美しい日本の私―その序説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
美しい日本の私―その序説
Japan, the Beautiful, and Myself
著者 川端康成
イラスト カバー写真:浜谷浩
発行日 1969年3月16日
発行元 講談社現代新書
ジャンル 評論
日本の旗 日本
言語 日本語
形態 新書
ページ数 76
コード ISBN 4-06-115580-6
Portal.svg ウィキポータル 文学 Portal.svg ウィキポータル 書物
テンプレートを表示

美しい日本の私―その序説』(うつくしいにほんのわたし――そのじょせつ)は、川端康成評論1968年(昭和43年)12月10日、日本人として初のノーベル文学賞を授与された川端康成が、12月12日ストックホルムスウェーデン・アカデミーで行われた授賞記念講演において演説した芸術観・文化論である[1][2]。なお、川端はこの時69歳であった[3]

日本人の美の心を端的に語った『美しい日本の私―その序説』は[1]、世界に向かい、広く日本の古典文学・芸術を紹介し、その根底をなす伝統的な日本人の心性思想の特質、西欧と異なる死生観などを説いた日本文化論であると同時に、現代の日本文学者・川端自身にも、その伝統が脈々と受け継がれていることを宣言した記念碑的な作品である[4][5]

講演の全文は同年12月17日の朝日新聞ほか各紙に報道され、翌年の1969年(昭和44年)3月16日に、旧仮名遣い講談社現代新書より英訳付きで単行本刊行された。現行版も同社より刊行されている。翻訳版はエドワード・G・サイデンステッカー(英題:Japan, the Beautiful, and Myself)をはじめ、各国で行われている。

概要[編集]

1968年(昭和43年)12月10日、川端康成はストックホルム・コンサートホールで行われたノーベル文学賞授賞式に紋付き袴の正装で出席し、翌々日の12日昼2時10分にはスウェーデン・アカデミーにおいて、スーツ姿[6]で受賞記念講演を日本語で行なった[1]。『美しい日本の私―その序説』と題され、道元明恵西行良寛一休などの和歌が引用された講演は、エドワード・G・サイデンステッカーにより同時通訳された。なお、川端のノーベル文学賞受賞への過程には、1961年(昭和36年)に三島由紀夫英文で推薦文を書くなど[7]、英訳者・サイデンステッカーをはじめ、こうした川端文学の海外への紹介者たちの役割も小さくはなかった[3]

川端は、ストックホルムへ出発する前から講演の草稿執筆に取りかかり、12月3日に羽田を発つ時点で半分ほど書き上げたが、講演当日の12日早朝もまだ執筆しており、宿泊ホテルの部屋を訪ねた石浜恒夫に、「やっと調子が出始めたところですよ」と述べて落ち着きはらっていたという[1]。そのため昼に同時通訳をしなければならないエドワード・G・サイデンステッカーは翻訳を短い時間で苦心し、居合わせたコペンハーゲン大学仏教学者・藤吉慈海の助言を受けながら事なきを得たという[2]

『美しい日本の私―その序説』は、道元などのの和歌を引用解釈しながら、「雪月花」に象徴される日本美の伝統、こまやかな美意識、万有が自在に通う空、無涯無辺、無尽蔵の心の宇宙などの世界観のありようが、流麗な文章でとらえている。有無相通じる融道無磁の「」の心が、「一輪の花は百輪の花よりも花やかさを思はせる」という美の秘密を成立させている趣旨に、スウェーデン・アカデミーの聴衆は深い感銘を受けた[1]。文章内に川端の付けた小見出しはないが、朝日新聞では紙面に講演録を記載するにあたり、「雪月花に美の感動」、「『無』は心の宇宙」、「美の糧『源氏物語』」というおおまかな三段階の小見出しを付けている[8][2]。なお、題名に「その序文」と付されているのは、翌年1969年(昭和44年)5月にハワイ大学で講演発表した『美の存在と発見』が、未熟ではあるが具体的実践的な延長線上の「本論」として措定できるためである[9]。『美の存在と発見』[10]では主として『源氏物語』に触れられており、「もののあはれ」論が述べられている[3]

なお、26年後の1994年(平成6年)に日本人で二人目のノーベル文学賞を授与された大江健三郎はその思想的背景から、この『美しい日本の私―その序説』を意識し皮肉を込めた、『あいまいな日本の私』という演題で、英語による講演(のち日本語訳発表)を行なった[4]

内容[編集]

