折口信夫
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折口 信夫(おりくち しのぶ、1887年(明治20年)2月11日 - 1953年(昭和28年)9月3日)は、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。
目次 |
[編集] 人物
柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。みずからの顔の青痣をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク)と名乗ったこともある。
歌人としては、正岡子規の「根岸短歌会」、後「アララギ」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしたが、やがて自己の作風と乖離し、アララギを退会する。1924年(大正13年)北原白秋と同門の古泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊した。
[編集] 柳田國男との関係
1915年(大正4年)の『郷土研究』誌に載った論文で、互いに似通った折口と柳田の論文が前後して載せられるという事件があった。折口が昨年のうちに送ったものが採用されず、柳田の「柱松考」が3月号、折口の「髯籠の話」が4,5月号に載ったというものだが、それを後に振り返って折口が言った「先生の「柱松考」を先に見ていれば、わたしは「髯籠の話」など書かなかった」という言葉に、潔癖さ、厳しさが表れている。
そして柳田も「(折口君という人は)真似と受け売りの天性嫌いな、幾分か時流に逆らっていくような、今日の学者としては珍しい資質を具えている」とその点では認めていた。ただし「マレビト」を認めない柳田と折口の間に論争があったのも事実である[1]。二人は国学の先輩方に当たる賀茂真淵・本居宣長師弟のように、教えを受けながらも正当だと思った所は譲らず真理の追求を磨く学者の関係を持っていたといえる。
柳田は折口より十二歳年上であったが、共に1945年(昭和20年)の敗戦時には60歳を既に迎えていた。その戦後のこと、重い口調で柳田は折口に話しかけたという。「折口君、戦争中の日本人は桜の花が散るように潔く死ぬことを美しいとし、われわれもそれを若い人に強いたのだが、これほどに潔く死ぬ事を美しいとする民族が他にあるだろうか。もしあったとしてもそういう民族は早く滅びてしまって、海に囲まれた日本人だけが辛うじて残ってきたのではないだろうか。折口君、どう思いますか」その問いにしばらく両者深く思い沈んでいたという。折口には、18年間共にした養嗣藤井春洋の硫黄島玉砕という重い出来事があった。その追悼の念は徹底的で、敗戦の詔を聞くと四十日間喪に服し、自分の死ぬまで遺影前の供養を欠かさなかったという。第二次大戦で失った戦死者の鎮魂は大きな課題で、戦没者が生前に殉じる価値を見出そうとした皇国などといった概念も天皇の人間宣言とともに潰え果てたのである。柳田も日本人の神や魂といった問題意識は共有していて、折口は後その問題を「民俗史観における他界観念」という著に収斂させていくこととなる[2]。
柳田が民俗現象を比較検討することによって合理的説明をつけ、日本文化の起源に遡ろうとした帰納的傾向を所持していたのに対し、折口はあらかじめマレビトやヨリシロという独創的概念に日本文化の起源があると想定し、そこから諸現象を説明しようとした演繹的な性格を持っていたとされる。なお角川ソフィア文庫版『遠野物語』に折口の跋文がある。
[編集] トリビア
- 天文学者の萩原雄祐は府立今宮中学校時代に折口に師事したことで知られている。
- 三島由紀夫の短篇「三熊野詣」に登場する国文学者の藤宮や、舟崎克彦の長篇『ゴニラバニラ』に登場する民俗学者の折節萎(おりふし・しぼむ)は折口がモデルといわれている。
- 同性愛者(男色家)であり、高弟加藤守雄に同衾を強要しようとしたことでも知られる(未遂) 。養子の折口春洋(旧姓藤井)も家計をすべて預かり、事実上の配偶者だった。このような折口の性的指向に対して柳田國男は批判的で、折口の前で加藤に向かって「加藤君、牝鶏になっちゃいけませんよ」と忠告した[3]こともある(牝鶏という言葉は、男性同士の性行為を意味する鶏姦という語を示唆したものだろう)。
