附属池田小事件
| 附属池田小事件 | |
|---|---|
| 場所 | 日本 大阪府池田市 |
| 日付 | 2001年6月8日 |
| 標的 | 小学生 |
| 攻撃手段 | 包丁 |
| 死亡者 | 8人 |
| 負傷者 | 15人 |
| 犯人 | 宅間守 |
附属池田小事件(ふぞくいけだしょうじけん)とは、2001年(平成13年)6月8日に大阪府池田市で起こった小学校無差別殺傷事件(刃物によるスクールシューティング)である。実行犯は大阪地方裁判所平成15年8月28日付け判決(判旨)を伝える新聞記事[1]によれば、宅間守(たくま まもる、1963年11月23日 - 2004年9月14日、犯行時37歳)による単独犯と認定されている[2][3]。
以下本人を“甲”または“被告人”と略する。
目次 |
概要 [編集]
甲の生い立ち、家系、家族 [編集]
甲の先祖は旧薩摩藩の下級武士だった[4]。代々そのことを誇りにし、それは宅間家の男子に受け継がれてきた[4]。法律や警察関係の仕事をする者が多かった[4]。その誇りをこっぱみじんに砕いたのは甲だった[4]。
武士だった甲の曽祖父は、明治維新後丁髷を落とし、警察官として鹿児島から奄美に渡った後、大阪河内へ移住した[5][6]。甲の祖父は甲の父親が17歳の春に死去した[5]。父は小学校で学歴を終え一家の大黒柱として6人の家族を養ってきた[4]。
甲の父親はその父と幼いころからよく庭で木刀を打ち合ったといい[5]、「自分は薩摩武士だ」との強烈なプライドをずっと持ち続けていた[6]。父によれば「『誰にも迷惑をかけない』というのは大きなわたくしのテーマでありました[7]。何代にも渡ってきびしい修身道徳教育を受けてきた[7]。宅間家の男子は真のサムライたれ[7]。ワシも父に厳しくそれをしこまれたし、またあの頃はどんな出身身分にも関係なく「教育勅語」というものがあった[7]。これがあったから日本人はちゃんとしとったんですよ[7]」という。父は、極めて平凡な頑固親父で、人生の勝利者にはなり得なかったけれども、自分の人生にプライドを持っていた[6]。
兄が一人居たが、破綻した弟の存在に心を病み、起業の失敗と相俟って小刀で首を斬って自殺している[6]。母親も長いこと心を病み、長らく精神病院に暮らした[6]。この家庭を破壊した者は、父親でもなく母親でもなく、もちろん地域の環境でも無く、甲自身だった[6]。
事件の概略 [編集]
2001年6月8日10時20分頃、大阪教育大学附属池田小学校に凶器を持った男(甲、当時37歳)が侵入し、次々と同校の児童を襲撃した。結果、児童8名[8](1年生1名、2年生7名)が殺害され、児童13名・教諭2名に傷害を負わせる惨事となった。男は校長や別の教諭にその場で取り押さえられ、現行犯逮捕。最後の一人を刺し終えた瞬間、凶器を落とし、「あーしんど」と呟いたという[9]。その後殺人罪などで起訴された。
甲は逮捕当初、精神障害者を装った言動を取っていた[11][12][10]。しかし、被疑者に対して起訴前と公判中に2度行われた精神鑑定の結果で、2度とも「情性欠陥者で妄想性などのパーソナリティ障害は認められるが、統合失調症ではなく、責任能力を減免するような精神障害はない」とされ、責任能力を認める結果が出た[13]。甲は逮捕直後に「薬を十回分飲んだ。しんどい」と供述して、医師の診察を受けた[14]。甲が飲んだとされる薬は、通院先の病院などを調べた結果、抗精神病薬「セロクエル」と抗鬱剤「パキシル」、睡眠剤「エバミール」の三種類と判明した[14]。これら全部を10回分服用しても眠くなるだけであり、奇怪な行動を起こしたりすることはない[14]。また、甲の自宅を調べると睡眠薬や抗精神病薬など10数種類、約200錠の薬物を押収[14]。複数の病院に通院して、「眠れない」などと偽って薬を処方してもらい、飲まずにため込んでいた[14]。さらに、逮捕後に甲の血液や尿などを採取して仮鑑定した結果、精神安定剤の成分が検出されなかった[14]。捜査員がこの事実を突きつけると、甲は「すみません。薬は飲んでいません。作り話でした」と偽証していたことを認めた[14]。
