ブッチ・リード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ブッチ・リード
プロフィール
リングネーム "ザ・ナチュラル" ブッチ・リード
"ハクソー" ブッチ・リード
ブルース・リード
本名 ブルース・リード
ニックネーム 黒豹
身長 188cm
体重 119kg(全盛時)
誕生日 1954年7月11日(59歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ミズーリ州ウォーレンズバーグ
スポーツ歴 アメリカンフットボール
デビュー 1978年
テンプレートを表示

ブッチ・リードButch Reed1954年7月11日 - )は、アメリカ合衆国プロレスラーミズーリ州ウォーレンズバーグ出身のアフリカ系アメリカ人。本名はブルース・リードBruce Reed)。

1980年代前半は均整のとれた柔軟な肉体を持つ黒人レスラーの新鋭として、パワーとスピードを武器に南部エリアで絶大な人気を獲得。日本でも来日が熱望された「まだ見ぬ強豪」の一人だった。1980年代半ばからはラフ&パワーを主体としたヒールに転向し、ロン・シモンズとのタッグチームドゥームDoom)などで活躍した。

来歴[編集]

セントラル・ミズーリ大学を経てNFLカンザスシティ・チーフスで短期間プレイした後、1978年に地元ミズーリ州カンザスシティでプロレスラーとしてデビュー。以降も本名のブルース・リード名義で中西部ミズーリおよびカンザス地区に定着、1980年にはジェリー・ロバーツとのコンビでマイク・ジョージ&ボブ・スウィータンからNWAセントラル・ステーツ・タッグ王座を奪取している[1]

1981年下期より "ハクソー" ブッチ・リード"Hacksaw" Butch Reed)のリングネーム南部フロリダ地区エディ・グラハム主宰のCWF)に参戦。1982年2月20日、セントピーターズバーグにてドリー・ファンク・ジュニアインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦したことから日本でも注目を集める[2]。その後もフロリダではダスティ・ローデススウィート・ブラウン・シュガーの盟友となってベビーフェイス人気を獲得[3]ブルーザー・ブロディビッグ・ジョン・スタッドら巨漢を相手に、ボディスラム・マッチを行ったこともある[4]

1983年からはビル・ワットが主宰するミッドサウス地区のMSWAを主戦場に活躍。同じく "Hacksaw" をニックネームとするヒールジム・ドゥガンと抗争を展開するが、ドゥガンのベビーフェイス転向と入れ替わりにヒールターンを決行。以降1984年にかけて、タッグパートナーでもあったジャンクヤード・ドッグとの黒人レスラー同士による熾烈な抗争を繰り広げた。1985年はベビーフェイスに戻り、7月にダッチ・マンテルからミッドサウスTV王座を[5]、10月にはディック・マードックから北米ヘビー級王座を奪取[6]バズ・ソイヤーディック・スレーターカマラとも抗争し、因縁のドゥガンとのタッグチームも実現させた。

1986年に古巣のカンザスシティに戻り、再びヒールターンして黒人マネージャースリックと合体。ルーファス・R・ジョーンズとの抗争を経て、同年9月よりスリックと共にWWFに登場する。WWFでは "ザ・ナチュラル" ブッチ・リード"The Natural" Butch Reed)を名乗り、黒人でありながら髪をブロンドに染めるなど、スウィート・ダディ・シキをイメージしたショーマン派のヒールに変身。1987年11月26日に行われたサバイバー・シリーズ第1回大会では、当時ハルク・ホーガンと抗争していたアンドレ・ザ・ジャイアントのチーム・メンバーとなり、メインイベントでホーガン率いるベビーフェイス軍団と対戦した。翌1988年3月27日のレッスルマニアIVでは、空位となったWWF世界ヘビー級王座決定トーナメントに出場している(1回戦でランディ・サベージに敗退)。

