四国八十八箇所

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時代・地域
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東密
※は、「真言宗各山会」加入
- 古義真言宗系 -
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東寺真言宗
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真言宗醍醐派
真言宗御室派
真言宗大覚寺派
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真言宗山階派
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真言宗須磨寺派
真言宗東寺派
- 新義真言宗系 -
真言宗智山派
真言宗豊山派
新義真言宗
真言宗室生寺派
- 真言律 -
真言律宗
台密
〈日本〉天台宗
信仰対象
如来 菩薩 明王
経典
大日経 金剛頂経
蘇悉地経 理趣経
思想 基本教義
即身成仏 三密 入我我入
曼荼羅 護摩
東密
古義広沢流 小野流新義
関連人物
東密
金剛薩埵 龍樹
龍智 金剛智 不空 恵果
空海
真言律
叡尊 忍性 信空
台密
最澄 順暁 円仁 円珍
ウィキポータル 仏教
八十八番霊場御印譜
納札

四国八十八箇所(しこくはちじゅうはっかしょ、「四国八十八ヶ所」とも表記される)は、四国にある空海(弘法大師)ゆかりの88か所の寺院の総称で、四国霊場のもっとも代表的な札所である。 単に八十八箇所とも言い、あるいはお四国さん、あるいは本四国とも言われている。四国八十八箇所を巡拝することを四国遍路四国巡拝などともいう。

概要[編集]

江戸時代ごろから西国三十三所観音霊場、熊野詣善光寺参りなど庶民の間に巡礼が流行するようになり、そのうちの1つが四国八十八箇所である。これを模して四国別格(番外)霊場や小豆島には小豆島八十八箇所霊場・江戸には御府内八十八ヵ所霊場など、全国各地に大小さまざまな巡礼地が作られた。「移し」または「写し」とも呼ばれ、四国遍路隆盛の証左ともいわれている。

88の霊場寺院を結ぶ道を遍路道という。阿波国の霊場(23か寺)は「発心の道場」、土佐国の霊場(16か寺)は「修行の道場」、伊予国の霊場(26か寺)は「菩提の道場」、讃岐国の霊場(23か寺)は「涅槃の道場」と呼ばれる。

他の巡礼地と異なり、四国八十八箇所を巡ることを特に遍路と言い、地元の人々は巡礼者をお遍路さんと呼ぶ。また、霊場に参詣することを「打つ」と表現する。八十八箇所を通し打ち(後述)で巡礼した場合の全長は1100[1][2] - 1400km程である。距離に幅があるのは遍路道は一種類のみではなく、選択する道で距離が変わるためである。自動車を利用すると、打戻りと呼ばれる来た道をそのまま戻るルートや遠回りのルートが多いので、徒歩より距離が増える傾向にある。一般的に、徒歩の場合は40日程度、自動車や団体バスの場合で異なるが8日から11日程度で1巡できる。さらに、高速道路の整備により、最短で巡拝する熟練者は5日で1巡する。

遍路は順番どおり打たなければならないわけではなく、各人の居住地や都合により、移動手段や日程行程などさまざまである。1度の旅で八十八箇所のすべてを廻ることを「通し打ち」、何回かに分けて巡ることを「区切り打ち」といい、区切り打ちのうち阿波、土佐、伊予、讃岐の4つに分けて巡礼することを特に「一国参り」という。また、順番どおり廻るのを「順打ち」、逆に廻るのを「逆打ち」(さかうち、または、ぎゃくうち)という。近年は順序にこだわらず打つことを「乱れ打ち」といわれている。なお、逆打ちは順打ちよりも御利益があるとされるが、これは一般的に順打ちを前提とした道案内などがなされていることから難易度が高くなることや、衛門三郎が順打ちではお大師様(弘法大師)と出会えなかったが逆打ちすることによって出会えたとされる言い伝えなどが理由とされる。さらに、閏年に逆打ちを行うと倍の御利益があるとする考えがあり、閏年は逆打ちが平年に較べ多くなり、それに目をつにけた旅行会社が逆打ちツアーを閏年に行うようになった。

遍路(巡拝者)は札所に到着すると、およそ決められた手順(宗派や指導者によって多少異なる)に従って参拝する。それは、手水舎でお清めをしたのち本堂大師堂において燈明・線香奉納をし般若心経・本尊真言・大師宝号などの読経を行い、最近は希になったが御詠歌を唱え、その証として納札(おさめふだ、後述)を納める、また、写経を納めることもある。

境内にある納経所(のうきょうじょ)では、持参した納経帳(のうきょうちょう)や掛軸白衣に、札番印、宝印、寺号印の計3種の朱印と、寺の名前や本尊の名前、本尊を表す梵字の種字などを墨書してもらう。この一連の所作を納経とも言う。

八十八箇所すべてを廻りきると「結願」(けちがん、結願成就)となる。その後、高野山奥の院)に詣でて「満願成就」となるが、これは特に定められたものでないものの、納経帳や掛軸に高野山奥の院の項があるので参拝するのが一般的である。

歴史[編集]

修行の地、四国[編集]

空海が修行した室戸岬の御厨人窟

古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生れた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代がたつにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。また、西行の白峰御陵(白峰寺)の参拝、弘法大師遺蹟巡礼や、一遍の影響もあるといわれている。室町時代には僧侶の遍路が盛んになる。

四国遍路の成立[編集]

江戸時代初期に「四国遍路」という言葉と概念が成立したとされる。この頃には僧侶だけでなく民衆が遍歴しはじめる。17世紀には真念という僧によって『四国遍路道指南』(しこくへんろみちしるべ)という今日でいうガイドブックが書かれている。手の形の矢印で順路を示した遍路道の石造の道しるべも篤志家によってこの時期に設置され始めたと言われる。修行僧や信仰目的の巡礼者以外にも、ハンセン病患者などの、故郷を追われた、もしくは捨てざるをえなかった者たちが四国遍路を終生行う「職業遍路[3]」が存在した。また、犯罪やそれに類する行為で故郷を追われた者も同様に居たといわれている。もっともこれらの者たちも、信仰によって病気が治るのではないかという期待や、信仰による贖罪であったので、信仰が目的であったともいえる。また、信仰によって病気や身体の機能不全が治るのではないかと一縷の望みをかけ、現代でいう視聴覚障害者や身体障害者が巡礼することも始まった。その後、地区によっては一種の通過儀礼として村内の若衆が遍路に出るといったこともあったとされる。