公判 [編集]
公判で被告人は、「下関事件の模倣犯になりたかった」と供述していたほか、裁判長に対して「命をもって償います」と発言していた一方で、「あの世で子供をシバいてやる」「ワシをなめとる。30秒あれば1人位は殺せる。かかって来い」「道頓堀でダンプを暴走させればよかった」などの暴言を叫んだり、公判中に足を組んであくびをするなど反抗的な態度をとった。また「幼稚園ならもっと殺せた。死ぬことには全くビビっていない。死は一番の快楽」などと本心なのか虚勢を張っているのかわからない発言もしていた。その被告人の悪態ぶりに対して傍聴席からは「早く死ね」「一人で死ね」などの怒号が飛び交っていた。[要出典]
なお、初公判でのみ反省・謝罪の弁を口にしていたことに対し、大阪地方検察庁の検事が週刊新潮のインタビューに対して「この反省と謝罪の弁は本物だった」との証言をしている。公判後は「何も言えないよりは良かった。本当ならば4人の遺族を名指しで批判するつもりだった」「刑事責任能力がそこまで認められたなら(控訴しても)仕方ない」と述べている。
2003年8月28日、大阪地方裁判所は被告人に対して死刑判決を言い渡した。極刑判決を言い渡す場合には主文を最後に述べる慣例があるが、今回はそれを破って主文を先に言い渡した。また、すでに被告人は開廷時に騒いだことで退廷命令を受け、拘置所職員によって連れ出されており、死刑判決を読み上げる裁判長の声を自ら聞くことはなかった。また、この判決公判では傍聴希望者が多かったことから、特別に法廷にテレビカメラを設置し、別室に設けたテレビモニターで傍聴できた。
死刑確定後 [編集]
控訴期限の9月10日に弁護団は控訴したが、9月26日に被告人自ら控訴を取り下げ、死刑判決を確定させた。被告人は主任弁護人に送った文書で、刑事訴訟法第475条第2項で規定された「死刑確定後の6か月以内の死刑執行」を訴えていた。その内容として「死刑は殺される刑罰や。6ヶ月過ぎて、いつまでもいつまでも嫌がらせをされる刑罰ではない。すぐ殺せばダメージが無いんやから、暫く嫌がらせしてから執行する、そんな条文があるんか。法律家ならワシの身になれや!法律を遵守するのが法律家の仕事やろが!何や、自殺幇助や、そんな物関係あるか!国が法律を守らんかったら行政訴訟で噛み付くのが己ら左翼代言屋の使命やろが!まあ、この手紙でヘソ曲げて意固地になる様やったら、下の下のカスの代言屋や」などと主張していた。
刑事訴訟法第475条では死刑確定後、6ヶ月以内に執行することが定められているが、但し書きに再審請求など一定の条件下では延期することも可能とされている。また死刑存置派の一部が主張するように、早期に死刑執行が行われないのは死刑廃止論者に配慮したものではなく、法務省刑事局で行われる死刑執行手続きが厳格かつ慎重に行われているとされており、事実上6ヶ月は「努力目標」に過ぎないのである。
死刑囚本人の精神状態も配慮されるため、この但し書きによって死刑執行が延期されることがほとんどで、6ヶ月以内に執行された実例はほとんどない[15]。また、日本では判決確定後に一定期間が経過すれば自動的に死刑が執行される制度ではないため、本人が死刑囚としての処遇から抜け出すために早期の死刑を望んだとしても、それは無理なことだった。
