金閣寺 (小説)

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金閣寺
The Temple of the Golden Pavilion
著者 三島由紀夫
イラスト 装幀:今野忠一(通常版)
寺本美茂(限定版)
発行日 1956年10月30日(限定版と同時刊行)
発行元 新潮社
ジャンル 長編小説
日本の旗 日本
言語 日本語
形態 上製本 紙装(通常版)
総皮装、貼函(限定版)
ページ数 263(通常版)
263(限定版)
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金閣寺』(きんかくじ)は、三島由紀夫長編小説。三島の代表的作品の一つである。金閣寺を放火する学僧の心理を、硬質で精緻な文体の告白体の名文で綴った作品として、多くの評論家から近代日本文学を代表する傑作の一つと見なされている[1][2]。多数の言語に訳され、海外でも評価は高い[3]

1956年(昭和31年)、文芸雑誌『新潮』1月号から10月号に連載され、同年10月30日に新潮社から単行本刊行された。豪華限定版200部も同時に刊行された。また、読売新聞アンケートで、昭和31年度ベストワンに選ばれ、第8回(1956年度)読売文学賞(小説部門)を受賞した。累計売上330万部[4]を超えるベストセラー小説である。現行版は新潮文庫で重版され続けている。翻訳版は1959年(昭和34年)のアイヴァン・モリス訳(英題:The Temple of the Golden Pavilion)をはじめ、世界各国で行われている。

作品概要[編集]

『金閣寺』の題材は、1950年(昭和25年)7月2日未明に実際に起きた「金閣寺放火事件」から取られ、作者独自の人物造型、観念を加え構築した文学作品である。物語は、金閣寺の美にとりつかれた「私」こと溝口の一人称告白体で進められ、事件の動機として主人公・溝口のもつ重度の吃音を核に、金閣寺放火に至る経過を観念的に描いてゆく。

文体は、硬質で精緻な独白調となっており、三島は『金閣寺』連載中の1956年(昭和31年)8月に『自己改造の試み―重い文体と鴎外への傾倒』というエッセイの中で、森鴎外の「清澄な知的文体」の、感受性が完全に抑圧されている文体を模写することによって、自分を改造しようと試み、個性的であるよりも普遍的なものへ、感性的なものから知的なものへ、女性的(若さ、肉体的)なものから男性的(老年、精神的)な文体を目指したと語り、「文体は作家のザインを現はすものではなく、常にゾルレンを現はすものだ」とし、自らが在るべきだと思う在り方(ゾルレン)を示すのが文体であるとしている[5]

また、作品の基本構造的には『仮面の告白』に似ていて、「主人公がこれまでの自分の歩みを振り返って書く」という設定の構造となっており[6]、自らのこれまでの美学を克服し、そこから自由になって次の段階へ向かおうとするのが照応している[6]

三島は、『金閣寺』の映画化作品『炎上』に主演した市川雷蔵へのコメントの中で次のように述べている。

君の演技に、今まで映画でしか接することのなかつた私であるが、「炎上」の君には全く感心した。市川崑監督としても、すばらしい仕事であつたが、君の主役も、リアルな意味で、他の人のこの役は考へられぬところまで行つていた。ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだのであらう。私もあの原作に「金閣寺」の主人公に、やはり自分の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだ。

雷蔵丈のこと[7]

執筆背景[編集]

執筆時には、実際の事件発生から6年経っていたが、30歳を過ぎて肉体改造に着手し、それによって「行為」の意味を模索し始めた三島にとっては、犯人・林養賢の「行為」に対する現実的な関心があり、そこに新たな意味を見出し、人生の主題を賭けることのできた素材となった[8]。また、戦後の風潮に違和感を感じていた三島は、犯罪の形で表れる若者のプロテストに親近感を抱いたと思われ、三島の没後30年の2000年(平成12年)に全公開された『金閣寺』の創作ノートには、「林養賢は書かざる芸術家、犯罪の天才[9]という記述がある[8]

