ISKAムエタイ世界スーパーヘビー級タイトルマッチ】
1997年2月1日
サム・グレコ 5R終了 判定0-1 K-1 HERCULES '96 1996年12月8日
アーネスト・ホースト 2R 2:57 TKO(レフェリーストップ:右フック) K-1 STAR WARS '96 1996年10月18日
タケル 4R 2:49 KO(右フック) K-1 REVENGE '96 1996年9月1日
カーチス・シュースター 5R終了 判定3-0 フランス パリ
【ISKAムエタイ世界スーパーヘビー級タイトルマッチ】
1996年6月1日
× ミルコ・タイガー 5R終了 判定0-3 K-1 GRAND PRIX '96 開幕戦
【GRAND PRIX 1回戦】
1996年3月10日
ウィリー・マルティナ 1R KO(左ローキック) Muaythai Gala in Paris 1996年1月19日
× アンディ・フグ 5R終了 判定0-3 K-1 HERCULES 1995年12月9日
ジョニー・クレイン 2R 1:10 KO(右フック) K-1 REVENGE II 1995年9月3日
× ピーター・アーツ 1R 1:37 KO(右ボディストレート) K-1 GRAND PRIX '95 決勝戦
【GRAND PRIX 決勝】
1995年5月4日
マイク・ベルナルド 2R 3:05 KO(右ローキック) K-1 GRAND PRIX '95 決勝戦
【GRAND PRIX 準決勝】
1995年5月4日
佐竹雅昭 3R 2:32 KO(左ストレート) K-1 GRAND PRIX '95 決勝戦
【GRAND PRIX 準々決勝】
1995年5月4日
ノックウィー・デイビー 5R終了 判定3-0 K-1 GRAND PRIX '95 開幕戦
【GRAND PRIX 1回戦】
1995年3月3日
マイク・ベルナルド 判定3-0 不明
【ISKAインターコンチネンタル王座戦】
不明
アンドレ・ブァン・ブァーレン KO 不明
【RCFA世界スーパーヘビー級王座戦】
不明
Andy Mayo 1R KO(左ハイキック) 不明
【ISKAヨーロッパ王座戦】
1994年4月16日
Claude Herman 1R KO Full-Contact gala in La Locomotive Discothèque 1993年6月7日
ステファン・レヴェヨン KO(右フック) 不明 1992年11月13日
Raynald Fucho KO 不明
【ISKAフルコンタクト・フランス王座戦】
不明

総合格闘技[編集]

総合格闘技 戦績
6 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
3 3 0 0 0 1 0
2 0 1 1 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 石井慧 5分3R終了 判定0-3 Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜 2010年12月31日
ジミー・アンブリッツ 1R 2:04 KO(右フック) HERO'S 2006 2006年3月15日
アラン・カラエフ 2R 1:14 KO(左ミドルキック) K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!! 2005年12月31日
秋山成勲 1R 2:24 KO(左膝蹴り) HERO'S 2005年3月26日
ボブ・サップ 4R終了 ドロー K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!
【K-1&総合格闘技MIXルール】
2004年12月31日
× 安田忠夫 2R 2:10 ギロチンチョーク INOKI BOM-BA-YE 2001 2001年12月31日

ボクシング[編集]

日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
6 2009年11月13日 2R TKO ラディースラッヴ・カーヴェリック チェコ -
5 2009年5月23日 4R TKO ワーナー・クライスコット ドイツ -
4 1998年11月14日 2R 反則勝ち フランク・ディック フランス -
3 1998年6月20日 4R KO ジェイムス・ヘンダーソン アメリカ -
2 1998年4月10日 1R TKO ジェリー・レイノルズ アメリカ -
1 1998年2月24日 4R TKO チュダー・ペーナイト ポルトガル デビュー戦

獲得タイトル[編集]