被告人は、死刑が6ヶ月以内に執行されないと精神的苦痛を理由とする国家賠償請求訴訟、及び法務大臣・野沢太三に対する特別公務員暴行陵虐致傷罪での刑事告訴を起こす準備をしていた。告訴した場合には、たとえ受理されなかったとしても手続きが滞って死刑の執行が遅れる可能性があったが、告訴の依頼を受けた弁護士[誰?]によれば、実際に告訴の手続きを行うつもりは無かったという[要出典]。また担当弁護士に届いた2004年の年賀状には「ケジメをつけるためにご協力お願いします」としたためており、被告人は一刻も早い処刑を望んでいた。
獄中結婚、心境の変化へ [編集]
この事件の判決確定後、被告人は支援者の女性と出会い、文通を経て獄中結婚をした。晩年は被告人自身の姓を女性の姓に改名している。この他、愛知県出身の既婚女性から愛情の告白を受けており、その女性とも文通を行っていた[16]。最初は愛情や支援に対して頑なに心を閉ざしていた被告人だったが、自分に対する理解者が現れるに連れて、少しずつ彼女に対して心を開いていく。執行に際して、妻に対しては感謝の気持ちを表すまでには至った(後述)ものの、事件によって犠牲になった児童や、被害者の遺族への謝罪は一切無かったとされる。
最期、死刑執行 [編集]
死刑確定から約1年後の2004年9月14日8時16分、被告人は大阪拘置所で死刑を執行された。結果的には被告人の望んだ通りの早期執行となった[17]。
被告人が最期に残し、妻が死刑執行後に刑務官から伝えられた言葉は「『ありがとう、と僕が言っていた』と、妻に伝えてください」とされている[18]。また、執行当日の朝食は取ることが許されなかったが、被告人は執行直前に刑務官から受け取った煙草とリンゴジュースをゆっくり味わってから、拘置所の奥へ消えていったという。最期まで遺族への謝罪は無かった。享年40。
なお、葬儀はマスコミが押しかけることと、費用面など経済的事情もあり難航し、結局は信者ではなかった大阪市内のキリスト教関係の施設で行われたという[18]。
事件後の反響 [編集]
犠牲者に対する対応 [編集]
この事件で死亡した2年生7名は、2006年(平成18年)に同級生と共に特別に卒業証書を授与され、「小学校を卒業」という形になった[19]。さらに、翌2007年(平成19年)にはこれと同様に、死亡した1年生1名に卒業証書が授与された。また小学校を管理する文部科学省は被害者遺族らに総額4億円の慰謝料や賠償金を支給した。
学校側の対応不足 [編集]
文部省(当時)は、1999年(平成11年)12月に京都市立日野小学校で発生した児童刺殺事件後に「安全管理に関する通知」を出しているが、附属学校を設置管理する文部省及び大阪教育大学では各附属学校の安全措置の状況を把握していなかった。通知に関しては、教官に対して一度口頭で伝えたにとどまり、それ以外の格別の対応をとっておらず、事件当日も不審者に対して教官による十分な対応がなされていなかったことが、被害生徒の救助の遅れや犯人逮捕の遅れにつながった。犯人を取り押さえてから警察による犯人逮捕までの間、学校側による状況把握ができず、管理職や教務主任は混乱の中で事件の全容をつかめなかったほか、組織的な対処行動(児童に対する組織的な避難誘導、救命活動、搬送処置など)ができなかったため、死亡した8名の児童は20分前後も放置されてしまった[20]。
混乱の中、保護者への児童の搬送先病院の連絡も遅れていた。事件直後、ある死亡児童の保護者は早い段階で来校したにもかかわらず、学校内で負傷していた児童に会うことも付き添うこともできなかった末、自力で探し回った病院で死亡した我が子と対面することとなった。さらに事件後において、学校からの説明や弔問が遅れただけでなく、教員の心ない表現、発言および行動が遺族の心を大きく傷つけた[21]。
学校の安全対策 [編集]