三島は、金閣寺(鹿苑寺)での面談や直接取材を断られたため、同じ臨済宗異派の妙心寺に泊まり、若い僧の生活を取材した[8]。しかし三島は金閣周辺ついて、「それこそ舐めるやうにスケッチして歩いた」[10]と述べており、創作ノートには、どうやって調べたのか、金閣寺内の克明な間取りや畳数を記した室内図や作業場内部の図も描かれている[9]。また作中に登場する南禅寺大谷大学舞鶴近郊の成生岬由良川河口も文章でスケッチされ、五番町などは実際に遊郭の一軒に上がり、部屋の内部や中庭に干された洗濯物までも詳細な文章スケッチがなされている[9]

あらすじ[編集]

日本海に突き出た成生岬の貧しい寺に生まれた溝口(「私」)は、僧侶である父から、金閣ほど美しいものはこの世にないと聞かされ育った。父から繰り返し聞く金閣寺の話は、常に完璧な美としての金閣であり、溝口は金閣を夢想しながら地上最高の美として思い描いていた。

体も弱く、生来の吃音のため自己の意思や感情の表現がうまくできない溝口は、極度の引っ込み思案となり、人から愛されなかった。内攻したコンプレックスのために、海軍機関学校の生徒が持っていた短剣の鞘に醜い傷をつけたこともあった。また、官能的で美しい娘・有為子に嘲られ、軽蔑されたこともあり、女と自分とのあいだに精神的な高い壁を感じ、青春期らしき明るさも恋愛もすべて抛棄して生きていた。

やがて溝口は、病弱であった父の勧めで、父の修業時代の知人が住職を務める金閣寺に入り、修行生活を始めることとなった。金閣を見たことがなかったときは、様々に金閣の美を想像していたが、いざ実物を見てみると心象の金閣ほど美しくはなかった。しかし、戦争が激しくなり、自分も金閣もろともに空襲で焼け死ぬかもしれないと思うと、金閣は、「悲劇的な美しさ」を増してきた。溝口は、室町時代から続く金閣寺を、永劫に続くと思われながらも、実はいつ破壊されるとも限らない完璧で永遠の儚い美として捉えていた。そしてその観念は、自己の不遇と孤独の中で実際の金閣よりも遙かに強力な精神的な美として象徴化し、固定化していた。一方、病に衰えていた父が死んでから母は、一生懸命勉強して金閣寺の住職になれと溝口に野望の火を焚きつけようとする。母はかつて、溝口が13の時のある夜、同じ蚊帳の中で父と子も寝ているそばで、親戚の男と交わっていた。目が覚めた息子の目を、父は後ろから手で目隠しをした。

同じ徒弟生活で出会った同学の鶴川は、溝口と対照的な明るい青年だった。彼は溝口の吃音を馬鹿にしない唯一の友であり、溝口の心の陰画陽画に変えてしまう存在でもあった。戦争末期のある日、2人は南禅寺天授庵の茶室で、一人の美しい女が軍服の若い陸軍士官に茶を供しているのを見た。女は男に促され、自身の乳房から乳を鶯色の茶に注いだ。溝口はその女に有為子を重ねた。

やがて、戦争が終わり、金閣と「私」こと溝口とが同じ世界に住んでいるという夢想も崩れた。金閣寺のまわりには娼婦を乗せた米兵ジープなど俗世のみだらな風俗が群がるにいたった。溝口は住職の老師の計らいで入学した大谷大学(仏教系大学)で、足に内反足障害をもち松葉杖をつきながら移動する、いつも教室の片隅でひっそりとたたずんでいる級友・柏木と出会う。一見した柏木の障害に自分の吃音を重ね合わせ、僅かな友人を求めるべく話しかけた溝口だったが、柏木は実は女を扱うことにかけては詐欺師的な巧みさを持ち、高い階層の女を次々と籠絡している男であった。障害を斜に構えつつも克服し、それどころか利用さえして確信犯的に他人への心の揺さぶりを重ねることでふてぶてしく生きる柏木の姿を、当初は全く理解し難いと思っていた溝口だが、精神的な距離を置きつつも友人を続けていた。柏木の溝口への批評はいつも心臓を抉り出す様に残酷で鋭く、溝口の心の揺れや卑怯を常に蔑み、突き飛ばすものであった。溝口は、そんな柏木から女を紹介されるが、女を抱こうとすると目の前に金閣の幻影が立ち現れ、失敗に終わった。