川端康成はまず、道元明恵の古歌に心を惹かれることを、それぞれの詩句を挙げて説明し、そこに感じる自然と融合した日本人の心を説明している。を見て月に話しかける「自然との合一」、四季折々の「雪月花」の美に触れ、感動にめぐり合った時、共に見たいと思う友(広く人間)を思う心など、自然を愛し見つめ、それを友とした古の日本人の心や宗教観を語っている。そして、良寛辞世の歌や、35歳で自殺した芥川龍之介が遺書の中で書いた、「末期の眼」という言葉に惹かれたことを関連させながら、人の末期の眼には自然はいっそう美しく映じるものだということ、自分の死後も自然はなお美しいという感覚の世界を説明し、日本人にとっては生の場合と同様に死も、自然との合一、自然への回帰であるというような豊饒自在な世界を説明し、西洋人の死の見方との違いを語っている。

また、童話などで柔和な和尚として親しまれている一休禅師が、実は峻厳深念の禅僧で二度も自殺を企てたことと、宗教の形骸に反逆し、人間の実存、生命の本然の復活や確立を目ざしたことなどを説明し、一休の唱えた、「仏界入り易く、魔界入り難し」という言葉に惹かれたことを語り、「魔界」なくして「仏界」はないと述べている。そして、親鸞にも垣間見られた孤独において道を拓く仏徒の運命は、芸術家の運命でもあることを語り、禅宗に偶像崇拝はなく、日本人の「」は、西欧風の虚無ではなく、むしろその逆であるとし、万有が自在に通う空、無涯無辺、無尽蔵の心の宇宙について触れている。

そして、そこから生まれてくる東洋画の精神、生け花などの美意識、日本庭園と西洋の庭園の違いを「枯山水」などを例に説明しつつ、をふくませた一輪の白いつぼみ椿牡丹に花やかさを見る日本人の感覚、生け花や焼き物に表れている芸道、「」に最も多くの色を見、「無」にすべてを蔵する美意識、心の豊かさを内に包んで簡素閑寂を愛する心を語っている。また、の花に女性的優雅を見た『伊勢物語』の一節を引きながら、『古今集』、『新古今集』、『源氏物語』、『枕草子』など日本の美の伝統を形づくっていった文学作品に触れ、特に『源氏物語』は日本の最高の長編小説であり、この作り変えや真似が幾百年も続き、これに及ぶ小説が日本にないこと、川端自身、『源氏物語』を少年時代から親しみ、その心がしみこんでいることを語り、これらすべての古典文学や歌に流れている東洋的な虚空であるところの「無」、自然意識を永福門院の歌などを引いて説明している。

そして最後に、川端自身の作品が「虚無」と評されることに対し、それは「西洋流のニヒリズム」という言葉は当てはまらず、心の根本が違うことを述べ、道元の四季の歌も実は強く「」に通じたものだとしている。

作品評価・解説[編集]

明治以降の日本文化論の大半が多かれ少なかれ、西欧文化を意識し、それに対抗する姿勢を秘めていたが、『美しい日本の私―その序説』には、さらにそれが強調され前面に表れており[4]、記念講演という儀礼的な雰囲気の限られた枠の中で、川端は可能なかぎり広く日本文学、芸術を紹介しながら、西欧とは根本的に異質の伝統的な日本人の心性の特質を説き、自らもそれを日本人の宿命として引き受けようという姿勢を悲愴なまでの調子で表している[4]

川端がそういった姿勢を見せたことについて大久保喬樹は、「単に日本人初のノーベル文学賞受賞だからという理由以上に、そこまで強く彼我の落差――優劣ではない――を強調しなければすまない切迫した心情」があっただろうとし[4]、川端が戦中および敗戦を通じて生き、「私は日本古来の悲しみの中に帰つてゆくばかりである」[11]と決意してきたその作品経過を鑑みながら[4]、日本人というものはどれだけ近代化しようとも、結局のところは「『源氏物語』に集約されるような“あわれ”の世界に深く根ざしている」のであり、「もしこの“あわれ”の世界が歴史の必然によって近代的世界にとって代わらなければならないのなら、日本人は、少なくとも、自分は、この滅びていく世界に殉じるほかない」と川端は覚悟し、それを常に念頭においてきたと大久保は解説し[4]、その心情を、敗戦から20年あまり経たこの時点で、西欧に対して公然と告白したものが『美しい日本の私―その序説』であると論じている[4]

また、この日本の独自の文化世界を自ら主張、対峙したことは、日本社会において歴史的にひとつの分岐点であったと大久保は述べ[4]、「このあたりから、日本社会は、さまざまなレベルで自国の文化システムの独自性を自覚し、西欧社会とは異質な構造の社会であることを積極的に肯定」するようになったと分析している[4]。そしてこうした傾向を、「一種の鎖国化」として警戒する立場もあったとし[4]、のちの大江健三郎の『あいまいな日本の私』という皮肉的な批判がなされたように、川端自身は本来、政治的動きとは別の次元の人間であったが、この受賞記念講演は、そういった政治的な動きにまで連動するような波紋があった歴史的事件だったと解説している[4]