神仏分離・廃仏毀釈と札所の変遷[編集]

神恵院と観音寺の境内図

明治初頭の神仏分離令およびそれをきっかけにおこった廃仏毀釈運動により、それまで札所だった神社から別当寺などへ霊場を移したり、神仏習合の寺が神社と分離独立したり、寺そのものが廃寺になるなど四国八十八箇所霊場の一部が大きく変わっていった。

とくに影響を受けたのは高知県愛媛県東予地方で、のちに同じ場所に再興されたり別の寺が札所になるなど徐々に復興していったが、神仏分離から100年以上経った1993年に第三十番札所が確定したときに、現在の霊場の形に落ち着いた。

影響を受けた札所[編集]

いったん廃寺となり寺格がない札所となったが、1912年大正元年)茨城県稲敷郡朝日村 竹林山地蔵院を移転し再興して神峯寺になる[4]
納経は神宮寺(別当寺)で行っていたが塔頭寺院の善楽寺とともに廃寺となり、以降札所が安楽寺に移った。1929年(昭和4年)善楽寺が復興され札所を名乗るようになり、以降第三十番札所が2か所存在し混乱することになるが、1993年(平成5年)元日から善楽寺が第三十番札所と定められた。
創建当初から神仏習合の寺であったが、神仏分離により、旧本堂が稲荷社になった。
大通智勝如来を本尊とする独立した寺になった。
蔵王権現を祀る別当寺だったが廃寺になり、1909年(明治42年)再興する。
妙成就寺が廃寺となり、末寺の高照院(天皇寺)が移転して札所となった。

近代における遍路の「観光化」[編集]

弘法大師生誕地 善通寺

昭和30年代頃までは「辺土」と呼ばれ、交通事情も悪く、決して今日のような手軽なものではなかった。今日でこそその心理的抵抗は希薄になっているが、どこで倒れてもお大師のもとへ行けるようにと死装束であり、その捉え方も明るいイメージではなかった。しかしながら、次第に観光化の道を歩み始める。

近代以降、四国遍路はさまざまな場面で取り上げられることとなった。以下は、森正人の『四国遍路の近現代 - 「モダン遍路」から「癒しの旅」まで』創元社に詳しく紹介されているが、1908年には現在の『毎日新聞』の前身である『大阪毎日新聞』で、四国遍路の巡礼競争が企画された。全国紙での企画ではこれが最初のものであるらしい。1930年代には乗り物を用いて、旅館などに宿泊する巡礼者が登場した。彼らは「モダン遍路」と呼ばれた。四国遍路は観光としてみなされたのだった。

観光として四国遍路を捉える人々に対して、伝統的な四国遍路を主張する「遍路同行会」が1929年に東京に誕生した。同書によると、現在のような四国霊場会は存在しなかったが、1910年ごろに小林正盛という人物が組織化を模索した形跡があるとされる。ただし実質的な活動はしておらず、1942年に善通寺を中心とした「四国八十八ヶ所霊場会」が組織されたのが、四国側での活動組織となっている。この霊場会の組織に先立って1937年、高野山電気鉄道を子会社に持つ大阪の南海鉄道によって「四国八十八ヶ所出開帳」というイベントが開かれた。このとき、それまで全寺院が協力して何かを成し遂げることなどなかったが、初めて全寺院が団結して出開帳を成功させた。「この経験が、1942年の霊場会の成立と関わっているのではないか」と、同書は解説している。

現代[編集]

1番 霊山寺

現代においては、従来の信仰に基づくものや、現世・来世利益を期待する巡礼者も引き続き大勢いるが、1990年代後半からは信仰的な発心よりも、いわゆる自分探し、癒しとしての巡礼者が増えたといわれている。一時期減ったといわれるすべての札所を徒歩で巡礼する歩き遍路も同じころから増えた。徳島大学今治明徳短期大学など、四国の大学・短期大学の中には歩き遍路を自分を見つめなおす機会ととらえ、教育課程に組み込んでいる学校もある。

遍路をするにあたり予約や届け出などをする必要がなく、いつどの札所から初めても終わっても自由で統計が取れないため人数は定かではないが、巡礼者数は年間10[5] - 30万人(うち歩き遍路が2500[6] - 5000人)ともいわれる。

いろいろな巡礼手段[編集]

道しるべ
道しるべ
巡礼者

徒歩[編集]

伝統的には、四国遍路は「歩き」(歩き遍路と呼ばれる)で、1日30km歩いても約40日を要する。一時期は峠道や山道などの旧来の遍路道も廃れ、幹線道路になった遍路道は車の排気ガスが充満するなど歩き遍路にとってはつらい状況になったが、排気ガス規制や、寺院や地元の人たち、へんろみち保存協力会などによって、遍路道の整備や復興、道しるべの設置などが行なわれ一時期よりは歩きやすくなった。国道55号などの遍路道と幹線道路とが一体化している道や旧来の遍路道では、遍路装束の歩き遍路を目にすることができる。遍路の中には先を急ぐあまり夜間も歩こうとする者がいるが、街灯のない遍路道も多く、遍路道しるべを見逃して平成の現代においても遭難事故が発生[7]している。歩き遍路は朝早くに出て、夕方までには宿に着くのが基本である。歩き遍路向けに歩き遍路のルートを解説した書籍も何点か販売されている。また、全行程ではないが、いくつかの区間においてハイキングも兼ねたウォークガイド本も出ている。

公共交通機関の利用[編集]

体力や身体的な理由などですべてを徒歩で巡礼するのは無理だが、できる限り歩きつつ公共交通機関を利用する巡礼者もいる。2006年から四国運輸局では、公共交通を利用した四国遍路のためのガイドリーフレットを作成、配布している。ただし、公共交通機関が無い区間や、電車やバスの本数が少なく不便な地域も多い。

バスによる団体巡礼[編集]

