レズリー・グローヴス

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レズリー・グローヴス
Leslie Groves
生誕 1896年8月17日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州 オールバニ
死没 (1970-07-13) 1970年7月13日(73歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ワシントンD.C.
所属組織 アメリカ陸軍
軍歴 1918年 - 1948年
最終階級 中将
指揮 マンハッタン計画
戦闘 第二次世界大戦
除隊後 スペリー・ランド副社長
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レズリー・リチャード・グローヴス・ジュニア(Leslie Richard Groves Jr., 1896年8月17日 - 1970年7月13日)は、アメリカ陸軍の軍人。最終階級は中将原爆開発のためのマンハッタン計画を指揮したことで知られる。レズリー・R・グローブスとも[1]

経歴[編集]

ニューヨーク州オールバニ生まれ。父は陸軍長老派従軍牧師。1913年、クイーン・アン・ハイ・スクール卒業、ワシントン大学入学。陸軍士官学校を目指し、ウィルソン大統領から推薦を受けて欠員補充に志願。しかし、試験で十分な点数を取れず、補欠には選ばれたが、落第した。その後、ウェストポイントの再受験を計画してマサチューセッツ工科大学に入学。1916年、陸軍士官学校に合格し、同校に入学する。

1918年陸軍士官学校卒業。その後、陸軍工兵隊に入り、1921年まで技術将校としての訓練を積む。1934年には大尉に昇進し、陸軍工兵総監司令部に勤務。1936年には指揮幕僚大学、1939年には陸軍大学をそれぞれ卒業。1940年には大佐となり、国防総省庁舎の建築計画に携わる。

1942年9月、陸軍マンハッタン工兵管区司令官に任命され、准将に昇進。これは原爆開発のために設けられた組織で、これにちなんで原爆開発プロジェクトは「マンハッタン計画」と呼ばれるようになる。以後、マンハッタン計画責任者として原爆開発を指揮し、1944年12月、少将に昇進。1945年7月16日には史上初めての核実験に成功する。その後1947年まで、陸軍特殊兵器計画本部長として核兵器開発を指揮。1948年1月には中将となるが、その1ヵ月後に陸軍を退役した。

退役後は、1961年までスペリー・ランド社副社長を務めた。

原爆投下に関して[編集]

現在、アメリカでは「原爆投下は大統領だったハリー・トルーマンが自らの意思で決断した。」という考えが根強く残っている。ガ ー・アルペロビッツは、トルーマンと新任のバーンズ国務長官が多額の費用を要した原爆開発の正当化を国民にするため、ソ連に原爆の威力を示すため、元駐日大使のグルーやスチムソン陸軍長官の反対にもにもかかわらず原爆投下に積極的だったと解している[2]。また、長らく、米国民の多くが、より多くの米兵の生命を救うべく戦争を長引かせないために必要なことだったと考えていたという。しかし、近年の研究には、実はトルーマンは誤解による決断をしたのではないか、そして原爆投下の主犯はグローブスらではないかとするものも現れている。

その根拠となったのがコロラド州コロラドスプリングスに位置するアメリカ空軍の士官学校にある、図書館の書庫から見つかった原爆計画の全てを知る人物のインタビューテープだった。軍が正確な歴史を記録として残そうとした。そこには当然、その責任者だったグローブスのインタビューテープもあった。収録された場所はワシントン、日にちは1970年4月だった。そのインタビューで、グローブスは、「(トルーマン)大統領は市民の上に原爆を落とすという軍の作戦を止められなかった。」と語っていた。

実はトルーマンが大統領に就任する少なくとも5ヶ月も前からグローブスは、原爆投下のスケジュールを立てていた。その内容は、「最初の原爆は7月に準備、もう1つは8月1日頃に準備、1945年の暮れまでに、更に17発作る。」というもので、グローブスは原爆の大量投下も計画していた。

グローブスは、1942年から大規模の原爆計画であるマンハッタン計画の最高責任者に就任。この計画に22億ドルもの国家予算が注ぎ込まれ、各地に大規模な工場や研究所を建設し、原爆の完成を目指した。