もう一人の友人の鶴川が死んだ。「事故」ということだった。溝口の孤独な生活が又はじまった。しかし、そんな中でも、柏木から禅問答南泉斬猫」を巡る彼の持論解釈を聞いたり、尺八を教えて貰うことで、まがりなりにも若い自分の人生の1ページを刻んでいた。そして再び、柏木の計らいで、女を抱く機会を与えられる。その女はいつか天授庵の茶室で見たあの女だった。しかし、またしても女の乳房の前に金閣が出現し、溝口は不能に終わる。溝口は金閣に対し憎しみを抱くようになる。

溝口が女の美を目の前にすると、いつも金閣が現れていたが、溝口はある日、菊の花と戯れる蜂を見ている時、自分が蜂の目になって、菊(女、官能の対象)を見るように空想する。その時、ふと、自分が蜂でなく人間の目に還ると、それはただの「菊」に変貌した。その蜂の目を離れた時こそ、自分が金閣の目をわがものにしてしまい、生(女)と自分の間に金閣が現れ、性的な自己の存在を無価値化してしまうという構造に行きつく。このように金閣(虚無)の目で見、変貌した世界では、金閣だけが形態を保持し、美を占領し、この余のものを砂塵に帰してしまうことを溝口はおぼろげながら確信してゆく。

正月のある日、溝口は雑踏の中で、女(芸妓)連れの老師に偶然、行き会ってしまう。追跡されていたと誤解した老師は溝口を叱咤した。しかし、明る日は呼び出しもなく、溝口には釈明の機会もなかった。その後も無言の放任が続き、溝口を苦しませた。以前、溝口が米兵に命令され娼婦を踏みつけ、後で女からゆすられた時も老師はなぜか溝口を不問に附していた。溝口は老師を試そうと、愛人の芸妓の写真を、老師が読む朝刊にはさみ、憎しみを誘うことで老師との対峙を待った。自ら、後継住職になる望みを永久に失うことになる糸口をつけながら、その一方、溝口は人間と人間が理解し合う劇的な熱情の場面も夢想し、ゆるされることさえ夢みていた。だが写真は無言で溝口の机の抽斗に戻された。

これらのわだかまりが累積し、次第に溝口は学業の成績も落ち、大学も休みがちになっていった。溝口は自ら決定的に将来の望みを断ち切ってゆく。学校からの注意が老師にもいった。寺に修行に来た当初は父の縁故で老師に引き立てられ、ゆくゆくは後継にと目されていた溝口だったが、ついに老師から、もう後継にする心づもりはないとはっきり宣告された。老師は溝口に、芸妓の一件のことについても、「知っておるのがどうした」と開き直る。

溝口は柏木から金を借り、寺から家出した。舞鶴湾に向かい由良川から裏日本海の荒れる海を眺め、溝口はそこで、「金閣を焼かねばならぬ」という想念を掴む。由良の宿で不審に思われた溝口は警官に連れられ金閣寺に戻された。息子が金閣寺住職になることに強い期待を抱いていた母は、必死に住職に謝ることで息子の将来をつなごうとあがいていた。醜く歪んだ母の顔に、溝口は「不治の希望」の醜さを見る。

孤独を増す溝口に、柏木は破滅的なものを感じ、鶴川から死の直前に届いた手紙を見せる。溝口には柏木との交友を非難しながらも、鶴川は、自殺の前に柏木のみに本心を打ち明けていたのだった。鶴川は翳りのない心を持っていると認識し、信じていた溝口にそれは少なからず衝撃であった。柏木は溝口に、「この世界を変貌させるの認識だ」と説く。しかし、これに対し溝口は、「世界を変貌させるのは行為なんだ」と反駁する。

