リチャード・P・ファインマン

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リチャード・フィリップス・ファインマン
人物情報
生誕 1918年5月11日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州 ニューヨーク
死没 1988年2月15日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ロサンゼルス
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身校 マサチューセッツ工科大学学士
プリンストン大学博士
学問
研究分野 物理学理論物理学
研究機関 マンハッタン計画
コーネル大学
カリフォルニア工科大学
博士課程
指導教員
ジョン・ホイーラー
他の指導教員 マヌエル・サンドヴァル・ヴァジャルタ英語版
博士課程
指導学生
ジョージ・ツワイク
他の指導学生 ダグラス・D・オシェロフ
ロバート・バロー
主な業績 ファインマン・ダイアグラム
ファインマン-カッツの公式
ファインマン・ポイント
ヘルマン-ファインマンの定理
ナノテクノロジー
経路積分
量子コンピュータ
量子電磁力学
影響を
受けた人物
ポール・ディラック
主な受賞歴 ノーベル物理学賞(1965年)
アメリカ国家科学賞(1979年)
署名
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ノーベル賞受賞者 ノーベル賞
受賞年:1965年
受賞部門:ノーベル物理学賞
受賞理由:量子電磁力学の分野における基礎研究

リチャード・フィリップス・ファインマンRichard Phillips Feynman, 1918年5月11日 - 1988年2月15日)は、アメリカ合衆国出身の物理学者である。

概要[編集]

経路積分や、素粒子の反応を図示化したファインマン・ダイアグラムの発案でも知られる。1965年量子電磁力学の発展に大きく寄与したことにより、ジュリアン・S・シュウィンガー朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を共同受賞した。

カリフォルニア工科大学時代の講義内容をもとにした、物理学の教科書『ファインマン物理学』は世界中で高い評価を受けた。また、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』などユーモラスな逸話集も好評を博している。生涯を通して彼は抜群の人気を誇っていた。

業績[編集]

ファインマン・ダイアグラムの一例。この例では電子光子を媒介として相互作用する過程を表している。

経路積分という新しい量子化の手法を考案した。経路積分を用いることで、水素に見られるエネルギー準位のずれであるラムシフトを簡単に説明できるようになり、この成果が、ノーベル物理学賞受賞につながった。

素粒子の反応を図示化したファインマン・ダイアグラムを考案した。これは素粒子論における複雑な計算を視覚的に理解する上で大変効果的であるが、その数学的基礎付けは未だなされていない。ファインマン自身はこれらの理論に対して懐疑的な態度をとっていた。

また、もともと量子力学におけるエネルギーの期待値を計算するために考案されたファインマン-カッツの公式などは、後に金融工学などの経済の分野にも応用されている。

さらに、将来の科学技術に関する様々な予言も行っている。1959年に行った公演では、「針の先端程度の大きさに、ブリタニカ百科事典すべてを記憶できるコンピュータ」として、ナノテクノロジーを提唱している。1985年には量子コンピュータを予言した論文 (Optics News, Feb. 1985, 11-20) を発表している。

生涯[編集]

