飯田哲也

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飯田 哲也
東京ヤクルトスワローズ コーチ #88
Iida tetsuya.jpg
2011年7月10日、秋田県立野球場にて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都調布市
生年月日 1968年5月18日(43歳)
身長
体重
173cm
80kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 中堅手二塁手捕手
プロ入り 1986年 ドラフト4位
初出場 1989年4月12日
最終出場 2006年10月1日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴

飯田 哲也(いいだ てつや、 1968年5月18日 - )は、東京都調布市出身の元プロ野球選手外野手)。

現在は東京ヤクルトスワローズ一軍守備走塁コーチ。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

小学校低学年のころから野球をして遊び、後楽園球場で見た王貞治張本勲のプレーに感動してプロ野球選手になる事を決意した[1]。小学校4年生の時に上の原メンバーズに入団し、投手として本格的に野球を始めた。調布市立神代中学校でも投手をつとめ、3年時には市大会で優勝している[1]。都内の強豪である日大三高帝京高校への進学も目指したが、中学の野球部顧問と小枝守監督が日大の同級生だった縁もあり、設備や環境に惹かれて千葉県拓大紅陵高校に入学した[1]

拓大紅陵では同級生に佐藤幸彦がいて、学校も野球部の強化に注力していた。入学後は外野手となり、さらに2年になると50m6秒1の俊足と遠投100m以上の強肩という身体能力に注目して捕手にコンバートされた[1]1986年の3年次には春夏連続して甲子園に出場。春の選抜大会では本塁打を放ち、守備でも1イニングで3刺殺を記録する[2]など5番・捕手として活躍している。千葉大会決勝で土橋勝征を擁する印旛高校を破り、夏の選手権本大会では優勝候補に挙げられる[1]も、3回戦で長谷川滋利を擁する東洋大姫路に0-1で敗退した。

同学年の捕手の中では、鷹巣農林高校中嶋聡西日本短大付属高校青柳進と並んで飯田はドラフト指名候補として注目を集めていた[1]同年のドラフトヤクルトスワローズは中嶋の指名を予定していたが、阪急が3位で中嶋を指名したため直後に4位で飯田を指名し[1]、ヤクルトへの入団が決まった。身体能力の高さと器用な点を評価していたという。契約金、年俸はそれぞれ2,800万円、320万円(いずれも推定)だった[3]

[編集] プロ入り後

入団当初は八重樫幸雄が正捕手だったため、2番手捕手の座を狙っていた[4]。2年目の1988年オフにはアメリカへ野球留学に行き、マイナーリーグの若手選手のハングリー精神に感銘を受けた[4]。3年目の1989年には一軍昇格を果たし、同年4月12日に初出場を果たすと同年は捕手として22試合に出場し、関根潤三監督に与えられたチャンスを生かしている。同年オフには野村克也監督が就任し、ユマキャンプでは中西親志秦真司や新人の古田敦也らと9人で正捕手の座を争うことになった。二塁送球のタイムトライアルでは古田に次ぐ2位のタイムを記録するなどアピールに努めたが、俊足に注目した野村にミットを没収されて外野手用グラブを渡され、コンバートが決まった[5]

1990年オープン戦ドウェイン・マーフィーが故障すると中堅手として出場し、続いて池山隆寛が怪我をすると遊撃手でも2試合出場するなど目まぐるしくポジションが変わり、開幕後は捕手登録でベンチ入りしている[4]。しかし、4月21日広島戦で2打席2三振の笘篠賢治の代打としてプロ初本塁打を打つとそのまま二塁手の守備に就いた。外野手用グラブしかなかったため丸山完二コーチの練習用グラブを借りるほど急だった[5]が、その後はシーズンを通じて二塁手のレギュラーに定着し29盗塁を記録している。翌1991年に入団したジョニー・レイが二塁手にこだわったため、飯田は中堅手に転向。直後から「天職」と呼ばれるほどの巧みな外野守備[6]を見せ、この年から1997年まで7年連続でゴールデングラブ賞を受賞している。また、打撃でも開幕からスタメンで1番に入ると2試合で8打数6安打という好調なスタートを切り、1番打者に定着した。