この事件をきっかけに、学校(小学校など)、幼稚園、保育所などの児童・生徒・幼児が頻繁に利用される教育関連施設にも「警察官立寄所」の看板(プレート)が設置されたり、学校にも部外者の学校施設内への立ち入りを厳しく規制したり、警備体制を強化するなどの方策を主張する声も増えた。また、防犯ブザーを携帯する児童も増加した。この事件は、日本の学校がそれまでの「地域に開かれた学校」から安全対策重視の「閉ざされた学校」に方針転換するきっかけとなった。それまで小学校は、地域のコミュニティに重要な役割を果たし、校庭は子供たちの遊び場にもなっていた。この事件後は学校に監視カメラを設置したり、部外者の立ち入りを原則禁止したりする傾向が強まった。小学校などの学校への警備員配置、集団登校も行われるようになった。また、この事件を境に、小学校においては児童の名札を廃止したり、あるいは校内のみの着用に限定したりする学校が増えるようになった。
被害に遭った附属池田小学校は、この事件の風化を避けたいことや施設の老朽化などの関係から校舎建て替えを余儀なくされ、自治体は「子供110番」「学校安全ボランティア」「学校安全対策委員会」などさまざまな対策を試みている。多くの学校がそれまで日中開放していた門扉を登下校時以外は閉ざし部外者の立ち入りを厳しく警戒するようになった。PTAの中には、保護者や地域住民有志に腕章を配り来校時に装着するよう求めるところもあった。 この対応は学校に限らず大手学習塾などにおいても、警備員や教員による最寄の駅までの集団引率が当たり前の光景が日本中に見られるようになった。
触法精神障害者に対する対応 [編集]
心神喪失と認められ、無罪あるいは不起訴処分となった者に対する処遇のあり方について議論された。それまでは、精神障害者に対して司法機関が関与して処遇が行われることは、一部の団体、特に左翼が保安処分に対して極めて抵抗感が強かったが、この事件以降に「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」が制定された。保護観察所に社会復帰調整官(精神保健福祉士)が置かれ、社会復帰調整官が中心となって医療観察が実施されることとなった。もっとも、この措置は保安処分であるとの指摘もある。
被害者の精神的な障害 [編集]
生徒や教職員、保護者の中には心的外傷後ストレス障害 (PTSD) に未だ罹っている人もいる。また、「あの時ああすればこの事件が起きなかったのに(または被害を抑えられたというのに)」というサバイバーズ・ギルト、いわゆる「見殺しにしたという自覚」ともとれる自責の念に駆られている教員もいる(一審の最終弁論で現行犯逮捕に携わった教員の証言)[22][23][24]。
精神障害者における報道被害 [編集]
精神障害者のうち、統合失調症や気分障害などの者の家族らでつくる精神障害者家族会のかつてあった全国連合組織、財団法人全国精神障害者家族会連合会(全家連)が精神科医を通して事件後の精神障害者に対する報道被害の様子の変化を調査している[25] [26]。
- 自分の病気や障害について深く考え悩むことがあった患者さんがいた(73.9%)
- 他人の目が気になったりして外出が嫌になった患者さんがいた(63.0%)
- 再発というほどではないが症状が不安定になった患者さんがいた(57.6%)
- 眠れなくなったりするなど生活のリズムが乱れた患者さんがいた(50.0%)
深刻な事例として精神科医から挙がった声としては
- 自殺した患者さんがいた(1.1%、2人)
- 入院・再入院した患者さんがいた(16.3%、24人)
- 再発した患者さんがいた(13.0%、21人)
となった。
全家連から報道機関への見解と要望 [編集]
全国精神障害者家族会連合会(全家連)は、報道機関に対し「大教大池田小児童殺傷事件の報道について」(2001年6月8日付)と「小学校児童殺傷事件報道について」(2001年6月18日付)を送付している。