- 「同性愛を変態だと世間では言うけれど、そんなことはない。男女の間の愛情よりも純粋だと思う。変態と考えるのは常識論にすぎない」と述べた。[4]
- 『口ぶえ』という、男子中学生同士の恋を叙情的に描いた若い頃の小説がある。
- 折口が主査となり博士号を授与した、西角井正慶、高崎正秀、藤野岩友、今泉忠義、大場磐雄の高弟五人を指して折口信夫の五博士という。各博士たちは、折口の学問を継承し、各自の分野において優れた業績を残した。「五博士」という言い方は、折口自身が言い始めた。大場磐雄による西角井正慶の追悼文(「西角井正慶さんのみたまにささげる詞」『芸能』第13巻第2号(通巻144号) 1971年2月)には、「先生(引用者注・折口信夫)によつて学位を頂き、先生から五博士と呼んで下さつた仲間」と書かれている。
- 1931年(昭和6年)に石川県立大聖寺高等女学校の校歌を手がけたことを皮切りに20数校の校歌及び國大音頭の作詞を手がける[5]。
[編集] 年譜
| 年 | 月日 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1887年(明治20年) | 2月11日 | 大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区敷津西1丁目・鷗町公園)に父秀太郎、母こうの4男として生まれる。 |
| 1890年(明治23年) | 木津幼稚園に通う。 | |
| 1892年(明治25年) | 木津尋常小学校(現在の大阪市立敷津小学校)に入学する。 | |
| 1894年(明治27年) | 叔母えいから贈られた『東京名所図会』の見開きに初めて自作歌を記す。感謝の念篤く、『古代研究』にはこの叔母への献詞を載せている。 | |
| 1896年(明治29年) | 大阪市南区竹屋町、育英高等小学校に入学する。 | |
| 1899年(明治32年) | 4月 | 大阪府第五中学校(後の天王寺中学)に入学する。中学の同級生には武田祐吉(国文学者)、岩橋小弥太(国史学者)、西田直二郎などがいた。 |
| 1900年(明治33年) | 夏に大和の飛鳥坐神社を一人で訪れた折に、9歳上の浄土真宗の僧侶で仏教改革運動家である藤無染(ふじ・むぜん)と出会って初恋を知ったという説がある[6]。富岡によると、迢空という号は、このとき無染に付けられた愛称に由来している可能性があるという。 | |
| 1901年(明治34年) | 15歳になったこの年に父親から『万葉集略解』[7]を買ってもらう[8]。『文庫』『新小説』に投稿した短歌一首ずつが入選する。 | |
| 1902年(明治35年) | 成績が下がる。暮れに自殺未遂。 | |
| 1903年(明治36年) | 3月 | 自殺未遂。作歌多し。 |
| 1904年(明治37年) | 3月 | 卒業試験にて、英会話作文・幾何・三角・物理の4科目で落第点を取り、原級にとどまる。この時の悲惨さが身に沁みたため、後年、教員になってからも、教え子に落第点は絶対につけなかった。同じく後年、天王寺中学から校歌の作詞を再三頼まれたが、かたくなに拒み続けたと伝えられる。大和に3度旅行した際、室生寺奥の院で自殺を図った若き日の釈契沖に共感、誘惑に駆られる。 |
| 1905年(明治38年) | 3月 | 天王寺中学校を卒業する。医学を学ばせようとする家族の勧めに従って第三高等学校受験に出願する前夜、にわかに進路を変えて上京し、新設の國學院大學の予科に入学する。藤無染と同居する。この頃に約500首の短歌を詠む。 |
| 1907年(明治40年) | 予科修了、本科国文科に進んだ。この時期國學院大學において国学者三矢重松に教えを受け強い影響を受ける。また短歌に興味を持ち根岸短歌会などに出入りした。 | |
| 1910年(明治43年) | 7月 | 國學院大學国文科を卒業する。卒業論文は「言語情調論」。 |
| 1911年(明治44年) | 10月 | 大阪府立今宮中学校の嘱託教員(国漢担当)となる。 |
| 1912年(明治45年・大正元年) | 8月 | 伊勢、熊野の旅に出た。 |
| 1913年(大正2年) | 12月 | 「三郷巷談」を柳田國男主催の『郷土研究』に発表し、以後、柳田の知遇を得る。 |