1992年柳田浩一橋上秀樹と競争して[7]1番打者の座を勝ち取ると、4月26日の広島戦で25年ぶりとなる初回先頭打者ランニング本塁打を放ち、8月4日阪神戦では仲田幸司の投球時に単独でのホームスチールを決める[6]などスピードに磨きがかかり、5月からシーズン終了まで27連続盗塁のセリーグ記録を樹立して最終的に33盗塁で盗塁王を獲得。これらの活躍でチームの14年ぶりのリーグ優勝に貢献し、初のベストナインにも選出された。同年の日本シリーズではシリーズ打率.367と活躍して優秀選手賞を受賞した一方、第7戦の7回表2死一、二塁の場面で打席に投手の石井丈裕を迎えて浅く守り、結果として右中間への打球に触れながら同点タイムリーとなった事を悔しがっている[8]。シリーズ後に出場した日米野球では2年目の渡米時に面識のあったシェーン・マックカルロス・バイエガとの対戦を楽しんだ[9]が、第4戦で本塁突入の際に右肩を脱臼して靭帯も切り、手術を受けている[10]。契約更改で年俸が約3倍増の6,050万円(推定)に増加した[11]

1993年は周囲の予想を上回る早期回復[12]で開幕戦の先発出場を果たしたものの、打撃が安定せず後半戦に入っても城友博らとの併用が続き、チームも1番打者を固定できずに苦しんだ[13]。同年は打率.216、11盗塁に終わっている。しかし同年も日本シリーズでは第4戦8回表にダイレクトのバックホームで二塁走者の生還を阻止し(後述)、シリーズ通算打率.400と打撃も好調で優秀選手賞を獲得している[8]1994年は中堅手のレギュラーの座を奪回し、打率.290、30盗塁の成績でオフには年俸が2,500万円増の8,500万円(推定)となった[14]1995年4月8日の開幕第2戦に桑田真澄から受けた死球の影響で打撃不振に陥りシーズン打率は.253に終わったが、全試合出場が評価されて年俸は9,500万円(推定)に増加している[15]。なお、9月30日神宮球場での対巨人戦でテリー・ブロスが9回2死松井秀喜を外野フライに打ち取った打球をキャッチし、リーグ優勝が決定した。同年の日本シリーズは第1戦の初回に四球で出塁すると中嶋聡を相手に盗塁を決め、2回の第2打席では先制タイムリーを放つなど初戦の勝利に貢献したが、シリーズ打率は.261と初めて3割を切っている。

1996年はヒザと足首を痛め、盗塁数は13と大きく減った。翌1997年はケガを治してシーズンを迎えたが、7月1日の対巨人戦で内野ゴロを打った際に一塁手清原和博と接触して左ヒザを打撲した。症状は重くなかったものの、出場に消極的な態度を示したため野村監督の怒りを買って二軍に行き、代わりに中堅手を務めた真中満が4割近い打率を記録したこともあって一軍復帰は8月8日になった。これに奮起して最終的に打率3割を記録しリーグ優勝に貢献したが、10月11日の対広島戦でスライディングで帰塁した際に左肩甲骨を骨折し同年の日本シリーズは出場機会がなかった。オフには自身最高となる年俸1億2,500万円(推定)で契約更改し[16]、古田に次ぐチーム2位の高年俸となっている。

1998年は4月23日の対中日戦で左手小指に第二関節脱臼をともなう剥離骨折を負い[17]、5年ぶりに規定打席に到達できなかった。この年にフリーエージェントの権利を獲得し、年俸は20%ダウンの1億円となったが再契約金5,000万円が支払われ、5年間という長期の複数年契約を結んでいる[16]。以降の数年は自身の度重なるケガや真中ら他の外野手の台頭もあって出場機会が減少。2001年頃になると右投手相手の場合はベンチスタートが多かったが、試合終盤に中堅手の真中がアレックス・ラミレスに代わって左翼手に入り飯田が中堅の守備に就くなど、守備能力は高く評価され続けていた[18]

2002年は開幕直後に左ひざ後十字靱帯を痛めて33試合の出場に終わり、野球協約を超える50%減の年俸5,000万円で契約更改した[19]。一方で、1994年から神宮球場に「飯田シート」を設けて毎試合20人、のべ17,000人以上の少年を自費で観戦に招待した功績により、11月22日ゴールデンスピリット賞を受賞している。2004年にわずか3試合の出場にとどまると、チームの戦力構想から外れた。指導者への誘いも受けたが現役続行を希望し、引退後のコーチ就任を条件に新規参入した楽天に無償トレードで移籍した。なお、同じく捕手からプロで外野手にコンバートされた同学年の関川浩一も楽天へ同時に移籍している。

楽天では二軍生活も長かったが、一軍では2年間で通算.307の高打率を残した[20]。2006年9月16日の対ソフトバンク戦では、8回表1死の場面でそれまで無得点に抑えられた和田毅から同点ソロ(自身最後の本塁打となった)を放って引き分けに持ち込み、同月24日の対西武戦では、途中出場ながら2本の適時打を放って勝利に導く等、終盤の上位チームの優勝戦線を掻き乱す活躍も光った。創設直後で練習環境も不十分な楽天にあって、若い選手達に自身の経験を伝える役割を担っていた[20]。再びコーチ就任の誘いを受け、野村の勧めもあって2006年限りで現役を引退。2007年より古巣・ヤクルトの二軍外野守備・走塁コーチに就任し[21]、翌2008年より一軍の守備走塁コーチとなっている。