昭和40年代からの四国内の道路事情の改善もあり、大型観光バスによるお四国巡りの団体巡礼が企画催行されている。何泊もしながら1回で回り切る本格的なもの、一国参りといって1つの県内を回るもの、原則日帰りで、1回で10か寺程度ずつお参りし、何回かのツアーに参加して結願となる手軽なものなど、さまざまである。地元の会社が主催する四国発着の団体巡礼もあるが、大手ツアー会社が主催する関西や中国地方からの団体巡礼も多く、近年では関東などからの団体巡礼も増えている。団体巡礼では本堂や大師堂での読経は先達(後述)や僧侶が先導してくれ、納経帳に判を貰うのは添乗員が代行してやってくれる。このようなツアー会社やバス会社主催の団体巡礼以外にも、札所や寺院、各地の参拝団(講)が主催する団体巡礼もある。小規模な団体や大型バスが通行できない札所への参拝は、マイクロバスやジャンボタクシー等も利用される。

自動車・オートバイでの巡礼[編集]

マイカーやレンタカーなど、自動車やオートバイを利用して巡礼する人も多い。自分の休日を利用して少しずつ計画的に回る人もいる。今では車道の整備が進み、ほとんどの札所で境内に隣接した駐車場まで行けるようになり、駐車場から境内まで時間をかけて歩かないと行けないところはわずかになった。そして、高速道路を利用すれば、四国の主要都市からすべての札所へ日帰りが可能である。

自転車での巡礼[編集]

自転車を利用する巡礼者もいる。自転車を趣味とする人や、歩きでは時間的・体力的に無理でも自分の力で巡礼をしたいという人が自転車を利用している。

自転車での巡礼では、ロードバイククロスバイクマウンテンバイクシクロクロスランドナーといった変速ギアのある長距離走行に向いた車種を使用することが多いが、シティサイクル(ママチャリ)や電動アシスト自転車、折りたたみ自転車等も使用されている。

自転車を使った巡礼者も増え、関連書籍も発売されている。[8]

開創1200年記念事業[編集]

善通寺御影堂2014.5.9
四国の遍路道を徒歩練行一行が歩む

空海(弘法大師)が42歳のとき四国を巡錫したとされる年を起点に1200年目にあたる2014年には、各寺院がふだんは公開されない秘仏の本尊や秘蔵の仏像を公開したり、本堂や大師堂の開扉や入堂が許されたり、特別法要や公演が行われた。また徒歩練行と称し、善通寺を起点に木彫りの練行大師像を背負った者を先頭に若い寺院方と健脚の先達で数十人の隊を組み1年をかけ88の札所を25回の区切りで一巡し、5月9日善通寺において結願法要が行われた。

開創事業は50年毎に行われたようで、50年前の納経帳に記念スタンプが押されたものが残っていたり、59番国分寺の境内入口門柱に「為四国開創一千百年記念建立」と刻まれていることが示している。

おもな開帳(予定を含む)

1番霊山寺本尊、3番金泉寺本尊、7番十楽寺本尊、9番法輪寺本尊と大師像、13番大日寺本尊と大師像、14番常楽寺本尊、18番恩山寺前仏、20番鶴林寺大師像、21番太龍寺大師像、23番薬王寺大師像、28番大日寺本尊、31番竹林寺本尊、33番雪蹊寺本尊、34番種間寺本尊と大師像、35番清滝寺本尊、38番金剛副寺本堂内拝、45番岩屋寺大師像、47番八坂寺本尊、52番太山寺本尊、53番円明寺大師像、55番南光坊本尊と大師像、65番三角寺旧本尊と大師像、66番雲辺寺本尊、67番大興寺天台大師像、69番観音寺本尊と涅槃釈迦像、70番本山寺前仏と大師像、71番弥谷寺大師像、72番曼荼羅寺本堂内拝、73番出釈迦寺珊瑚仏、74番甲山寺大師像、76番金倉寺大師堂内拝、79番妙成就寺大師像、81番頓証寺殿奥殿、82番根香寺五大明王、83番一宮寺前仏、86番志度寺五重塔本尊、87番長尾寺本尊、88番大窪寺本尊(以上のほかにも毎年恒例の開帳の期間を延長したり回数を増やした寺院がある) 。[9]

霊場一覧[編集]

この節には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(38番の山号「蹉跎山」の2文字目は足偏に它。60番、64番の山号や宗派の「石鈇」の2文字目は金偏に夫)が含まれています(詳細)。
全札所位置図

以下に四国八十八箇所霊場の一覧を国(県)ごとに示す。

1番から23番は阿波国(徳島県)、24番から39番は土佐国(高知県)、40番から65番は伊予国(愛媛県)、66番から88番は讃岐国(香川県)に位置する。ただし、66番雲辺寺は、行政区画上は徳島県に属する。

阿波国の霊場を「発心の道場」、土佐国の霊場を「修行の道場」、伊予国の霊場を「菩提の道場」、讃岐国の霊場を「涅槃の道場」と称する。

このほかに、東寺では同寺を四国八十八箇所の出発寺と案内しており[10]與田寺は、かつて近隣の港への航路が遍路で賑わったころに多くの人が「お礼参り」に訪れたことから、四国(八十八箇所)総奥之院とされる[11]

また、中国西安市青龍寺は、空海ゆかりの寺ということで元霊場会会長蓮生善隆により四国零番札所とされている。以上の番外寺院についてはこの一覧には掲載しない。


地図で場所を確認したい場合、表中の左の寺の番号 (No.) に各々の寺の地図がリンクし、また右の「座標を示した地図」ではすべて(または県別)の寺の地図一覧ができる。

阿波(発心の道場)[編集]