| 1914年(大正3年) | 3月 | 今宮中学校を退職し、上京する。折口を慕って上京した生徒達を抱え、高利貸の金まで借りるどん底の暮らしを経験したという[9]。 |
| 1916年(大正5年) | 國學院大學内に郷土研究会を創設する。この時30歳。『万葉集』全二十巻(4516首)の口語訳上・中・下を刊行する。 | |
| 1917年(大正6年) | 1月 | 私立郁文館中学校教員となる。 |
| 2月 | 「アララギ」同人となり選歌欄を担当する。一方で、國學院大學内に郷土研究会を創設するなどして活発に活動する。 | |
| 1919年(大正8年) | 1月 | 國學院大學臨時代理講師となる。万葉辞典を刊行する。 |
| 1921年(大正10年) | 7~9月 | 柳田国男から沖縄の話を聞き、最初の沖縄・壱岐旅行。 |
| 1922年(大正11年) | 1月 | 雑誌「白鳥」を創刊する。 |
| 4月 | 國學院大學教授となる。 | |
| 1923年(大正12年) | 6月 | 慶應義塾大学文学部講師となる。第2回沖縄旅行。 |
| 1924年(大正13年) | 1月 | 亡師三矢重松の「源氏物語全講会」を遺族の勧めで再興する。後慶應義塾大学に移し没年まで続ける。 |
| 1925年(大正14年) | 5月 | 処女歌集『海やまのあひだ』を刊行する。 |
| 1927年(昭和2年) | 6月 | 國學院の学生らを伴い能登半島に採訪旅行し、藤井春洋の生家を訪う。 |
| 1928年(昭和3年) | 4月 | 慶應義塾大学文学部教授となり芸能史を開講する。またこの年には「アララギ」を去って北原白秋らと歌誌『日光』を創刊する。 |
| 1932年(昭和7年) | 文学博士の称号を受ける。日本民俗協会の設立にかかわり、幹事となる。 | |
| 1935年(昭和10年) | 11月 | 大阪木津の折口家から分家する。第3回沖縄旅行。 |
| 1940年(昭和15年) | 4月 | 國學院大學学部講座に「民俗学」を新設する。愛知県三沢の花祭り、長野県新野雪祭りを初めて見る。 |
| 1941年(昭和16年) | 8月 | 中国へ旅し、北京で講演を行う。 |
| 12月 | 太平洋戦争起こり、藤井春洋応召。 | |
| 1944年(昭和19年) | 7月 | 藤井春洋、硫黄島に着任。春洋を養嗣子として入籍。 |
| 1945年(昭和20年) | 3月 | 大阪の生家が戦災により焼失する。大本営より藤井春洋の居る硫黄島の玉砕発表。 |
| 8月15日 | 敗戦の詔を聞くと箱根山荘に40日間籠もる。 | |
| 1948年(昭和23年) | 5月 | 古代感愛集により芸術院賞を受賞する。 |
| 12月 | 第一回日本学術会議会員に選ばれる。 | |
| 1949年(昭和24年) | 7月 | 能登一ノ宮に春洋との父子墓を建立する。 |
| 1950年(昭和25年) | 宮中御歌会選者となる。 | |
| 1953年(昭和28年) | 7月初め | 箱根行き、健康すぐれず。 |
| 8月31日 | 衰弱進み慶應義塾大学病院に入院する。 | |
| 9月3日 | 胃癌のため永眠する。養子として迎えた春洋(戦死)とともに、気多大社のある石川県羽咋市一ノ宮町にある墓に眠る。折口家の菩提寺願泉寺に分骨が納められている。 |
[編集] 系譜
折口家は木津の願泉寺門徒の百姓であったが、曽祖父彦七の時から商家となり、生薬と雑貨を商った[10]。
祖父の造酒(みき)ノ介はもと、大和の明日香村岡寺前の岡本善右衛門の八男であったが、同地の古社飛鳥坐(あすかにいます)神社の累代の神主家飛鳥助信の養子となった上で、折口家に養子として入り、医を本業として従来の家業を兼ねた。
父・秀太郎は河内国の名主の家の次男で、折口家の養子となり医を継いだ。信夫が生まれて七年のち双生児の弟が誕生するが、実は母こうが生んだのではなくて、同居する叔母ゆうと父の秀太郎との間に生まれたのであった。こうした家庭内の愛情にかかわる葛藤も、信夫の心に深い陰影を刻んだ[11]。
長兄が医者の後を継いだ。[8]
先妻 ┏あゐ ┃ ┃ ┣━━━彦次郎 秀太郎 ┣静 ┃ ┃ ┃ 彦七 ┣━━━━━╋順 ┃ ┃ ┃ ┣━━━造酒ノ介 ┏こう ┣進 ┃ ┃ ┃ ┃ とよ ┣━━━━━╋ゆう ┣信夫 ┃ ┃ ┃ つた ┗えい ┣親夫 ┃ ┗和夫
[編集] 受賞歴
