フリーマン・ダイソン

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フリーマン・ダイソン(2005年)

フリーマン・ダイソン(Freeman John Dyson、1923年12月15日 - )は、イギリスクロウソーン生まれのアメリカ合衆国理論物理学者、宇宙物理学者。ケンブリッジ大学卒業、コーネル大学大学院卒業。プリンストン高等研究所名誉教授。

若くしてダイソン方程式を発表、量子電磁力学の完成に大きな寄与をなした。宇宙分野では恒星の全エネルギーを利用する「ダイソン球」や、彗星を覆う巨大植物「ダイソン・ツリー」、遺伝子工学によって育てられた宇宙船「宇宙の鶏(アストロチキン)」、惑星・恒星をも移動させる装置を考案するなど、気宇壮大なアイデアを連発し、SFにも多大な影響を与えた。原子力発電の研究にも携わっている[1]

数学に関わる分野でもいくつかの注目すべき仕事がある。ランダム行列の研究が最も重要だが、これは後にリーマン予想の研究を活発化させる契機にもなった。1996年に証明された、「全ての偶数は高々6個の素数の和で表せる」というオリヴィエ・ラマレの定理も、フリーマンが発見した補題が重要である。

日本のドキュメンタリー映画『地球交響曲第三番』に出演している。

ジョージ・ダイソン(George Dyson、1883年5月28日 - 1964年9月28日)は、英国の王立音楽大学(RCM、Royal College of Music)の学長もつとめた作曲家オルガン奏者。独唱、合唱、オーケストラのための「カンタベリー巡礼」、「聖パウロのメリタへの旅」などの作品がある。母は弁護士。息子は著名なカヌー・ビルダーでエコロジストのジョージ・B・ダイソン。娘はICANN (Internet Corporation for Assigned Names and Numbers) 会長で作家のエスター・ダイソン。大江健三郎と親交がある。

経歴[編集]

幼少期から数学的才能を発揮し百科事典相手に計算を行ったり一般天文書「すばらしき天空」、ジュール・ヴェルヌの空想科学小説に熱中。

9歳にして「小惑星エロスが10年後にと衝突することを突き止めた天文学者たちが月へ観測隊を送ろうとする」というSF小説『サー・フィリップ・ロバーツのエロルーナー衝突』を書いている(ただし未完。『ガイアの素顔』に収録)。これは父親の友人で天文学者のフランク・ダイソン(血縁関係はない)の影響があったようである。

15歳の時、微分方程式が科学において重要な事を知り、図書目録から「微分方程式」(H・T・Hピアジオ著)[2]を書店にて注文・購入し(この図書目録を見て、ダーウィンのビーグル号航海記を見つけたが金がなく購入できず、当時の所持金で購入可能なあまり有名ではない著者の微分方程式の著書を購入した)[3]クリスマス休暇を使って毎日朝6時から夜10時までぶっ続けで700題を順に解いて過ごし、I・Mヴィノグラドフの数論の古典[4]がロシア語版しか出版されていない事に苛立ち、独学でロシア語を学んで英訳、清書にしている。ケンブリッジ大学のトリニティカレッジに進路を進める。この頃既に英国での数学畑でトップ数人内の一人となっていた。

若い頃はガンジーに影響を受けており、戦争の徴兵は道徳的に拒否しようと考えていたが、優秀な人材は大学に行かせるべきという政府の方針に従い進学した。

戦時中は自分に出来ることを考え、第二次世界大戦時にはイギリス軍戦略爆撃司令部でオペレーションズ・リサーチ(作戦行動の数理モデル化、統計的研究、作戦行動研究部員)に従事。爆撃隊員の安全性は経験(出撃回数)とは何の関連も無い事、爆撃機の脱出口が狭すぎて非常時に役に立たない事、銃座は飛行速度を鈍らせる事、銃座がある分その無駄な要員が搭乗せねばならない事、自軍の戦略爆撃作戦行動は非効率で失敗である事を発見するも軍内部では爆撃部隊の根拠に依らない定説と逸話的経験で固められており、ダイソンが弾き出した結果が軍の知識に反していた場合は黙殺の憂き目に遭うだけで、結局は従軍している間ダイソンはその才能と技術を浪費しただけであった。

