摂理 (神学)

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プロビデンスの目

摂理 (せつり,Providence)とは、人生の出来事や、人間の歴史は、神の深い配慮によって起きているということで、聖書に基づいたキリスト教人生観を言い表している。(ローマ人への手紙8:28を参照)ヒンドゥー教仏教の「因果・カルマ」、また、イスラム教の「運命・アッラーの意志」と比較することによって、その概念の特徴を浮き立たせることができる。

神の摂理Divine Providence、あるいは単に「摂理」Providenceという形で用いられる。

語源[編集]

「摂理」は英語であればProvidenceプロヴィデンスに相当する(通常は大文字である)。

もとはラテン語の providentiaである。動詞のprovidereから来ており、pro(前を) + videre(見る)、すなわち(神ならではの)予見とそれに伴う配慮、ということである。

キリスト教の思想[編集]

この摂理Providenceという考えは「カルヴァン主義」として知られる、ジャン・カルヴァン(1509-1564)の考え方に見られる。

カルヴァン主義では、人間の堕落ぶりと、神の偉大さが指摘された。

カルヴァンによれば、神が創った世界と人間は、神の意思や摂理Providenceによって導かれている。神が人間に自由意志を与え、人間は個別に判断することが可能になったものの、我々人間の認識能力の不足や、(悪魔が作り出す)様々な幻覚によって惑わされ、神がもともと我々のために定めておいた計画を、人間は放棄してしまっているのだ、とされる。 この考え方では、摂理Providenceは「(神の)予定」(predestination)と結びついている(「予定説」も参照のこと)。カルヴァンの「摂理」の理解は、イスラム教の「運命」の概念に近く、カルヴァンよりも、神の愛の支配と人間の意志との関わり合いを柔軟に捉えるウエスレアン・アルミニアン主義から批判を受けている。

人生の諸事、また、世界の歴史の背後にある神の摂理、また、それと関わっている神の意志(聖旨・みこころ)について考える時、以下の二つを区別することが、その理解のために大切である。すなわち、

 ・第一に「神の積極的な意志」(A Positive Will Of God):神の積極的な意志とは、神が心から望み、願っておられることどもで、聖書に命じられていることによって、また、聖書の事例から推論することによって、それを知ることができる。

 ・第二には「神の消極的な意志」(A Permissive Will Of God):災害や悪など、神のみこころを外れては何事も起こりえないが、神が積極的にそれを望まないで、人の罪ゆえにやむを得ず、それが起こることを許容していることどもの範疇。

 ・いずれにしても、神は全知・全能であるので、その聖旨(みこころ、Will)は、完全であり、常に、愛と善意とによって特徴づけられている(The Perfect Will Of God)。

摂理という考え方は、カルヴァンの後も、例えばピューリタンによって用いられている。現代でも多くのプロテスタントの教派によってそれは継承されている。例えば、バプテスト教会長老派教会などである。


キリスト教のエヴァンゲリストのなかには、聖書の中のいくつかの節の解釈を通して、現在のできごとを理解したり、将来起きるであろうことを予想しようとした者たちもいる。このようなエヴァンゲリスト流の聖書解釈の行為は、彼らにとっての神の完璧な言葉である聖書を理解することで「摂理」つまり神の計画を知ろうとする行為だったのだ、と見ることができる。


「摂理」という考え方は、1620年に(英国から米国へ移民したピルグリム・ファーザーズの以下のような表明にも見られる。

「道徳と信仰に反する奴隷状態」は神の摂理に反する。


また、神の摂理というのは、1764年エマヌエル・スヴェーデンボリ(スウェーデンボルグ)が出版した著作の題名にもなっており(『神の摂理』Divine Providence)、スヴェーデンボリ流の摂理観、自由意志予定説、などが描かれている。

関連項目[編集]

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