レッスルマニア後にWWFと袂を分かち、最末期のNWAジム・クロケット・プロモーションズに転出。ヒロ・マツダ率いるヒール軍団 "ヤマサキ・コーポレーション" に加入してリック・フレアーバリー・ウインダムと共闘する。同プロがWCWに買収された1989年からは、フロリダから移籍してきたロン・シモンズドゥームDoom)を結成。当初はウーマンをマネージャーに付け、黒い覆面を被ったマスクマンタッグチームとしてロード・ウォリアーズらと抗争していた。1990年より素顔になり、テディ・ロングを新マネージャーに迎えて黒人ユニットのイメージを強化。同年5月19日、リックスコットのスタイナー・ブラザーズを破りNWA世界タッグ王座を獲得する[7]

その後1991年1月にタイトル名は改称され、彼らが初代のWCW世界タッグ王者チームとなった[8]。しかし同年2月24日、マイケル・ヘイズジミー・ガービンファビュラス・フリーバーズに敗れ王座を失い、シモンズと仲間割れを起こしてチームを解散。以降はベビーフェイスに転向したシモンズと各地で遺恨試合を展開する。王座転落後の3月21日にはドゥームとして新日本プロレス東京ドーム大会に初来日し、ビッグバン・ベイダー&バンバン・ビガロと対戦したが、試合後はシモンズとの殴り合いを演じた[9]

1992年にWCWを離れた後は、ジェリー・ジャレットジェリー・ローラーが主宰していたテネシー州メンフィスUSWAでジャンクヤード・ドッグとの抗争を再燃。以降、1994年にはテキサス州ダラスのGWF、2000年代に入るとハーリー・レイス主宰のWLWなどに参戦し、近年もホームタウンのカンザスシティ周辺のインディー団体へのスポット出場を続けている。

WWEとは1988年以来、絶縁状態が続いていたが、2007年9月のスマックダウンで放送された旧友セオドア・ロングの結婚披露宴のスキットでは、ゲストの一人としてバックステージに顔を見せている。なお、ロン・シモンズがファルークとしてWWFでネーション・オブ・ドミネーションを結成していた際、そのメンバーに加入するという噂もあった。

エピソード[編集]

  • 1982年2月20日にセントピーターズバーグで行われたドリー・ファンク・ジュニアとのインターナショナル王座戦は、前年11月1日にドリーが東京(後楽園ホール)でブルーザー・ブロディからタイトルを奪取して以来の初防衛戦であり[10]、日本でも『全日本プロレス中継』にて放送された。その後、リードは全日本プロレスへの来日が何度となく予定されたが一度も実現することはなく、1991年3月の新日本プロレスへのドゥームとしての参戦で、ようやく初来日を果たすことになる。
  • しかし新日本への来日時、ドゥームはすでに仲間割れを起こし解散しており[2]、リードとシモンズは抗争を展開するライバル同士になっていた。東京ドームでのベイダー&ビガロとの試合もそれが原因で敗退、試合後に本国での因縁を引きずって両者が殴り合うというブックが用意されたが、会場にはWCWでの両者の仲間割れアングルを知らない観客がほとんどだったため、反応は鈍かった。結果として、1980年代の「幻の強豪」だったリードは待望の日本マット登場を果たしたにもかかわらず、真価を発揮することができないまま最初で最後の来日を終えることになった。

得意技[編集]

獲得タイトル[編集]

脚注[編集]

  1. ^ NWA Central States Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月7日閲覧。
  2. ^ a b 『THE WRESTLER BEST 1000』P165(1996年、日本スポーツ出版社)
  3. ^ Wrestler: Butch Reed”. The Archives of Championship Wrestling from Florida. 2010年2月6日閲覧。
  4. ^ Could even Hacksaw do this ?”. The Archives of Championship Wrestling from Florida. 2010年2月6日閲覧。
  5. ^ Mid-South Television Title History”. Wrestling-Titles.com. 2011年2月8日閲覧。
  6. ^ Mid-South North American Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2011年2月8日閲覧。
  7. ^ NWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月7日閲覧。
  8. ^ WCW World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月2日閲覧。
  9. ^ 『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P46(2002年、日本スポーツ出版社
  10. ^ 『1945-1985 激動のスポーツ40年史(6)プロレス 秘蔵写真で綴る激動史』P154(1986年、ベースボール・マガジン社

外部リンク[編集]