栃乃若導大

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栃乃若導大 Sumo pictogram.svg
Tochinowaka 2011 Jan.JPG
基礎情報
四股名 栃乃若 導大
本名 李大源(イ・デウォン)
愛称 リー
生年月日 1988年4月6日(26歳)
出身 兵庫県尼崎市
身長 197cm
体重 181kg
BMI 46.64
所属部屋 春日野部屋
得意技 左四つ、寄り
成績
現在の番付 東前頭7枚目
最高位 西前頭筆頭
生涯戦歴 255勝211敗11休(43場所)
幕内戦歴 94勝123敗8休(15場所)
データ
初土俵 2007年1月場所
入幕 2011年5月技量審査場所
趣味 音楽鑑賞
備考
2014年6月30日現在

栃乃若 導大(とちのわか みちひろ、1988年4月6日 - )は、兵庫県尼崎市出身で春日野部屋所属の現役大相撲力士。本名は李大源(イ・デウォン)、愛称はリー。在日韓国人父親韓国人母親を持つ在日3世[1]身長197cm、体重181kg。[2]血液型はAB型。得意手は左四つ、寄り。最高位は西前頭筆頭(2012年3月場所)好物は味噌炊きのちゃんこ鍋。

来歴[編集]

幼少期より体格に恵まれており、尼崎市立成徳小学校1年生の頃にドッジボールを行った際に投げたボールが同級生の顔面に直撃してしまったことで周りの同級生との体格差を痛感した担任教師がドッジボールで利き腕で投げることを禁じたという逸話を持っている。[3]小学2年生の時に尼崎市のちびっこ相撲大会に出場し、これが生まれて初めての相撲大会出場となった。結果は2位に終わったが優勝を逃した悔しさから翌年の夏休みに開かれた相撲教室に通い、5年生になってからは相撲道場で本格的に稽古を始めた。他に柔道も習い、小学校卒業時点では身長180cm、体重120kgの巨体に育っていた。[3]そんな李に目を付けていたのは実家に近い報徳学園中・高で当時相撲部の監督を務めていた福田耕治であり、李本人も「甲子園でも有名な報徳で好きな相撲も取れるなら」と中学からの入学を決めた。[4] 報徳学園中学校を経て報徳学園高校に進学し、2006年・高校3年生の時に高校横綱になった。インターハイ個人戦前夜に小学校時代の恩師と深夜まで話し合い「あした優勝したらプロにいけばいい」と腹を決め、実際に優勝したことで気持ちが固まり、福田と親交があった春日野が師匠を務める春日野部屋に入門した。[4]

しかし入門当初の体格に任せて肩越しに上手を取りにいき、差しにこだわって足が止まる李の相撲ぶりを見た春日野は「(番付は)上がることは上がるかもしれないけど、このままではそこそこの力士で終わる」と直感し[4]、以来当たって前に出る相撲を徹底的に指導した。[5]2007年1月場所において前相撲から初土俵を踏んだ。同年5月場所では序二段で7戦全勝の成績を挙げて優勝決定戦まで進出したが、優勝決定戦では同時期に入門した尾上部屋山本山に敗れた。同年11月場所には早くも幕下へ昇進し、2008年7月場所では西幕下10枚目の位置まで番付を上げたが、その7月場所では2勝5敗と自身初となる負け越しを記録した。ここから2年出世が停滞し、春日野も「元の(まわしを取る)相撲に戻した方がいいんじゃないか」と迷うほどに精彩を欠いた。[5]2009年11月場所に四股名を本名の「李」から「栃乃若」へと改名してもしばらく停滞から抜け出せず、当の本人も「高校ではこれで勝ってきたんだという変なプライドがあった。自分の相撲が通用しないって、わかりたくなかったんでしょう」と気持ちの上でふてくされていた。[5]転機は西幕下4枚目で迎えた2010年7月場所。野球賭博問題で大量の謹慎者が出た影響で、幕下から多くの昇進者が出るチャンスが巡ってきた。「ここで勝てなければもう自分は上がれない」とプライドをかなぐり捨て、目の前の相手に必死にぶつかっていき、結果として翌場所の新十両昇進を確定させた。[5]