[編集] プレイスタイル

俊足強肩の1番打者としてヤクルトの5回のリーグ優勝に大きく貢献した。またヤクルト時代は「トリプルスリーも可能だし、ヤクルトのイチローになれる」と松井優典コーチに潜在能力を高く評価されていた。自身はケン・グリフィー・ジュニアに憧れ、打撃だけでなく守備・走塁でも魅了する選手を理想としていた[9]。とことん努力したのは30歳からで、それまでは野球への取り組み方に厳しさが足りなかったと引退後に述懐している[8]

[編集] 打撃

ミートを得意とし、速球に対してはノーステップ打法で対応する事もあった[4]。バットは33.5インチ(85.9cm)で重さ920gと930gのものを使用している[4]。トップバッターとして出塁のため、簡単に打ち上げずにゴロを打つバッティングを心がけた[7]

[編集] 走塁

ウェートトレーニングや短距離ダッシュによって、持ち味である素早さとシャープさを鍛えていた[22]が、50m走のタイムは6秒0でずば抜けた俊足ではなかった[6]。バッテリーに盗塁を警戒されていたため、セットポジションに入った投手の体が少しでも動いたらスタートを切る感覚だったという[9]。また、クセや投球リズムを読んでフライング気味にスタートする事もあった[9]。盗塁では数より成功率にこだわり、それ以外の走塁でも併殺崩れの間に2塁から一気に生還するなど、次の塁を常に狙う姿勢があった[9]

[編集] 守備

1994年から1996年までセ・リーグのレンジファクター1位の外野手であり[23]、数年間限定であれば近年の守備ナンバーワン外野手という意見もある[24]

中堅手としての守備力は日本トップクラスで、中堅手で7年連続のゴールデングラブ賞は、セリーグでは山本浩二の10年連続に次ぐ史上2位の記録である(2010年現在)。外野コンバート後は屋鋪要のアドバイスに従って打撃練習の際にも守備を練習し、生きた打球に多く触れる事で投球コースによって打球を予測できるようになったという[25]。外野守備に際しては弱い打球が安打にならないよう、浅めの守備位置についていた[26]

また守備範囲も広く、1990年代半ばに神宮球場の外野フェンスに金網が設置されるまでは、フェンスに駆け上がるキャッチも持ち味としていた[26]。外野フェンスを利用し、いわゆる三角飛びでホームランボールをキャッチした事もあった。送球については捕手時代の経験が活かされており、捕球からワンステップで腕をコンパクトに振って素早く投げ、コントロールもよかった[9]。タイミングが際どい時はノーバウンドで返球し、距離が遠い場合や芝が濡れている時はワンバウンドが速くなると判断するなど、状況判断を大事にしている[27]。なお1990年二塁手を務めていたときはチームの併殺数が減少し、遊撃手池山隆寛に怒られる事もしばしばだったという[28]

1993年の日本シリーズ第4戦に70m近いダイレクトのバックホームで二塁走者の生還を阻止したプレーは特に有名で[25]、飯田自身も生涯での守備のベストプレーに挙げている[8]。このプレーはヤクルト1点リードの8回表2死で走者一、二塁の場面で、二塁走者は俊足の笘篠誠治、打者は鈴木健という状況だった。ベンチからは後ろに下がるよう指示があったが、終盤で勝負をかける場面であり逆風が強いことから、自身の判断で浅めの守備位置についていたという[8]。ワンバウンドした打球を捕って即座に投げ、70m近い距離での補殺を成功させた。