徳島県にある1 - 23番までの寺院一覧。

No. 山号 山号の読み 寺号(括弧は通称) 寺号の読み 宗派 本尊 所在地
1 竺和山 じくわざん 霊山寺 りょうぜんじ 高野山真言宗 釈迦如来 鳴門市
2 日照山 にっしょうざん 極楽寺 ごくらくじ 高野山真言宗 阿弥陀如来 鳴門市
3 亀光山 きこうざん 金泉寺 こんせんじ 高野山真言宗 釈迦如来 板野郡板野町
4 黒巖山 こくがんざん 大日寺 だいにちじ 東寺真言宗 大日如来 板野郡板野町
5 無尽山 むじんざん 地蔵寺 じぞうじ 真言宗御室派 勝軍地蔵菩薩 板野郡板野町
6 温泉山 おんせんざん 安楽寺 あんらくじ 高野山真言宗 薬師如来 板野郡上板町
7 光明山 こうみょうざん 十楽寺 じゅうらくじ 高野山真言宗 阿弥陀如来 阿波市
8 普明山 ふみょうざん 熊谷寺 くまだにじ 高野山真言宗 千手観世音菩薩 阿波市
9 正覚山 しょうかくざん 法輪寺 ほうりんじ 高野山真言宗 涅槃釈迦如来 阿波市
10 得度山 とくどざん 切幡寺 きりはたじ 高野山真言宗 千手観世音菩薩 阿波市
11 金剛山 こんごうざん 藤井寺 ふじいでら 臨済宗妙心寺派 薬師如来 吉野川市
12 摩盧山 まろざん 焼山寺 しょうさんじ 高野山真言宗 虚空蔵菩薩 名西郡神山町
13 大栗山 おおぐりざん 大日寺 だいにちじ 真言宗大覚寺派 十一面観世音菩薩 徳島市
14 盛寿山 せいじゅざん 常楽寺 じょうらくじ 高野山真言宗 弥勒菩薩 徳島市
15 薬王山 やくおうざん 国分寺 こくぶんじ 曹洞宗 薬師如来 徳島市
16 光耀山 こうようざん 観音寺 かんのんじ 高野山真言宗 千手観世音菩薩 徳島市
17 瑠璃山 るりざん 井戸寺 いどじ 真言宗善通寺派 七仏薬師如来 徳島市
18 母養山 ぼようざん 恩山寺 おんざんじ 高野山真言宗 薬師如来 小松島市
19 橋池山 きょうちざん 立江寺 たつえじ 高野山真言宗 延命地蔵菩薩 小松島市
20 霊鷲山 りょうじゅぜん 鶴林寺 かくりんじ 高野山真言宗 地蔵菩薩 勝浦郡勝浦町
21 舎心山 しゃしんざん 太龍寺 たいりゅうじ 高野山真言宗 虚空蔵菩薩 阿南市
22 白水山 はくすいざん 平等寺 びょうどうじ 高野山真言宗 薬師如来 阿南市
23 医王山 いおうざん 薬王寺 やくおうじ 高野山真言宗 薬師如来 海部郡美波町

土佐(修行の道場)[編集]

高知県にある24 - 39番までの寺院一覧。

No. 山号 山号の読み 寺号(括弧は通称) 寺号の読み 宗派 本尊 所在地
24 室戸山 むろとざん 最御崎寺(東寺) ほつみさきじ 真言宗豊山派 虚空蔵菩薩 室戸市
25 宝珠山 ほうしゅざん 津照寺(津寺) しんしょうじ 真言宗豊山派 延命地蔵菩薩 室戸市
26 龍頭山 りゅうずざん 金剛頂寺(西寺) こんごうちょうじ 真言宗豊山派 薬師如来 室戸市
27 竹林山 ちくりんざん 神峯寺 こうのみねじ 真言宗豊山派 十一面観世音菩薩 安芸郡安田町
28 法界山 ほうかいさん 大日寺 だいにちじ 真言宗智山派 大日如来 香南市
29 摩尼山 まにざん 国分寺 こくぶんじ 真言宗智山派 千手観世音菩薩 南国市
30 百々山 どどざん 善楽寺 ぜんらくじ 真言宗豊山派 阿弥陀如来 高知市
31 五台山 ごだいさん 竹林寺 ちくりんじ 真言宗智山派 文珠菩薩 高知市
32 八葉山 はちようざん 禅師峰寺 ぜんじぶじ 真言宗豊山派 十一面観世音菩薩 南国市
33 高福山 こうふくざん 雪蹊寺 せっけいじ 臨済宗妙心寺派 薬師如来 高知市
34 本尾山 もとおざん 種間寺 たねまじ 真言宗豊山派 薬師如来 高知市
35 醫王山 いおうざん 清瀧寺 きよたきじ 真言宗豊山派 薬師如来 土佐市
36 独鈷山 とっこうざん 青龍寺 しょうりゅうじ 真言宗豊山派 波切不動明王 土佐市
37 藤井山 ふじいざん 岩本寺 いわもとじ 真言宗智山派 阿弥陀如来
観世音菩薩
不動明王
薬師如来
地蔵菩薩
高岡郡四万十町
38 蹉跎山 さだざん 金剛福寺 こんごうふくじ 真言宗豊山派 三面千手観世音菩薩 土佐清水市
39 赤亀山 しゃっきざん 延光寺 えんこうじ 真言宗智山派 薬師如来 宿毛市

伊予(菩提の道場)[編集]

愛媛県にある40 - 65番までの寺院一覧。

No. 山号 山号の読み 寺号(括弧は通称) 寺号の読み 宗派 本尊 所在地
40 平城山 へいじょうざん 観自在寺 かんじざいじ 真言宗大覚寺派 薬師如来 南宇和郡愛南町
41 稲荷山 いなりざん 龍光寺 りゅうこうじ 真言宗御室派 十一面観世音菩薩 宇和島市
42 一{王果}山 いっかざん 佛木寺 ぶつもくじ 真言宗御室派 大日如来 宇和島市
43 源光山 げんこうざん 明石寺 めいせきじ 天台寺門宗 千手観世音菩薩 西予市
44 菅生山 すごうざん 大寶寺 だいほうじ 真言宗豊山派 十一面観世音菩薩 上浮穴郡久万高原町
45 海岸山 かいがんざん 岩屋寺 いわやじ 真言宗豊山派 不動明王 上浮穴郡久万高原町
46 医王山 いおうざん 浄瑠璃寺 じょうるりじ 真言宗豊山派 薬師如来 松山市
47 熊野山 くまのざん 八坂寺 やさかじ 真言宗醍醐派 阿弥陀如来 松山市
48 清滝山 せいりゅうざん 西林寺 さいりんじ 真言宗豊山派 十一面観世音菩薩 松山市
49 西林山 さいりんざん 浄土寺 じょうどじ 真言宗豊山派 釈迦如来 松山市
50 東山 ひがしやま 繁多寺 はんたじ 真言宗豊山派 薬師如来 松山市
51 熊野山 くまのざん 石手寺 いしてじ 真言宗豊山派 薬師如来 松山市
52 瀧雲山 りゅううんざん 太山寺 たいさんじ 真言宗智山派 十一面観世音菩薩 松山市
53 須賀山 すがざん 圓明寺 えんみょうじ 真言宗智山派 阿弥陀如来 松山市
54 近見山 ちかみざん 延命寺 えんめいじ 真言宗豊山派 不動明王 今治市
55 別宮山 べっくさん 南光坊 なんこうぼう 真言宗醍醐派 大通智勝如来 今治市
56 金輪山 きんりんざん 泰山寺 たいさんじ 真言宗醍醐派 地蔵菩薩 今治市
57 府頭山 ふとうざん 栄福寺 えいふくじ 高野山真言宗 阿弥陀如来 今治市
58 作礼山 されいざん 仙遊寺 せんゆうじ 高野山真言宗 千手観世音菩薩 今治市
59 金光山 こんこうざん 国分寺 こくぶんじ 真言律宗 薬師如来 今治市
60 石鈇山 いしづちざん 横峰寺 よこみねじ 真言宗御室派 大日如来 西条市
61 栴檀山 せんだんざん 香園寺 こうおんじ 真言宗御室派 大日如来 西条市
62 天養山 てんようざん 宝寿寺 ほうじゅじ 高野山真言宗 十一面観世音菩薩 西条市
63 密教山 みっきょうざん 吉祥寺 きちじょうじ 真言宗東寺派 毘沙門天 西条市
64 石鈇山 いしづちざん 前神寺 まえがみじ 真言宗石鈇派 阿弥陀如来 西条市
65 由霊山 ゆれいざん 三角寺 さんかくじ 高野山真言宗 十一面観世音菩薩 四国中央市