溝口は、老師が訓戒を垂れる代わりに施した金で五番町遊廓に女を買いに行った。金閣を焼こうという決心は死の準備に似ていた。万一のときのためカルチモン催眠薬)と小刀も買った。その日が来た。その夜は、寺に福井県龍法寺の禅海和尚が来訪していた。溝口は和尚に「私を見抜いてください」と言うが、和尚は「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらわれておる」と答える。溝口はその言葉に、初めて空白になり、隈なく理解されたと感じ行動の勇気が湧く。

溝口は、金閣寺放火の行為の一歩手前にいた。そのとき眺めた金閣寺は、燦然ときらめく幻の金閣と、闇の中の現実の金閣が一致し、たぐいない虚無の美しさにかがやいていた。溝口は金閣寺に火を点けた。燃え盛る金閣の中で溝口は突然、究竟頂で死のうとするが扉はどうしても開かなかった。拒まれていると確実に意識した溝口は、戸外に飛び出し逃げた。一仕事終えた人のように溝口は、「生きよう」と思った。

文壇での反響[編集]

当時の反響は概ね良好で、観念小説として計算が行き届いていることや、出だしの部分が優れていることが指摘され[11]平野謙の、「今は文学作品が非常に少なくなつてゐるけれど、これは文学作品だ」という意見に対し、中島健蔵安部公房も同意し、中島は、「これからの小説を書かうといふ人のためにこれを教材にするといいね」[11]と述べている。

ふだん三島作品に対して点の辛い臼井吉見も、「三島として稀なる傑作」だとし、社会ダネを材料にして「これだけ自分を表現しきつたところに感心した」[12]と述べている。河上徹太郎は、これは「足で書いている作品」と述べ、そこが偉いとし、「画期的な大犯罪を彼のファンタジーが足でやつたんだよ」[12]と評している。

作品評価・解説[編集]

三島自身の言葉によれば、「私は妙な性質で、本職の小説を書くときよりも、戯曲、殊に近代能楽集を書くときのはうが、はるかに大胆素直に告白できる。それは多分、この系列の一幕物が、現在の私にとつて、詩作の代用をしてゐるからであらう」[13]というように、三島は従来の常識とは反対に、詩や戯曲のように枠のしっかりきめられた形式の方が大胆に「告白」できるいうタイプの作家で、中村光夫によれば、三島にとっての告白は、「仮面」のもとにのみ可能であり、その「仮面」は作者の手製である場合より、社会の現実の事件である方がはるかに板につくものとなるという[2]。そして『金閣寺』も、金閣寺放火事件という「事実」(ノンフィクション)を「仮面」にしていると、中村光夫は分析し[2]、事件に自己を含めた時代の狂気の「象徴」を見出した三島は、それを確実に所有するために、この「象徴」を芸術によって再現することを希ったとし、現代で正気を保つ方法は、その狂気を芸術的に生きて見るほかはなかったという見解を示している[2]。よって、犯人の内面生活を、三島自身の内面の論理で代償することほど自然なことはなかったとし、そこには作者自身も、なかばしか意識しない「詩」が生まれていると、中村は評している[2]。また中村は、「作者(三島)がここで試みて成功した“偽者の告白”あるいは自我の社会化は、日本の小説の方法の上でひとつのすぐれた達成である」[2]と述べている。