[編集] 著名作品
- 新版折口信夫全集(全37巻別巻3)は、1995-2002年にかけ刊行された。
- 旧版「全集」(全31巻別巻1)は、3度刊行。中公文庫版でも刊行。
- 全集ノート編(全18巻別巻1)、「追補編」(全5巻)、約18年かけ刊行された。
- 海やまのあひだ(歌集)
- 春のことぶれ(歌集)
- 倭をぐな(歌集) 短歌新聞社・文庫で再刊、1999年
- 遠やまひこ(歌集)
- 山の端(歌集)
- 「釈迢空詩集 現代詩文庫」 思潮社、初版1975年-新書版
- 死者の書 (小説)、「-・身毒丸」中公文庫(新版1999年) ほか
- 古代研究、新版中公クラシックスI-IV、かつて角川文庫全6巻でも刊行
- 日本文学の発生序説、かつて角川文庫でも刊行
- かぶき讃 最晩年刊の著作
- 日本芸能史六講 講談社学術文庫、1991年、晩年の講義録
- 歌の円寂する時 (歌論)
- 世々の歌びと (歌人論)、かつて角川文庫でも刊行
[編集] 近年の文庫化
- 「釈迢空歌集」 富岡多惠子編、岩波文庫、2010年
- 「折口信夫 近代浪漫派文庫24」 新学社、2005年
- 「折口信夫 1887-1953 ちくま日本文学025」 ちくま文庫、2008年
- 「折口信夫集 神の嫁 文豪怪談傑作選」 東雅夫編、ちくま文庫、2009年
- 「折口信夫文芸論集」 安藤礼二編、講談社文芸文庫、2010年
- 「折口信夫文芸論集」 安藤礼二編、講談社文芸文庫、2011年5月
- 「かぶき讃」 新版・中公文庫、2004年
- 「死者の書・口ぶえ」 岩波文庫、2010年
- 「歌の話・歌の円寂する時 他一篇」 岩波文庫 2009年
[編集] 主な評論・評伝
関連文献は百冊以上ある、あくまで一部であり、品切絶版を多く含む。
[編集] 門下生の回想・研究
- 池田弥三郎・加藤守雄・岡野弘彦編 『折口信夫回想』 中央公論社、1968年
- 谷川健一編 『折口信夫 人と思想』 三一書房 、1974年 諸家の論文集
- 岡野弘彦 『折口信夫の晩年』 中央公論社、1969年/中公文庫、1977年・復刊1991年 回想録
- 岡野弘彦 『折口信夫伝 その思想と学問』 中央公論新社、2000年9月
- 岡野弘彦 『折口信夫の記』 中央公論社、1996年
- 岡野弘彦 『粉河寺の朝の少年折口』(解説「古代研究Ⅰ 祭りの発生」、中公クラシックス) 2002年
- 西村亨 『折口信夫とその古代学』 中央公論新社 1999年 ISBN 4-12-002878-X
- 西村亨 『折口名彙と折口学』 おうふう (桜楓社、1985年)
- 岡野弘彦・西村亨編 『別冊国文学 折口信夫必携』 (学灯社、1993年)
- 加藤守雄 『折口信夫伝 釈迢空の形成』 角川書店、1979年 ※大部な研究書
- 加藤守雄 『わが師折口信夫』、文藝春秋、1967年6月 回想録
- 新版が朝日文庫、1991年12月刊 ISBN 4-02-260676-2
- 池田弥三郎・加藤守雄 『迢空・折口信夫研究』 角川書店、1973年 対話集
- 『池田弥三郎著作集7巻 折口信夫研究』 角川書店、1979年 、集大成
- 池田弥三郎 『私説折口信夫』(中公新書295)、1972年 入門書
- 池田弥三郎編 『日本民俗文化大系 折口信夫 まれびと論』 講談社、1978年 折口の著作と解説
- 池田弥三郎 『まれびとの座 折口信夫と私』 中央公論社/中公文庫、1977年 回想記・日記
- 池田弥三郎 『わが幻の歌びとたち 折口信夫とその周辺』 角川選書、1978年 日記
- 池田弥三郎 『孤影の人 折口信夫と釈迢空のあいだ』 旺文社文庫、1981年
- 池田弥三郎、谷川健一 『柳田国男と折口信夫』 思索社、新版が岩波・同時代ライブラリー、1994年 対話集
- 『谷川健一全集19巻 人物2 折口信夫ほか』 冨山房インターナショナル、2008年3月。ISBN 4902385546
- 『折口信夫事典』 西村亨編 大修館書店、1988年、増補版1998年。ISBN 4469012580
- 『迢空・折口信夫事典』 有山大五・石内徹・馬渡憲三郎編 勉誠出版 2000年2月、ISBN 458506012X
- 『折口信夫・釈迢空 その人と学問』、國學院大學折口博士記念古代研究所・小川直之編
おうふう、2005年-没後50年記念出版 ISBN 4273033631