  • 1918年5月11日ニューヨーク市クイーンズファーロッカウェイ英語版という小さな海辺の町のユダヤ人家庭に生まれる。父親は白ロシア、ミンスク出身のメルヴィル・フィリップス・ファインマンとイーストサイド育ちのポーランド系ルシールの2男1女の長子として出生。母親が心配するほど寡黙な子だったが2歳頃から驚くほど多弁な子になり父親が購入した大英百科事典をむさぼり読む。父メルヴィルの生業はベンダー・アンド・ゴールドシュタイン社の制服販売業。
  • 1918年 - 1935年: ファーロッカウェイに居住。
    • 息子を科学者にしたいと考えていた父親は、幼いファインマンに自然科学の面白さを熱心に教え、一方ではユダヤ教日曜学校に通わせヘブライ語まで習わせた。
    • 1924年1月のリチャード5歳時、弟ヘンリー・フィリップス・ファインマンが生まれるが生後4週間で死去(脳脊髄膜炎と思われる)。ファインマン夫婦は酷いショックを受け悲しむ。リチャードは弟ヘンリーの死について終生殆ど語っていない。9歳時、妹ジョーン・ファインマンが出生。
    • 11歳か12歳のころ、ラビ達が言っていたユダヤ教の奇跡を少年なりに強引な解釈をして理解、納得に努めていたが、死にゆく男の回想シーンという説話に整合性が見出せなかったリチャード少年は大泣きしてしまう。驚いたラビは「これは作り話なんだよ」と説明するが、これをきっかけにファインマンの宗教嫌いが決定的なものになり無神論を大っぴらに標榜するようになった。
    • 11歳か12歳のころ、自宅に「実験室」(とはいっても木の荷箱に棚を取り付けただけのもの)を作り、色々な実験をして遊ぶようになった。特にラジオには大きな関心を示し、壊れた古ラジオを直すなどの特技を持つようになった。これが評判となり、大人が子供のファインマンにラジオの修理を依頼することが度々あった。
    • 化学と数学は高校まで学年でトップの成績であった。
    • コロンビア大学を受験したが、当時アイヴィー・リーグを中心に設けられていた「ユダヤ人学生上限枠」のため不合格となったため、MITに進学することになった。
  • 1935年 - 1939年: MIT(マサチューセッツ工科大学)で物理学を学ぶ。
    • MITを卒業した1939年の夏休みの間、プラスチックに金属メッキをするメタプラスト社にアルバイトで入り、それまでよりはるかに多くの種類のプラスチックにメッキできるようにしたり、何時間も掛かっていた作業をたったの5分に短縮するなどの才能を発揮した。ファインマンが化学においても優れた知識とセンスを持っていた証拠である。
  • 1939年 - 1943年プリンストン大学の大学院生となり、ジョン・ホイーラー教授の助手を務める。
  • 1943年4月 - 1946年11月: ロスアラモス国立研究所に移ってマンハッタン計画の任務を遂行。
    • 1945年: 妻アーリーンが結核で亡くなる。
    • 理論グループに所属していたが[1]、下っ端の雑用からテネシー州オークリッジにあるウラン濃縮工場の視察、および、計算機を使った膨大な計算等々、様々な任務に携わった[2]
  • 1946年11月6日 - 1951年コーネル大学の教授。
    • 1947年の夏ブラジルで過ごす。
    • 1951年の半年間ブラジルに滞在。
  • 1951年 - : カリフォルニア工科大学の教授
    • 1951年末: 2週間ほど日本訪問。
    • 1952年6月: 2番目の妻となるメアリー・ルイーズ・ベルと結婚、4年で破局。離婚理由は「肉体的精神的苦痛(ボンゴの騒音と四六時中微積分に没頭していた)によるもの」としてファインマンもこれを事実として認める。
    • 1953年国際理論物理学会 東京&京都で来日。
    • 1960年: 前年に女中で雇った英人のグェネス・ホワースと結婚。後、実子カールと養子ミシェルの2児を授かる。
    • 1965年量子電磁力学の発展に大きく寄与したことにより、ジュリアン・S・シュウィンガー朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を共同受賞した。
    • 1978年: 腹部の[3]の1回目の手術を受ける。
    • 1981年: 腹部の癌の2回目の手術を受ける。
    • 1985年夏: グウェネスとともに一ヶ月間日本に滞在。
    • 1986年: この年の1月28日に起きたチャレンジャー号事故に際しては、調査委員の一人として事故原因の究明に参加[4]
    • 1986年10月: 腹部の癌の3回目の手術を受ける。
    • 1987年10月: 腹部の癌の4回目の手術を受ける。
  • 1988年2月15日: 午後10時34分UCLA医療センターで癌により死去(69歳)。
    • 1989年: 妻グウェネス死去。

ファインマンをめぐる逸話[編集]