- 前者では「この事件で逮捕された男には、精神病院の通院歴があったと報じられていますが、その記述については、私たち身内に精神科治療を受ける者を持つ立場から見て重大な疑義を感じざるをえません。記事(番組)の中で報道されている『男は…精神病院に通院中で…』という部分は、その表現 (以下、病歴報道)によって、読者(視聴者)には「精神疾患」が事件の原因であり、動機であると理解されてしまいます。その結果、「精神病者(精神障害者)はみな危険」という画一的なイメージ(=偏見)を助長してしまうと考えるからです」
と安易な病歴報道の問題点を指摘し、
- 「妄想や幻聴などの症状は薬物療法でコントロールしやすいといわれています」と精神科治療の実情を説明、「なぜこんな事件が起きたのか、服薬はきちんとしていたのかなど、事件の背景をきちんと取材し、今後の教訓となるような報道をしてください」
と要望している。
- 後者では「安易な報道によって、「精神障害者は危険だ」という社会の偏見がより強くなりました。(中略)これは「報道被害」であるといっても過言ではありません」
と報道によって受けた報道被害を訴え、
- 事件の報道をする場合、警察発表であったとしても、事件の背景、病気の状態などが明らかになっていない段階で、特定の病名や通院歴・入院歴を報道するべきではないこと
- 法的責任能力の問題を精神障害に置き換えて報道しないこと
- この事件と触法精神障害者の処遇問題を安易に結びつけないこと
の三点を要望している。
補足 [編集]
- 呼称について。「大阪教育大学教育学部附属池田小学校」の所在地周辺では「池田小」と言えば、別の学校である「池田市立池田小学校」を指すことが一般的で、事件のあった学校名を記載する際には、「大阪教育大学教育学部附属池田小学校」とフルネームを記載し、略する場合も「附属池田小」と呼称する場合が多い[27]。マスコミなどの扱いでも、主要紙は記事本文では「附属池田小事件」と表記することが多いが、見出しなどでは依然「池田小事件」と表記されることもある。
- 遺族の中には甲に対してその境遇や生い立ち、学校の用務員(技能員)としての生活時代に子供から揶揄されたなど、一定の理解を示した者もいた。大手マスメディアではこれが報道されることはなかった。
- 事件発生2日後の6月10日、横浜国際総合競技場(現日産スタジアム)で行われたサッカーFIFAコンフェデレーションズカップ、日本-フランス戦のキックオフ直前に、両チームの選手がこの事件の被害者に1分間の黙祷を行っている。この時、字幕に「Pray for eight victims(8人の尊い命に対し、黙祷を捧げます)」というテロップが世界中に放送された。
- また、同じくサッカー選手のリオ・ファーディナンドも2001年に来日した際に、事件を知り、同校に献花を行った(リオ・ファーディナンドの項参照)。
- この事件後、宇多田ヒカルは彼女のファンであった事件の犠牲者・被害者へ捧げたシングル曲として「FINAL DISTANCE」を発売した。附属池田小学校の校内では2008年(平成20年)秋に鉄腕アトムの銅像が建てられた。
- 産経新聞が校庭に座り泣きじゃくる児童たちの写真を掲載したが、この写真が2001年(平成13年)度の新聞協会賞を受賞している。
- 橋下徹大阪市長が弁護士時代の2004年(平成16年)に「甲を速やかに死刑にすべき」という異例の寄稿を週刊誌で発表した。その後甲から、弁護人を通じ早期の死刑実現に対する援助を依頼する手紙が届いたが、橋下は甲が遺族に謝罪するという条件付で了承する旨を返答した。しかし、返事には人生に対する恨みや苦悩は書かれていたが、遺族への謝罪や反省のコメントは書かれていなかった。この手紙はテレビ番組「たかじんのそこまで言って委員会」で朗読したが、結局協力はしなかった。