讃岐(涅槃の道場)[編集]

香川県にある66 - 88番までの寺院一覧。ただし、66番は香川県・徳島県境の徳島県側にある。

No. 山号 山号の読み 寺号(括弧は通称) 寺号の読み 宗派 本尊 所在地
66 巨鼇山 きょごうざん 雲辺寺 うんぺんじ 真言宗御室派 千手観世音菩薩 三好市
67 小松尾山 こまつおざん 大興寺(小松尾寺) だいこうじ 真言宗善通寺派 薬師如来 三豊市
68 琴弾山 ことひきざん 神恵院(琴弾八幡) じんねいん 真言宗大覚寺派 阿弥陀如来 観音寺市
69 七宝山 しっぽうざん 観音寺 かんおんじ 真言宗大覚寺派 聖観世音菩薩 観音寺市
70 七宝山 しっぽうざん 本山寺 もとやまじ 高野山真言宗 馬頭観世音菩薩 三豊市
71 剣五山 けんござん 弥谷寺 いやだにじ 真言宗善通寺派 千手観世音菩薩 三豊市
72 我拝師山 がはいしざん 曼荼羅寺 まんだらじ 真言宗善通寺派 大日如来 善通寺市
73 我拝師山 がはいしざん 出釈迦寺 しゅっしゃかじ 真言宗御室派 釈迦如来 善通寺市
74 医王山 いおうざん 甲山寺 こうやまじ 真言宗善通寺派 薬師如来 善通寺市
75 五岳山 ごがくざん 善通寺 ぜんつうじ 真言宗善通寺派 薬師如来 善通寺市
76 鶏足山 けいそくざん 金倉寺 こんぞうじ 天台寺門宗 薬師如来 善通寺市
77 桑多山 そうたざん 道隆寺 どうりゅうじ 真言宗醍醐派 薬師如来 仲多度郡多度津町
78 仏光山 ぶっこうざん 郷照寺 ごうしょうじ 時宗 阿弥陀如来 綾歌郡宇多津町
79 金華山 きんかざん 天皇寺(高照院) てんのうじ 真言宗御室派 十一面観世音菩薩 坂出市
80 白牛山 はくぎゅうざん 國分寺 こくぶんじ 真言宗御室派 十一面千手観世音菩薩 高松市
81 綾松山 りょうしょうざん 白峯寺 しろみねじ 真言宗御室派 千手観世音菩薩 坂出市
82 青峰山 あおみねざん 根香寺 ねごろじ 天台宗単立 千手観世音菩薩 高松市
83 神毫山 しんごうざん 一宮寺 いちのみやじ 真言宗御室派 聖観世音菩薩 高松市
84 南面山 なんめんざん 屋島寺 やしまじ 真言宗御室派 十一面千手観世音菩薩 高松市
85 五剣山 ごけんざん 八栗寺 やくりじ 真言宗大覚寺派 聖観世音菩薩 高松市
86 補陀洛山 ふだらくざん 志度寺 しどじ 真言宗善通寺派 十一面観世音菩薩 さぬき市
87 補陀洛山 ふだらくざん 長尾寺 ながおじ 天台宗 聖観世音菩薩 さぬき市
88 医王山 いおうざん 大窪寺 おおくぼじ 真言宗単立 薬師如来 さぬき市

四国遍路にちなむ文化[編集]