新十両となった2010年9月場所では8勝7敗と勝ち越し、翌11月場所では11勝4敗という好成績を挙げて、翌2011年1月場所では西十両2枚目の位置まで大きく躍進した。その1月場所でも12勝3敗の好成績を挙げて、翌場所での新入幕を確実としたものの、その後大相撲八百長問題が発覚したため翌3月場所の中止が決定し、そのため番付発表も行われなかったために、本人の新入幕の正式決定もなされなかった。同年2月28日に番付表代わりの「順席」が配布され、幕内の待遇を受けられることになった[6]。これにより、御当地に相当する3月場所での新入幕を逃した格好となった。[7]実質的には同年5月技量審査場所が新入幕の場所となり、その場所では7勝8敗と負け越したものの、翌7月場所では運よく番付据え置きとされた上で8勝7敗と勝ち越しを決めた。2012年3月場所では自己最高位となる西前頭筆頭まで番付を上げ、その3月場所では初日に大関・稀勢の里を破ったものの、結果的には5勝10敗と大敗した。翌5月場所では初日から右肘に大きなサポーターを装着しての土俵が続き、本来の力が全く発揮できずに2勝13敗と大敗した。続く7月場所でも精彩を欠いて5勝10敗と大敗を喫し、翌9月場所では十両へ陥落した。翌11月場所では初日から13連勝と絶好調だったものの、14日目に徳真鵬に敗れて土が付き、千秋楽でも佐田の富士との13勝1敗同士での対戦に敗れて十両優勝を逃した。

2013年1月場所において再入幕を果たし、10日目に2012年1月場所以来1年ぶりとなる幕内での勝ち越しを決めたが、翌3月場所では初日から6連敗し、7日目からは右大腿二頭筋筋断裂で全治2ヶ月との診断書を提出して休場し、結果的には7敗8休と大敗して、翌5月場所では十両へ陥落した。陥落後は2場所続けて10勝5敗と好成績で、9月場所に西前頭11枚目の地位に付き、ここでも9勝6敗の勝ち越しを果たした。翌11月場所は番付運に恵まれて一気に7枚増の西前頭4枚目まで地位を上げるも4勝11敗と振るわなかった。2014年1月場所は西前頭8枚目の地位で9勝6敗の勝ち越しを果たし、翌3月場所は西前頭2枚目まで昇進。この3月場所は4勝11敗と振るわず、続く5月場所は西前頭10枚目まで番付を落とした。西前頭2枚目での4勝11敗で8枚減は、これまで栃乃若が見せた番付運と比べてやや不運であった。

取り口[編集]

体格を活かして寄り立てるのが一貫した相撲の流れであり、投げや引き技には全く頼らない。2013年11月場所2日目に高安(前9月場所は小結)を簡単に寄り切った際には「毎日栃煌山関・碧山関の圧力を感じているので、自信を持っていけた。相手の重さを感じなかった」と稽古の成果を述べていた。[8]力相撲に徹している反面、腰高[9]と甘い立ち合い[10]が大きな課題となっており、前捌きを許して負けるパターンが多い。特に2012年の上位戦では速攻相撲に敗れる場面が目立っていた。脇の甘さゆえに左肘の大怪我も経験した。最近は胸から当たってカイナを差し込む立合いの威力を評価されており、立ち合いの甘さが改善されている。[11]気が優しい性格も弱点であり、左肘の怪我で十両で停滞していた頃の取材では「怪我ではなく気持ちの問題」という趣旨の回答をしていた。[12]

主な成績[編集]

2014年5月場所終了現在

通算成績[編集]

  • 通算成績:255勝211敗11休(43場所)
  • 幕内成績:94勝123敗8休(15場所)

場所別成績[編集]

                                      

栃乃若 導大
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
2007年
(平成19年)
(前相撲) 西 序ノ口 #32
5–2
 
西 序二段 #94
7–0
 
西 三段目 #80
6–1
 
東 三段目 #23
5–2
 
東 幕下 #58
5–2
 
2008年
(平成20年)
西 幕下 #38
5–2
 
東 幕下 #22
5–2
 
西 幕下 #13
4–3
 
西 幕下 #10
2–5
 
東 幕下 #23
3–4
 
西 幕下 #28
4–3
 
2009年
(平成21年)
東 幕下 #21
6–1
 
西 幕下 #7
1–3–3
 
東 幕下 #24
4–3
 
西 幕下 #18
1–6
 
西 幕下 #40
5–2
 
西 幕下 #29
6–1
 
2010年
(平成22年)
西 幕下 #11
5–2
 
東 幕下 #6
3–4
 
東 幕下 #11
6–1
 
西 幕下 #4
4–3
 
東 十両 #13
8–7
 
東 十両 #10
11–4
 
2011年
(平成23年)
西 十両 #2
12–3
 
八百長問題
により中止
西 前頭 #11
7–8
 
西 前頭 #11
8–7
 
西 前頭 #7
9–6
 
東 前頭 #4
7–8
 
2012年
(平成24年)
西 前頭 #4
8–7
 
西 前頭 #1
5–10
 
西 前頭 #4
2–13
 
東 前頭 #14
5–10
 
西 十両 #2
5–10
 
東 十両 #7
13–2
 
2013年
(平成25年)
東 前頭 #15
8–7
 
東 前頭 #13
0–7–8[13]
 