  • ISKAフルコンタクト・フランス王座
  • ISKAヨーロッパ王座
  • ISKAインターコンチネンタル王座
  • ISKAムエタイ世界スーパーヘビー級王座
  • ISKAフリースタイル世界スーパーヘビー級王座
  • WKNムエタイ世界スーパーヘビー級王座
  • WKNオリエンタル・キックボクシング世界スーパーヘビー級王座
  • WPMFムエタイ世界スーパーヘビー級王座
  • 初代World Pro Leagueムエタイ世界スーパーヘビー級王座
  • RCFA世界スーパーヘビー級王座
  • K-1 GRAND PRIX '95 準優勝
  • K-1 WORLD GP 2000 in 名古屋 優勝
  • K-1 WORLD GP 2001 in 大阪 優勝
  • K-1 WORLD GP 2002 準優勝
  • IGF王座

入場曲[編集]

2000年まではバンナの好きな映画「コナン・ザ・グレート」のテーマ曲を使うことが多かった。2001年から2002年までの間、バンナの友人であるシュープレムNTMの曲「Back dans les bacs」を入場曲としてしばしば使用していたが、2002年 - 2006年と2008年9月 - 現在はカルミナ・ブラーナを入場曲として使用している。なお2001年以降、バンナの入場の際、入場曲が流れる前にバンナを呼び込む声はシュープレムNTMが担当している。

出演映画・ドラマ・DVD[編集]

  • 『ジェロム・レ・バンナDVD 私のトレーニング方法』(原題:Jérôme Le Banner : Ma méthode d'entraînement! Vol. 1)
  • 『ジェロム・レ・バンナDVD 私の闘いの方法』(原題:Jérôme Le Banner : Ma méthode de combat, Vol. 2)
  • 『Boxing my shadow』(バンナのドキュメンタリーDVD)
  • 『ザ・スコーピオン キング・オブ・リングス』(原題:Scorpion)(エリアス)
  • アステリックスシリーズ第3作・原題『Asterix aux jeux olympiques』(Claudius Cornedurus)
  • 『DISCO ディスコ』(ルドルフ)
  • バビロンA.D.』(原題:Babylon A.D.)(Killa)
  • 『BruC』(Baraton)
  • 『宿命のバズーカ』(原題:Fatal Bazooka)(Hervé Willard)
  • 現代に甦った闇の死置人 あなたの怨み晴らします(本人役)

脚注[編集]