  • ファインマンが生まれる前、父親は母親に向かって「もし男の子が生まれたら必ず科学者になるぞ」と予言した。ただメルヴィルの娘、ジョーン・ファインマンもシラキューズ大学にて固体物理学の学位を取得。実兄リチャードと同じ物理学博士の道に進んでいる。ちなみに知能検査はジョーンIQ124に対してリチャードはIQ123であった。ジョーンが4歳のとき、深夜兄に連れ出され見せられたオーロラに感動して学位論文は「ダイヤモンド型格子構造の結晶中の赤外線吸収について」。見栄と自慢がしたいがためだけに先回りして答えを披露する兄の狡猾なやり口を危惧したジョーンは「宇宙を半分に分けるとして、オーロラは私の分野」(介入するな)と兄に念を押しておいた。
  • 父親は「身分」なんぞというものに決して頭を下げないという考え方があった。このため、法王だろうが皆と同じ人間であり「違うところは着ているものだけさ」とファインマンに言い聞かせていた。また、父親はセールスマンではあったが、人間は嘘をつくよりも正直でいた方が結局は成功するという信念があり、これらの考え方はファインマンが受け継ぐようになる。
  • また父親は物理や科学の知識を持っていたわけではないのだが、子供の「なぜ?」という質問に対して説得力のある説明を与えることが得意だった。後にファインマンは「“本当にわかった”と思うのは、物事に二通り以上の説明ができた時だ」と語り、自身優れて分かりやすい説明能力で人気を集めたが、こうした姿勢も父親から受け継いだものである。科学的知識は大した事は無かったが、何故こうも特別興味を持っていたかについては兄妹共に常々疑問に感じていた。父は科学的素養があったがそれを学ぶ機会が無かったのではないかと推察している。
  • ひとたび物理のこととなると没頭してしまうので、相手が誰であるかなど忘れてしまい、どんな大物であろうとも意見が変だと思えば『いや、違う、違う。君は間違っているぞ』とか『気でもふれたか(You must be crazy.)』などと、とんでもないことをつい言ってしまう癖があった。しかしロス・アラモス研究所に在籍中、ハンス・ベーテや、当時物理界の大物として知られたニールス・ボーアは、彼らの名声におののいて本音を言おうとしない周囲と相対して本音しか言わないファインマンを気に入り、個人的な相談相手として起用していた。ファインマンの喋るクイーンズやブルックリン辺りの英語は、知識層とはかけ離れた労働者階級が喋るような野卑な言葉遣いであった。当人は気にもかけてないが、他学者の気分を害するような下卑た表現であり、「するってぇと」「そりゃ全くとんでもねぇ考えだぜ!」「驚いたぜ!(hot dog!)」と、日本ではビートたけしに相当するような下町言葉を用いて、目上も目下も関係無く率直に自分の感想を述べていた。スウェーデンの百科事典出版社がボンゴを叩くファインマンの写真を掲載したい旨を打診すると「物理学に対する明らかな侮辱である。“くそったれ!”」と返信した。
  • 悪名高いデーモン・コアを素手で触った本人の談によると、プルトニウム崩壊熱による、曰く「放射能の暖かみがある」とのこと。
  • 何につけても自分が正しいと思ったことは実証しなくては気が済まない性格だった。あるとき大学のフラタニティと、小便は重力によって体から自然に出てゆくのかどうかという議論で喧々囂々となり、ファインマンが逆立ちして小便できるところを見せ、そうでないことを実証した。
  • 疑似科学が世の中に広く蔓延っていることに心を痛めていた。例えば心理学上の研究は、彼がカーゴ・カルト・サイエンスと呼ぶ疑似科学の例である言い切って嫌っていた。また、エセ科学ではないにしても、トンチンカンな結論しか出せない哲学も嫌っていた。ところが、息子カールが大学で哲学を専攻してしまい、息子に宛てた手紙で自身とは全く別方向の知識を得るであろう事を喜び、父親としての尊厳が(少し)傾いた旨を認めている。後1年ほどしてカールは哲学からコンピューター工学に転向、リチャードは大いに喜ぶ。娘ミシェルは父親を少し落胆させてやろうと政治家を目指している事を打ち明ける、父親が先ず感情的になって反対するであろうと担いだ偽の志であったが、リチャードは諸手を挙げて後押しする。この様子を見てミシェルは「継父さんは本当に子供の将来の選択について干渉しない主義なんだ」と呆れる。