衛門三郎伝説
衛門三郎は、四国霊場にまつわる伝説上の人物。
四國邊路指南(しこくへんろみちしるべ)の刊行
ここまで四国遍路が盛んになったのは、貞享4年(1687年)に刊行された『四国遍路指南』という新書版の本の刊行による。この本を著したのは眞念という僧であるが、そこには宿泊所情報なども盛り込まれており、遍路をしたい人にとって重要なガイドブックとなった。さらに、この本によって八十八箇所が固定化され、それまで順番などなかった札所の寺に順番が付けられたものと考えられる。現在は「へんろみち保存協力会」編の『四国遍路ひとり歩き同行二人 地図編』が重要なガイドブックとなる。
同行二人(どうぎょうににん)
仮に一人で四国八十八箇所をめぐっても、同行二人と言って常に「お大師さん」(弘法大師)と一緒にいる想いで巡礼している。「同行二人」は参拝の道具にも記されている。同行二人の巡礼者ともう一人は弘法大師以外でも、亡くなった家族や先祖、帰依する如来や菩薩などのことを想ってもよいとする教えもある。
南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)・宝号
『南無』は「帰依する。信じる」という意味。「遍照金剛」は、空海の師・恵果から授けられた空海の名。宗派によっては「南無遍照金剛」と唱えるところもある。現在では「空海」「弘法大師」または「お大師」と呼ぶのが一般的であるが、本人は遍照金剛の名を好んだとみえて自身の著作にはこの名を使い天皇に上奏するときは謙って空海と記しているという見解もある。
十善戒(じゅうぜんかい)
遍路が守るべき
白衣
白衣(びゃくえ)
笈摺(おいずる。おいずり)とも呼ばれる。巡礼者が着用する白い着衣。四国八十八箇所の寺院や門前の店で購入すると、弘法大師を表す梵字と「南無大師遍照金剛」と背中に書かれたものが一般的である。袖があるものを白衣、袖無しのものを笈摺とする説明もあるが、はっきりと区別されているわけではない。宝印を受領するためだけの実際には着衣しない白衣は判衣とも呼ばれる。巡礼の途中でいつ行き倒れてもいいように死装束としてとらえる説もあれば、巡礼といえども修行中なので清浄な着衣として白を身につける、どんな身分でも仏の前では平等なのでみな白衣を着るとする説もある。四国では、すべての札所で判を戴いた判衣を亡くなったとき着せて送り出す風習がある。なお、判衣を着て遍路をする者もいるがそれは自由である。
金剛杖(こんごうづえ)
木製の杖で空海が修行中に持っていた杖に由来する。巡礼者が持つ金剛杖は弘法大師の化身ともいわれるほどで、宿に着いたら杖の足先を清水で真っ先に洗い、部屋では上座や床の間に置くなどの扱いをするのがならわしである。巡礼中、行き倒れた巡礼者の卒塔婆として使用されたといわれる。市販されているものは「同行二人」「南無大師遍照金剛」や頭部に『地』『水』『火』『風』『空』の五輪を表す梵字が書かれ、頭部の五輪は直接手で触れない様に金襴を巻いて持つ、般若心経が書かれているものもあり、橋の上ではついてはならない(後述)。
遍路で使用する
菅笠(すげがさ)
日光や風雨から頭部を守る。笠には「迷故三界城」「悟故十方空」「本来無東西」「何処有南北」と「同行二人」と梵字が書かれている。梵字が前になるようにかぶるのが一般的。遍路笠を身につけた巡礼者は、境内で笠を脱がないでお参りすることが許される。読みは『迷うが故に三界は城、悟が故に十方は空、本来は東西は無く、何処に南北有らん。』。
逆打ち(さかうち。ぎゃくうち)
四国を時計回りに札所の数字を昇順に巡礼するのを順打ちといい、反時計回りに降順に巡礼するのを逆打ちという。また、四国八十八ヶ所霊場会によると、お遍路は何番札所からを始めてもよいといわれ、88か所の寺院を巡礼することで結願したとされる。
映画『死国』では禁忌などのようにとらえられているが、順打ちよりも困難な場合が多く、ご利益が順打ちよりも大きく、順打ち3回分のご利益があると言われている。また、逆打ちだと順廻りしているお大師さんと遭遇する確率が高いので、この理由でご利益があるとも言われている。
お接待
茶堂の例(四国村北宇和郡より移築)
道中、お遍路さんに対して地元の人々から食べ物や飲み物、手ぬぐいや善根宿、ときには現金を渡す無償の提供がなされる伝統。これに対し、遍路は持っている納札(おさめふだ)を「お接待」してくれた人に渡すことになっている。こうした文化のおかげで、昔は比較的貧しい人であってもお参りができたといわれる。今日でも四国西南部ではお接待の場ともなった「茶堂」が残っている。「お接待」の心は、接待することによって功徳を積む、巡礼者もまた弘法大師のある種の化身であるという言い伝えからや、一種の代参のようなものなどさまざまである。観光振興や観光従事者の研修等では「もてなしの心」と拡大解釈されることがある。もともと、関西で西国三十三所観音霊場の修行者、巡礼者に対して始まったとされるが、 観光化、俗化したために関西では早くに廃れたといわれている。四国以外の地域でも、接待講と呼ばれるを組み、浄財を集め、四国で遍路にたいして接待をするということも行われた。また、どこに行けばお接待が受けられるなどの情報が流れると遍路が集まり、善意の気持ちで行われるお接待が義務化され負担になってしまうことから、へんろみち保存協力会では善根宿などのお接待の情報は掲載せずに「縁をたずね歩いてほしい」と伝えている[12]
納札(おさめふだ)
公認金納札と金色のバッジ
札所などにお参りし、納経した証に収める札。般若心経写経したものを納める(経を納める)のが正式とされているが、読経したのちに自分の名前を書いた納札を納めてもよい。衛門三郎が自分が空海を探しているということを空海に知らせるために(空海が立ち寄ると思われる)寺にお札を打ちつけたのが始まりとされる。かつては木製や金属製の納札を山門や本堂の柱などに釘で打ちつけていた。このことから、遍路自体や、札所に参拝したことを「打つ」とも言う。現在では、お寺の建築物の損傷を避け、持ち運びの利便性を考え、紙製の納札を納札箱に入れることになっている。また、接待をしてもらったら、その人にお礼の気持ちも込めて納札を渡すのが決まりである。結願した回数によってお札の色を変えてもよい。1 - 4回が白、5 - 7回が緑、8 - 24回が赤、25回以上で銀、50回以上で金、そして100回以上で錦の札となる。ただし、白より錦の札がよりよいとされるわけではない。100回以上回っても白の納札を使う人もいる。また、札所寺院を通じて霊場会に申請することによって25回以上から公認の銀納札と四国を型どった銀色のバッジを、50回以上から公認の金納札と金色のバッジを授けられ使用できる。
善根宿(ぜんこんやど。ぜごんやど)
善人宿とも呼ばれる。広義では自宅の前を通った遍路に「一晩泊っていきなさい」と一夜の宿を提供するのも善根宿といわれる。一般的には「お接待」の心で善意で用意された簡易宿泊施設である。施設を提供するのは個人や企業、地域ぐるみなどさまざまである。
通夜堂(つやどう)
本来は寺院内で夜を徹して読経や真言を唱える修行をするための施設(お堂)だが、四国八十八箇所においては霊場が巡礼者にたいして用意した簡易宿泊施設という意味合いが強い。宿坊とは違い寝るだけの最低限の設備しかない(布団も基本的にはない)。かつては通夜堂を持つ霊場が多かったが、旅館などの宿泊施設が増えたことや、利用者のマナーなどの問題により減少し、現在では通夜堂を持つ霊場(小屋やガレージなどを一時的に利用してもよいとする霊場を含む)は2割程度である。
十夜ヶ橋(とよがはし)
現在の愛媛県大洲市付近で空海が一宿を求めたがどの家からも断られ、仕方なく橋の下で寝ることとなった。寒さと旅人が杖で橋を突く音でまったく眠れず、一夜が十夜にも感じられた、という和歌が残っている。このため巡礼者は橋の下には空海がいるかもしれないから橋をわたるときは杖を突いてはならないというならわしがある。すぐそば、国道に面して永徳寺(番外霊場)があり、お参りする人も多い。現在、その橋は「十夜ヶ橋」と呼ばれ国道56号の一部となり、交通量の多いコンクリート橋になっているが、橋の下で空海を偲びつつ野宿することができる。雨期には冠水する場合もあり、夏季は蚊が多い。
地四国・島四国・新四国
四国八十八箇所のことを略して「お四国参り」あるいは「お四国」「お大師さん」と呼ぶことがあるが、日本の各地には民衆信仰としての地四国あるいは「ミニ四国」「新四国」と呼ばれるものがある。離島では島を四国に見立てて、八十八箇所を再現した島四国瀬戸内海を中心に存在し、小豆島や伊予大島が代表例である。また、愛知県を中心とする周辺(東海地方)では新四国に対して四国八十八箇所を「本四国」と呼ぶ。
先達(せんだつ)
四国八十八箇所霊場会では、昭和30年代に「公認先達」という認定制度を発足させた。ツアー会社の団体巡礼に同行する先達はほぼ「公認先達」である。徒歩による巡礼のガイドを引き受けてくれる先達もいる。公認先達は4回以上の結願の後に札所寺院の住職の推薦により霊場会の承認を経て毎年12月の善通寺における研修を修め補任される。先達には昇進制度があり、先達として2年以上の経験と貢献を経て権中先達、さらに2年以上で中先達、3年以上で権大先達、3年以上で大先達となる。そして最高位は定員10名の特任先達である。なお、特任先達に定員があるため準特任先達という位が作られている。