佐伯彰一は、敗戦による三島の断絶の意識は、現実の社会的事件に取材した長編『青の時代』(1950年)や『金閣寺』の中に、「重要な劇的な契機」として描きこまれているとし[14]、「金閣という日本の伝統美の象徴ともいえる建築の破壊へと駆り立てられる主人公の内的な動因のうちに、敗戦は欠くべからざる重要な一環としてしかと組みこまれている」[14]と述べ、主人公にとって、「金閣寺の象徴する永続的な伝統美を一きわ魅力的なもの」としていると同時に、「やり切れぬ反撥をもかき立てずにおかぬもの」となっている要因の一つは、敗戦という事態に他ならないと解説している[14]。そして、敗戦によって頼るべきものを失った日本人にとり、自国の美的伝統は、「奇妙に二重性をはらんだ厄介な対象」と化し、一方では、「自信回復のためのほとんど唯一の手掛り」であると同時に、「焦ら立たしいかぎりの内的呪縛の象徴」とも映るという、そうした「伝統に対する愛憎共存の微妙なアンビヴァレンス」を、「三島は『金閣寺』において、まことに鮮やかに小説化して見せた」[14]という見解を示している。

作中、戦時下の非日常と戦後の日常性とでは金閣像が大きく変貌するという点から、伊藤勝彦は、戦時下において、軍人たちが求めたのは、「“自我滅却の栄光の根拠”としての絶対者に帰一すること」であり[15]、それは「“一つの世界の全体を象徴しうるようなもの”」でなければならなかったと述べ[15]、三島の場合も、そうした「絶対の他者」というものが、つねに三島の前に厳然と存在していると解説し[15]、「そうした他者と自己との間の橋を見いだすことが、三島由紀夫にとっての唯一の文学的課題であったのだ」[15]と指摘している。そして、「自分はこちら側におり、向うには永遠に自分を拒みつづけている世界」があり、「それから隔てられてある」ということは三島にとっては耐えがたいことだったし[15]、「だから、相手をこわしてもいいから、その中に没入してゆきたいと思う。それが『金閣寺』のテーマだったのである」[15]と解説している。

また、伊藤勝彦は、「この世に生きるかぎり、完璧な全体性というものを手に入れることは絶対にありえない。神としての天皇も、この場合と同じように、自分がそれから拒まれているところの“なにものか”であった」とし、「“金閣寺と私”、あるいは“美と私”という対立関係」はそのまま「“天皇と私”という関係」に置き換えられると解説し[15]、「天皇は私の側へ、つまり人間へと近づいてきては絶対にならないものであった」[15]と述べている。そして、そういった「全体性」が「もはや再現不可能な幻影にすぎないこと」を三島も充分承知していたと前置きしつつも、それにもかかわらず、「あの死の共同体ともいうべきものの中に生きること」を三島は願わずにはいられなかったとし[15]、「戦時下において、彼自身はそれに参加することを逸してしまったのであるから、それだけに、よけいに、あの集団的悲劇に参与することの苦痛と恍惚を大いなるものと想像せずにおれなかったのである」と三島の実人生と対比させ、「三島はずっと戦時下の理念を引きずって生きてきた男であった」[15]という見解を示している。

田坂昮は、「美は金閣によって、人生は女によって象徴される」とし、また、主人公は「人生における異常者・異端者であることを象徴している」とし、『金閣寺』と『仮面の告白』の作品構造がかなり相似であることはだれしも気づくにちがいない述べている[16]。また、美の象徴である金閣は、「現実の金閣」と「心象の金閣」とに分裂しており、それと同じように世界もまた「“私”の内界」と「外界」に分裂していると述べ、「それらが統一的にあらわれるためには何かの契機が必要なのである」[16]と解説している。

また田坂は、作中内で、「一つ一つのここには存在しない美の予兆が、いはば金閣の主題をなした。さうした予兆は、虚無の予兆だつたのである。虚無がこの美の構造だつたのだ」と記されていることを挙げて、美とは虚無であり、虚無が金閣の美の構造であり、美とはまた悪でもあるとし[16]、金閣とは、「美・悪・虚無の三位一体のうえにそれを象徴して立つ建築」であると指摘し、「美の世界は現実の世界とは別のもう一つの世界」であり、この美の世界に完全に縛られるならば、“私”は完全に自閉して、現実の人生とは完全に絶たれた世界の住人となるだろうと解説しつつ、主人公の“私”は金閣に強く縛られていながらも、一方で金閣の呪縛を脱して人生への扉を開きたいという欲求をもっているとし、「ここに“私”の金閣にたいする愛憎併存がある」[16]と述べている。