  • ユリ・ゲラーに招待されて彼の泊っているホテルに出かけていったとき、読心術と鍵を曲げる術の実演を見せてもらうことになった。ところが、ファインマンの心を読みとることはまったくの失敗に終わり、また、ファインマンの息子が持っていた鍵をゲラーがいくら指でこすっても少しも曲がらなかった。するとゲラーは、水の中でこすると曲がりやすいと言い出し、洗面所で水をザーザーとかけながらこすったが、やはり少しも曲がらなかった[5]
  • 打楽器ボンゴの名手であった。サンフランシスコのバレエ団の公演でパーカッションを担当したり、彼が音楽を担当した創作ダンスがパリで行われたバレエの国際コンテストで2等を取ったりしている。
  • ロスアラモス国立研究所所属中は、母親譲りのユーモアで様々なイタズラをしたと著書の中で語っている。まず研究所で行われた機密保持目的の検閲に対して不満を抱き、妻(アーリーン)や両親との手紙でのやり取りをパズルにして検閲官を困惑させ、からかった。また内容よりもその機密性にばかり気を使う上司が気に入らず、ある日重要機密書類の入ったキャビネットを趣味の金庫開けの技術で破ってみせた。その上司がキャビネットを新しいものに変えるとすぐさままた金庫破りを繰り返し、機密への固執に対する無意味さを逆手に取ってその上司をからかった。他にも無意味に時間をかける施設の入り口の検問に嫌気がさし、地元の労働者が出入りに使っていた金網の穴から短時間の間に何度も入っては同じ検問を内側から何度も出て警備の無意味さをからかったが、結局警備員に捕まってお説教をされている[6]
    • 鍵開けについては、同一形式のナンバー式ロックのキャビネットを片っ端から試したところ、約半数が工場出荷時のデフォルトのナンバーで開いてしまった。後に著書で警告とも取れる啓発文章を載せている。
  • 兵役に就く際に行われた精神鑑定の結果、「精神異常」のため不採用になった。これは彼が元々精神科医というものが嫌いで、鑑定医の質問に少々いたずら心を持って応対したためと思われた。が、後日いたずらを懺悔する文を提出したところ、「健康不良」のため不採用となった[7]
  • ノーベル賞受賞の知らせの電話が朝の3時半前後にかかってきたため、頭にきて賞を受けるかどうかも言わず、すぐに電話を切ってしまった。その直後から次から次へと電話がかかってきてうんざりし、ノーベル賞を受けなければこんな目に遭わずに済むのかと考えて受賞を断ろうと考えたが、断った方が余計ことが大きくなると『Time』誌の記者に諭されて、受け取ることにした[8]
  • コーネル大学の教授時代、原爆開発の反動で研究意欲を失っていた。その間も来るいろいろな研究所や大学からのオファーにストレスを感じていたが、あるとき「自分は遊びながら物理をやっていこう」と決心した。その頃たまたまカフェテリアに居合わせた男性が皿を使ってジャグリングしている場面に遭遇、皿が回転するときは横に揺れている事に気づき、その運動を解明するために、皿を構成する質点の運動をすべて計算するなど単なる好奇心から計算を行った。そのときは全く意味がなく、ただの「遊び」でニュートンの法則だけを用いてその事象の計算を行い証明した。その計算をベーテに披露するも「それが何の役に立つんだ?」と訝られ「だけど面白いだろう?」と答えるとベーテも得心した様子だったという、結果としてその時の洞察が基になって、後々ノーベル賞を受賞する布石になる。
  • カリフォルニア工科大学の同僚であったマレー・ゲルマンとは強力なライバル、論敵関係にあった。ゲルマンが命名したクォークのことをファインマンは「パートン」(部分子)と呼び、「ファインマン・ダイアグラム」のことをゲルマンは「ステュッケルベルク図」と呼んでいた。
  • シカゴ大学で研究所の所長を務めていたエンリコ・フェルミが他界した後、その後任として就任の要請が来たが、カリフォルニア工科大学の環境の良さを気に入っていた為に待遇も聞かずに断った。後日にその給料が知人から知らされたが、その高さに驚き、逆に断ってよかったと懐古している[9]。物理に関係の無い雑事で機会損失が発生するのを酷く嫌がり自らを「社会的無責任論者」と称し、秘書ですら「胸がすくくらい、好条件の要請や招聘を殆ど断っていた」と感嘆していた。結果、30年余りに渡ってキャルテクに在籍、教鞭を取り研究に没頭出来る環境で過ごした。