[編集] 身体能力

身体能力の高さは有名で、オフに出場した『スポーツマンNo.1決定戦』(TBS系列)では第1回を含めて2回優勝している[26]跳び箱企画などで同番組と関わった監物永三は、この様子を見て「体操選手になっていれば間違いなく世界一になった」「20年に一人現れるかどうかの逸材」と絶賛しており[29]、野球以外の世界からも高い評価を得ている。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1989 ヤクルト 22 11 9 5 1 1 0 0 2 0 1 1 1 0 1 0 0 5 0 .111 .200 .222 .422
1990 117 484 441 69 123 15 6 6 168 33 29 16 8 1 28 0 6 66 5 .279 .330 .381 .711
1991 107 338 298 39 72 8 3 4 98 26 15 8 9 4 27 0 0 51 2 .242 .301 .329 .630
1992 125 574 521 69 153 24 8 7 214 42 33 4 9 2 39 3 3 83 5 .294 .345 .411 .756
1993 103 279 244 35 53 7 2 2 70 21 11 3 7 2 26 4 0 49 4 .217 .290 .287 .577
1994 117 503 458 57 133 19 4 3 169 37 30 14 6 4 34 0 1 54 6 .290 .338 .369 .707
1995 130 582 522 78 132 19 7 7 186 31 35 8 7 3 46 2 4 74 8 .253 .317 .356 .673
1996 105 461 424 62 123 19 3 6 166 37 13 9 11 2 23 2 1 66 4 .290 .327 .392 .719
1997 108 464 421 62 129 15 7 3 167 37 26 10 11 3 23 1 6 43 4 .306 .349 .397 .746
1998 96 317 286 41 81 11 1 1 97 28 9 4 7 1 21 1 2 35 6 .283 .335 .339 .674
1999 72 136 124 16 26 5 0 0 31 3 11 0 2 0 9 1 1 22 3 .210 .269 .250 .519
2000 102 219 190 31 48 7 1 4 69 15 7 6 7 0 21 2 1 41 1 .253 .330 .363 .693
2001 105 212 187 32 55 10 0 1 68 9 6 1 6 1 18 0 0 31 3 .294 .354 .364 .718
2002 33 60 58 8 11 1 0 0 12 2 1 1 0 1 1 0 0 14 2 .190 .200 .207 .407
2003 66 180 156 26 41 8 0 3 58 17 3 2 8 1 15 0 0 31 2 .263 .326 .372 .698
2004 3 11 10 0 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 1 4 0 .100 .182 .100 .282
2005 楽天 54 136 127 11 42 4 0 0 46 15 2 3 4 1 4 0 0 18 5 .331 .348 .362 .710
2006 40 99 88 7 24 1 0 1 28 9 2 2 3 0 8 0 0 13 2 .273 .333 .318 .651
通算:18年 1505 5066 4564 648 1248 174 42 48 1650 363 234 92 106 26 344 16 26 700 62 .273 .326 .362 .688
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] タイトル

[編集] 表彰

[編集] 記録

節目の記録
その他の記録

[編集] 背番号

  • 58 (1987年 - 1990年)
  • 2 (1991年 - 2006年)
  • 85 (2007年 - 2011年)
  • 88 (2012年 - )

[編集] 脚注

  1. ^ a b c d e f g 週刊ベースボール、2003年5月5日号、P.56
  2. ^ 週刊ベースボール、1990年6月4日号、P.133
  3. ^ 読売新聞、1986年12月2日付朝刊、P.17
  4. ^ a b c d e Number、1993年1月20日号、P.28
  5. ^ a b 週刊ベースボール、2003年5月5日号、P.57
  6. ^ a b c 週刊ベースボール、2003年5月5日号、P.58
  7. ^ a b Number、1992年7月5日号、P.24
  8. ^ a b c d e 週刊ベースボール、2006年12月25日号、P.37
  9. ^ a b c d e f Number、1993年1月20日号、P.31
  10. ^ 読売新聞、1992年11月7日付朝刊、P.19
  11. ^ 読売新聞、1992年12月5日付朝刊、P.19
  12. ^ 毎日新聞、1993年4月1日付朝刊、P.19
  13. ^ 読売新聞、1993年9月16日付夕刊、P.3
  14. ^ 読売新聞、1994年12月27日付朝刊、P.17
  15. ^ 読売新聞、1995年12月9日付朝刊、P.16
  16. ^ a b 週刊ベースボール、1998年11月02日号、P.32
  17. ^ 毎日新聞、1998年4月24日付朝刊、P.22
  18. ^ 週刊ベースボール、2001年10月20日臨時増刊号、P.53
  19. ^ 週刊ベースボール、2003年5月5日号、P.59
  20. ^ a b 週刊ベースボール、2006年12月25日号、P.34
  21. ^ 朝日新聞、2006年10月20日付朝刊、P.17
  22. ^ Number、1993年1月20日号、P.29
  23. ^ http://number.bunshun.jp/articles/-/14049
  24. ^ http://number.bunshun.jp/articles/-/14049?page=4
  25. ^ a b 週刊ベースボール、1999年7月5日号、P.24
  26. ^ a b c 週刊ベースボール、2006年12月25日号、P.38
  27. ^ 週刊ベースボール、1999年7月5日号、P.25
  28. ^ 週刊ベースボール、2006年12月25日号、P.36
  29. ^ 『跳び箱伝説 Part.1』(樋口潮著、レゾナンス出版、1998年)p.134

[編集] 関連項目

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