また、田坂昮は、人生(女)への門をくぐろうとするや現れる金閣は、“人生への渇望の虚しさ”を知らせる告知者であり、金閣があらわれるや人生は“塵のやうに飛び立つ”てしまい、美の目からみた人生はいわば俗塵にすぎず、美の世界は現実世界あるいは人間界を超えた別世界だと作品概略をし[16]、「金閣がわれわれの前にあらわれるとは、“美の永遠的な存在が真にわれわれの人生を拒み、生を毒する”ものとしてあらわれることであり、このような毒は“生そのものも、滅亡の白茶けた光りの下に露呈してしまふ”というわけである」[16]と、作中のキーワードを引用しながら解説している。そして、結びの“生きようと私は思つた”について田坂は、作中で主人公・溝口が言う“別誂への、私特製の、未開の生がはじまるだらう”という掴みどころがない生の意味を指摘し、「“生きる”としても、それは生なのか死なのかわかちがたいような“生きる”なのである」[16]と述べている。

橋川文三は、溝口が言う、「敗戦は私にとつては、かうした絶望の体験に他ならなかつた。今も私の前には、八月十五日の焔のやうな夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと人は言ふが、私の内にはその逆に、永遠が目ざめ、蘇り、その権利を主張した」という作中の告白を引用し、橋川自身の戦時中の心境と重ね合わせながら、「戦争のことは、三島や私などのように、その時期に少年ないし青年であったものたちにとっては、あるやましい浄福の感情なしには思いおこせないものである。それは異教的な秘宴(オルギア)の記憶、聖別された犯罪の陶酔感をともなう回想である」[17][18]と述べている。そして「地上においてありえないほどの自由、奇蹟的な放恣と純潔、アコスミックな美と倫理の合致」がその時代の様式で、「透明な無為と無垢の兇行との一体感」が日本全地をおおっていたと回想している[17][18]

そして当時の少年たちにとっては敗戦は「不吉な啓示」であり、「それはかえって絶望を意味した」と橋川は述べ[17][18]、三島の言葉の表現でいえば、“いよいよ生きなければならぬと決心したときの絶望と幻滅”の時間が突如としてはじまり、「純粋な死の時間」から追放され、「純粋な死の時間」に引き渡されることだったと解説している[17][18]。そして戦後には、「戦争を支配した“死の共同体”」ではなく、「“平和”というもう一つの見知らぬ神によって予定された“孤独と仕事”の時間」が始まり、それは「日常的で無意味なもう一つの死 ― いわば相対化された市民的な死」が訪れるまで生活を支配する「人間的な時間」であるとして、「それは曖昧でいかがわしい時代を意味した。平和はどこか“異常”で明晰さを欠いていた」[17][18]と回想している。

また橋川は、「敗戦の日、金閣寺と主人公の共生は断たれる。金閣寺は、あの失われた恩寵の時間を凝縮して、永遠の呪詛のような美に化生する。主人公は美の此岸にとりのこされ、もはや何ごととも共生することができない」[19][18]と述べ、そこには、戦中から戦後へかけての青年の絶望と孤独の姿が、比類ない正確さで描き出されているとし、「金閣=美」を戦中の耽美ナルシシズムに置き換えるならば、戦後もなお主人公を支配する「金閣の幻影」が、青年にとって何であったかを類推するに困難ではないと解説し[19][18]、「そこから、金閣寺を焼かねばならないという決意の誕生もまた、戦後の三島の精神史にあらわれた“裏がえしの自殺”の決意にほかならないことも明らかになるであろう」[19][18]と述べている。そして『金閣寺』は実際の事件に仮託しつつ、三島の美に対する壮大な観念的告白を集大成したような観を呈しており、「美の亡びと芸術家の誕生とを、厳密な内的法則性の支配する作品の中に、みごとに定着している」[19][18]と橋川は述べ、「『仮面の告白』に遙かに呼応する記念碑的な作品である」[19][18]と評している。