江藤淳は、スウェーデン学士たちが川端に、「東と西のあいだに論理の橋を構築すること」を期待していたのかもしれないとし、しかし川端の講演で彼らの見たものは予想とは違い、「おそらく黒々としたみぞであり、そのかなたに咲きはじめた一輪の花、むしろつぼみであった。そしてそのつぼみには白く輝く小さな露が寄りそうていた。それが川端氏の『美しい日本の私』である」[12][13]と、川端の演説の中にあった花の譬えを入れながら評している。また良寛辞世の歌をめぐる川端の解釈に対して、「川端氏にとって“自分”と“自然”とを媒介するものは、いうまでもなく、“”である」[12]とし、表現主体と表現対象との差異が無化する「万物一如思想」的な問題に触れている[14]

清水文雄は、明恵上人が禅堂へ行き帰りする道を照らしてくれる冬の月へ、三十一文字であたたかく呼びかけた心を、川端が、「自然、そして人間にたいする、あたたかく、深い、こまやかな思ひやり」、「しみじみとやさしい日本人の心」と述べたことに触れ、その心は、「もののあはれ」を知る心と別ではないとし[15]、「“もののあはれ”は女の心に咲いた花である」という和辻哲郎の言葉を引きながら、“もののあはれ”は「苦悩にみちた王朝女性の心から生まれた生活理想であり、美的理念であった」[15]と解説している。また、それは優柔体でありながら同時に、どこか一筋の厳しいものが貫いていることを見逃してはならないとし[15]、そこには、「“もののあはれ”をしることが、人間評価の規準とされた」という点があることを指摘しつつ、“もののあはれ”を「しる」心を持たないものは、王朝貴族社会では人間としてだめな人であるという烙印を押されたも同然であったと解説している[15]

そして清水は、明恵上人が冬の月へ呼びかけた、あたたかい「日本人の心」を川端が演説の最初に取り上げたことは意義深いことだとし[15]、それは、「機械文明の急激な進歩と人間の心とのギャップに、深刻に苦悩をつづける世界の人々、とりわけ西欧の人々に対する、『美しい日本の私』からの問いかけであったと思うと同時に、日本人の一人一人に、“脚下照顧”の喫緊であることを啓示したもの」[15]と受け取れると述べている。

おもな刊行本[編集]

  • 『美しい日本の私―その序説』(講談社現代新書、1969年3月16日)
    カバー写真:浜谷浩。訳者:エドワード・G・サイデンステッカー
    作者肖像、受賞メダル(表裏)、賞状草稿の冒頭部、受賞場面の写真掲載あり。
    ※ カバー改装後は、カバーデザイン:中島英樹
    収録内容:美しい日本の私―その序説、編集注記、Japan, the Beautiful, and Myself(英訳版)
  • 英文版『Japan, the Beautiful, and Myself』(訳:エドワード・G・サイデンステッカー)(Kodansha Amer Inc、1969年。改版1981年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 『実録川端康成』(読売新聞文化部、1969年7月)
  2. ^ a b c 助川徳是『「美しい日本の私――その序説」私注』(福岡女子大学、1969年9月)
  3. ^ a b c 『新潮日本文学アルバム16 川端康成』(新潮社、1984年)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 大久保喬樹『日本文化論の系譜――「武士道」から「『甘え』の構造」まで』(中公新書、2003年)
  5. ^ 大久保喬樹『川端康成―美しい日本の私(ミネルヴァ日本評伝選)』(ミネルヴァ書房、2004年)
  6. ^ 掲載写真 pp.90-91『新潮日本文学アルバム16 川端康成』(新潮社、1984年)
  7. ^ 『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』(新潮社、1997年。新潮文庫、2000年)に所収。
  8. ^ 「美しい日本の私―その序説」(朝日新聞 1968年11月17日号に掲載)
  9. ^ 小菅健一『「美の存在と発見」論――小説論としての可能性と限界』(山梨英和短期大学紀要、1995年12月)
  10. ^ 『美の存在と発見』(毎日新聞 1969年5月3日、21日 - 24日に連載)
  11. ^ 川端康成『哀愁』(社会 1947年10月号に掲載)。『哀愁』(細川書店、1949年)
  12. ^ a b 江藤淳「『美しい日本の私』について」(朝日新聞 1968年12月18日号に掲載)
  13. ^ 「カバー解説」(『美しい日本の私―その序説』)(講談社現代新書、1969年)
  14. ^ 小菅健一『「美しい日本の私――その序説」論:小説論としての読みをめぐって』(山梨英和短期大学紀要、1994年12月
  15. ^ a b c d e f 清水文雄『日本人の心』(比治山大学、1969年2月)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]