この規定通りに昇補すると最短で14回の結願で大先達に補任される。しかし、赤札の大先達としてお遍路関係者からは嘲笑をうけるケースが多い。少なくとも銀札 出来れば金札で大先達に申請することが望ましい。さらに上には 準特任大先達 特任大先達 四国の寺院の住職には元老大先達という位があるが、いずれも人数制限があるので、普段のお遍路で、お目にかかれることは殆ど無い[要出典]

準特任大先達の制限人数は30名である。

準特任大先達になるには、その前に、たくさんいる大先達の中から、四国4県のいずれかの霊場会県部会で推薦を受けて、霊場会から先達功労者表彰を受けなければならない。 功労者の表彰の規定にあたっては特に公開はされていない。 多くの参拝者を自らが声をかけて発願させた等、いわゆるツアーの職業先達とは異なる要因で霊場会の発展に寄与するといった要素が重要になっているようだ。 巷で噂になっているような多額の寄付等をしたという要素は、ほとんど実態とは異なっている。 功労者表彰は毎年9月に行われる先達大会の会場にて発表・表彰される。およそ毎年5名程度の大先達が功労者表彰を受けている。[要出典]

「準特任大先達はこれまでに表彰を受けた大先達の中から選ばれる(先達教典P37 2-⑦参照)」

上記の規定により、功労者表彰を受けた大先達が平均的に5年~10年の間

30名の空き(死亡等)を待って待機していて、それから四県の部会が承認し推薦した者が、準特任に補任される。したがってまずは先達表彰を受けないと、準特任のノミネート候補には入らない。さらに準特任大先達でさらに、功労者表彰を受けた者が、何年間か待機して、特任大先達に補任される。特任大先達の人数は10名。しかし、ほとんどの特任大先達は、先達会の支部長といった役職者に限られている為、事実上の先達の頂点は準特任大先達である。[要出典]

中司茂兵衛が建立した、しるべ石と地蔵の1つ(大興寺門前)
中司茂兵衛(大先達)
弘化2年(1845年周防国(現在の山口県)生まれ。四国八十八箇所巡礼を慶応2年(1866年)から大正11年(1922年)まで歩きで280回巡拝した。また、しるべ石を240基余りを建立した。

世界遺産化をめぐる動き[編集]

1000年を越える歴史を有する巡礼を基礎とした特異な文化であり、世界遺産への登録をめざす動きが四国にはあり、特に香川県[13]が意欲的であるものの4県の中でも温度差があったが、2006年11月、文化庁に対して「四国八十八箇所霊場と遍路道」の「暫定リスト」への登載を求め、要望書を提出した[14][15]

また、民間で遍路道を含めて世界遺産登録に向けた活動を行なっている団体があり、その活動に積極的に関わっている札所もある。ただし、霊場会全体で見解が統一されているわけではない。ちなみに、キリスト教のサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路や日本の紀伊山地の霊場と参詣道は世界遺産登録されている。

結局、2007年1月には採択されなかったが、四県関係者は今回の関係者の認識統一や採択に向けた課題も整理でき一歩前進と受け止めている。

その他[編集]

  • 江戸期の巡礼では河川や湾口の通行に渡し船を使うことがあり、吉野川浦戸湾須之内湾四万十川などにあった。2005年末までは四万十川にも渡し船があったが、現在では浦戸湾の種崎・長浜間の渡し船(県営フェリー)が残るのみである。巡礼者が渡し船を使うと多くの場合渡し賃が無料(接待)であったと伝えられている(現在の浦戸湾の渡し船は巡礼者でなくとも無料)。歴史的な経緯から渡し船に乗った以外を徒歩で結願した場合は、すべて徒歩で結願したとみなされる。
  • 歩行不可能、困難な巡礼者はかつて「いざり車」に乗って巡礼した。これは現代でいう車椅子にあたるもので、小さいものは台車のようなものだが、大きなものは小屋に両輪がついたようなもので、この中で寝泊りできたという。遍路では主に後者の小屋タイプが使われていた。村によってはいざり車をみかけると隣村まで押していく、という決まりごとがあったと伝えられている。
  • 江戸時代、土佐国(現高知県)では巡礼者の入国、出国は甲浦(現東洋町甲浦地区)と松尾峠(現宿毛市)の関所2か所のみとされた。入国してからも札所以外の立ち寄りは禁止など厳しい制限がかけられた。また遍路狩りのようなこともあったと言われている。また、四国でもっとも廃仏毀釈が激しかったのは土佐であり、このようなことから、巡礼者の間では「鬼国土佐」などと呼ばれることもあった。といっても、入ってしまえば、草の根を分けてでも取り締まることはそうそうなく、気候温暖ですごしやすく、民衆の接待は他の国と同様であったため、冬には乞食遍路が集まってきたといわれている。そのため晩秋のころからは遍路に対しては関所を閉じるということもあった。
  • 国や自治体では、四国八十八箇所やその他の史跡や自然を辿る道を「四国のみち」として各種整備している。旧来の遍路道が「四国のみち」が重なっている場合などは、「四国のみち」として案内版や登山道の整備などがされているが、かならずしも「四国のみち」と旧来の遍路道は一体となっているわけではない(札所間のルートで四国遍路とは関係がない史跡が組み込まれて遠回りになる場合がある)ので、遍路道を辿りたい場合には注意が必要である。

