飯島秀雄
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| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 出身地 | 茨城県水戸市 |
| 生年月日 | 1944年1月1日(65歳) |
| 身長 体重 |
176cm 73kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 外野手 |
| プロ入り | 1968年 ドラフト9位 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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飯島 秀雄(いいじま ひでお、1944年1月1日 - )は、日本の陸上短距離選手、プロ野球選手。走塁のスペシャリストとしてロッテオリオンズに入団した、元100m日本記録保持者。プロ野球選手時代は、左投右打、外野手、背番号88。
[編集] 来歴・人物
茨城県水戸市出身。茨城県立水戸農業高等学校に入学後、陸上部で短距離走の選手となる。その後、目黒高等学校(現・目黒学院高等学校)陸上部監督の大和田稔に素質を見出され転校。当時の100m走日本記録保持者吉岡隆徳のコーチを受ける。
早稲田大学教育学部進学後は早稲田大学競走部に所属。ロケットスタートの異名を取るダッシュで頭角を表し、1964年6月26日、西ベルリンの国際陸上競技会で100m10秒1を記録し、吉岡の持つ日本記録(10秒3、当時の世界タイ記録)を29年ぶりに更新した。しかし同年の東京オリンピックでは、第一次予選で予選最高タイムを出しながら、第二次予選でのゴール直後の転倒による影響から準決勝で敗退した。早大卒業後茨城県庁に入庁、1968年のメキシコオリンピックでメダル獲得を狙うも、またしても準決勝で力尽きた。世界一の加速力を持ちながら、50~70m付近で肩の筋肉が硬直し、ストライドが広がり、体が上に跳ぶような状態に陥り、失速するケースが多く見られた。
なお、メキシコオリンピックの準決勝でマークされた上記の記録は電気計時で10秒34であったが、公認されなかった。これは当時公式タイムが手動計時によるものが有効とされており、現在のような電気計時による記録が国際陸上競技連盟によって公認されたのが1975年からだったことも影響しているものと考えられる。陸上競技マガジンが毎年春先に出版している記録集計号の中にも、日本歴代50傑の中で飯島の名前が登場する。そして付記として過去に遡及して公式記録として公認との但し書きが付いていた。この歴代50傑の中で飯島の名前は2006年まで残っていた。ちなみに現在の歴代50位の記録は10秒33である。
1968年シーズン終了後のドラフト会議でロッテが9位指名、永田雅一オーナーの説得もあり入団、5000万円の保険を足にかけた。登録上の守備は外野手であった。なお、中学校時代は野球部に所属しており、野球と全く無縁だったわけではない。
代走専門選手としては他球団の徹底したマークにあい、1969年から1971年の3年間で117回代走に起用され、盗塁成功23、盗塁死17、牽制死5という結果に終わった。この結果は「盗塁には足の速さだけではなく技術も必要」という実例としてよく引き合いに出される。その他、通算得点は46、打撃では二軍で1回だけ打席に立ち、三球三振であった。
しかし、代走専門選手として話題性は高く、不入りに苦しんでいたロッテの観客動員に貢献している。また飯島が塁上にいることで相手投手の集中力が殺がれたことによるものか、飯島が代走で塁上に出たときの通算チーム打率は.424、出塁率.494(151打数64安打、8本塁打、四死球20)を記録している。つまり、「代走」飯島ではなく、「代打」飯島としての役割を果たしていたと言えよう。
現役引退後、1年間ランニングコーチを務めた後退団。いくつかの職を経て、水戸市内で運動用具店を経営したが、1983年8月27日、東京都新宿区四谷の都道で、5歳の女児を車ではねて死亡させた。裁判で懲役1年2ヶ月の実刑判決を受け服役する。服役中だった1984年、日本陸連はメキシコオリンピックでの記録を16年ぶりに公認日本記録とした(その時点での電気計時の日本記録は10秒40だった)。この年はかつての師であった吉岡が逝去、その翌日に不破弘樹が飯島と並ぶ日本タイ記録を叩き出すなど、飯島の名前が出る機会が多かった。社会復帰後は陸上競技のスターターなどを務めている。1991年の世界陸上選手権の男子100m決勝で、カール・ルイスが9秒86の世界記録を樹立し優勝した際のスターターでもある。
[編集] 関連項目
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