- 事件当日は、2011年中にアナログ放送を終了させる、改正電波法が国会で成立されたが、大きく報道されなかった。
- この事件は海外でも大きく報道された。これをきっかけにコロンバイン高校銃乱射事件の犠牲者の遺族と本事件の遺族との交流が始まり、以降両者は「学校の安全をいかに確保するか」というテーマで定期的にシンポジウムを行なっている[28]。
- この後、附属池田小学校では、学校における安全教育の研究及び実践を展開してきたことで、その安全に対する姿勢が認められ、2010年3月5日付で、日本の学校においては初のISS(International Safe School)に認証された。とりわけ文部科学省の教育課程特例校として「安全科」を設置したことは世界でも高く評価されている。
類似事件 [編集]
スプリー・キラー [編集]
詳細は「スプリー・キラー」を参照
- 津山事件(1938年5月21日)
- ピアノ騒音殺人事件(1974年8月28日)
- 新宿西口バス放火事件(1980年8月19日)
- 深川通り魔殺人事件(1981年6月17日)
- 池袋通り魔殺人事件(1999年9月8日)
- 下関通り魔殺人事件(1999年9月29日)
- 武富士弘前支店事件(2001年5月8日) - この事件のちょうど1ヶ月前に発生し、5名の死者を出している。
- 大邱地下鉄放火事件(2003年2月18日) - 韓国・大邱広域市にて発生。
- 自殺サイト殺人事件(2005年2月~6月) - 元刑事を実の父親に持つ男による連続殺人だが、彼には20年間で100件以上の強盗や傷害の前科があった。
- 秋葉原通り魔事件(2008年6月8日) - 同日の午後に発生、7人が死亡し10人が重軽傷を負った。
- 大阪個室ビデオ店放火事件(2008年10月1日)
- アメリカ合衆国では銃の乱射による同様の事件がしばしば起こっている。
- パトリック・パーディー(1989年) - 米国で起きた銃乱射による小学生5人殺害事件
その他学内侵入犯による襲撃事件 [編集]
- 文京区小2女児殺害事件(1954年4月19日)小学校内で起こったヒロポン中毒者による児童殺害事件。
- 京都小学生殺害事件(1999年12月21日)
- 宇治小学校児童傷害事件(2003年12月18日)
- ソウル日本人学校園児襲撃事件(2004年1月29日)
- 寝屋川市立中央小学校教員殺傷事件(2005年2月14日)
参考文献 [編集]
- 佐久間哲 「死刑に処す-現代死刑囚ファイル-」 自由国民社、2005年、ISBN 4426752159
- 日高恒太朗 「別冊歴史読本 殺人百科データファイル-」 新人物往来社、2005年、ISBN 440403606X
- 森達也 「死刑 人は人を殺せる でも人は、人を救いたいとも思う」 朝日出版社、2008年 ISBN 4255004129
- 一橋文哉 『宮﨑勤事件—塗り潰されたシナリオ—』 新潮文庫、2003年9月1日。ISBN 978-4-10-142624-2。
- 今枝弘一 『殺ったのはおまえだ—修羅となりし者たち、宿命の9事件—』 「新潮45」編集部、新潮文庫、2002年11月1日。ISBN 978-4-10-123914-9。
関連項目 [編集]
- 拡大自殺
- スプリー・キラー
- ゲイリー・ギルモア - 『死刑にされる権利』を訴えたアメリカの死刑囚
- スクールシューティング
脚注 [編集]
- ^ 『毎日新聞』 2003年8月29日朝刊ほか、多数
- ^ 大阪教育大学附属池田小学校のWebSite[1]から「御遺族と文部科学省、大阪教育大学及び附属池田小学校との合意書締結」をクリックして「合意書(PDForHTML)」を開いた中に「大阪教育大学教育学部附属池田小学校事件の概要」があり、被告(確定囚)の実名が記載されている。