  • フリーマン・ダイソンは英国の両親に宛てた手紙の中でファインマンの事を「半ば天才、半ば道化」と評して、事実ファインマンの一般的イメージも「自由奔放で愉快な天才科学者」で認知される。ただダイソンは自分で軽々しく形容したファインマンに対する上記の第一印象を後々酷く後悔している。正しくは「完全な天才、完全な道化」。
  • 可愛い娘には目がなく、女性の心理を色々と研究して、どのようにすれば女性にモテるかをよく知っていたし、実際よくモテた。カリフォルニア工科大学で教鞭を執っているときはほとんど毎日のように自宅近くのストリップバーに通っていて、ダンスを眺めたりダンサーの気を引いたりしていた。また、ラスベガスが好きだったが、その理由のひとつもダンサーに会えることだった。
  • ファインマン・ダイアグラムがそこかしこに描かれたマスタードカラーのバンに乗っていた(ナンバープレートはQANTUM:ナンバープレートの文字数制限(6文字)のため)。このバンは現在カリフォルニア工科大学に寄贈されている。
  • 物理学会で初来日した際はわざわざ日本語を(片言ながら)覚えてきている。また、日本式のホテル(旅館)に興味を持ち、旅館に泊まりたいと主催者に無理を言って泊まらせてもらった[10]。別の機会に来日した時にも、とあるリゾートホテルから三重県の山側にある町(名松線伊勢奥津駅付近)の小さな宿屋にわざわざ変えてもらったりした。自らの名前を「不敗魔」と記して自己紹介したこともある。
  • 海産物が大嫌いで、一度カキを試してみたが、あまりの不味さに耐えられなかったという[11]。ただし来日した際に食べた魚は美味しかった(新鮮で生臭くなかった)ので食べることができたが、帰国してから魚料理を食べに行ったらやはりまずかったと語っている。
  • 3度の結婚を経験した。最初の妻(アーリーン)とは結核により死別、2番目の妻(メアリ・ルー)とは離婚。最終的な家族には3番目の妻のグウェネスのほか、実の息子にカール、後に養子として迎えたミシェルがいる。カールは幼い頃から父親同様に数学に多大な興味を示したが、同じように生活してきたはずのミシェルは全く興味を示さず、ファインマンはその違いに驚いた。
  • NASAのチャレンジャー事故調査委員になるべきかどうか悩んでいたとき、夫人のグウェネスに「あなたが引き受けなかったら、12人の調査員はみんなでぞろぞろ連れ立って、色々な処を調べるが何も見つけられないけど、あなたが行けば、ひとりで飛びまわって、ひとの考えないようなことを調べ、きっと事故原因を見つける。あなたみたいなやり方のできる人は、他にはいないから」と諭され、委員になる事を決意したと話している。
  • 晩年、友人との談話中にたまたまソ連の「クズル」(現・ロシア連邦トゥバ共和国)という地を知り、どうにかして訪れたいと、何年にもわたって交渉を重ねていた。肝心の理由は「変わった地名だから」というものであった。
  • 理論物理学の分野で八面六臂の活躍をしたファインマンであったが、一度「故障」を起こしている。1984年IBM社製パーソナルコンピュータの購入でパサディナまで出かけた時、興奮のあまり歩道の段差に躓きビルの壁面に頭部を打ち付け大量出血、通行人に病院に行くよう促されるも大したことはないと自己判断。後日、庭先にある車を探すのに45分も費やしたり、深夜に突然起きて息子の部屋を通り抜けたり、講義内容が支離滅裂になっている事に気づいて謝罪するなど奇妙な挙動を起こすようになる。脳走査の結果、脳組織を圧迫するほどの大量の硬膜下出血を確認、そのまま手術室に直行、標準的除去処置によって全快。手術以前3週間の記憶は欠落したままであった。
  • 生涯を通じてユーモア溢れる語り口で有名であったが、それは死に際まで変わらず、最後に口にした言葉は“2度と死ぬなんて、まっぴらだよ。全くつまんないからね(I'd hate to die twice. It's so boring.)”であった。
  • 彼が幼少の頃に過ごしたファーロッカウェイのコーナガ・アベニューは、彼にちなみ2005年5月11日にニューヨーク市により『リチャード・ファインマン・ウェイ』と改名されている。