[編集] 主に文学者たちの評伝研究
- 「折口信夫対話 (全3巻)」、池田弥三郎・加藤守雄ほか編 角川選書、1975年〜78年
『1.日本の詩歌』、『2.古典と現代』、『3.万葉集輪講』- 谷崎潤一郎、川端康成等との対談など - 『折口信夫 日本文学研究資料叢書』 同刊行会編:有精堂出版、1972年
- 『折口信夫坐談』 戸板康二、中央公論社のち中公文庫 - 折口の片言隻句を記したもの
- 『新潮日本文学アルバム26 折口信夫』 新潮社、1985年 - 入門書
- 『折口信夫の世界 回想と写真紀行』 岩崎美術社、1992年
- 『現代詩手帖 特集折口信夫・釋迢空』 臨時増刊1973年6月号、思潮社 - 鷲巣繁男ほか
- 『折口信夫 文芸読本』 河出書房新社 1976年、新装版1984年 - 室生犀星 山本健吉 前登志夫ほか
- 『現代思想 生誕100年記念総特集 折口信夫』 臨時増刊1987年3月号、青土社 - 川村二郎ほか
- 穂積生萩 『私の折口信夫』 中公文庫、2001年
- 山折哲雄 『物語の始原へ 折口信夫の方法』 小学館、1997年
- 山折哲雄/穂積生萩 『執深くあれ 折口信夫のエロス』小学館、1997年11月。ISBN 4096261165 - 対話集
- 諏訪春雄 『折口信夫を読み直す』 講談社現代新書、1994年
- 中村生雄 『折口信夫の戦後天皇論』 法蔵館、1995年 ISBN 4831871389
- 藤井貞和 『折口信夫の詩の成立 詩形/短歌/学』 中央公論新社、2000年 ISBN 4120030121
- 藤井貞和 『釈迢空 詩の発生と<折口学>私領域からの接近』 講談社学術文庫、 1994年
- 富岡多恵子 『釋迢空ノート』 岩波書店、2000年10月、岩波現代文庫、2006年7月。ISBN 4006021062
- 吉増剛造 『生涯は夢の中径 折口信夫と歩行』 思潮社 1999年
- 石内徹 『折口信夫 日本の作家100人、人と文学』 勉誠出版、2003年8月。ISBN 4585051635 - 入門書
- 奈良橋善司 『釈迢空 折口信夫論』 おうふう 2003年。ISBN 4273032791
- 安藤礼二 『神々の闘争 折口信夫論』 講談社、2004年12月。ISBN 4062126907
- 安藤礼二編・解説 『折口信夫 初稿・死者の書』 国書刊行会、2004年
- 辰巳正明 『折口信夫 東アジア文化と日本学の成立』 笠間書院、2007年5月。ISBN 4305703556
- 木村純二 『折口信夫 いきどほる心 再発見日本の哲学』 講談社、2008年5月。ISBN 4062787563
- 上野誠 『魂の古代学 問いつづける折口信夫』 新潮選書 2008年8月。ISBN 4106036142
- 林浩平 『折口信夫 霊性の思索者』 平凡社新書、2009年12月。ISBN 4582855032
- 『木島日記』 大塚英志・森美夏・画 角川書店 1999年 ISBN 4048530968 (第一巻)
- 『ビデオ・学問と情熱17 折口信夫』 岡野弘彦監修 紀伊國屋書店 2000年
DVDが、2007年に廉価再版されている。
[編集] 脚注
- ^ 折口信夫『古代研究Ⅰ』12~13項
- ^ 折口信夫『古代研究I』14~20項
- ^ 『わが師 折口信夫』 204-205頁には「土間に下りていた折口先生の表情がみるみる蒼白になった。じっとうつむいたまま、立ちすくんでいられる。…“柳田先生はいつもぼくをいじめなさる。ぼくのだいじにしている弟子を、みんなとってしまわれる”ほとんど泣きべそをかくような声であった」という記述がある
- ^ 『わが師 折口信夫』 208頁。
- ^ [東筑高校校歌について考える] 東京東筑53期の会ホームページ、福岡県立東筑高等学校の作詞については折口によるものではないという異説がある
- ^ 富岡多惠子『釋迢空ノート』
- ^ 江戸末期の歌人加藤千蔭が1800年(寛政12)『万葉集』二十巻を注釈した著述で、明治以降も刊行された。折口が読んだのは明治33年版
- ^ a b 芳賀日出男『折口信夫と古代を旅ゆく』慶應義塾大学出版会 2009年
- ^ 『わが師 折口信夫』118頁
- ^ 『新潮日本文学アルバム 26 折口信夫』より
- ^ 『新潮日本文学アルバム 26 折口信夫』より