この様な大規模な計画を極秘に進める事ができたのだろうか、大統領との関係である。当時の大統領フランクリン・ルーズベルトは、原爆に興味を示すことはなかった。グローブスによると、「(ルーズベルト)大統領が知っていたのは、私が責任者を務めているということだけで、(原爆開発の)進捗について聞かれた覚えもない。この問題の解決は私に任せられていた。その為にうまく開発を進める事ができた」という。さらにグローブスは、「政権が知っていたのは巨大な事業で時間がかかるというだけで、必ず完成するとは思っていなかった。」という。しかし、[要出典]歴史家のアレックス・ウェラースタインによれば、ルーズベルトは、原爆開発の進展状況や、ドイツに後れをとっていないか気にしていて、また、やはり原爆開発を進めていたイギリスのチャ-チルとケベック協定を結んでウラン確保の協力、互いに核攻撃しないこと、(ウェラースタインがルーズベルトの大変な譲歩だと考えたことには)相互の合意なしに第三国を攻撃しないことを約したとしていて、これによれば、ルーズベルトは原爆に並々ならぬ関心をもち、その脅威を理解していたことになる[3]

原爆計画を進めてきたグローブスは、投下の2年以上前から、何処に原爆を落とすかについて、すでに会議をしていた。その議事録が残されており、それには、東京を目標にすべきとも書いてあった。

その2年後の1945年4月のこと、グローブスが想像もしていなかった事がおきる。ルーズベルトが死去した。その後任となったのが、トルーマンだった。当時トルーマンは、副大統領になってわずか3ヶ月で、ルーズベルトとは1度しか会った事がなかった。就任した当時のトルーマンの様子をグローブスはこう語っている。「トルーマンは原爆計画について何も知らず大統領になった。そんな人が原爆投下を判断する恐ろしい立場に立たされた。」

そして同じ年の4月25日、グローブスは当時陸軍長官だったヘンリー・スティムソンと共にトルーマンがいるホワイトハウスのもとを訪れ、原爆計画の進捗状況について初めて説明した。計画の続行を承認する必要があった為である。早速グローブスは、24ページの報告書を持参しており、その報告書には、計画の目的、原爆の材料・仕組、実施計画などが簡潔に書かれていた。しかし、このときトルーマンは、「報告書を読むのは嫌いだ。」と語ったという。この時、グローブスは、計画続行が承認されたと勝手に解釈をしてしまったという。

トルーマンが原爆計画を知ろうとしなかった理由が彼の故郷であるミズーリ州にあるトルーマン図書館に保管されていた日記の中のトルーマンが大統領に就任した当日の日記で明らかになった。その内容は、「私の肩にアメリカのトップとしての重圧がのし掛かってきた。そもそも私は戦争がどう進んでいるのか聞かされていないし、外交にもまだ自信がない。軍が私をどう見ているのか心配だ。」。この頃ヨーロッパ戦線では、ナチス率いるドイツが降伏間近、そしてアジア・太平洋戦線でも日本を追い詰め、戦争をどう終わらせるか舵取りが求められていた。また、戦後の国際秩序を決めるソ連など連合国との駆け引きがトルーマンの肩にのし掛かっていた。スティーヴンス工科大学アレックス・ウェラースタイン准教授によると、「誰もルーズベルトが亡くなるとは思っていませんでした。トルーマン自身も大統領になるとは思っていなかったので、軍とのやりとりの方法やルーズベルトが諸外国と何を交渉し、約束したのかを学ばなければなりませんでした。多くのことを一度に把握する必要がある中、孤立状態にあったのです。解決すべき難題が多く、原爆もその1つにすぎませんでした。」という。また、カリフォルニア大学ショーン・マーロイ准教授も「トルーマンは余裕がありませんでした。外交経験がない中、戦後の秩序を決めなければならなかったからです。グローブスは後にこう述べている、「原爆に関してトルーマンは、そりに乗った少年の様にただ滑り落ちていくだけだった。」と、「(トルーマンが)大統領に就任する前既に原爆投下に向け多くの準備が整っていました。一方でトルーマンには原爆の知識はほとんどありませんでした。」と説明した。

そんな中、グローブスがトルーマンのもとを訪れた2日後の1945年4月27日にグローブスは、原爆を日本のどこに投下するか話し合う、『目標検討委員会』に出席した。ここに大統領だったトルーマンやその側近は出席していない。話し合いの結果以下の17か所が選ばれた(川崎横浜東京湾名古屋京都大阪神戸広島山口下関小倉八幡福岡佐世保長崎熊本)。その中で、京都と広島が有力候補に上がり、グローブスは京都を上げた。その理由についてグローブスは、「京都は外せなかった。最初の原爆は破壊効果が隅々と行き渡る都市に落としたかった。」と語っている。