著書[編集]

ファインマン物理学[編集]

ファインマン物理学は1961 - 1963年にファインマンがカリフォルニア工科大学で行なった講義の内容をもとにして、ロバート・B・レイトンマシュー・サンズと共に構成した物理学の教科書である。大学初年度レベルの物理学の入門書という位置付けながら、随所に物理法則に対する深い見方が示され専門家からの評価も高い。原書は3分冊である[12]。1967年に岩波書店から刊行された邦訳版は5分冊になっている。

自伝・エッセイ[編集]

実際には自伝ではなく、ファインマンが友人などによく語るエピソードを、音楽仲間であるラルフ・レイトン(『ファインマン物理学』の編者であるロバート・B・レイトン教授の息子)が聞き書きした「逸話集」である。

  • R.P.ファインマン著 「ご冗談でしょう、ファインマンさん(上)」 岩波書店 2000 ISBN 4-00-603005-3
  • R.P.ファインマン著 「ご冗談でしょう、ファインマンさん(下)」 岩波書店 2000 ISBN 4-00-603006-1
  • R.P.ファインマン著 「困ります、ファインマンさん」 岩波書店 2001 ISBN 4-00-603029-0
  • R.P.ファインマン著 「聞かせてよ、ファインマンさん」 岩波書店 2009 ISBN 978-4-00-603185-5

その他[編集]

  • R.P.ファインマン著 「物理法則はいかにして発見されたか 新装版」 ダイヤモンド社 1983 ISBN 4-47-883003-7
  • R.P.ファインマン著 「科学は不確かだ!」 岩波書店 1998 ISBN 4-00-005185-7

ドラマ[編集]

  • 「チャレンジャー号 73秒の真実」(原題:Feynman and the Challenger)ファインマンを主人公に、1986年のスペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故の原因究明のため、ロジャース委員会のメンバーだった彼が、様々な障害や病魔と闘いながら、真相究明を果たすまでを描く英米合作のテレビドラマ。アカデミー賞俳優ウィリアム・ハートがファイマンを演じた。2013年制作。

外部リンク[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 物理学辞典編集委員会編 『物理学辞典 -縮刷版-』 培風館、1986年、1747頁。
  2. ^ しかし、ファインマンは "Los Alamos from below(下っ端から見たロスアラモス)"と題した1975年2月6日、カリフォルニア大学サンタバーバラ校での講演では、"flittering about underneath somewhere(下の方でちょこまか動き回っていただけ)"と述べている。
  3. ^ ロス・アラモスの原爆開発の研究に携わった人は、腎臓周辺組織の癌が多いといわれている。 R・P・ファインマン著「困りますファインマンさん」訳者あとがきより
  4. ^ 当時NASAの長官を務めていたウィリアム・グラハムは、実はカリフォルニア工科大学でファインマンの授業を受け、更にその後働いたヒューズ・エアクラフトでもファインマンの出張講義を受講していた。ただファインマン本人は全く認識がなく、グラハムから直接調査委員への依頼の電話があった時も一体誰なのか分からなかった。依頼を受けた当初は、政治とは全く関わり合わないという"法則"から断ろうと考えていたが、夫人のグウェネスから諭(さと)され(下記ファインマンを巡る逸話を参照)、依頼を受けることにした。その後、固体補助ロケットの継ぎ目を塞ぐOリングに低温では弾力を失って脆くなるという欠陥があることを明らかにした。一般公開による事情聴取の席上、Oリングのサンプルを氷水に漬けるというミニ実験を行い、問題点が何処にあるのか、一般の人々に分かりやすい形で提示を行った。
  5. ^ 仕込みのないスプーンや鍵を曲げる術のトリックは、指で思いっきり力をかけて曲げるか、または、何か硬いものに引っ掛けて曲げるのを、皆に見えないようにすばやく行うことであるが、周囲をがっちりと取り囲まれていたり、引っ掛けるものがないときは「今日は集中できない」などと曲げられない言い訳をして終了する。
  6. ^ R. P. Feynman and R. Leighton, "Los Alamos From Below," Classic Feynman, p.128-153, 2006.
  7. ^ R. P. Feynman and R. Leighton, "Uncle Sam Doesn't Want YOU!," Classic Feynman, p.172-179, 2006.
  8. ^ R. P. Feynman and R. Leighton, "Alfred Nobel's Other Mistake," Classic Feynman, p.339, 2006.
  9. ^ R. P. Feynman and R. Leighton, "An Offer You Must Refuse," Classic Feynman, p.246-247, 2006.
  10. ^ R. P. Feynman and R. Leighton, "Would YOU Solve The Dirac Equation?," Classic Feynman, p.251-259, 2006.
  11. ^ R. P. Feynman and R. Leighton, "Fizzled Fuses," Classic Feynman, p.124, 2006.
  12. ^ 第一分冊のweb版が公開されている。 [1]

外部リンク[編集]