実際の事件との関連[編集]

事件を題材としているが、事件はあくまで創作の契機と素材をあたえたにどどまり、小説『金閣寺』は一個の文学作品であるから当然ではあるが、登場人物はもとより、「私」の行動など、事実とはかなり異なる。一例として、終結部分で、「私」は生きようとして小刀とカルモチン催眠剤)を投げ捨てているが、実際の事件の犯人・林養賢は、山中でカルモチンを飲んだ上、小刀で切腹した(未遂に終わる)。なお、林養賢も作中同様、吃音であった。

この点に関して三島は、「小説で人を殺した経験は大分ありますが、どうも人を殺すのはむつかしい」、「生かすべき所で殺しちゃったり、殺すべき所で生かしちゃって、計画が齟齬したということがありますね。あれは殺しちゃったほうがよかったんですね」、「でも、ぼく、人間がこれから生きようとするとき牢屋しかない、というのが、ちょっと狙いだったんです」[20][21]と、小林秀雄との対談において語っている。

水上勉も同事件を取り上げ、長編小説で『五番町夕霧楼』(1963年)、ノンフィクションで『金閣炎上』(1979年)を出版している(各、新潮文庫ほかで再版)[22]

エピソード[編集]

三島は『金閣寺』の取材のため、南禅寺ちかくの宿に泊まっていたが、同じ宿には伴淳三郎も偶然泊まっていたという。三島は、「同宿の伴淳三郎氏と知り合ひになり、ときどき声をかけ合つて、愉快に暮した」[10]と述べている。

映画化[編集]

戯曲化[編集]

ラジオドラマ化[編集]

おもな刊行本[編集]

  • 『金閣寺』(新潮社、1956年10月30日)
    カバー装幀:今野忠一。紙装。薄青色帯。
    ※ 私家限定本(総革装。天金。検印紙なし。見返しマーブル紙使用)4部あり。これは10万部を超したときの、新潮社から三島へのプレゼント。
  • 限定版『金閣寺』(新潮社、1956年10月30日) 限定200部(署名入)
    装幀:寺元美茂。総革装。三方金。貼函。巻紙。家紋金箔押し。奥付および函の巻紙に限定番号記番。見返しに署名。
    ※ 200部のうち、20部は無番号で著者家蔵本。
  • 文庫版 『金閣寺』(新潮文庫、1960年9月15日。改版1967年、1987年、2003年)
    カバー装幀:今野忠一。白色帯。付録・解説:中村光夫
    ※ 1968年、1973年に学校図書館用セットの一冊として、クロス装でも発売。
    ※ 改版1987年より、付録に佐伯彰一「人と文学」、注解(田中美代子)、年譜を付加。
    ※ 改版2003年より、カバーを速水御舟『炎舞』に改装。
  • 大活字本『金閣寺 上』(埼玉福祉会、1984年10月10日) 限定500部
    装幀:関昭夫。紙装。A5判。
    第1章 - 第5章。本文末に注解。
  • 大活字本『金閣寺 下』(埼玉福祉会、1984年10月10日) 限定500部
    装幀:関昭夫。紙装。A5判。
    第6章 - 第10章。本文末に注解。付録・解説:中村光夫。佐伯彰一「人と文学」。
  • 新装版『金閣寺』(新潮社、1990年9月10日)
    装幀:菊地信義。紙装。筒函。函(裏)にアニー・ティッキ中沢新一による作品評あり。
  • 英文版『The Temple of the Golden Pavilion』(訳:アイヴァン・モリス)(Penguin Books Ltd; New版、1987年7月。他多数)

脚注[編集]

