本島等

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日本の旗 日本の政治家
本島 等
もとしま ひとし
Bundesarchiv Bild 183-1987-0530-016, Berlin, Besuch Delegationen aus Japan.jpg
1987年、荒木武広島市長(中央)と率いる代表団と共に東ドイツを訪問し、エアハルト・クラック東ベルリン市長(左)に歓迎を受ける本島等(右)。
生年月日 1922年2月20日
出生地 長崎県南松浦郡北魚目村(現・新上五島町
出身校 京都大学工学部
所属政党 自由民主党

Flag of Nagasaki City.png 第25-28代 長崎市長
当選回数 4回
任期 1979年5月2日 - 1995年5月1日
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本島 等(もとしま ひとし、1922年大正11年)2月20日 - )は、日本政治家1979年(昭和54年)から1995年(平成7年)の4期にわたり、長崎県長崎市長を務めた。

略歴[編集]

現在の長崎県南松浦郡新上五島町仲知地区(旧・北魚目村)に生まれる。隠れキリシタンの末裔であるためカトリック教徒であり、母が未婚ということもあって、戦時中はスパイ疑惑を掛けられた。旧制高校在学中の21歳の時に徴兵され、見習士官として新兵に大砲の撃ち方を教えていた。終戦時は、所属していた西部軍管区教育隊・砲兵生徒隊の疎開先である熊本市郊外の山奥にいた。戦後、京都大学工学部に入学。在学中は京都カトリック学生連盟の委員長を務めたこともあった。27歳で卒業。

その後、教員生活を経て、長崎県議会議員を5期20年務め、長崎市長となった。その間、自由民主党長崎県連合会幹事長などを務めた。

昭和天皇が重病で余命が長くないと知らされ、国中に自粛ムードが漂っていた1988年(昭和63年)12月7日、市長3期目の在任中だった本島は、市議会で共産党議員の昭和天皇の戦争責任に関する意見を求める質問に対し、海外の記事や自分の従軍経験から考えて「戦後43年経って、あの戦争が何であったかという反省は十分にできたと思います…私が実際に軍隊生活を行い、軍隊教育に関係した面から天皇の戦争責任はあると私は思います」と答弁。同日の記者会見でも「天皇が重臣らの上奏に応じて終戦をもっと早く決断していれば沖縄戦も広島・長崎の原爆投下も無かったのは歴史の記述から見ても明らかです」と重ねて発言した。その直後に、自民党県連などが発言撤回を要求したが、本島は自分の良心を裏切ることはできないとして、これを拒否した。これに対し自民党県連は県連顧問から解任し、多数の右派系人物、組織が市長を非難した。また、多数の街宣右翼が長崎市に押しかけ、80台以上の街宣車を使用して市長への「天誅」を叫んだ。

1990年(平成2年)1月18日、警備費用がかかりすぎるとの自民党市議の批判を受けて警察が警備を緩和したときに、右翼団体正気塾』の田尻和美が本島を背後から銃撃した[1]が、奇跡的に命を取り留めた(長崎市長銃撃事件も参照)。その後、本島は瀕死の重体であったが「犯人を赦す」と述べている。

1991年(平成3年)の選挙では共産党は公認候補を出さず、実質的に本島を支持し、そのほかの左派勢力の協力も得て4選したが、1995年(平成7年)の選挙では多選批判などを受け、自民党の推薦を受けた伊藤一長に敗れ、政界から引退した。2007年(平成19年)に伊藤が銃撃によって死亡した際には「2代にわたり市長が銃撃されるのは異常」とコメント(毎日新聞)した。

2002年(平成14年)、第1回韓日平和交流功績賞(韓国の被爆者団体と長崎県被爆2世教職員の会が設けた賞)、並びに、ドイツ功労勲章一等功労十字章が贈られた。

2002年(平成14年)以降、左翼過激派との接近が顕著になり、中核派の機関紙『週刊三里塚』巻頭の「闘いの言葉」を執筆している。

原爆投下に対する考え[編集]

1997年(平成9年)、原爆ドームの世界遺産登録をきっかけに書いた論文(「広島よ、おごるなかれ―原爆ドームの世界遺産化に思う」、広島平和研究所)[2]で「原爆は落とされるべきだった」「原爆が日本に対する報復としては仕方がなかった」と述べた。また1998年(平成10年)7月、共同通信社の単独インタビューに対し「(原爆は)落とされるべきだった。(満洲事変から終戦までの十五年間にわたる)あまりに非人道的な行為の大きさを知るに従い、原爆が日本に対する報復としては仕方がなかったと考えるようになった」と答えた。これには「加害の認識と謝罪の徹底を通して原爆観の落差を埋めること、そして何よりも被爆体験の特権化による『被爆ナショナリズム』の解体にこそある」(川口隆行)[3]ものとする論もあるが、右派や被爆団体からは非難を浴びた。

また、2007年(平成19年)に久間章生が「原爆投下は仕方が無かった」と発言して与野党や世論から大きな反発を受けた時も、「日本の戦争責任をもう一度考えるきっかけを与えてくれた」として一定の理解を示すなどしている。また本島は非難を浴びた久間を「当然の認識で僕も同感。久間さんの発言も同じで、原爆の肯定だ、容認だと批判するのはおかしい。天皇陛下も原爆容認論だと批判するのか」と久間発言を支持した。

原爆投下に対する発言[編集]

