保田與重郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

文学
画像:Lit.jpg
ポータル
各国の文学
記事総覧
出版社文芸雑誌
文学賞
作家
詩人小説家
その他作家

保田 與重郎保田 与重郎(やすだ よじゅうろう、1910年4月15日 - 1981年10月4日)は日本の文芸評論家。筆名は湯原冬美。

目次

[編集] 来歴

奈良県桜井町(現桜井市)生まれ。旧制奈良県立畝傍中学校大阪市阿倍野区にあった旧制大阪高校から東京帝国大学美学科美術史学科卒業。大阪高校時代にはマルクス主義にも触れたが、その思想を受け入れることはなかった。しかし、蔵原惟人中条百合子の作品に対しても、しかるべき評価をしているように、全く無関心であったわけではない。また、高校時代の同級に竹内好がおり、後に保田が中国を訪れたときに、竹内が案内をしたことがある。

在学中より、『コギト』『日本浪曼派』創刊同人として活躍。高校時代のマルクス主義から後に、ヘルダーリンやドイツロマン派シュレーゲルへ傾倒して、近代文明批判と日本古典主義を展開。1936年昭和11年)に、処女作である「日本の橋」で第一回池谷信三郎賞を受賞、批評家としての地位を確立する。以後、日本浪曼派の中心人物として、太平洋戦争終了まで、時代を代表する評論家となる。

大東亜戦争を「正当化」したとされ、戦線の拡大を扇動する論陣を張る(論者によって捕らえ方が異なる)。1948年公職追放。戦後、言論および存在は黙殺された時期があったが、1960年代後半から復権した。その間も「祖国」を創刊し、匿名で時評文を書く(「絶対平和論」「日本に祈る」など)。その姿勢は、戦前から一貫していた。

橋川文三の『日本浪曼派批判序説』によれば、保田の作風はデスペレートな(絶望的な)諦観に貫かれており、それが古典の学識に彩られており、ファシズム的な、あるいはナチズム的な能動的な高揚感ではなく、を背後に担った悲壮感を漂わせていたとのことであり、それが、特攻を企画した軍への反感とあいまって、戦意高揚に資したと戦後批判されることになったとされる。

明治維新以降の神道の国教化に疑問を呈し、上古の神道とは違うのではと、評していた。キリスト教のような布教する宗教ではなく、あくまで自然に根ざした人間の本源的な宗教であり、信仰の強制=皇民化に反対していた。大東亜共栄圏の侵略の方便に神道が使われることに、祭政一致の観点から嫌悪を示していた。

絶対平和論」では、近代性の克復により、アジアの根源的精神性の目覚めを期待していた。当人は、そもそもの文明の母体であるアジアの豊繞さの熟成が望まれているのだから、当然戦争という手段は、峻拒されると考えていた。

戦時下の保田の文章でも、神儒分離が徹底主張され、所謂「皇国史観」とは、種類を異にしている。消極的ながら、厭戦的なものを忍ばせていた。本居宣長直毘霊以来の神ながらの道に純粋に徹している。

保田の作品は、「大和桜井の風土の中で身につけた豊かな日本古典の教養と迅速な連想による日本美論である」と言われている。

[編集] 主な著作

  • 日本の橋 (講談社学術文庫)
  • 後鳥羽院
  • ヱルテルは何故死んだか
  • 万葉集の精神(その成立と大伴家持
  • 英雄と詩人
  • 戴冠詩人の第一人者
  • 和泉式部私抄
  • 蒙彊
  • 日本に祈る
  • 絶対平和論
  • 現代畸人傳
  • 文学の立場
  • 民族と文藝
  • 近代の終焉
  • 芭蕉 (講談社学術文庫)
  • 南山踏雲録
  • 鳥見のひかり/天杖記
  • 長谷寺山の辺の道ほか 
  • 日本の美術史
  • 日本浪曼派の時代
  • 日本の文学史
  • 木丹木母集 「歌集」
  • やぽん・まるち
  • 日本語録/日本女性論
  • 明治維新とアジアの革命
  • 校註 祝詞
  • 祖国正論
  • 近畿御巡幸記「昭和26年」の巡幸記
  • 述史新論 「日本史新論」を改題
ほぼ新学社『保田與重郎文庫』全32巻で読める。
1999年(平成11年)-2003年(平成15年)
  • 「天降言」(人と思想・文藝春秋)
  • 「わが万葉集」遺作(新潮社)
講談社より「選集」全6巻、「全集」全40巻別巻5 各品切れ
『身余堂書帖』 講談社 1989年 書蹟集

[編集] 参考著作

谷崎編 『保田与重郎のくらし 京都・身余堂の四季』 新学社
  • 吉見良三『空ニモ書カン 保田与重郎の生涯』淡交社
  • 渡辺和靖 保田与重郎研究 『一九三〇年代思想史の構想』(ぺりかん社
  • 佐藤春夫監修/保田与重郎編纂『規範国語読本』新学社

[編集] 関連項目