- ^ 国会議事録にも当該事件の被疑者(確定囚)の実名が事件の概要とともに記載されている。第151回衆議院内閣委員会17号平成13年06月13日、第155回衆議院憲法調査会4号平成14年12月12日、第166回衆議院内閣委員会28号平成19年06月13日。国会議事録については国会会議議録検索システム[2]が便利である。
- ^ a b c d e 「新潮45」編集部編『殺ったのはおまえだ 修羅となりし者たち、宿命の9事件』(新潮社、2002年、25頁)
- ^ a b c 「新潮45」編集部編『殺ったのはおまえだ 修羅となりし者たち、宿命の9事件』(新潮社、2002年、26頁)
- ^ a b c d e f 今枝弘一『池田小児童惨殺犯・宅間守の父と語った100時間』新潮社、2008年。
- ^ a b c d e 「新潮45」編集部編『殺ったのはおまえだ 修羅となりし者たち、宿命の9事件』(新潮社、2002年、27頁)
- ^ 2004年に犠牲になった8人の児童追悼のために、代表して松本零士のファンで「銀河鉄道999」で宇宙を旅をすることが夢だった女児の名前が、松本原作のOVA作品「大YAMATO零号」のヒロイン名に採用されている。
- ^ 新潮45(2002)、p.50
- ^ a b 一橋(2003)、p.398
- ^ 取り調べで「俺は学校なんか行っていない。阪急池田駅で人をめった切りした」と不可解な発言をした[10]。
- ^ 甲は過去に15回もの逮捕歴(高速道路の逆走、実兄の愛車である高級輸入車を「サラリーマンが外車なんか乗るな」と角材で破壊する行為、小学校教諭達が飲む湯茶に精神安定剤を混入させる行為等多岐に亘る)を持つが、精神科通院歴を楯に不起訴処分(あるいは保護観察処分)という比較的軽い処分を経験している。
- ^ 一橋(2003)、pp.398-399
- ^ a b c d e f g 一橋(2003)、p.403
- ^ 戦後で早く処刑された例としては、栃木雑貨商一家殺害事件の元死刑囚がいる。この元死刑囚は1955年に判決確定後4ヶ月で執行されたが、上告中に東京拘置所から脱獄した前歴があるためといわれている。
- ^ 『サイゾー』2004年11月号より。
- ^ 同じように早期の死刑を望んだ死刑囚にピアノ騒音殺人事件の犯人がいるが、精神に異常をきたしている(近況については情報公開されていないが)と言われており、確定から35年近く経過した2012年現在も執行されていない。つまり、死刑囚本人が執行を求めても執行が早まるわけではないのである。
- ^ a b 佐久間哲 (2005年). 「死刑に処す-現代死刑囚ファイル-」27頁. 自由国民社.
- ^ 通常は、死亡した場合は死亡日に除籍扱いとなる。卒業することは極めて珍しい。
- ^ 死亡した児童8名は即死ではなく、救命活動の遅れによる失血死が死因であった。
- ^ この項目大阪教育大学HP[3]および[4]より
- ^ 附属池田小学校事件の概要 - 大阪教育大学ホームページ
- ^ 御遺族との合意書 - 大阪教育大学ホームページ
- ^ 負傷生徒との合意書 - 大阪教育大学ホームページ
- ^ 全国精神障害者家族会連合会 (2008年8月14日), “大阪・池田小学校児童殺傷事件の報道被害に関する調査結果について” (日本語) (プレスリリース) 2011年1月4日閲覧。
- ^ ブラックジャックによろしく12巻 佐藤秀峰 講談社 ISBN 9784063724653
- ^ 2004年度に大阪教育大学附属池田小学校と改称。
- ^ “学校の安全、国境超え議論 池田小とコロンバイン遺族”. 47NEWS. (2005年10月9日)