任務飛行後の散発的な爆撃跡の写真を分析している内、敵ドイツ軍は民間住宅の廃墟跡地で引き続き工場を稼働している事実や、後々ハンブルグ及びドレスデンの大火を知る。

この時期、ベルリン爆撃に携わるも、大量の戦闘機を損失しただけに終わった。作戦を止めることも、悲劇を回避することも出来ないので、戦争が長引くほど増える損失を食い止めるため、「どうやったら最も経済的に10万人を殺せるか」(10万人殺しても戦争を短縮できれば価値はある)と考え、広島に原爆を落としたのもドイツ全土への爆撃[5]よりも有効で日本に原爆が投下された時は「正直、安堵した」と心中を話している。自軍の徒に被害を出す戦略に罪悪感を抱いていたダイソンは息子を授かってから悪夢(墜落した飛行機が燃え上がって搭乗員を救出しようと業火の中に飛び込む仲間と立ちすくむダイソン)に度々うなされるようになり、寝ている息子を無理に起こして恐怖していたという。

1947年に数学からは離れて物理学に興味を持ちアメリカコーネル大学物理学科へ留学。この年、相対性理論量子力学を統合する数式(ダイソン方程式)を発表。同大では師のハンス・ベーテからラムシフトの変形の理論問題を任され、直感的な計算で紙片に書き綴り、同僚らは「僕らも、それに気づいていたらなぁ」とダイソンを羨む。大学には新聞片手に寝坊して顔を出し、机の上に両足を乗せ昼食時まで新聞を広げていたと思うとベーテの部屋にふらりと入ったり愛想は良いが何を考えているか分からない学生と周囲から見られていた。

1948年、旅行で一人バスに揺られている間、過程は違えどジュリアン・シュウィンガーリチャード・ファインマンが同じ答えを導きだそうとしている事に気づく。何でも方程式にしたい性質のダイソンはファインマン・ダイアグラムを数式化して他の物理学者にも分かりやすいように組み立てる。数式を用いず図形で手短に且つかなり正確な答えが導き出されるファインマン・ダイアグラムを広めるべく尽力、あまり良い顔をしなかったロバート・オッペンハイマーを口説いてファインマン・ダイアグラムの有用さを認めさせた。後「朝永=シュウィンガー=そしてファインマンの放射理論」論文発表。

1951年からコーネル大学教授、1953年からプリンストン高級研究所教授として勤務。1957年にアメリカに帰化。国防省NASA軍備管理軍縮局などの嘱託を務める。1960年ダイソン球(ダイソン・スフィア)の概念を発表。

過去、周囲から何度もノーベル賞有力候補として名が挙がるも受賞には至らず。本人はあまり頓着しておらず、賞レースには消極的で無関心な事を明かしている。

主な受賞歴[編集]

主要な著書[編集]

  • Dyson, Freeman J. (1984). Origins of life. Publication / Nishina Memorial Foundation no. 22. Nishina Memorial Foundation. 

関連事項[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『宇宙をかき乱すべきか ダイソン自伝』 鎮目恭夫訳、ダイヤモンド社、1982年7月。の章、小さな赤い校舎を参照
  2. ^ An Elementary Treatise on Differential Equations. H.T.H.Piaggio. Barman Press. 
  3. ^ 『宇宙をかき乱すべきか ダイソン自伝』 鎮目恭夫訳、ダイヤモンド社、1982年7月。
  4. ^ I・M・ヴィノグラードフ 『復刊 整数論入門』 山中健、共立出版、2010年2月。ISBN 978-4-320-01917-1
  5. ^ イギリスの戦略爆撃作戦による民間人の死者は広島の4倍