  1. ^ 仏語読みでジェローム・ル・バネールLe Banner は英語の banner (軍旗)に由来する姓であり、仏語では [lə banœːʁ] と発音する。
    (参考動画: Jerome le Banner se "met" au krav maga - Dailymotion
  2. ^ 格闘技通信 K-1 BRAVES '97増刊号
  3. ^ イタリア格闘技雑誌THE BUSHIDO 98年8月号
  4. ^ 格闘技通信 1999年1月23日号
  5. ^ 格闘技通信 2000年4月8日号 No.250
  6. ^ K-1 WORLD GP 2001決勝戦 公式DVD
  7. ^ [K-1 5.25 フランス (レポ&写真):バンナ×ハント、豪腕決戦の幕を閉じたのはあの技!] Boutreview 2002年6月9日
  8. ^ K-1 WORLD GP 2006 in OSAKA 開幕戦パンフレット収録インタビューにて。
  9. ^ ジェロム・レ・バンナ選手側からの判定に対する異議申し立てについての回答 K-1公式サイト 2006年6月30日
  10. ^ JEROME LE BANNER: "I WOULD LOVE TO FIGHT HIM! I WOULD LOVE TO FIGHT AT LEAST ONCE IN THE UFC CAGE." fighthype.com 2007年12月19日
  11. ^ K-1 WORLD GP 2009 FINAL:第4試合 K-1公式サイト 2009年12月5日
  12. ^ WGP 2009直後、バンナが控室で暴れた謎が解明!! K-1公式サイト 2010年3月31日
  13. ^ Jean-Christophe Courrèges : "Du spectacle, du rêve et du professionnalisme ..." Les Infos Du Fight
  14. ^ : Jerome Le Banner in Training; Still Wants Fight with Tim Sylvia Head Kick Legend
  15. ^ Sports de combat Le Banner était plus fort Clicanoo.re
  16. ^ K-1 WORLD GP 2010 IN SEOUL FINAL16 第6試合 スポーツナビ 2010年10月2日
  17. ^ Kamipro No.155
  18. ^ Dynamite!! ~勇気のチカラ2010~ 第10試合 スポーツナビ 2010年12月31日
  19. ^ “K-1番長”バンナが鈴川を血祭りKO 橋本大地は藤原組長のワキ固めに無念タップ スポーツナビ 2011年4月28日
  20. ^ 2億円ベルト争奪戦、決勝はジョシュvs.バンナ!藤波、貫禄のドラゴンスリーパーで橋本Jr.に勝利 スポーツナビ 2011年7月10日
  21. ^ INOKI GENOME追加対戦カード発表のお知らせ IGF イベント情報
  22. ^ バンナが藤田KO 王座初防衛に成功 猪木がナックルパートでブッチャー、シン撃退 スポーツナビ 2011年8月27日
  23. ^ 【IGF】ベルナルドへの10カウントゴング! バンナとアーツが追悼コメント GBR 2012年2月17日
  24. ^ GENOME18メインイベントの試合前にMベルナルドへの追悼10カウントゴングを行います IGF公式サイト 2012年2月16日
  25. ^ Le Banner Injured; Valentijn Overeem Meets Marcin Rozalski in New KSW 18 Headliner Sherdog 2012年2月22日
  26. ^ 『DREAM.18』と12・2『GLORY 4』が合体!!大晦日は『GLORY Sports International presents DREAM.18&GLORY 4~大晦日SPECIAL 2012~』として開催決定!! DREAM公式サイト 2012年11月9日
  27. ^ Jérôme Le Banner vs Koichi Pettas : Vidéo et photos バンナ公式サイト 2013年1月4日
  28. ^ GSFS 結果 GLORY公式サイト 2013年12月24日
  29. ^ 【IGF両国大会】小川&バンナ 意外な好連係で藤田組に快勝 東スポWeb 2014年8月23日
  30. ^ KARATE BUSHIDO Magazine 1999
  31. ^ SRS-DX No.28
  32. ^ 「谷川信頼出来ない」バンナ怒り爆発!K―1決別宣言 日刊スポーツ 2011年7月8日
  33. ^ Kamipro Move
  34. ^ いざ決戦! K-1グランプリ開幕戦、出場全選手コメント=前日会見(2/2) 引退の武蔵に介錯人バンナは無言「今は話したくない……」 スポーツナビ 2009年9月25日
  35. ^ サイモン猪木Twitter
  36. ^ 週刊プロレス No.1590
  37. ^ 「番長の意味?俺のことだろ?」ジェロム・レ・バンナ インタビュー スポーツナビ 2005年10月17日
  38. ^ SRS-DX No.35
  39. ^ 愛すべき者へ ジェロム・レ・バンナ ジャンクSPORTS 2005年11月13日
  40. ^ 【感動】お年寄りの手を引く格闘家ジェロム・レ・バンナの行動に絶賛の声続々「バンナ男前だな」「強さってそういうこと」 ロケットニュース 2014年7月30日
  41. ^ チェ・ホンマンが危ない バンナがついに大爆発!!ジェロム・レ・バンナ インタビュー K-1公式サイト 2006年9月14日
  42. ^ Une star « people » de la boxe a signé Courrier picard 2009年4月17日
  43. ^ 無冠の帝王、K-1を愛して ジェロム・レ・バンナ K-1 BATTLE SCRAMBLE #101-R1
  44. ^ K-1番長・バンナが吼える!!ジェロム・レ・バンナ インタビュー K-1公式サイト 2005年10月21日
  45. ^ 「1000%優勝する!」バンナが悲願の王者へ ジェロム・レ・バンナ インタビュー K-1公式サイト 2008年10月23日
  46. ^ Blog LeMonde.fr : Satoshi Ishii et JLB au Lagardère Paris Racing バンナ公式サイト 2012年11月8日
  47. ^ Musique : Le clip "Trash Talking" de Médine, avec Jérôme Le Banner バンナ公式サイト 2012年11月30日
  48. ^ バンナが大みそかWヘッダーを志願 東スポWeb 2012年12月19日

関連項目[編集]

外部リンク[編集]