そしてその3日後グローブスは、陸軍長官のスティムソンに呼び出された。目標場所を答えたところ「京都は認めない。」と言われた。その訳がコネティカット州にあるイェール大学の図書館に保管されていたスティムソンの日記で明らかになった。6月6日付けの日記にはこう記されている。「この戦争を遂行するにあたって気がかりなことがある。アメリカがヒトラーを凌ぐ残虐行為をしたという汚名を着せられはしないかということだ。」。実はスティムソンは京都を二度訪ねたことがあり、原爆を投下すればおびただしい被害者がでることを知っていた。スティムソンは、この頃勢いを増していた日本への爆撃が、全世界が非難する無差別爆撃に当たるのではと考えていた。これ以上アメリカのイメージを悪化させたくなかったのだ。しかしグローブスは、諦めることなく何回もスティムソンと交渉をしたが、結果は同じだった。歴史学者[誰?]によると、「都市の真ん中に原爆を落とし、市民を殺戮する計画にスティムソンは反対でした。戦争で市民の死は避けられないことは分かっていたが、意図的に市民を狙って殺すことは別だと考えていたのです。そしてトルーマン政権は、軍に突如介入し、まったをかけたのです。」と述べている。

そしてトルーマン政権と軍の攻防は、ある出来事をきっかけに大きく動き始めた。1945年7月16日に行われた世界初の原爆実験トリニティ実験である。一方日本でも多くの都市が焼け野原となり、降伏は間近と見られていた。ここでグローブスは、戦争が終わる前に原爆を使用しなければならないと考えた。この理由についてグローブスは、「原爆が完成しているのに使わなければ、議会で厳しい追及を受けることになる。」億単位もの国家予算を費やした原爆計画、グローブスはその責任者として、効果を証明しなければならなかったのである。

トリニティ実験の5日後の7月21日スティムソンの元に部下から緊急の電報が届いた。グローブスらが再び京都を目標とするように言ってきた。その3日後スティムソンは、トルーマンに相談し、京都を目標から外すよう話した。スティムソンの7月24日付の日記には「私は京都を目標から外すべきだと大統領に伝えた。もし一般市民が暮らす京都に原爆を落とすという理不尽な行為をすれば、戦後和解の芽をつみ、日本が反米国家になってしまうと。すると大統領は『全く同感だ。』と答えた。」と記されていた。また、トルーマンの7月25日付の日記にも「この兵器は7月25日から8月の間に使われようとしている。私はスティムソンに兵士や軍事物のみを目標とし、一般市民、特に女性や子供をターゲットにすることがないようにと言っておいた。いかに日本人が野蛮、冷酷、残虐であろうとも世界平和を推進するリーダーたる我々が日本の古都や新都に向けてこの恐るべき爆弾を使用するわけにはいかないのだ。この点で私とスティムソンは完全に一致している。目標は軍事基地のみに限られる。」と記されている。つまり、トルーマンは市民の上への原爆投下に反対していたようにみえる。

しかしグローブスは、それでも原爆による最大の破壊効果を得たいが為にもう一つの有力候補に上がっていた広島に目をつけた。[要出典]グローブスは広島は軍事都市であることを示す報告書をトルーマンに提出した。[要出典]「広島は日本有数の港と軍事物資の供給基地など軍の大規模施設が集まる陸軍都市である」とのこと。これについて歴史学者の一人[誰?]は、「軍は原爆によって一般市民だけを攻撃することはないと見せかけたのです。トルーマンは広島について詳しく知らなかったと思います。調べる暇がありませんでした。京都と広島の違いを拡大解釈し、広島に多くの一般市民はいないと思いこんだのです。」。その結果、トルーマンが目標から広島を外すことはなかったという。

そして、1945年7月25日。原爆計画は最終段階を迎えていた。グローブスが起草した原爆投下指令書が参謀総長から発令された。グローブスによれば、同時に指令書の正式な承認を得るため、ポツダムに同内容が送られたという[4]。また、グローブスによれば、トルーマンがポツダム宣言受諾の決定の時間的余裕を与えたいことをスチムソンに語ったことを、スチムソンから聞いたとしている[4]8月2日グアム島第20航空軍司令部からテニアン島第509混成群団に、8月6日を投下日とし、投下優先目標を第一に広島、第二に小倉、第三に長崎とする命令書が出された。8月6日、原爆は広島に向けて落とされた。一方トルーマンはその頃大西洋上にいた。戦後処理を話し合うポツダム会談から帰る途中に原爆投下の報告を受けて船上で演説を収録した。「先程アメリカ軍は、日本の軍事都市である広島に一発の爆弾を投下した。原子爆弾がこの戦争を引き起こした敵の頭上に落とされたのだ。」。このとき、トルーマンは明確にTNT火薬2万トン分の威力がある爆弾だと語っている。一方、ワシントンで原爆投下の一報を聞いたグローブスは、科学者たちに「君たちを誇りに思う。」とねぎらった。