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  1. ^ 「カバー解説」(文庫版『金閣寺』)(新潮文庫、1960年)
  2. ^ a b c d e f 中村光夫「『金閣寺』について」(文庫版『金閣寺』付録解説)(新潮文庫、1960年)
  3. ^ ドナルド・キーン『思い出の作家たち』(新潮社、2005年)
  4. ^ NHKニュースおはよう日本』(2011年2月5日放送)
  5. ^ 三島由紀夫「自己改造の試み―重い文体と鴎外への傾倒」(文學界 1956年8月号に掲載)
  6. ^ a b 松本徹『三島由紀夫を読み解く(NHKシリーズ NHKカルチャーラジオ・文学の世界)』(NHK出版、2010年)
  7. ^ 三島由紀夫「雷蔵丈のこと」(日生劇場プログラム 1964年1月)。序文として、市川雷蔵『雷蔵、雷蔵を語る』(飛鳥新社、1995年)に再録。
  8. ^ a b c 佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』(勉誠出版、2006年)
  9. ^ a b c 「『金閣寺』創作ノート」(『決定版 三島由紀夫全集第6巻・長編6』)(新潮社、2001年)
  10. ^ a b 三島由紀夫「室町の美学―金閣寺」(東京新聞夕刊 1965年2月20日号に掲載)
  11. ^ a b 中島健蔵安部公房平野謙「創作合評」(群像 1956年11月号に掲載)
  12. ^ a b 臼井吉見河上徹太郎中村光夫「現代文学の諸表情10 文学者の自己表現」(新潮 1956年11月号に掲載)
  13. ^ 三島由紀夫「同人雑記」(季刊雑誌・声 第八号、1960年10月に掲載)
  14. ^ a b c d 佐伯彰一「三島由紀夫 人と文学」(文庫版『金閣寺』付録解説)(新潮文庫、1960年)
  15. ^ a b c d e f g h i j 伊藤勝彦『最後のロマンティーク 三島由紀夫』(新曜社、2006年)
  16. ^ a b c d e f g 田坂昮『増補 三島由紀夫論』(風濤社、1977年)
  17. ^ a b c d e 橋川文三夭折者の禁欲 ― 三島由紀夫について」(『増補 日本浪漫派批判序説』)(未来社、1965年)
  18. ^ a b c d e f g h i j 橋川文三『三島由紀夫論集成』(深夜叢書社、1998年)にも所収。
  19. ^ a b c d e 橋川文三「主要作品解説 金閣寺」(『現代日本文学館42 三島由紀夫』)(文藝春秋、1966年)、『新版 現代知識人の条件』(弓立社、1974年)にも所収。
  20. ^ 三島由紀夫(小林秀雄との対談)「美のかたち―『金閣寺』をめぐって」(文藝 1957年1月号に掲載)。『小林秀雄対話集』(講談社文芸文庫)191頁。
  21. ^ 『源泉の感情 三島由紀夫対談集』(河出書房新社、1970年)、『決定版 三島由紀夫全集第39巻・対談1』(新潮社、2004年)に所収。
  22. ^ 対照的な三島由紀夫水上勉の両者を比較し論じた文芸評論に、酒井順子『金閣寺の燃やし方』(講談社、2010年10月)がある。

参考文献[編集]

  • 新潮文庫版『金閣寺』(解説 中村光夫佐伯彰一)(新潮社、1960年)
  • 佐藤秀明編 『三島由紀夫「金閣寺」作品論集』(近代文学作品論集成17、クレス出版、2002年)
  • 松本徹・佐藤秀明・井上隆史責任編集『三島由紀夫・金閣寺 三島由紀夫研究6』(鼎書房、2008年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第6巻・長編6』(新潮社、2001年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第39巻・対談1』(新潮社、2004年)
  • 田坂昮『増補 三島由紀夫論』(風濤社、1977年)
  • 橋川文三『三島由紀夫論集成』(深夜叢書社、1998年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第32巻・評論7』(新潮社、2003年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第33巻・評論8』(新潮社、2003年)
  • 松本徹『三島由紀夫を読み解く(NHKシリーズ NHKカルチャーラジオ・文学の世界)』(NHK出版、2010年)
  • 佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』(勉誠出版、2006年)

関連項目[編集]