前述のように原爆投下を因果応報のような発言を述べているが、後述では過激な発言を述べる[4]。原爆投下の当事者のアメリカに対する非難はあまりない。

[質問]米国の原爆投下をどう考えるか。
[回答]『落とされるべきだった。(満洲事変から)15年間にわたるあまりに非人間的な行為の大きさを知るに従い、原爆が日本に対する報復としては仕方がなかったと考えるようになった』
[質問]原爆の持つ非人間性は。
[回答]『原爆による死には『極限の残虐』という言葉が使われるが、拷問で死ぬ前の隠れキリシタンの恐怖は、いかばかりだったか。南京大虐殺や731部隊も残虐の極致だ。日本人の非人間性、野蛮が出ている』
[質問]現在の核兵器をどうとらえるか。
[回答]『今、核兵器では何千万という人々が死ぬ。おもちゃのような原爆は、当時の考え方からすれば通常武器の一種だったと考えざるを得ず、核兵器廃絶を考える基礎になるものでない。被害の大きさが違い比較にならない』
[質問]今の認識に至ったのはなぜか
[回答]『日本人の持つ原爆観が世界に通用しないことを痛感するようになった。原爆は中国など侵略を受けた国々にとって救世主だった。市長を16年間続けている間、被爆者問題について考え続けたが、日本人の野蛮は計り知れない。日本人全員が謝罪する義務を負っている』
[質問]被爆者団体の反発が予想されるが。
[回答]『撃たれた時もそうだったが、この発言を緩めるつもりはない。間違っていると思った時に声を上げるのが、われわれの任務だ。今年いっぱいかけて、これらの考えを論文にまとめたい』

(以上、共同通信社のインタビュー配信記事 1998年7月29日)

[質問]米国による広島、長崎への原爆投下についてどう考えているか。
[回答]『米国やアジア太平洋諸国は原爆投下を『正しかった』『天罰だ』『救世主だった』と思っている。確かに、日本がアジア・太平洋戦争などで行った数々の悪魔の所業を思うと、原爆投下は仕方なかった、やむを得なかった、と言わざるを得ない。東京大空襲や沖縄戦も同じだ』
[質問]日本の行為の報いとして、原爆投下や東京大空襲、沖縄戦で多数の一般市民が殺されたということか。
[回答]『因果応報的であらっぽい考えといわれるかもしれないが、日本が戦争を仕掛けたときから、昭和天皇をはじめとする指導者はどういう報復があるか分かっていたはずだ』
[質問]原爆や空襲、沖縄戦の犠牲者に責任があるのか。
[回答]『戦争責任は昭和天皇をはじめとする戦争指導者だけでなく、マスコミにあおられて狂信的に戦争を進めた一般民衆にもある。全国民を裁くわけにはいかないので、東京裁判で指導者が裁かれた』
[質問]日本の「悪魔の所業」とは具体的に何を指すのか。
[回答]『条約を踏みにじって奇襲攻撃を仕掛けた日清・日露戦争やアジア・太平洋戦争で行われた化学兵器、生物兵器を使った大量虐殺。例えば、南京大虐殺、三光作戦、731部隊だ』
[質問]核兵器の使用は非人道的とは思わないか。
[回答]『1996年(平成8年)に国際司法裁判所は核兵器の使用を『一般的には違法』と判断したが、それまでは規定はなかった。当時の原爆は今の核兵器と比べれば、おもちゃのようなもので、通常兵器と変わらない。原爆による死を残酷だというが、南京大虐殺や三光作戦による死もすさまじい。書物によると、中国で日本軍に殺された人は1000万から1500万人、インドネシアでは400万人、フィリピンでは110万人。原爆や空襲犠牲者の数とは比べものにならない』
[質問]被爆者や遺族をはじめとして、世論は反発するのではないか。
[回答]『自分の信念を言っているだけだ。世界の人々の共感が得られない原爆観、戦争観ではだめだ、と訴えたい。近く論文にまとめたい』

(以上、産経新聞 平成10年(1998年) 8月1日より)

出典・脚注[編集]

  1. ^ 田尻は2000年(平成12年)に刑期満了で出所し、同右翼団体の創始者と養子縁組・改姓して幹部となっている(若島和美も参照)。
  2. ^ 原爆と戦争責任(本島等発言記録)
  3. ^ 川口隆行「被害と加害のディスクール」雑誌「原爆文学研究」第3号 (2004.08)
  4. ^ [1]

関連書籍[編集]

  • 『長崎市長への七三〇〇通の手紙』 径書房 第一版:ISBN 4770500718 増補版:ISBN 4770500777
  • 長崎市長のことば 本島等 岩波ブックレット 1989(天皇戦争責任発言に関して本島氏に聞く)
  • 昭和を生きて 沢地久枝 岩波ブックレット 1991(戦争責任について)
  • タブ-への挑戦:本島発言に市民は 言論の自由を求める長崎市民の会編 1989(本島氏の発言を支持する市民の声)
  • 天皇制と小さな民主主義:本島長崎市長銃撃に抗する市民たち 言論の自由を求める長崎市民の会編 明石書店 1990(本島氏銃撃事件へ発言する市民の声)
  • 川口隆行「被害と加害のディスクール」雑誌「原爆文学研究」第3号 [2004.08(原爆を主題とした日本人の加害性と被害性に関する論考)
  • 「なぜ平和宣言で「謝罪」を言ったか」 本島等 論座 (通号 31) [1997.11]
  • 「広島よ、おごるなかれ―原爆ドームの世界遺産化に思う」、平和教育研究(24)(1997.4)→日本原爆論大系第7巻:歴史認識としての原爆 日本図書センター 1999に収録
  • 『赦し 長崎市長 本島等伝』横田信行 にんげん出版:ISBN 9784931344211

関連項目[編集]

先代:
諸谷義武
長崎市長
1979年 - 1995年
次代:
伊藤一長