トルーマンが軍の策略に気付いたのはそれから2日後のこと、ワシントンに帰宅した直後のことだった。陸軍長官のスティムソンの日記には「8月8日、午前10時45分私は大統領を訪ねた。そして広島の被害をとらえた写真を見せた。」。この時のトルーマンが発した言葉も記されていた。「こんな破壊行為をした責任は大統領の私にある。」。軍の狙いを見抜けなかったトルーマンはその自らの責任に初めて気付いたのだった。[要出典]

しかし、動き始めた軍の作戦は止まることなく続いた。そして8月9日、原爆は長崎にも投下された。トルーマンが広島の実態を知った半日後のことだった。これに対しトルーマンは「日本の女性や子供たちへの慈悲の思いは私にもある。人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している。」と8月9日付の日記に記している。[要出典]

その翌日、トルーマンは全閣僚を集め、大統領の許可無しにこれ以上の原爆投下を禁じると発表した。この時トルーマンは「新たに10万人、特に子供たちを殺すのは考えただけでも恐ろしい。」と語った。[要出典]これを知ったグローブスは「3発目の準備を中止させた。大統領の新たな命令がない限り、投下はできなくなった。」と述べた。これで日本への原爆投下が止まったのである。

その後、トルーマンはその事実を覆い隠そうとしていった。長崎に原爆が投下された8月9日のラジオ演説で「戦争を早く終わらせ、多くのアメリカ兵の命を救う為、自らが投下を決断した。」と発言した。これについて歴史学者[誰?]は「トルーマンは軍の最高司令官として投下の責任を感じていました。例え非道な行為でも投下する理由があったというのは、大統領にとって都合の良い理屈でした。」と説明した[5][6]

歴史家のアレックス・ウェラースタインによれば、原爆使用の決定理由として、従来2つの大きな流れがあったとする。一つは、トルーマンやスティムソンが語ったように「戦争を早期終結させ、より多くの米兵の生命を救うため」に決定したとするもので、もう一つは、以前からあったものの特に1980年代-1990年代になってガー・アルペロヴィッツが喧伝した「ソ連に威力を見せつけるため」とするものである。ウェラースタインは、実際の歴史過程はより複雑であり、今日の歴史家はどちらの単純な考え方も拒否する傾向があるとし、ウェラースタイン自身も原爆投下決定はそれまでの様々な積み上げの結果と考えていて、そのような意味で、前記のような「(トルーマンの)原爆使用の決定」の物語は正しくないとしている。[7]

関連文献[編集]

  • Groves, Leslie (1962). Now It Can Be Told: The Story of the Manhattan Project. New York: Harper. ISBN 0-306-70738-1. OCLC 537684 
  • 中沢志保『ヘンリー・スティムソンと「アメリカの世紀」』国書刊行会、2014年2月。ISBN 978-4-336-05779-2 

脚注[編集]

  1. ^ 私が原爆計画を指揮した : マンハッタン計画の内幕国立国会図書館公式サイト
  2. ^ なぜ米国は2発の原爆を日本に投下したのか : 投下70周年の時点での再考”. 立命館大学経済学会. 2023年11月27日閲覧。
  3. ^ FDR and the bomb”. Alex Wellerstein. 2023年11月30日閲覧。
  4. ^ a b レスリー・R・グローブス『私が原爆計画を指揮した』恒文社、1964年9月5日、296,307,312頁。 
  5. ^ 原爆投下 知られざる作戦を追う”. BS1スペシャル. NHK (2017年1月14日). 2017年1月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年9月4日閲覧。
  6. ^ https://www.nhk.or.jp/special/detail/20160806.html”. NHK. 2023年11月27日閲覧。
  7. ^ What journalists should know about the atomic bombings | Restricted Data”. Alex Wellerstein. 2023年11月30日閲覧。