関連作品[編集]

書籍[編集]

入門書・解説本・ガイド
  • 牛山 泰博『四国遍路 はにほへと』(ビコー出版、2010年5月)
  • 宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人 地図編 第10版』(へんろみち保存協力会、2013年)(第9版 2010年)(第8版 2007年)(第7版 2006年)- 書籍流通ルートには乗っていないが、通販もしくは一部の札所(1,6,21,24,26,37,40,43,44,45,51,75番)・門前店で購入が可能。
  • 宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人 解説編 第7版』(へんろみち保存協力会、2007年)(第6版 2004年)
  • 本田 亮『ママチャリお遍路1200km - サラリーマン転覆隊』(小学館、2008年7月)
  • 須藤 元気『幸福論』(ネコ・パブリッシング、2005年)
  • 森 正人『四国遍路の近現代 - 「モダン遍路」から「癒しの旅」まで』(創元社、2005年)
  • 加賀山 耕一『お遍路入門・人生ころもがえの旅』(ちくま新書、2003年)
  • 串間 洋『四国遍路のはじめ方』(明日香出版社、2003年)
  • 永井吐無『四国霊場八十八ヵ寺』(講談社、2001年)
  • 藤岡直樹『愛媛へんろ道ウオーキング7コース』(アトラス出版、アトラス地域文化新書01、2005年)
  • 桜井恵武 『四国名刹』(明報社、2008年)
研究書
  • 頼富本宏・白木利幸『四国遍路の研究』(国際日本文化研究センター、2001年)
  • 愛媛県生涯学習センター『四国遍路のあゆみ-平成12年度遍路文化の学術整理報告書』(非売品)
  • 愛媛県生涯学習センター『遍路のこころ-平成14年度遍路文化の学術整理報告書』(非売品)
  • 藤沢真理子『風の祈り-四国遍路とボランタリズム』(創風社、風ブックス004、1997年)
  • 柴谷宗叔『江戸初期の四国遍路-澄禅「四国辺路日記」の道再現』(法蔵館、2014年)

テレビ[編集]

この節には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(德光和夫の「德」(徳の旧字体))が含まれています(詳細)。

映画[編集]

演劇[編集]

  • 夢へんろ 〜どんな時も希望をすてず〜(前進座、 2007年6月)

漫画[編集]

  • 『めぐる88』全3巻(2011年 初版発行)岡本一広(電撃ジャパンコミックス)
  • 『アルキヘンロズカン』上・下(2012年 初版発行)しまたけひと(アクションコミックス)
  • 『おまいりんぐ』(Webコミック 2012年8月8日 - )愛媛のWeb制作会社OpenDesignによる四国ご当地企画。原作小説を元に河原デザイン・アート専門学校漫画クリエイター科の学生とコラボレーションにより更新。四国八十八箇所霊場公認先達の監修。[20]
  • おへんろ。』(徳島新聞朝刊 2013年10月14日 - )アニメ制作会社ufotableが徳島新聞朝刊にて毎週火曜日に連載しているイラストストーリー。上記テレビ番組の原作にあたる記事。[21]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 1108km 山と渓谷社 四国八十八ヶ所を歩く旅 2008年
  2. ^ 1116km へんろみち保存協力会 四国遠路ひとり歩き同行二人 地図編 第9版 2010年 p1
  3. ^ お遍路のススメ・遍路とは
  4. ^ 27番札所 神峯寺(四国八十八ヶ所霊場会公式)
  5. ^ 愛媛県生涯学習センター 四国遍路のあゆみ(平成12年度) (1) 戦後の遍路 (2)(エ)「車遍路」と「歩き遍路」
  6. ^ NPO法人 遍路とおもてなしのネットワーク 前山おへんろ交流サロンにて配布される「遍路大使任命書」数より
  7. ^ いっぽ一歩堂・遍路客に遭難注意のチラシ 阿南署配る
  8. ^ 『ママチャリお遍路1200km - サラリーマン転覆隊』(本田亮、小学館、2008年7月)、『旅好きオヤジの自転車巡礼記 - 四国八十八ヶ所とスペイン巡礼』(小林建一、えい出版社、2008年12月)
  9. ^ 『平成26年 四国八十八ケ所霊場 開創1200年記念事業日程』(四国八十八ケ所霊場会)現地各寺での配布パンフレット
  10. ^ 食堂内 納経所 - 東寺
  11. ^ 宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人 地図編 第8版』(へんろみち保存協力会、2007年) p.87
  12. ^ へんろみち保存協力会 皆様の声
  13. ^ 香川県政策部文化振興課世界遺産グループ
  14. ^ 徳島県 四国八十八箇所「遍路文化」を世界遺産に
  15. ^ 四国新聞社「世界遺産に 四国遍路 名乗り」
  16. ^ BS-TBS 徳さんのお遍路さん 四国八十八カ所 心の旅
  17. ^ NHK BSプレミアム 歩く、歩く、歩く 〜四国遍路道〜
  18. ^ [1]「 四国遍路1200「1200年 悠久の“祈り”」
  19. ^ おへんろ。〜八十八歩記〜 公式サイト
  20. ^ おまいりんぐ 公式ホームページ
  21. ^ おへんろ。 公式ホームページ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]