与良ヱ

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与良ヱ(1951年撮影)

与良 ヱ (よら あいち、1908年1月1日1968年4月11日)は、日本実業家中部日本新聞社社長共同通信社理事。

経歴[編集]

愛知県出身。父は元名古屋新聞社社長の与良松三郎。出生の地にちなんで「ア一」と名づけようとしたが、役場の戸籍係が「男で仮名書きの名前などあろうはずがない」と判断して「ヱ」と登録してしまったというエピソードがある。

愛知一中を経て1928年名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業、名古屋新聞社入社。1942年新愛知新聞社との合併で誕生した中部日本新聞社発足の際には監査役に就任。応召、復員の後、1946年中部日本新聞社取締役兼東京総局長、1951年編集局長兼務。翌年に役員が起こした横領事件の責任を取る形で辞任した杉山虎之助の後を受けて第3代社長に就任し、1954年中日スポーツ発刊、1956年の東京中日新聞(現東京中日スポーツ)発刊などに陣頭指揮を執った。

1958年、経営難に陥っていた産業経済新聞社副社長に請われて就任(社長は水野成夫)。

1960年、代表取締役東京駐在として復帰、1961年に第5代社長へ就任し中日ドラゴンズのオーナーを兼務。東京新聞社と業務提携し、その後営業権を譲り受けたが、東京新聞再建途上で急死する。享年60。死去後、正四位に列せられ、勲二等瑞宝章受章。

参考文献[編集]

  • 中日新聞創業百年史(1987年、中日新聞社)

脚注[編集]