野中徹博
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 愛知県一宮市 |
| 生年月日 | 1965年5月22日(46歳) |
| 身長 体重 |
183cm 85kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1983年 ドラフト1位 |
| 初出場 | NPB / 1985年4月20日 CPBL / 1993年3月12日 |
| 最終出場 | NPB / 1998年5月22日 CPBL / 1993年10月10日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督歴
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この表について
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野中 徹博(のなか てつひろ、1965年5月22日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手(投手)。1989年のみ登録名は野中 崇博。台湾プロ野球での登録名は野中 尊制。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] アマチュア時代
小学2年の時に野球を始め、5年から投手を務める。この頃から中日ドラゴンズファンになり、鈴木孝政に憧れていたという。中学時代には全国大会で準優勝し注目を集めた。愛知・中京高では2年生からエース(控え投手は同級生の紀藤真琴、森昌彦)となり、甲子園には春夏合わせて3回出場。真っ向から投げ下ろすストレートと大きなカーブは威力抜群であった。3年時の1983年夏の甲子園ではエース水野雄仁を擁する徳島・池田高を阻止する筆頭と目され、「事実上の決勝戦」という呼び声も上がるほどであった準々決勝で対戦。敗退したものの甲子園では通算10勝3敗、防御率0.79の成績を残した。
[編集] プロ入りから引退まで
1983年のドラフトで阪急ブレーブスから1位指名され入団。阪急について知識がなく予想外の指名であり、あまり情熱が沸かなかったという。1年目は二軍の新コーチの指導で投球フォームを改造したが肩を故障。将来のエース候補として2年目の1985年には一軍登板を果たしたが、ウイルス性肝炎を患い1カ月余り入院。オフには肩を手術するが完治せず練習生に格下げとなる。翌年以降は肩やひじの故障に悩まされて満足な成績が残せなかった。
球団がオリックスに身売りされた1989年、内野手に転向しウエスタン・リーグで打率3割を残したが一軍出場はなく、自由契約になり現役引退。引退後は地元に帰って健康器具の販売やテレビクルーの助手などを経験した後、札幌でラーメン店の修行を積んだり、東京に出ては広告代理店業にも従事。会社員のかたわら水島新司主宰の草野球チームでプレーした[1]。水島のチームでは野手を務めていたが、芸能人チームとの対戦で投手を務めた際の投球が138km/hを計測。肩の痛みもなかったため再度プロで投げたいとの気持ちが沸いてきたという。
[編集] 日本球界への復帰
1993年、知り合いの新聞記者の紹介で台湾の中華職棒(CPBL)の俊国ベアーズのテストを受け合格。ここで実績を残し3年後に日本球界から誘いを受けるつもりでいたが、1年目に15勝を挙げたことで在京チームから獲得を打診される。保有権の問題でこのチームへの移籍はならなかったが、1994年中日ドラゴンズの入団テストに合格し日本プロ野球への復帰を果たした[2]。読売ジャイアンツとの10.8決戦では8・9回の2イニングを無失点に抑えた。野中はこの試合がプロ生活での一番の思い出と語っている。
この年は21試合に登板して初セーブを挙げ翌年も20試合に登板したが、監督が星野仙一に交代した1996年は機会に恵まれずオフに戦力外通告を受ける。1997年、ヤクルトスワローズにテスト入団し5月27日の対横浜9回戦(横浜スタジアム)で悲願のプロ初勝利。プロ野球に所属して10年、回り道を入れると13年かかっての初勝利であった。この年も中継ぎとして活躍し日本一に貢献したが、翌年は坐骨神経痛を患いオフに解雇され現役を引退した。
2005年からは社会人野球・佐久コスモスターズ硬式野球クラブの監督兼選手として活動。プロ野球マスターズリーグにもテスト入団し、2006年~2007年にはチームのクローザーとして、名古屋の優勝に貢献しMVPを獲得。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別投手成績
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1985 | 阪急 | 7 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 77 | 17.0 | 17 | 3 | 10 | 0 | 2 | 10 | 0 | 0 | 10 | 9 | 4.76 | 1.59 |
| 1993 | 俊国 | 29 | 15 | 6 | 0 | 0 | 15 | 4 | 1 | -- | .789 | 625 | 151.0 | 161 | 14 | 54 | 2 | 10 | 94 | 8 | 2 | 59 | 53 | 3.16 | 1.42 |
| 1994 | 中日 | 21 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | -- | .000 | 135 | 31.1 | 30 | 3 | 15 | 2 | 1 | 18 | 3 | 0 | 11 | 11 | 3.16 | 1.44 |
| 1995 | 20 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | -- | .000 | 75 | 17.1 | 15 | 2 | 13 | 1 | 0 | 13 | 1 | 0 | 11 | 10 | 5.19 | 1.62 | |
| 1996 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 14 | 3.0 | 5 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 4 | 12.00 | 2.00 | |
| 1997 | ヤクルト | 44 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | -- | .400 | 230 | 55.1 | 42 | 6 | 25 | 5 | 3 | 47 | 2 | 1 | 16 | 14 | 2.28 | 1.21 |
| 1998 | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 99 | 19.0 | 34 | 4 | 8 | 1 | 1 | 19 | 2 | 0 | 21 | 18 | 8.53 | 2.21 | |
| NPB:6年 | 111 | 3 | 0 | 0 | 0 | 2 | 5 | 4 | -- | .286 | 630 | 143.0 | 143 | 19 | 72 | 9 | 7 | 108 | 8 | 1 | 73 | 66 | 4.15 | 1.50 | |
| CPBL:1年 | 29 | 15 | 6 | 0 | 0 | 15 | 4 | 1 | -- | .789 | 625 | 151.0 | 161 | 14 | 54 | 2 | 10 | 94 | 8 | 2 | 59 | 53 | 3.16 | 1.42 | |
[編集] 記録
- NPB
- 初登板:1985年4月20日、対西武戦(平和台)
- 初勝利:1997年5月27日、対横浜戦(横浜)
[編集] 背番号
- 18 (1984年 - 1988年)
- 0 (1989年)
- 77 (1994年)
- 26 (1995年)
- 56 (1996年)
- 38 (1997年 - 1998年)
[編集] 登録名
- 野中 徹博(のなか てつひろ)(1984年 - 1988年、1994年 - )
- 野中 崇博(のなか たかひろ)(1989年)
- 野中 尊制(1993年)
[編集] 参考文献
- 澤宮優 『ドラフト1位 九人の光と影』(河出書房新社)2008年 p.80 ISBN 978-4309270661
[編集] 脚注
- ^ “【俺の人生第二幕】2度の引退、くそまみれの仕事…不屈の闘志で前へ”. ZAKZAK (2011年5月25日). 2011年5月26日閲覧。
- ^ “【2月14日】1994年(平6) 元ドラ1野中徹博 背番号なしのユニホームで夢再び”. スポーツニッポン (2009年2月1日). 2011年5月26日閲覧。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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