南光坊
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| 所在地 | 愛媛県今治市別宮町3-1 |
|---|---|
| 位置 | 北緯34度4分7.3秒 東経132度59分44.5秒 |
| 山号 | 別宮山 |
| 宗派 | 真言宗醍醐派 |
| 本尊 | 大通智勝如来(秘仏) |
| 創建年 | 伝・和銅5年(712年) |
| 正式名 | 別宮山 金剛院光明寺 南光坊 |
| 札所等 | 四国八十八箇所55番 |
南光坊(なんこうぼう)は愛媛県今治市にある真言宗醍醐派の寺院。別宮山(べっくさん)、金剛院光明寺(こんごういんこうみょうじ)と号す。本尊は大通智勝如来。四国八十八箇所霊場の第五十五番札所である。
ご本尊真言:おん まか びじゃな じゃなのう びいぶう そわか (なむ だいつうちしょうぶつ)
ご詠歌:このところ 三島の夢の さめぬれば 別宮とても おなじ垂迹
目次 |
[編集] 略縁起
『神の島』といわれる大三島に鎮座する大山祇神社の別宮として伊予国越智郡日吉村の地に別宮大山祇神社が勧請されたのは大宝3年(703年)、異説にあってはそれから9年後の和銅5年(712年)と伝えられている。大山祇神社にはその数24の僧坊があったが、この年、そのうちの南光坊を含む8坊がその別宮の別当寺としてともに遷されたという。なお、これら8坊の移転を正治年間(1199年 - 1201年)とする説もある。
これらの坊はそれからしばらくともに存続していたが、天正年間(1573年~1592年)に、伊予の全土を襲った長宗我部氏の軍勢により焼き払われ、失われることとなった。
しかしのちに至って、それらのうちの一坊である南光坊のみが別宮(大山祗神社)の別当寺として再興されることとなった。ここに今に至るところの別宮山南光坊の歴史が始まった。
[編集] 歴史
江戸時代には藤堂高虎の祈祷所として薬師堂が再建されるなど、近世は今治藩主の篤い崇敬と庇護を受ける神宮寺としてあった。文久年間(1861年~1864年)には金毘羅堂が造られる。
時も下って明治になると、神仏分離令にしたがう形で神仏習合の状態を脱し、これをもって、大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)を本尊とする寺として独立した。
大正5年(1916年)には大師堂が建造される。第二次世界大戦のさなかには境内が激しい空襲に晒され、これにより伽藍のほとんどが焼失したが、金毘羅堂とこの大師堂だけは無傷であった。
[編集] 境内
- 山門:四天王が守護する大型の山門。一般的な外側に仁王像がある山門の形ではなく内側も加えた四箇所に四天王を配置している。四国八十八箇所では唯一の形式である。
- 本堂:釈迦如来の師とされている大通智勝如来(秘仏)を本尊に、脇侍として弥勒菩薩と観世音菩薩を祀る。大通智勝如来を本尊とするのは四国八十八箇所で本寺のみである[3][2]。
- 大師堂:弘法大師像を本尊とするこの堂は、山門を入った右手にあり、第二次世界大戦時の空襲では境内の大部分の堂宇が焼失したが、金毘羅堂とともにその戦禍を免れた。伝えられるところによれば、数多の焼夷弾が境内に落とされたが、そのいずれもがこの堂の屋根を滑り落ち、堂内にいた避難者の全員が無事であったという。[1][4]
- 弁天堂
- 金毘羅堂
- 薬師堂
- 聖母観音
- 水子地蔵
- 十三仏石仏
- 大日如来石像
- 修行大師像
- 筆塚
- 山門を入ると右手に弁天堂、大師堂、聖母観音が、さらに水子地蔵、十三仏石仏、金毘羅堂がある。正面奥に本堂が建ち、その右に薬師堂、修行大師像が、左に大日如来石像、庫裏・納経所がある。
- 宿坊:なし
- 電話番号:0898-22-2916
- 駐車場:20台。大型1台。
[編集] 交通案内
- 鉄道
- バス
- せとうちバス 今治営業所行き「今治市役所前」下車 (0.3km)
- 道路
[編集] 隣の札所
[編集] 文献資料
- ^ a b 『四国古寺を往く』 〔ISBN 4886021077〕 P.153 - 冨永航平
- ^ a b c 『MSNトラベル - 国内観光ガイド - 南光坊』 - Microsoft
- ^ a b 『四国古寺を往く』 〔ISBN 4886021077〕 P.152,153 - 冨永航平
- ^ a b 『四国八十八カ寺&周辺ガイド』 〔ISBN 4883382567〕 P.130 - エスピーシー
[編集] 参考文献
- 四国八十八箇所霊場会 編 『先達教典』 2006年
- 宮崎建樹 著 『四国遍路ひとり歩き同行二人』地図編 へんろみち保存協力会 2007年(第8版)