東 十両 #8
10–5
 
西 十両 #3
10–5
 
西 前頭 #11
9–6
 
西 前頭 #4
4–11
 
2014年
(平成26年)
西 前頭 #8
9–6
 
西 前頭 #2
4–11
 
西 前頭 #10
9–6
 
x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

エピソード[編集]

  • 入門当時の四股名「李」の読み仮名は“り”の一文字だけで、大相撲史上最も短い四股名であった。独特の抑揚を付けるのが難しく、「呼び出し泣かせ」とも話題になった。[3]
  • 十両昇進がほぼ決定していた2010年7月場所11日目、兄弟子の栃煌山が手に入れた懸賞金で、お祝いに帯を買ってもらった[14]
  • Twitterアカウントを持っていたが、2011年10月の師匠春日野親方の弟子暴行報道後にアカウントを削除した。
  • 幕内で2度一本背負いに負けた記録がある。2011年9月場所5日目で磋牙司に、2014年1月場所12日目で里山に一本背負いを決められた。[15][16]
  • 四股名「栃乃若」命名は伸び悩んでいた幕下時代に「気分が変われば」と春日野がすすめたことによる。春日野の現役時代の四股名と同音であることから本人は「うれしかったけど、名前負けするんじゃないかと思った」と命名当時を振り返ったこともある。[17]
  • 本人は目下の目標を「三役」と公言するも春日野は「大関、横綱を狙える大器。本人もそのつもりだろう」と言い切っており、「『栃乃若』は通過点。その時が来れば、栃錦さんの墓前にでも手を合わせに行くよ」と、「栃錦」襲名も視野に入れている。[17]

改名歴[編集]

  • 李 大源(り でうぉん)2007年1月場所 - 2009年9月場所
  • 栃乃若 導大(とちのわか みちひろ)2009年11月場所 -

脚注[編集]

  1. ^ “李大源 栃乃若への改名効果? 十両昇進果たす”. 民団新聞. (2010年8月13日). http://www.mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?page=1&subpage=666&corner=5 2010年8月16日閲覧。 
  2. ^ 栃乃若、1・17に快勝/初場所 nikkansports.com 2014年1月18日9時47分
    2013年末の計測では1年間で身長が2センチ伸びて197cmとなった様子が報道された。
  3. ^ a b c 次代の大関候補、体は横綱級 大相撲・栃乃若(上) (1/2ページ) 日本経済新聞 2012/2/18 7:00
  4. ^ a b c 次代の大関候補、体は横綱級 大相撲・栃乃若(上)(2/2ページ) 2012/2/18 7:00
  5. ^ a b c d プライド捨て、上昇機運へ 大相撲・ 栃乃若(下) (1/2ページ) 2012/2/18 7:00 日本経済新聞
  6. ^ 「順席」で幕内待遇も…魁聖&栃乃若“夢散” 2011年3月1日 スポーツニッポン
  7. ^ 『相撲』2012年3月号68頁では新入幕を祝う行事が軒並み中止となり、本人が関係者へ"お詫び行脚"に奔走するなどの屈辱を味わった様子が伝えられた。
  8. ^ 『相撲』2012年12月号22頁
  9. ^ 『相撲』2012年1月号72頁
  10. ^ 『相撲』2012年5月号56頁
  11. ^ 『相撲』2013年11月号56頁
  12. ^ 『大相撲ジャーナル』2014年2月号65頁
  13. ^ 右大腿二頭筋筋断裂により7日目から途中休場
  14. ^ “栃煌山 思わぬ懸賞で、弟弟子に「帯を」”. スポーツニッポン. (2010年7月22日). http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2010/07/22/11.html 2010年7月22日閲覧。 
  15. ^ 【初場所】里山、3年ぶり珍手「一本背負い」 2014年1月24日06時02分 スポーツ報知
  16. ^ 『相撲』2014年3月号73頁には「決まり手係の甲山(元幕内・大碇)本人はとったりだと思ったようだが説明できれば一本背負いであるとも取れるので、甲山は会場を盛り上げるために一本背負いと宣告した」と記述されている。
  17. ^ a b プライド捨て、上昇機運へ 大相撲・ 栃乃若(下) (2/2ページ) 日本経済新聞 2012/2/18 7:00

関連項目[編集]

外部リンク[編集]